朝、家を出ると最初の曲がり角に彼岸花が咲いていました。
鮮やかな赤。なぜかこの花、寂しく感じてしまうのです。
曇り空の日、島から出るまでの景色と安芸灘大橋を渡った後の景色は
あまりにも違うものですから、天気が悪くても何か良いものを探して移動します。
下蒲刈の松淘園の海沿いの道路、ここは車は通れません。
人が歩くか、自転車か、原付はたぶん大丈夫。
海の風を感じるというのはとても贅沢なことで、体がふわっと解ける感じです。
若いうちから自然を感じる習慣、これは将来にわたってどこかに見つかるものですから、
どの人にも平等にある膨大な財産として感じていたいものです。
不治の病というものがありますが、うちの整体院にもそういう方は来られます。
治らないと決めている医療がある、しかし、軽くなったりはするのです。
治らない病気でも、奇跡的な人もいなくはないのにそれにかけようとはせず、
どちらかというと標準的という大勢のところに落ち着かせようとする。
若くして病気を持ってしまった人がどう考えるべきかなのですが、
みんな元気なのに私だけ・・・・・・このように考えるかもしれません。
しかし、人間は生まれながら毎日、死に近づいています。
むしろ、現役世代、それから老後と考えてる一般の人、
この老後という人生を二分した考え、こちらの方が怖くないですか?
力はない、お金はない、あるのは病気だけ、それが老後ということで
将来を予測しているのなら。
病気に勝つという意味では治る治らない、ということだけではなく
今日も生きてると実感できるとか、充実していたとか、幸せを感じたとか、
そんなことだろうと思うのです。
人間は毎日、死に向かっているそれを感じてることの方がたくましく生きてる気がします。
松淘園の中の建物に、灯りをテーマにした建物があります。
写したのは、灯りが見える窓。
この窓に曇り空が写っているのです。
なぜか、それでも落ち着きます。
雲の上には空がある。雲の上は快晴なのです。
曇る日があれば晴れる日もあり、木や花が枯れ、また新しいい芽が出る。
そうして自然が繰り返すように人間の体も、不調になったり元気なったりの繰り返し。
自然の中に溶け込んで考えれば当たり前のことなのです。
田舎はいいなぁ、島はいいなぁと感じられる場所のひとつです。
鮮やかな赤。なぜかこの花、寂しく感じてしまうのです。
曇り空の日、島から出るまでの景色と安芸灘大橋を渡った後の景色は
あまりにも違うものですから、天気が悪くても何か良いものを探して移動します。
下蒲刈の松淘園の海沿いの道路、ここは車は通れません。
人が歩くか、自転車か、原付はたぶん大丈夫。
海の風を感じるというのはとても贅沢なことで、体がふわっと解ける感じです。
若いうちから自然を感じる習慣、これは将来にわたってどこかに見つかるものですから、
どの人にも平等にある膨大な財産として感じていたいものです。
不治の病というものがありますが、うちの整体院にもそういう方は来られます。
治らないと決めている医療がある、しかし、軽くなったりはするのです。
治らない病気でも、奇跡的な人もいなくはないのにそれにかけようとはせず、
どちらかというと標準的という大勢のところに落ち着かせようとする。
若くして病気を持ってしまった人がどう考えるべきかなのですが、
みんな元気なのに私だけ・・・・・・このように考えるかもしれません。
しかし、人間は生まれながら毎日、死に近づいています。
むしろ、現役世代、それから老後と考えてる一般の人、
この老後という人生を二分した考え、こちらの方が怖くないですか?
力はない、お金はない、あるのは病気だけ、それが老後ということで
将来を予測しているのなら。
病気に勝つという意味では治る治らない、ということだけではなく
今日も生きてると実感できるとか、充実していたとか、幸せを感じたとか、
そんなことだろうと思うのです。
人間は毎日、死に向かっているそれを感じてることの方がたくましく生きてる気がします。
松淘園の中の建物に、灯りをテーマにした建物があります。
写したのは、灯りが見える窓。
この窓に曇り空が写っているのです。
なぜか、それでも落ち着きます。
雲の上には空がある。雲の上は快晴なのです。
曇る日があれば晴れる日もあり、木や花が枯れ、また新しいい芽が出る。
そうして自然が繰り返すように人間の体も、不調になったり元気なったりの繰り返し。
自然の中に溶け込んで考えれば当たり前のことなのです。
田舎はいいなぁ、島はいいなぁと感じられる場所のひとつです。