
多和田葉子の書くもの全般に言葉と身体とがからみあっている感じが強い。身体の感覚を濃厚にこめて言葉を繰り出す。
その最たる一篇が「ゴットハルト鉄道」(群像1995)だろう。
「ゴットは神、ハルトは硬いという意味です。古い名前なので、もうそういう名前の男は存在しないということかもしれない。そういう名前の男は見たこともないのに、この名前を初めて聞いてから三分くらいすると、ある風貌が鮮明に浮かびあがってきた。針金のようなひげが顎と頬に生えている。唇は血の色をしていて、その唇が言葉も出てこないのに、休みなく震えている。」
ゴットハルト鉄道と聞いて鉄道そのもののことよりそこからイメージされるのは男の風貌なのだ。
ゴットハルト鉄道にまるで人間のように対する感覚はさらに、
「ゴットハルトは地図の真ん中に堂々と寝そべっていた。その爪先は、イタリアに触れていた。左目はチューリッヒ、右目はバーゼル。心臓はシュピーツ。お腹の辺りには山があって、そこからスイスが生まれたのだと思った」
「あなたは空きビンね、ビンなら指を入れさせてよね。わたしはライナーの耳の穴に指を入れた。生暖かい唾液が関節にからまって、べとついた。」
「列車は、股間に滑り込んでいった。急な岸壁が、左右に切り立つ。壁の表面は焦げついた黒に、ところどころ皮の剥けた傷口のようななまなましい滑らかさ。剃り残された体毛のように悲しい雑草が、岸壁にへばりついている。」
有機質と無機質との一体感、硬いものと柔らかいものとの交じり合いなど落葉を踏んだら下にべとべとの泥があるように官能的である。
多和田の言葉はどこでも身体性を帯びている。
俳句にとっても身体性はきわめて重要、いやこれこそを追い求めているのではないか。
夏山の水際立ちし姿かな 高浜虚子
やがてわが真中を通る雪解川 正木ゆう子
身のうちに鮟鱇がゐる口あけて 奥坂まや
雪の村眼窩のごとく暮れにけり 天地わたる
やがてわが真中を通る雪解川 正木ゆう子
身のうちに鮟鱇がゐる口あけて 奥坂まや
雪の村眼窩のごとく暮れにけり 天地わたる
言葉という観念を血肉化すること。人間と外界との混交、渾然一体感を求めることで言葉をひりひりと蘇生させようとしている。