村上春樹『騎士団長殺し』(新潮社)。
主人公「私」は主人公。36歳。肖像画家。人の顔の特徴を一目で捉えて脳裏に焼き付けて絵として表現でき、物の位置関係なども詳細に記憶できる才能を持つ。妻に去られて一人友人の家を借りて住んでいる。
依頼人と一度面談して話を聴きひととなりをつかむと後は依頼人の何枚かの写真を見て描くという手法を取っている。
肖像描きは商売としては人気が出て成功したがあくまで自分自身の絵を描きたい私がこの仕事を辞めようとしていたとき、免色渉(めんしき わたる)の依頼を受ける。
彼は白髪で年がわかりにくいが54歳。長身で鍛えていていい体。情報関連ビジネスで財をなし一人住まい。
免色は法外の礼金を提示するとともに、自分がずっとモデルをする仕方で絵を描いてくれるよう条件をつける。
最後の肖像の仕事として私は免色を描くことになる。
長時間同じ姿勢を取り続けた免色が深呼吸して顔をマッサージしつつ言う。
「おっしゃるとおりだ。絵のモデルをつとめるというのは、たしかに予想していたより厳しい労働です」と免色は言った。「絵に描かれていると思うと、なんだか自分の中身を少しずつ削り取られているような気がしますね」
「削り取られたのではなく、そのぶんが別の場所に移植されたのだと考えるのが、芸術の世界における公式的な見解です」と私は言った。
「12 あの名もなき郵便配達夫のように」から

ファン・ゴッホ作『郵便配達人ジョゼフ・ルーラン』
春樹さんの魅力は文章の一節が自分かつて経験したシーンをふいに呼び起こすことにある。
「削り取られたのではなく、そのぶんが別の場所に移植された」という私の見解は死んだもののそのままの形で保存されているレーニン廟のレーニンをまざまざと思い出させた。
50代のころロシアを旅してレーニン廟へ入って蝋人形のようなレーニンと対面した。そこは立ち止まって長い時間見ていられないルールになっていたが、まるで生きていて眠っているかのようなレーニンの異様さを3秒で感じたのであった。
ロシアは死人を生きているかのように見せる保存技術を世界に誇示したいのかもしれぬが、ぼくは世紀の悪趣味と思った。
ジョゼフ・ルーランさんのほうがずっと健全な伝わり方ではないか。
レーニン廟に横たわるレーニン
人を遺すにはやはり肖像画が穏当だろう。いったんナマを殺して抽象化することで再びナマを再現するのが芸術であろう。
この小説で私がもともと抽象画に惹かれるのもその辺にあるだろう。
私が描いた免色の絵は肖像画としては誰かも識別できないほど似顔絵から遠ざかり、私の描きたいという暴力的な衝動が乗り移ったポートレイトになった。
免色がそれに深く感動することになる。
さてこのあとこの小説はどんな展開をするのか。

今朝NHKのEテレで5:30からの「100分de名著」は、坂口安吾の『堕落論』がテーマであった。
昔せかせか読んでよくわかっていない本書をこの放映に合わせてじっくり読んだ。
「堕落」というと品性のかけらもない印象であるがそれは著者ならではの機智である。
人から与えられたルールや価値観ではなく自分が生きたいようになりふりかまわず生きるべきである、というひねりの効いた主張である。
坂口安吾が「堕落論」を書いたのは終戦の翌年の昭和21年。夢も希望もない敗戦国日本の同胞に向けた再生のメッセージであった。
「堕落論」じたいは短いのでほかのさまざまなエッセイを集めて『堕落論』という1冊にしている。
この中に「特攻隊に捧ぐ」というのがある。
坂口安吾の文章は毒とひねりが効いているので一部を抜粋して引用すると作者の真意と反対の方向へ導く危険があるが、次のような文章の切れ味にうっとりする。
「私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争になった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方ない。特攻隊よりも遥かにみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然し、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思う」
