天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』4月下旬の句を読む

2024-04-26 04:53:57 | 俳句

白骨温泉泡の湯


藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の4月下旬の作品を鑑賞する。

4月21日 白骨温泉、他
安曇野の春ぞと生れし仔牛かも
湘子は安曇野が好きでよく行った。「春ぞと生れし」は生まれた牛を慮っている。実は作者の春への憧憬なのである。
花林檎牛生れし日に行きあはす
生まれたばかりの牛は濡れてへなへなしている。骨がないように立つのがおぼつかない。林檎の花で新生を寿ぐ。
霞む日や起てよと仔牛抱へたる
「起てよと仔牛抱へたる」は農家の人であろう。作者は自分がそうしたように書いて臨場感を出した。

4月23日
嶽幽し楤の芽採りの父と子に
嶽は乗鞍岳か。「嶽幽(かそけ)し」と読む。「幽(かそ)か」の間違いかと何度も調べた。やはり原句の字余りがいい。字余りにするなら上五だといった湘子の声が聞こえる。字余りにして大きく切れを入れることで、乗鞍岳山腹で遊ぶ父子がよく見えるのである。

4月24日
山畑は地靄の渦や揚雲雀
「地靄の渦」まで見たことで作者ならではの山畑になった。描写が行き届いたとき季語が大いに働く。
味噌蔵の悉皆知れる春の蠅
「悉皆(しっかい)」なる古風な言葉の味わいを存分に生かした句。すべてという意味だがここが「すべて知りをる」だと原句の品格が出ない。湘子は「仲間の句ではなく先人の名句を読め」としゅっちゅう言ったが、こういう句を見たときその真意を知る。
厠より見て常念嶽(じやうねん)の大霞
便所の窓から意外のものが見える。またそれは印象的。大きな山を覆う霞には驚いたことだろう。
家裏は薪固めなり百千鳥
薪が積まれている。それを「薪固めなり」と言う。つまり薪が家を補強するかのように感じたのである。「俳句は言葉のしなりが大事」と言った湘子の面目躍如のフレーズ。
小澤實
からし菜を滅法喰や昼蛙
芥子菜はキャベツやブロッコリーなどと同じアブラナ科の野菜で、ザーサイや高菜の仲間・文字通り葉や種にピリッとした辛味がある。そうとう美味かったらしく「滅法喰」と書かれた實さんがよく見える。昼飯に食ったのか。笑ってしまった。

4月25日
つちふるや馬鹿になりたる蝶番
典型的な配合の句。湘子が『20週俳句入門』において「型・その1」と名付けたもの。「つちふる」と「馬鹿になりたる蝶番」は何の関係もないがこうして置くと滋味が発生する。味わいは感じるしかないのであるが。
翔つ鳶の煽りし風に花なづな
ぺんぺん草の花である。「翔つ鳶の煽りし風に」で立つのが俳句であるが、何気なくこれができるようになるには長年の修練が要る・

4月26日
幟立つ信州の山うち据ゑて
「うち据ゑて」は、強い語調の思い切った言葉である。置いたということを強く表現しているが、では、何がうち据ゑたのか。主語を思うとはたとわからなくなる。幟ではないだろう。北アルプスなどの山塊を置いたのは大いなるものである。キリスト教で神、創造主という概念。我々は「神」になじみにくく、「天」に親近感がある。
俳句でこの手の主語をぼかす表現は多く、有名な句では「白鳥といふ一巨花を水に置く 中村草田男」も主語は大いなるもの、天みたいな意識であろう。こういう場合に欧米語のように主語を明らかにしなくても文脈が成立するのが嬉しい。これが日本語の奥行なのである。
白嶽(はくがく)の照り春蘭の林まで
「白嶽(はくがく)」は作者の造語か。漢字が表意文字であることを生かしている。白い山で、白は春の雪、山は乗鞍岳であろう。これを「春蘭の林」で受けるなど美意識が際立っている。

4月27日
築山の紅きつつじを白ぼかし
読み解きにくい句である。つまり築山は赤いつつじが主体なのだ。その中に若干白いつつじが混在している。それが「紅きつつじを白ぼかし」か。しかしこのように言ってどれだけ味わいが生じるかぼんくら弟子の小生はわからない。
がくがくと山の電車や花かんば
わかりやすい句。電車の上る音が大きい。ゆっくり上っていくのだろう。配した花は地味でいかにも山の中。

4月28日
桐の花算盤(そろばん)をまだわが使ふ
電卓はあるし今やスマホにも計算機が付いている。五つ玉ではなかろうが作者は算盤派。原稿は原稿用紙にペン書きだろう。高貴な色の花をつける桐を配したのが作者の矜持である。

4月29日
ゆく春の浴身密に洗ふなり
「浴身」は広辞苑にない。が、あっても不思議でない親近感ある言葉。湯舟に浸かった体を丹念に洗っている。作者名を伏せたなら女性の句と読まれても仕方ない感性である。湘子にはかなり女性的な感性があった。この句もその一つ。
千年の寺や朧へ音惜しむ
朧といえば「鐘朧」という季語があるので「音惜しむ」は鐘の音かどうか悩み、やはり鐘を静かに突いている場面と読んだ。言葉を「朧へ音惜しむ」と展開して恰幅を得た句である。

4月30日
五月来ぬ農家の大きテレビより
不思議な句である。五月を感じることと農家のテレビが大きいことと何の関係もない。しかし作者が農家の大きいテレビに気づいたのは戸があけっぴろげになっていたためだろう。もう寒くなく野良仕事が始まった農家の解放感が端的に出ている。そんなことで一縷の糸のように五月と大きなテレビが通い合う。
この一縷の糸に俳句のおもしろさのすべてがあるといっても過言ではない。


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