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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

多和田葉子の身体言語と俳句

2014-12-13 05:10:47 | 文芸

多和田葉子の書くもの全般に言葉と身体とがからみあっている感じが強い。身体の感覚を濃厚にこめて言葉を繰り出す。
その最たる一篇が「ゴットハルト鉄道」(群像1995)だろう。

「ゴットは神、ハルトは硬いという意味です。古い名前なので、もうそういう名前の男は存在しないということかもしれない。そういう名前の男は見たこともないのに、この名前を初めて聞いてから三分くらいすると、ある風貌が鮮明に浮かびあがってきた。針金のようなひげが顎と頬に生えている。唇は血の色をしていて、その唇が言葉も出てこないのに、休みなく震えている。」
ゴットハルト鉄道と聞いて鉄道そのもののことよりそこからイメージされるのは男の風貌なのだ。

ゴットハルト鉄道にまるで人間のように対する感覚はさらに、
「ゴットハルトは地図の真ん中に堂々と寝そべっていた。その爪先は、イタリアに触れていた。左目はチューリッヒ、右目はバーゼル。心臓はシュピーツ。お腹の辺りには山があって、そこからスイスが生まれたのだと思った」

「あなたは空きビンね、ビンなら指を入れさせてよね。わたしはライナーの耳の穴に指を入れた。生暖かい唾液が関節にからまって、べとついた。」

「列車は、股間に滑り込んでいった。急な岸壁が、左右に切り立つ。壁の表面は焦げついた黒に、ところどころ皮の剥けた傷口のようななまなましい滑らかさ。剃り残された体毛のように悲しい雑草が、岸壁にへばりついている。」

有機質と無機質との一体感、硬いものと柔らかいものとの交じり合いなど落葉を踏んだら下にべとべとの泥があるように官能的である。

多和田の言葉はどこでも身体性を帯びている。
俳句にとっても身体性はきわめて重要、いやこれこそを追い求めているのではないか。

夏山の水際立ちし姿かな 高浜虚子

やがてわが真中を通る雪解川 正木ゆう子

身のうちに鮟鱇がゐる口あけて 奥坂まや


雪の村眼窩のごとく暮れにけり 天地わたる


言葉という観念を血肉化すること。人間と外界との混交、渾然一体感を求めることで言葉をひりひりと蘇生させようとしている。
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花村萬月の描く天使

2014-10-23 13:45:35 | 文芸

ジョット・ディ・ボンドーネ作「聖痕を受ける聖フランチェスコ」  ウィリアム・アドルフ・ブグロー作「歌を歌う天使達」

何年ぶりかで花村萬月を読んだ。府中市の図書館が廃棄したい本の中に彼の『セラフィムの夜』があり捨てるにはもったいないと思った。
花村萬月はひとことでいえば、暴力と性。血、飛び散る脳漿、砕けた骨、排泄物、へど、汚濁一般をいきいきと描く。
本書も涼子が剣道をすべく防具をつけるとき、革・皮脂・汗・髪・鉄などがいっしょくになった匂いに性的な気分になるところから始まる。
セラフィムは天使のことで涼子を象徴している。

天使のような容貌と肉体を持ちながら生まれつき生理がない人妻・涼子は、大学の後輩の大島に好意を寄せられ、凌辱されてしまう。さらに、病院へ赴いた涼子は、自らの性の驚くべき真実を知る。異常なまでにつきまとう大島を殺めた涼子は、彼の腹違いのヤクザの兄・山本に助けを求める。二人は山本の故郷である韓国へと向かう。そして、山本には恐るべき殺し屋が襲いかかった……。
このようなストーリーであり、涼子が性的にぐちゃぐちゃになるシーンばかりであるが、それでも作者は涼子の美しさ、崇高さを賛美している。

