秋田のキムカズが贈る気まぐれブログ

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2/2 石川理紀之助ものがたり「ミュージカル リキノスケ、走る」

2014-02-02 15:59:22 | Weblog
2月2日(日)
石川理紀之助ものがたり「ミュージカル リキノスケ、走る」を観てきました。



場所は、ご存知「たざわこ芸術村「わらび座」」。
小劇場での開演でした。
 

会場に入ったらもう満員状態。
予想外にたくさんのお客さんがいてびっくりです。


「石川理紀之助翁」とは・・・
明治の老農、農村指導者。
1872年(明治5年)秋田県勧業係に任命され在職10年、
この間農事の改良をはかるとともに、観農議会、種苗交換会などを組織し、
いまも続いている。
1882年(明治15年)その当時冷害が重なり、
借金にあえいでいた山田村救済のため帰村し、更生計画を実践して立て直しに成功、
広く世に知られることとなりました。
その際、村人に提案した内容は「質のいい肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施す。
米の収量は確実に増えるので、増加した分を借金の返済にあてる。
無駄使いをやめ、必要なものは共同で買う。
副業などにも精を出し、仲間はずれが出ないよう、助け合い励まし合う。」
というものでした。

毎朝3時に理紀之助自身が掛け板を打って村人を起こし、
農事に専念させ、村人の努力と協力によって、7年掛かるといわれた借金を5年で完済しました。
その時彼が残した言葉で
『寝て居て人を起こすこと勿れ』
というものがあり「他人を起こして働かせているのに、
自分が何もせず寝ていてはいけない。他人に指図しているだけでは誰もついては来ない。」
という意味で、この名言は今現在もよく知られています。
 

さて、今回のミュージカルのあらすじは・・・
1863年、奈良家を飛び出した19歳の理紀之助は
雄勝郡小野村の高橋正作に出会い、
その実践や考え方・貧民救済の思想に心打たれる。
【よく観て、試してみて、考える】ことの大切を学ぶ。

山田村の石川家に養子に入り、志和子と結婚。
39歳の時、東北が冷害に見舞われ、農民を救えるのは農民だと県庁を辞職。
貧民救済と農家経営の実践に専念、山田村を復興させる。

そんな父に反発した長男・民之助が家出。
理紀之助は必死に探すが、国後で腸チフスで病死し、弔いもされず、無残にも石油缶に放り込まれていた遺体と対面する。
人様のためにと貧民救済に没頭してきたが、その結果、わが子の命を奪ってしまった。
なぜ息子の声に耳を傾けなかったのか・・・。
息子の死を乗り越え、理紀之助は農民が自立して生活できる道を求め、走り続ける。

1912年、68歳になった理紀之助は依頼されて九升田で救済事業を始めるが、人々から反発が起こる。
もう自分のやり方は古いのか。理紀之助が思い悩む時、事件が起こる。

そして、理紀之助の晩年。
彼が語ったひと言が彼の人生をみごとに言い表しているようで。。。
「世にまだ、生まれぬ人の耳にまで 響き届けよ、掛け板の音」
「歌袋 一つたづさえ いでたたん 玉も黄金も 身にもたずして」

詳しくは、ぜひ、劇場で体感いただきたい。
とても面白く、感動的な「ミュージカル リキノスケ、走る」でした。




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