平成23年3月11日(金)午後2時46分。
日本の歴史に大きな足跡を残す出来事が。
宮城県沖を震源とする大地震が発生した。
当初、気象庁ではこの地震の威力を「マグニチュード8.8」と表現していたが、
その後、世界でも稀な「マグニチュード9.0」に修正した。
この事実を知らせる秋田魁新報。
あの揺れ方はひどかった。
といっても、私はそのとき仕事場の潟上市昭和にいたのだが、
そこの震度は「4」。それでも揺れたし、速攻で外に退避するほどの揺れだったし、
何より揺れて間もなく停電が始まったことで、今回の地震の大きさを実感できた。
そのとき、秋田市内の震度は「5強」。
子供たちは私以上に恐ろしい思いをしていたようだ。
我が家もその瞬間から停電となり、その日の夜は急遽、しかも品薄状態の中で買い求めたろうそくの下、
質素な食事で晩餐。こんな時間が何日続くんだろうと不安な一方、
すぐに復旧するさという根拠のない楽観視。
それにしても、あれほどの地震のあった翌日に新聞がきちんとポストに入っていた。
秋田魁新報社の、マスコミとしての責任感と信念をここでも垣間見た気がする。
あの揺れの直後、取材をした記者の機動力。
そして、その記事を取りまとめた編集部。
停電やコンピュータの不具合など、日常業務ではない中での作業ではなかっただろうか。
そして原稿を印刷センターへ。データ転送できたのだろうか。
もしかすると、人力で運んだのではないか。
そして、印刷機は地震の影響を受けなかったのだろうか。
きっと、印刷センター内も暗い中での作業だったのでは。
そして、配送。新聞配達所へ。
新聞に仕分けは暗がりでの作業となっただろうし、寒さはどうだったろう。
そして、時折襲う余震の恐怖の中での配達。我が家のポストへ・・・
眼に見えないところで多くの人の苦労と頑張りがあって手にした朝刊。
感謝して読もうと思った。
そして我が家。
翌日は土曜日ということもあり、急遽長男が食料の買出しに奔走してくれた。
この中での逸品は、まずは「100円ショップ」に眼をつけた点。
どうしても焦っている大人たちは、スパーやコンビニ、少し知恵を出してもDIYやドラッグストアまでなら検討することが出来ても、
誰もが同じ思いで向かうものだから、既に品薄の状態に出くわしていた。
意表をついての100円ショップ。以外に穴場だった模様。
続いての逸品は、ガスコンロ。
案外なくて苦労したが、長男は9本もゲットして帰ってきた。
正直、すんごい。
地震3日目となる3月13日(日)の魁新聞。
”宮城1万人連絡なし”、”大津波で壊滅、死者686人”、”県人43人、岩手で不明”…
徐々に明らかとなる今回の地震の悲惨さ。
地元秋田県の情報も…
県北から初の甲子園出場となる大館鳳鳴高校、開催の方針は変わらないが、行動予定に影響が。
市内の道路も信号が停電となったために、交通麻痺は著しく、非常に危険な状態が。
普段の生活がいかに安全を担保してくれていたかが痛感させられます。
アルヴェにも多数の避難者。ここで夜を越したかと思うと、その披露は相当のものだったはず。
”停電断水生活混乱”まさにその通り。
そして、テレビ欄。こんなにも空欄のあるテレビ欄を見たのは初めてだろうか。
そして、ろうそくを頼りにした生活も二日目に突入した13日(日)。
ろうそくの灯りの下で勉強なぞしたりして。。。
そして食事。スパーで買い求めた「焼きそば」
よく見ると、輪ゴムが焼きそばに混じっていたりして。。。
仕方ないよ。スーパーだって暗い作業場での包装作業なのだから。
そうこうしていると、地震2日目の午後6時15分、電気が回復。
一斉に灯りが我が家を明るくすると、一同歓声が。
そして、テレビをつけて初めて地震の参上を目の当たりにするのです。
そして、地震発生から3日目となる3月14日(月)付け魁新報。
”安否不明数万人規模”、””宮城県警「死者は万単位」”、”M9.0に修正、世界最大規模”、
”福島原発3号機も炉心一部溶解”…そう、資源の乏しい日本の電力を担っている原子力発電所で事故が起きたのです。
そして、14日(月)の秋田市内。
街路灯はいつもどおり点灯している一方、
ガソリンスタンドは早々に在庫の油が売り切れ、閉店。
まだまだ寒いここ秋田。寒さしのぎのための油購入は争奪戦ともいうべき行列を招く毎日です。
キムカズin秋田サイト