涼子の睾丸性女性症候群という性別の問題とヤクザ大島のパンチョッパリ(半分日本人半分韓国人)という無頼さを結びつけて道行の物語の格としている。

作者はあとがきで、次のようにいう。
「分裂した自我というものにすごく興味があったのだ。しかし、哲学してしまったら、私の負けだ。あくまでも小説。それもエンターテインメント。」
こういう真情をさらすあたりが少年っぽく青っぽくて好きなのだが、萬月さんは自分自身にブレーキをかける必要があるほど哲学好きにて、気づかずに随所で哲学しているのではないか。

それは彼の特異なアフォリズムによく出ている。

「美という概念は、じつは不自然さが大部分を占めている。言いかたをかえれば、体面を繕う意識からきている」

「愚者とは自分以外の何かになろうとしてあがく者のことだよ」

このような人物描写以外の文言は作者の考えをもろに出している、いわば説教の部分であり哲学しているといってもいい。
萬月さんの中には「少年の見遣るは少女鳥雲に 草田男」といった女を知らない少年の純情をいつでも感じる。
中学生のころ「吉永小百合ってうんこしないんじゃないかな。するとすれば黄金の卵」といってぼくを爆笑させた男がいたが、
萬月さんのなかに女性を天使のように美化する嗜好が濃厚にある。

どんなに女性を凌辱して描いても手に触れることのできぬ女性像というものを感じてならない。
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必要悪としての補助輪、そして添削

2014-07-30 01:07:53 | 文芸

小池真理子が2005年に出したエッセイ集『闇夜の国から二人で舟を出す』の中に「デュラスの扉を叩く」という一篇がある。
ここにフランス人の個の強さが端的に書かれていて、それを読むと日本人は彼らに永遠に理解されないだろうし友達にもなれないだろうと思ってしまう。
特に習慣のようにやっているわが俳句添削業務がほんとうにいいことか刃を向けられた気がする。

「デュラスの扉を叩く」からすこし引いてみる。
世界的ベストセラー『愛人/ラマン』の著者マルグリット・デュラスは六十六歳のとき三十九歳年下のヤンを愛人にしていた。
このエネルギーは凄まじいのだが、それは何も、彼女の並はずれた生命力がそうさせたのではない。デュラスの中に、あるいは、最後の恋人であるヤンの中に、互いを年齢で規定しようとする意識がかけらもなかったからなのだ。
デュラスはいつだって「個」であり、「個」のまなざしで世界を見つめた。


小池はデュラスの個への意識に共感しつつフランス人一般についても話を進める。

彼らは「個」が確立しているのだ。およそ日本人のように大衆に迎合したり、他者に気をつかうあまり、気味の悪い愛想笑いを続けたりもしない。私は私。私を知りたいなら、私の扉をノックしてちょうだい。さして知りもしないのだったら、お愛想を言う必要はないし、意味のないのに笑ったりしなくてもいい。笑いかけてくれないからといって、ちっとも気になんかしないし、まして自分に興味を持ってもらえないことで傷ついたりしない。それでいいでしょう?……多くのフランス人はそういう感じだ。クール、というのとも違う。「私」と「あなた」は別のものなのだ、という意識が生まれた時から具わっているのである。

この一文を読んだからではなくずっと以前から俳句添削の意味は考え続けている。欧米人がもっとも理解できないことの一つである添削ということについて。
自作を他人に見せて意見を聞くくらいなら理解できるだろうが積極的に手直しを求める精神ってなんだろう。
自分をないがしろにすること、むなしくすることじゃないの?
正常な精神を持つ欧米人のほとんどがそう思うのではないだろうか。
自作に他人が手を入れるのだったら<私>が書く意味も<私>がこの世に存在する意味もないんじゃないの?
こう思うのがまっとうだろう。

にもかかわらず小生は日本列島の片隅で受講生が気に入るであろう方向を模索しつつ添削に従事している。
上位の講師(添削監督者)から「どんな句でも必ず褒めるよう」厳命されていて、ささいなことを探して褒める癖がついた。作品の内容に褒めることが希薄だと「字に勢いがある」「楷書の見本みたいな字で気持ちいい」ということになる。そういった褒め癖がついてから監督者ならびに受講者からの評判がよくなったようである。

