2月2日(日)
石川理紀之助ものがたり「ミュージカル リキノスケ、走る」を観てきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/01/8e/acb76c5ef44fdf112ace09f36c417bae_s.jpg)
場所は、ご存知「たざわこ芸術村「わらび座」」。
小劇場での開演でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0b/82/a9310a6689cf80cec9fadb1d86a05423_s.jpg)
会場に入ったらもう満員状態。
予想外にたくさんのお客さんがいてびっくりです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/15/33ea3d7ce48b07f90469345ec567dd9f_s.jpg)
「石川理紀之助翁」とは・・・
明治の老農、農村指導者。
1872年(明治5年)秋田県勧業係に任命され在職10年、
この間農事の改良をはかるとともに、観農議会、種苗交換会などを組織し、
いまも続いている。
1882年(明治15年)その当時冷害が重なり、
借金にあえいでいた山田村救済のため帰村し、更生計画を実践して立て直しに成功、
広く世に知られることとなりました。
その際、村人に提案した内容は「質のいい肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施す。
米の収量は確実に増えるので、増加した分を借金の返済にあてる。
無駄使いをやめ、必要なものは共同で買う。
副業などにも精を出し、仲間はずれが出ないよう、助け合い励まし合う。」
というものでした。
毎朝3時に理紀之助自身が掛け板を打って村人を起こし、
農事に専念させ、村人の努力と協力によって、7年掛かるといわれた借金を5年で完済しました。
その時彼が残した言葉で
『寝て居て人を起こすこと勿れ』
というものがあり「他人を起こして働かせているのに、
自分が何もせず寝ていてはいけない。他人に指図しているだけでは誰もついては来ない。」
という意味で、この名言は今現在もよく知られています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7e/d1/efaa4b249970707a5177f8c28ccb6466_s.jpg)
さて、今回のミュージカルのあらすじは・・・
1863年、奈良家を飛び出した19歳の理紀之助は
雄勝郡小野村の高橋正作に出会い、
その実践や考え方・貧民救済の思想に心打たれる。
【よく観て、試してみて、考える】ことの大切を学ぶ。
山田村の石川家に養子に入り、志和子と結婚。
39歳の時、東北が冷害に見舞われ、農民を救えるのは農民だと県庁を辞職。
貧民救済と農家経営の実践に専念、山田村を復興させる。
そんな父に反発した長男・民之助が家出。
理紀之助は必死に探すが、国後で腸チフスで病死し、弔いもされず、無残にも石油缶に放り込まれていた遺体と対面する。
人様のためにと貧民救済に没頭してきたが、その結果、わが子の命を奪ってしまった。
なぜ息子の声に耳を傾けなかったのか・・・。
息子の死を乗り越え、理紀之助は農民が自立して生活できる道を求め、走り続ける。
1912年、68歳になった理紀之助は依頼されて九升田で救済事業を始めるが、人々から反発が起こる。
もう自分のやり方は古いのか。理紀之助が思い悩む時、事件が起こる。
そして、理紀之助の晩年。
彼が語ったひと言が彼の人生をみごとに言い表しているようで。。。
「世にまだ、生まれぬ人の耳にまで 響き届けよ、掛け板の音」
「歌袋 一つたづさえ いでたたん 玉も黄金も 身にもたずして」
詳しくは、ぜひ、劇場で体感いただきたい。
とても面白く、感動的な「ミュージカル リキノスケ、走る」でした。
石川理紀之助ものがたり「ミュージカル リキノスケ、走る」を観てきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/01/8e/acb76c5ef44fdf112ace09f36c417bae_s.jpg)
場所は、ご存知「たざわこ芸術村「わらび座」」。
小劇場での開演でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/8f/ed0a45641a9b7ca486add40a2d84d517_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0b/82/a9310a6689cf80cec9fadb1d86a05423_s.jpg)
会場に入ったらもう満員状態。
予想外にたくさんのお客さんがいてびっくりです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/15/33ea3d7ce48b07f90469345ec567dd9f_s.jpg)
「石川理紀之助翁」とは・・・
明治の老農、農村指導者。
1872年(明治5年)秋田県勧業係に任命され在職10年、
この間農事の改良をはかるとともに、観農議会、種苗交換会などを組織し、
いまも続いている。
1882年(明治15年)その当時冷害が重なり、
借金にあえいでいた山田村救済のため帰村し、更生計画を実践して立て直しに成功、
広く世に知られることとなりました。
その際、村人に提案した内容は「質のいい肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施す。
米の収量は確実に増えるので、増加した分を借金の返済にあてる。
無駄使いをやめ、必要なものは共同で買う。
副業などにも精を出し、仲間はずれが出ないよう、助け合い励まし合う。」
というものでした。
毎朝3時に理紀之助自身が掛け板を打って村人を起こし、
農事に専念させ、村人の努力と協力によって、7年掛かるといわれた借金を5年で完済しました。
その時彼が残した言葉で
『寝て居て人を起こすこと勿れ』
というものがあり「他人を起こして働かせているのに、
自分が何もせず寝ていてはいけない。他人に指図しているだけでは誰もついては来ない。」
という意味で、この名言は今現在もよく知られています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5f/7e/0487ca0cf8a7a47ab613f922fd1d935e_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7e/d1/efaa4b249970707a5177f8c28ccb6466_s.jpg)
さて、今回のミュージカルのあらすじは・・・
1863年、奈良家を飛び出した19歳の理紀之助は
雄勝郡小野村の高橋正作に出会い、
その実践や考え方・貧民救済の思想に心打たれる。
【よく観て、試してみて、考える】ことの大切を学ぶ。
山田村の石川家に養子に入り、志和子と結婚。
39歳の時、東北が冷害に見舞われ、農民を救えるのは農民だと県庁を辞職。
貧民救済と農家経営の実践に専念、山田村を復興させる。
そんな父に反発した長男・民之助が家出。
理紀之助は必死に探すが、国後で腸チフスで病死し、弔いもされず、無残にも石油缶に放り込まれていた遺体と対面する。
人様のためにと貧民救済に没頭してきたが、その結果、わが子の命を奪ってしまった。
なぜ息子の声に耳を傾けなかったのか・・・。
息子の死を乗り越え、理紀之助は農民が自立して生活できる道を求め、走り続ける。
1912年、68歳になった理紀之助は依頼されて九升田で救済事業を始めるが、人々から反発が起こる。
もう自分のやり方は古いのか。理紀之助が思い悩む時、事件が起こる。
そして、理紀之助の晩年。
彼が語ったひと言が彼の人生をみごとに言い表しているようで。。。
「世にまだ、生まれぬ人の耳にまで 響き届けよ、掛け板の音」
「歌袋 一つたづさえ いでたたん 玉も黄金も 身にもたずして」
詳しくは、ぜひ、劇場で体感いただきたい。
とても面白く、感動的な「ミュージカル リキノスケ、走る」でした。
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