日本の歴史に大きな足跡を残す出来事が。
宮城県沖を震源とする大地震が発生した。
当初、気象庁ではこの地震の威力を「マグニチュード8.8」と表現していたが、
その後、世界でも稀な「マグニチュード9.0」に修正した。
この事実を知らせる秋田魁新報。
あの揺れ方はひどかった。
といっても、私はそのとき仕事場の潟上市昭和にいたのだが、
そこの震度は「4」。それでも揺れたし、速攻で外に退避するほどの揺れだったし、
何より揺れて間もなく停電が始まったことで、今回の地震の大きさを実感できた。
そのとき、秋田市内の震度は「5強」。
子供たちは私以上に恐ろしい思いをしていたようだ。
我が家もその瞬間から停電となり、その日の夜は急遽、しかも品薄状態の中で買い求めたろうそくの下、
質素な食事で晩餐。こんな時間が何日続くんだろうと不安な一方、
すぐに復旧するさという根拠のない楽観視。
それにしても、あれほどの地震のあった翌日に新聞がきちんとポストに入っていた。
秋田魁新報社の、マスコミとしての責任感と信念をここでも垣間見た気がする。
あの揺れの直後、取材をした記者の機動力。
そして、その記事を取りまとめた編集部。
停電やコンピュータの不具合など、日常業務ではない中での作業ではなかっただろうか。
そして原稿を印刷センターへ。データ転送できたのだろうか。
もしかすると、人力で運んだのではないか。
そして、印刷機は地震の影響を受けなかったのだろうか。
きっと、印刷センター内も暗い中での作業だったのでは。
そして、配送。新聞配達所へ。
新聞に仕分けは暗がりでの作業となっただろうし、寒さはどうだったろう。
そして、時折襲う余震の恐怖の中での配達。我が家のポストへ・・・
眼に見えないところで多くの人の苦労と頑張りがあって手にした朝刊。
感謝して読もうと思った。
そして我が家。
翌日は土曜日ということもあり、急遽長男が食料の買出しに奔走してくれた。
この中での逸品は、まずは「100円ショップ」に眼をつけた点。
どうしても焦っている大人たちは、スパーやコンビニ、少し知恵を出してもDIYやドラッグストアまでなら検討することが出来ても、
誰もが同じ思いで向かうものだから、既に品薄の状態に出くわしていた。
意表をついての100円ショップ。以外に穴場だった模様。
続いての逸品は、ガスコンロ。
案外なくて苦労したが、長男は9本もゲットして帰ってきた。
正直、すんごい。
地震3日目となる3月13日(日)の魁新聞。
”宮城1万人連絡なし”、”大津波で壊滅、死者686人”、”県人43人、岩手で不明”…
徐々に明らかとなる今回の地震の悲惨さ。
地元秋田県の情報も…
県北から初の甲子園出場となる大館鳳鳴高校、開催の方針は変わらないが、行動予定に影響が。
市内の道路も信号が停電となったために、交通麻痺は著しく、非常に危険な状態が。
普段の生活がいかに安全を担保してくれていたかが痛感させられます。
アルヴェにも多数の避難者。ここで夜を越したかと思うと、その披露は相当のものだったはず。
”停電断水生活混乱”まさにその通り。
そして、テレビ欄。こんなにも空欄のあるテレビ欄を見たのは初めてだろうか。
そして、ろうそくを頼りにした生活も二日目に突入した13日(日)。
ろうそくの灯りの下で勉強なぞしたりして。。。
そして食事。スパーで買い求めた「焼きそば」
よく見ると、輪ゴムが焼きそばに混じっていたりして。。。
仕方ないよ。スーパーだって暗い作業場での包装作業なのだから。
そうこうしていると、地震2日目の午後6時15分、電気が回復。
一斉に灯りが我が家を明るくすると、一同歓声が。
そして、テレビをつけて初めて地震の参上を目の当たりにするのです。
そして、地震発生から3日目となる3月14日(月)付け魁新報。
”安否不明数万人規模”、””宮城県警「死者は万単位」”、”M9.0に修正、世界最大規模”、
”福島原発3号機も炉心一部溶解”…そう、資源の乏しい日本の電力を担っている原子力発電所で事故が起きたのです。
そして、14日(月)の秋田市内。
街路灯はいつもどおり点灯している一方、
ガソリンスタンドは早々に在庫の油が売り切れ、閉店。
まだまだ寒いここ秋田。寒さしのぎのための油購入は争奪戦ともいうべき行列を招く毎日です。
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