添削を求めてくるほとんどの人が褒められることを期待しているようである。よって上層部は「必ず褒めるように」という金科玉条を掲げるのであろうが、相手の病気を根本的に直せないのに「お大事に」というような馴れ合い、もたれ合いでどうなるのだ。ときには「センセイのお手並み拝見」といったことを書いてくる受講生もいて気鬱になる。

受講生10人に1人ほど真に鍛えて欲しい人、ないし必死に詩を求めている人がいる。それは文面でわかるので外交辞令抜きで本質へズバリ切り込む。
このガチンコの物言いは楽しい。相手に深く沁み込む生きた言葉であろう。
言われて痛いこと、出血することをガチンと受け止めないと本当は伸びていかない。

「和を以て貴しとなす」日本人の心性は相手を傷つけない、自分も傷つきたくないに終始する。よって議論などはなはだ苦手でできれば避けたい。
話の内容より言い方の優しさ穏やかさをどうしても大切にしがち。
そして本質から遠ざかる。
しかしそういう風土の中ではマルグリット・デュラスのような個は育ちにくいし、小池真理子みたいないい女は出現しにくいだろう。
俳句という詩は季語という共有物が相当量を占めるから個からほど遠い文芸であることは間違いない。
そのことをフランス人は理解できないだろうがこれぞわが日本の座の文芸である。

それをわれら日本人は認めるとして、
悪とまで言いたくないが添削は必要悪の要素がとても濃い。
いわば幼児用自転車の補助輪のようなもの。幼児は自信がついてくると補助輪を外すよう親に頼むものだ。はじめは転んで膝をすりむいてもそれを克服して独力で漕いで行くことを覚え、笑う。
俳句は個を樹立すること、自分を律することである。
補助輪は邪魔と思うようにならないと表現は本物にならないのではなかろうか。

自分を恃まないのは絶対変だと思うのである。フランス人でなくても。
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篠田節子『仮想儀礼』

2014-05-28 05:39:52 | 文芸


40歳ほどの男二人が宗教ビジネスを立ち上げる話。騙した男と騙された男がある日路上で再会、二人とも零落していたので和解して宗教を興して儲けようとたくらむ。
ネットを使い言葉たくみに、映像豊かにサイトをつくる。これを発端に次第に客が増えていく。
精神論を欲する食品会社からの引きもあったりして会員数、利潤はどんどん増えていく。
大手新興宗教からの接近ありその背後の大物政治家、さらに税務署など登場して話はどんどん進む。

上下で900ページの大作は芭蕉の「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」といったあんばいで、前半ビジネスがぐんぐん伸びる昂揚感。後半は税務署、警察などに追われる没落一途の展開。とにかくおもしろく4日で読んでしまった。

三部作という言い方がよくされる。
テーマの連続性、発展性などの観点で夏目漱石では前期三部作が 『三四郎』『それから』『門』であり、後期三部作が『彼岸過迄』『行人』『こころ』といったようなことである。
そうとう大胆ながら、今まで読んだ11冊の篠田作品を俯瞰してみると、
『ゴサインタン―神の座―』(1996)、『弥勒』(1998)、『仮想儀礼』(2008)の長篇3作は連関している。
篠田は特異な能力をもつ個人とそれにまつわる人間集団を書くとき光彩を放つ書き手である。集団心理のありようを一人ひとりをきちんと書き分けることでまとめるのがうまい。
ゴサインタンでは嫁不足でネパールからやって来た嫁が、弥勒では王政に疑問を感じてクーデターを起こした側近がまわりの人間たちを通常考えられない事態(悲惨といっていい状況)に落とし込んでいく。
仮想儀礼は主人公が得意な能力を有しないが周囲が躍るといった点でやはり似たものがある。
3作ともハード、ディープ、ダークといった色合は篠田文芸が主張性が強いためだろう。
ハード、ディープ、ダークの色がいちばん濃いのが弥勒。悲惨で壮絶である。ゴサインタンはダークを払ってファンタジー仕立てにして爽快感を加えている。これが山本周五郎賞に結びついたか。
仮想儀礼のハード、ディープ、ダークの度合は弥勒とゴサインタンの中間ほどか。