平成28年の時点でここまで書くのは作家生命を失うことにつながるだろう。終戦間もないという時期が坂口にこれを書かせたのだろうが、それでも勇気と胆力がある。
「戦法としても、日本としては上々のものだった。……」
と続き、さすがに途中で、「私は然しいささか美に耽溺しているのである。」と断りを入れる芸を見せ、
「私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。」
としまいに持っていく文章の流れは逸品である。
誤解を与えそうなところで揺り戻し、また誤解を招きそうな言及をして引っ張り戻すという筆致は繊細で洞察力に富む。
彼は「無頼派」というレッテルをはられているがこまやかで柔軟な精神の持ち主である。
「戦争論」も奥行が深い。これこそ一部抜粋が大きな誤解を与えそうなエッセイである。
ちなみに坂口安吾が「堕落」で発したメッセージに合致する小説を現代に求めると、京極夏彦著『ヒトでなし―金剛界の章』(2015年10月、新潮社)がいちばん近いだろう。
坂口が「堕落論」でいう、生きるということは上皮を剥いで素になることである、ということを京極も手を変え品を変え執拗に展開している。
小池真理子の熱狂的ファンであるヨミトモF子は小池真理子を40冊は読んだという。
ぼくはヨミトモF子に薦められなければ小池真理子は一生読んでいなかったかもしれない半端な読み手にて、彼女のものは数冊読んだにすぎない。
それでも小池真理子が日本小説界のトップレベルの作家の一人である評価するのは、駄作が少ないということと、書く方向を恋と見定めている潔さにある。
最近テレビをつけるとバラエティ番組に遭遇してしまい、わからぬタレントと称する方々がいたずらに笑いを取ることに奔走している。
いったいこの人の本業は何かとしょっちゅう首をひねる。この番組がないとしたらどこで何をする人なのか。
歌手なら歌手、俳優なら俳優というのがはっきりしていると信頼感がある。俳優が歌をうたっていけることもあり、歌手が演技してすごいこともありこの二つを同時にこなすくらいだと納得するが、自分本来のこれだをいう芸が見えにく人たちがテレビを駆け巡っている。
物書きの世界もテレビと似てきて、作家だから文章はうまいのだろうがいちばん伝えたいことは何? と説いたくなるような文筆業の方もままいる。
その点、小池真理子は恋の金太郎飴である。どこを開いても恋が描かれている。金太郎飴と違うのは恋は恋でもそのつど違う味わいの恋でありワンパターンではないことである。
最近読んだ小池真理子作品3冊をみていく。
『虹の彼方』(2006年)。
不倫物語である。
第19回柴田錬三郎賞受賞作品という評価がなければ手に取っていなかったかもしれない。
はじめはそう興味はなかった。
48歳の人気女優志摩子と43歳の売れっ子作家の正臣が出会い、恋に落ちる。互いに配偶者がいる。二人はすべてを投げ捨て上海へ逃避行を決断する。しばらくしてまた帰国してマスコミや世間の袋叩きに遭う。
あらすじはこのようなもので、こういった話はしょっちゅう芸能界を賑わわせ週刊誌販売増に貢献している。
下世話なネタである。
そんな飽きやすい話を何百ページにわたって綿々と続く。週刊誌なら写真を入れて10ページもあれば十分の内容を文字のみで分厚い本にもっていく。
読みはじめると次から次へ読みたくなり一気に読み通した。
これは作家の技量であり凄さであると感じた。やわな素材を大勢の登場人物を使わずほぼ二人の男女の心理描写を主体に緊張感をとぎれさせずにフィニッシュに持っていく能力に感嘆した。フィニッシュも甘くなかった。
『無花果の森』(2012年)。
第62回芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)受賞という世間の評価にひかれて読んだ。
小雨の降りしきる午後、夫の暴力に耐え切れなくなった新谷泉は、家を飛び出した。隠れ場所を捜し、ごくありふれた地方都市に降り立った彼女は、狷介な高齢の女性画家八重子に家政婦として雇われることになる。降り続く雨のなか、時間だけが静かに流れゆく日々を過ごす泉は、思いがけない人物と出会う……。追いつめられ、全てを失った男女の愛と再生の物語。
というのがアマゾンのいうあらすじである。
