ちょっと道後温泉に行っていたのですが、その感想は後日ということにして、宮崎駿の「引退」について。
長編制作からの引退が公式発表されましたが、これまでも宮崎駿は何度も「引退」を口にしてきたと言われます。そのような発言の一つが『もののけ姫』の際に大きく報道されました。しかし結局これ以後も宮崎駿は作品を作り続けてきました。だから、今回の発言もそれと同じようなものだろうと考える人がいるかもしれません。でも、今回とこれまでとでは、事情が全然違う。今回は宮崎駿ではなく、ジブリの社長が公式にアナウンスしているからです。
もちろん、引退を宣言してもそれを撤回する可能性はありますから、今後絶対に宮崎駿が長編アニメーションを監督することがないとは言い切れませんが、しかし年齢のことを考えると、このまま本当に引退してしまう可能性の方がずっと高いと思います。とはいえ、引退するのはあくまで長編からであって、短編にはこれまで通り関わっていくのかもしれません。
いずれにしろ、これからぼくらはもう宮崎駿の新しい長編アニメーション映画を観ることができないかもしれないわけです。
このことについて、受け止め方は人それぞれだと思いますが、個人的には、あまり動揺しませんでした。そうなのかと、すんなり受け止めることができました。でも次第に彼の作品やその思想、人生へ思いを募らせてゆきました。
カリオストロからポニョまで、宮崎駿の監督作がぼくは好きでした。そのいずれをも讃える心がぼくにはありました。ところが、ポニョ公開以後、いつの間にかぼくは宮崎駿の作品にかつてほどの執着を見せなくなっていました。金曜ロードショー(show)で作品が放映されても、テレビにかじりつくようにして視聴することはなくなりました。というか、もう最近は視聴していないのです。理由は幾つか考えられますが、事実としてあるのは、関心が薄れてしまったということ。
『風立ちぬ』は、宮崎駿の監督作で唯一、ぼくの心に響きませんでした。ぼくはそのことを悲しく思いますが、しかし今回の引退発表を受けて、宿題をもらったのだな、と考え直しました。そして、『風立ちぬ』が心に響かなかったことを、むしろうれしく思うようにさえなったのです。
先に書いたように、ぼくは彼の引退発表を最初は軽く受け止めました。でもやがて彼について様々な感情が湧いてくるようになりました。宮崎駿のおよそ30年の監督生活を振り返ることは、自分の人生を振り返ることに等しい。もののけ姫が公開されたとき、自分はどのように感じたのだったか。千と千尋のとき、ハウルのときは?ラピュタを初めて観たときの印象はどうだったか。ああ、この人は自分の人生にとても大きなものを刻み付けていったんだな。そしてぼくはかつて、宮崎駿の道をゆくことを心に決めたのだったな。・・・
「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」。ユパは漫画版『ナウシカ』の最終巻でこう語ります。ぼくは宮崎駿の道をゆく。中学生のぼくにとって、それは彼の思想を受け継ぐという意味だったかもしれないし、彼の作品のメッセージに応答し続けるという意味だったかもしれない。ともかくぼくは、宮崎駿の思想に、作品に、才能に刺激を受け、彼を追い続けようと決心したのです。だからこそ、『風立ちぬ』にぼくの心が反応しなかったことに、ぼくは落ち込みました。中学生だったときからだいぶ月日が過ぎたにもかかわらず、当時の決心は当然のように覚えていて、いくら関心が薄れたと言っても、ぼくにとって宮崎駿が「憧れの対象」であり、「理想」であり、「偉大な先導者」であることには変わりなかったのです。
もしもぼくが『風立ちぬ』にこれまでと同じような感銘を受けていたとしたら、彼への関心を減らしている自分にとって、しかし彼への尊敬の念は持ち続けている自分にとって、今回の引退発表は、自分が宮崎駿から「卒業」するいい契機になっていたかもしれません。ずっと宮崎駿の監督作品にぼくの心は応答したぞ、よかったな、でもこれで終わりだ、監督ありがとう、と。
けれどもそうはならなかった。ぼくは『風立ちぬ』が響かなかった。だからぼくは、まだ宮崎駿から卒業できそうにありません。この作品が自分なりに理解できるまで、彼の後姿を追い続けなければなりません。これはぼくの宿題だ。でも今になって宿題を与えられたことが、とてもうれしい。人生の目標ができたような気さえします。
宮崎駿というのは、ぼくにとって、自分の立ち位置を測る大きな道標のようなものです。もちろんその道標もぼくと同様に絶えず動いているかもしれません。その道標が常に安全な位置にあるとも限りません。そちらへ進めば危険なことになるかもしれません。でもぼくは、宮崎駿の道を行きたいと思った。
今のぼくにとって、宮崎駿の道をゆくとは、彼の思想に従うということではありません。その作品に応答しづける感受性を保ち続ける意志を持つということです。
宮崎駿が本当に長編制作から引退すれば、彼の評価はいよいよ定まってくるでしょう。でもぼくにとって、彼が天才だろうがそうでなかろうが、人々から愛されようが煙たがられようが、作品の興行成績が良かろうが悪かろうが、そんなことは一切関係ありません。問題は、ぼくにとって彼がとても重要な人だということ。彼はこれまでのぼくの人生の中で極めて大きな位置を占めていました。そしてこれからも大きな位置を占め続けてほしいのです。
『風立ちぬ』は、随分と遠くにある道標です。でもだからこそ、ぼくは歩き出すことができる。そこまで行くんだ、きっと。