宗教のカルト性、神秘主義的熱狂性などのハード、ディープ、ダークは凄いが、おもしろいのは立ち上げた主人公二人はきわめて良識的、中庸な運営をしようとすること。いい意味の中間管理職の手際である。
しかし二人の思惑から周囲の事情はどんどん変質していき、金儲けなどからほど遠いところへ連れて行かれてしまう。
3作に共通するのは主人公は命を残して身ぐるみ剥がれた状態になること、しかし、うっすらと希望らしきものがあることである。
救い、癒しといった要素がいちばん見えるのがゴサインタン。悲惨な弥勒でもそれは感じられる。

仮想儀礼においても主人公は社会的に葬られても一人ではない。女たちに待たれている……この関係をいいとするか悪いとするか、篠田は読み手一人一人に爆弾を持たせている。
仮想儀礼のラストのブラックユーモアは凄いのひとことである。
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どうしようもない題名

2014-05-09 05:40:17 | 文芸
きのう読み終えた篠田節子の中編小説『スターバト・マーテル』は聖歌の楽曲名。「悲しみの聖母」の意でヤーコポーネ・ダ・トーディが作ったとされている。
音楽にはまるで造詣のないぼくは知識も得られ勉強になった。
本の題名は千差万別である。

今年読んだ本の中でもっともひどい題名だと思ったのが藤田宣永の『邪恋』。
あまりひどい題名なので興味を持った。

宣伝文には、
この恋は綺麗事ではすまされない…。義足をつくる義肢装具士と、下肢を失った女性患者の赤裸々で危ない恋物語。恋より深く溺れていく、究極の官能をスリリングに描く衝撃の恋愛小説1200枚。
というようなことが書かれていて題材に興味をもって一気に読んだ。
一気に読ませるほどの中身はあったということである。

それにしても『邪恋』はないだろう。恋を邪恋だ純愛だと仕分けするセンスがぼくにはない。不倫がらみ情念のからまった爛れるような交接を繰り返すようなのが邪恋か…、これに対してまだ親の管理下にある十五六歳の少年少女のまともに顔を見合うことのできない状況の、中村草田男が「少年の見遣るは少女鳥雲に」と書いたようなものが純愛だろうか。
いずれにせよ、女性週刊誌が「お泊り愛」だの「略奪愛」だの愛にべたべた砂糖をまぶしシロップをかけるのに似て意識のレベルが低いのではなかろうか。
所詮、恋は恋。仕分けなどしなくていい。恋はとにかく邪なのだ。

小池真理子ファンの読書子K子は「藤田宣永はダサイ、よく小池さんは彼と夫婦しているよね」といい、一冊読んでもう読んでいないとか。
そういえば小池真理子の直木賞受賞作は『恋』、島清恋愛文学賞受賞作が『欲望』。これらの題名は俳句的でシンプル。シンプルな題名には求心力がある。両者とも内容がきらびやかだったように記憶する。

しかし藤田宣永の『燃ゆる樹影』は適切な題名だと思った。
二十数年前、愛し合った女と再会してしまった55歳の樹木医と46歳の画廊喫茶の女店主。情趣豊かな風景の中で燃えあがる恋情。
藤田は誠実な安定した書き方ができる作家であり、もっと読んでもいい。素材を探すセンスとそれをこなす力量もある。
小池と同じ恋愛をテーマにするのは本質的につらいのではないか。
男は射精によってすべて終わってしまう人種、女は果てしない快楽の波に乗ることのできる人種。同じ人といっても生理はまるで違う。
恋を書いてどちらが豊穣に見せられるかは最初から明白ではなかろうか。ことが肉欲、官能にかぎらなくても。

ちなみに小池真理子の近作『無花果の森』という題名は落ち着きがあっていい。中身も無花果のイメージが季語のように全体を貫いていた。

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