ぼくが興味を持ったのが本筋と違うが、狷介な高齢の女性画家として登場する八重子であった。
この人物に60歳を過ぎた小池真理子自身の真相を濃厚に見たのであった。
画家が裸体となってヌードの自画像を描くくだりは鬼気迫るものがあってどきどきしてしまった。作家の秘密を覗いたような妙なうしろめたい気持ちも興った。
あとで年輩女性のヌードばかり描くアメリカ人画家Aleah-Chapinの絵を知って、これは真理子さんの八重子だと直感したのである。
Aleah-Chapinの絵
飯島晴子は晩年、「螢の夜老い放題に老いんとす」と書いた。
老いを見つめて逃げない潔さである。それは真理子さんにもあり『無花果の森』では自分の老いをさらして恥じない脇役として立たせたのではないか。
ここで老人画家の自画像としてAleah-Chapinの絵を引き合いに出しても怒られないような気がする。
『沈黙のひと』(2013年)。第47回吉川英治文学賞受賞
きのうこのブログに書いたように父親の遺品に裏ビデオがあったことが書かせた逸品である。たんに父親の記述で終わらせたら出来のいい手記。
さすがに恋愛小説の名手は旺盛な想像力を駆使している。それは、からだの利かない父に旅をさせたことである。老人が死力を振り絞って行った先はどこ……これがこの小説のクライマックスであり、もうこれ以上は書けません。
とにかく小池真理子という作家には、「恋なら任せておいて」という確固たるブランド意識がある。これぞプロフェッショナルなのだ。
京極夏彦作品をはじめて手に取ったのが1月下旬のこと。図書館の新刊書コーナーでなにげなく3行読んだ『ヒトでなし』に引き込まれた。
以来、京極作品にはまり、『オジいサン』『後巷説百物語』『嗤う伊右衛門』『西巷説百物語』『眩談』『鬼談』『覘き小平次』『虚言少年』『書楼弔堂破暁』『厭な小説』『百鬼夜行陽』『数えずの井戸』『幽談』と読み続けた。
作者がそう名付けたかどうかは知らぬが「京極堂シリーズ」というのがあり、それは字が小さいやら二段組みやらで読みにくく手つかずであった。
探したら文庫本で読みやいものがあり『姑獲鳥の夏』(うぶめのなつ)に取りかかった。
京極堂シリーズは主役が京極堂、すなわち中禅寺秋彦。古書店の主人にして武蔵晴明社の神主。
相棒のような感じで中禅寺の学生時代の同級生で友人の作家、関口巽が登場する。
作家は京極堂をして次のように言わしめる。
「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口くん」
二人の会話で存在論、認識論は含蓄に富む。
たとえば、脳と心と意識について京極堂が以下のように述べるくだりは教科書に掲載してもいいほどのわかりやすさと切れ味と深さをもった名文といえる。
「つまり人間の内に開かれた世界と、この外の世界だ。外の世界は自然界の物理法則に完全に従っている。内の世界はそれを全く無視している。人間は生きていくためにこの二つを巧く添い遂げさせなくちゃあならない。生きている限り、目や耳、手や足、その他身体中から外の情報は滅多矢鱈に入って来る。これを交通整理するのが脳の役割だ。脳は整理した情報を解り易く取り纏めて心の側に進呈する。一方、内の方では内の方で色色と起きていて、これはこれで処理しなくちゃならないのだが、どうにも理屈の通じない世界だから手に負えない。そこで、これも脳に委託して処理して貰う。脳の方は釈然としないが、何といっても心は主筋に当る訳で、いうことを聞かぬ訳にいかない。この脳と心の交易の場がつまり意識だ。内なる世界の心は脳と取り引きして初めて意識という外の世界に通じる形になる。外なる世界の出来事は脳を通して訪れ意識となって初めて内の世界に採り込まれる。意識は、まあ鎖国時代の出島みたいなもんだ」
不確定性原理について
「いいか、関口。主体と客体は完全に分離できない――つまり完全な第三者というのは存在し得ないのだ。君が関与することで事件もまた変容する。だから、君は善意の第三者ではなくなっているのだ。いや、寧ろ君は、今や当事者たらんとしている。探偵がいなければ起きぬ事件もある。探偵などというものは、最初から当事者であるにも拘らず、それに気づかぬ愚か者なのだ。いいか、干菓子は蓋を開けたときにその性質を獲得した可能性もある。事件もまた――然りだ」
