Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

Everything Stuck to Him

2013-09-15 01:23:36 | 文学
21~22歳頃のことだったかな、レイモンド・カーヴァーを原書で読んでみようと思って、どこかの書店で英書を入手した。Everything Stuck to Him って短編はタイトルがおもしろいし、程良い短さだったので、真っ先に読んでみた。村上春樹の翻訳ももちろん持っていたんだけど、未読だった。一度英語で全部読んでみてから、翻訳にも目を通した。

ちょうど同じ頃だったと思う、森茉莉の「気違いマリア」という短編を読んだ。そこにこんな箇所がある。「とにかく変なものはすべて、マリアにくっつくらしい」。「何もかもが彼にくっついていた」っていうタイトルと何か似ている。言うまでもなく、両者における「くっつく」という単語の意味合いは全く異なるんだけど(たぶんね)、妙にひっかかった。

「気違いマリア」とは別の作品だったかもしれないけど、人の感情が私に直に伝わってしまう、みたいなことが書かれた小説を、やっぱり同じ頃に読んだ。

他人の思惑や心の傷、悪意、哀しみ、そういったものが全部自分の心にくっついてしまう。そういうテーマの小説をぼくが実際に読んだのかどうか、もう分からない。でも「これは自分のことだ」とぼくは思った。読んだことがあるかどうか分からないのに、読書の感想を持ってしまったというわけだ。

ぼくは少年時代から20歳くらいまでの間、「他人の気持ちが分かり過ぎてしまう」ことにひどく悩んでいた。よく「人の気持ちを想像しなさい」とかって小学校で怒られたりするものだけど、あんまり想像できない方が人生楽なんじゃないのかな。人の気持ちが分かるっていうのは、美徳のように語られたりもするけど、当人にしてみればあんまりいいことじゃない。というか、よくないことだと思う。

「他人の気持ちが分かる」ことが悩みだなんて、ぼくはそれまで誰にも言ったことはなかったし、それが悩みだったんだよってことも、今の瞬間まで誰にも話したことはなかった。だってそんなことが「悩み」として認識されないってことは、少年のぼくも知っていたから。でも、当時はそれが本当に辛かった。

もちろん、全ての人の気持ちが分かるってわけじゃあなくて、親しい人に限られていたと思うんだけど、でもその親しい人に何かよくないことが起こると、ぼくの心は激しく反応した。まるで自分自身にそれが起きてしまったみたいに、あるいはひょっとしたらそれ以上に、激情に心を揺さぶられた。悔しくて悔しくて堪らなかったり、悲しくて悲しくて堪らなかったり。なんでこんなに自分が傷ついてしまうのか分からなかった。他人の感情の何もかもがぼくにくっついていた。

こんなことを書いたりするとさ、「他人の気持ちが分かる優しい人間をアピールしている愚劣な野郎」って烙印を押されそうな気がするんだけど、たぶんそういうことをちょっとでも感じてしまった人には、まあ当時のぼくの気持は分からないだろうなあ。「気持ちが分かる」ことが辛い悩みになってしまうって、そういう人には理解できないだろうなあ。

今のぼくは「分かり過ぎてしまう」ってことはない。かなり鈍感になったと思う。きっかけは、ドストエフスキー『罪と罰』だった。読んだのはたしか15~16歳の頃だったはずだけど、ぼくはラスコーリニコフに感情移入し過ぎた。ぼくの精神は危機に瀕した。そこで取った自衛策が、「感情移入しないこと」だった。読書にのみ採用した方策のつもりだったんだけど、いつの間にか人生にも適用されていた。何年もかけて、ぼくは少しずつ冷淡になっていった。

「優しくない」とか「怖い」とか、言われたことがある。ぼくはそれを、「お前は人の気持ちが理解できない人間だ」という叱責として解することがあった。複雑な思いだった。

一方で、「気持ちが分かり過ぎてしまう」ぼくの感受性を心配してくれる人もいた。ぼくはもうそんなんじゃないのにな、と思いつつ、うれしかった。

あんなにも人の気持ちが分かってしまったあの頃に戻りたいなと思う。でもあの苦痛は引き受けたくはないなとも思う。

まあいずれにしろぼくはこのままなんだろうな。

ちなみに、あえて曲解することもあるんだけど、それはまた別の話なのかな。