
きのうテレビをつけたら、群馬県大泉町で警察官から職務質問を受けたベトナム国籍のグエン・バン・ハイ容疑者(31)が抵抗し逃走した事件を報道していた。
傷だらけの車の中に当人がいたところを警官が職務質問した。車から降りた彼が警官の制止を振り切って逃げた。その際警官の腕を噛んだ。
直接の容疑は公務執行妨害。調べれば不法滞在は明らかになるようだ。
ほかにどんな悪いことをしたのか、殺人、暴行、放火、強姦、強盗、詐欺など行なったのかと報道を注視していたが、それはないようだった。
テレビ局はレポーターを駆使し路上の主婦にマイクを向けて、「怖くてたまらないので早く逮捕してほしいです」といった声を集めていた。
登校する生徒は親と同行するシーンを映しことさら事件の重大性を強調していた。
盛り上げていたとしか思えないような報道姿勢であった。
職務質問を嫌がって逃げたくらいのことでこんなにものものしい報道をすることに意味があるのだろうか。
彼は職が欲しくて日本へ来たものの滞在ビザがすぐ切れてしまい困惑した。不安定な身分である。それゆえ逃げたのであってこの時点で重罪に関与していない模様。
それをいかにも極悪人のように報道するのはいかがのものか。
テレビは偏見をつくったり人種差別を煽って人心を偏向させる道具なのか。
デマの深い闇を見た思いがした。
デマといえば関東大震災時「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」というのが有名であり昨今のような民主主義の時代は大丈夫と思いがちだが、デマなしいそれに近いことはこうして四六時中生産されている。
報道が世界を創っている。報道がなければ我々が世界と対面することはない。情報が世界そのものといっていい。
情報は人が創っている。2時間のサスペンス映画をつくるのと今回のグエンさんに関する報道は根元においてほぼ一緒である。創る側の背景にそれを見た人の興味がどこにあるかという心理がいつもある。
したがってぼくが仮に中国で撮影中いけないものを撮ったかどで身柄を拘束された場合、彼らが見たがるように情報は創られるだろう。それは無念であるが予想できることであり、いたしかたないことである。
民主主義国といわれる日本の、民主主義を標榜するテレビが、政治の汚職を糾弾するテレビが一個人のさほど重大でない罪をことさら重罪として盛り上げることにぼくは恐怖を感じてならない。
そういう報道などに惑わされない自分がいると信じたいが個人はそう強いものではない。人はみな蜘蛛の巣のどこかにとりついている。
蜘蛛の巣が国家や団体といった大きな存在であるとして、蜘蛛の巣全体が歪んだり破れたりしたとき、ここに乗っている個人は大きな影響を受ける。
個人の尊厳など実にもろいものである。
今回のグエン容疑者の件はいろいろなことを教えてくれた。
願わくば、ほんとうに重罪を犯さぬうちに出頭してこの国の法にのっとた身の処し方をして欲しい。しかたないのであるから。
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