長編制作からの引退が公式発表されましたが、これまでも宮崎駿は何度も「引退」を口にしてきたと言われます。そのような発言の一つが『もののけ姫』の際に大きく報道されました。しかし結局これ以後も宮崎駿は作品を作り続けてきました。だから、今回の発言もそれと同じようなものだろうと考える人がいるかもしれません。でも、今回とこれまでとでは、事情が全然違う。今回は宮崎駿ではなく、ジブリの社長が公式にアナウンスしているからです。
もちろん、引退を宣言してもそれを撤回する可能性はありますから、今後絶対に宮崎駿が長編アニメーションを監督することがないとは言い切れませんが、しかし年齢のことを考えると、このまま本当に引退してしまう可能性の方がずっと高いと思います。とはいえ、引退するのはあくまで長編からであって、短編にはこれまで通り関わっていくのかもしれません。
いずれにしろ、これからぼくらはもう宮崎駿の新しい長編アニメーション映画を観ることができないかもしれないわけです。
このことについて、受け止め方は人それぞれだと思いますが、個人的には、あまり動揺しませんでした。そうなのかと、すんなり受け止めることができました。でも次第に彼の作品やその思想、人生へ思いを募らせてゆきました。
カリオストロからポニョまで、宮崎駿の監督作がぼくは好きでした。そのいずれをも讃える心がぼくにはありました。ところが、ポニョ公開以後、いつの間にかぼくは宮崎駿の作品にかつてほどの執着を見せなくなっていました。金曜ロードショー(show)で作品が放映されても、テレビにかじりつくようにして視聴することはなくなりました。というか、もう最近は視聴していないのです。理由は幾つか考えられますが、事実としてあるのは、関心が薄れてしまったということ。
『風立ちぬ』は、宮崎駿の監督作で唯一、ぼくの心に響きませんでした。ぼくはそのことを悲しく思いますが、しかし今回の引退発表を受けて、宿題をもらったのだな、と考え直しました。そして、『風立ちぬ』が心に響かなかったことを、むしろうれしく思うようにさえなったのです。
先に書いたように、ぼくは彼の引退発表を最初は軽く受け止めました。でもやがて彼について様々な感情が湧いてくるようになりました。宮崎駿のおよそ30年の監督生活を振り返ることは、自分の人生を振り返ることに等しい。もののけ姫が公開されたとき、自分はどのように感じたのだったか。千と千尋のとき、ハウルのときは?ラピュタを初めて観たときの印象はどうだったか。ああ、この人は自分の人生にとても大きなものを刻み付けていったんだな。そしてぼくはかつて、宮崎駿の道をゆくことを心に決めたのだったな。・・・
「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」。ユパは漫画版『ナウシカ』の最終巻でこう語ります。ぼくは宮崎駿の道をゆく。中学生のぼくにとって、それは彼の思想を受け継ぐという意味だったかもしれないし、彼の作品のメッセージに応答し続けるという意味だったかもしれない。ともかくぼくは、宮崎駿の思想に、作品に、才能に刺激を受け、彼を追い続けようと決心したのです。だからこそ、『風立ちぬ』にぼくの心が反応しなかったことに、ぼくは落ち込みました。中学生だったときからだいぶ月日が過ぎたにもかかわらず、当時の決心は当然のように覚えていて、いくら関心が薄れたと言っても、ぼくにとって宮崎駿が「憧れの対象」であり、「理想」であり、「偉大な先導者」であることには変わりなかったのです。
もしもぼくが『風立ちぬ』にこれまでと同じような感銘を受けていたとしたら、彼への関心を減らしている自分にとって、しかし彼への尊敬の念は持ち続けている自分にとって、今回の引退発表は、自分が宮崎駿から「卒業」するいい契機になっていたかもしれません。ずっと宮崎駿の監督作品にぼくの心は応答したぞ、よかったな、でもこれで終わりだ、監督ありがとう、と。
けれどもそうはならなかった。ぼくは『風立ちぬ』が響かなかった。だからぼくは、まだ宮崎駿から卒業できそうにありません。この作品が自分なりに理解できるまで、彼の後姿を追い続けなければなりません。これはぼくの宿題だ。でも今になって宿題を与えられたことが、とてもうれしい。人生の目標ができたような気さえします。
宮崎駿というのは、ぼくにとって、自分の立ち位置を測る大きな道標のようなものです。もちろんその道標もぼくと同様に絶えず動いているかもしれません。その道標が常に安全な位置にあるとも限りません。そちらへ進めば危険なことになるかもしれません。でもぼくは、宮崎駿の道を行きたいと思った。
今のぼくにとって、宮崎駿の道をゆくとは、彼の思想に従うということではありません。その作品に応答しづける感受性を保ち続ける意志を持つということです。
宮崎駿が本当に長編制作から引退すれば、彼の評価はいよいよ定まってくるでしょう。でもぼくにとって、彼が天才だろうがそうでなかろうが、人々から愛されようが煙たがられようが、作品の興行成績が良かろうが悪かろうが、そんなことは一切関係ありません。問題は、ぼくにとって彼がとても重要な人だということ。彼はこれまでのぼくの人生の中で極めて大きな位置を占めていました。そしてこれからも大きな位置を占め続けてほしいのです。
『風立ちぬ』は、随分と遠くにある道標です。でもだからこそ、ぼくは歩き出すことができる。そこまで行くんだ、きっと。