本当のことはわからないということになり、それは意識と世界を自由にしてくれるではないか。
京極夏彦は心理学は科学ではなく文学である、という。ぼくもそれはずっと思っていたので得心した。
ぼくは孫が3年生になったら『虚言少年』を勧めるつもり。屁について60ページも書ける才能に感嘆。いまから注文しよう。
島田駱舟氏から彼が主宰する印象吟句会の月例小冊子「銀河」(183号)が来た。
7月句会の報告であり、6の課題に対してそれぞれ選者が立って選句したものが活字になっている。
課題①は「東京ステーションギャラリーロゴマーク」。
文字抜きの図形のみ見て発想されたことを川柳に詠むのである。

選者の吉住義之助氏が「見立ての面白さは川柳の味の一つ。印象吟はその意味で最も川柳の本質を行くものと思っている」と、選後感を述べている。
彼が選んだ37句のうちぼくが気に入ったものと不可解な句に関してあれこれ考えてみたい。
【気に入った句】
敵陣のゴールキーパー手が長い 榎本ふく美
円陣を組んで気合を入れ直す 野邊富優葉
少年はB29を忘れない 伊藤三十六
公園デビュー常連がいて座れない 佐藤俊亮
地下街の拡張迷路また増やし 下谷 環
生と死の模索へ遮断機が下りる 堀江加代
スムーズに流れる火葬場の台車 清水香代子
これらの句は吉住が指摘しているように見立ての面白さが存分に出ている。
ぼくが特選にしたいのが「スムーズに流れる火葬場の台車」。たてつけの悪い家の戸と違いあれはほんとうによく滑ってゆく。名残を惜しむ生者をあざ笑うかのように。川柳らしい毒が効いている。
【不可解な句】
初恋はコックリさんの言うがまま 洲戸行々子
「コックリさん」がわからずウィキペディアでまず調べる。これが西洋の一種で、日本では通常、狐の霊を呼び出す行為(降霊術)と信じられており、そのため狐狗狸さんといわれる、という知識がないとわからない。こういった知識はぼくにとっては些末だが今の人にとっては一般常識なのか。しばらく悩んだ。
百均の突っ張り棒で用がすみ 藤沢ひさこ
これもウィキペディア頼み。「100均」とは店内の商品を原則として1点100日本円均一で販売する形態の小売店。「百均」がどうしても唐突に思えてならぬ。
奥の手は二人羽織の背が握る 藤沢ひさこ
二人羽織(ににんばおり)は、袖に手を通さずに羽織を着た人の後ろから、もう一人が羽織の中に入って袖に手を通し、前の人に物を食べさせたりする芸。それは調べて理解したが「背が握る」がわかりにくい。川柳を楽しむには勘がよくないとだめなようだ。
非正規の意地が車輪の下で耐え 海東昭江
選者の特選句だが気になるのは「非正規労働者」と言わなくていいのかということ。「非正規」だけにおんぶしてわかるのはこれが世間で話題になっている今だけ。川柳は時事性が関与しておもしろくなるのは承知してるがもう少し一句に耐久性がほしい。「車輪の下で耐え」はそうとう通俗。
天平の楔と出会う宮大工 福島久子
これも選者の特選句。国宝級の古い建築物を点検・補修にあたっていた現代の宮大工がたぶん太くて長い楔を発見して驚いたという場面だろう。悪くはないが、だからどうしたという感じ。川柳らしい穿ちがほしい。
特養のスミにプライド眠ってる 魚地芳江
Tの字をつぶしたような図形から「特養」を導き出すのが「印象吟」の花なのかもしれぬが「スミ」は「隅」のことか。「隅」のほうがずっとわかりやすい。つまり失禁まで始末してもらうような特別養護老人ホームの手のかかる人もプライドは持っているんだよ、という内容か。複雑に表現した割に中身は常識的。
この川柳グループの、題を出して句をつくるという方法は発想力を鍛えるのにはすごくいい。気をつけたいのはその結果できた句を題がないところを置いたとき普遍性があるかということ。
テニスでサービスを受けてリターンしているというのが「印象吟」の句作りである。ほかの川柳もこうした題詠をしているのか。
俳句も題詠をするができた句が題詠の影響を引きずらないように作句後徹底的に検証する。「立つ鳥跡を濁さず」をモットーに、その一句をたとえば駅の掲示板に書いたとき、何も背景を知らぬ昇降客が見てはっとするという内容をめざすべきだろう。
ティーへボールを置いて打つゴルフの第一打のような孤高の軌道を心がけたい。