Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

リストカッターの詩

2013-09-10 16:37:25 | Weblog
コミティアに行ったとき、どうしても目に留まってしまった。そこにはたぶん『リストカッターの詩』という詩集が置かれていて、傍らには「私は、リストカッターではない」と題されたプリントが並べられていたのだと記憶している。ぼくはその半折にされたプリントだけをいただいて、その場を立ち去った。サークルの人はいかにも病んだ風の男性で、ぼくが言葉をかけてもニコリともしなかった。少し時間をおいてまたこのサークルを見に来たとき、そこには彼の隣に女性が座っていた。

帰宅してから「私は、リストカッターではない」を読んでみた。思いがけず、「私」は女性だった。サークル席にいた陰鬱そうな男性が書いたものだと思い込んでいた。もしかしたら、彼は「私」の「旦那」なのかもしれない。

「私」は、リストカットはしないらしい。ボディカットをするのだそうだ。理由は簡単だ。リストカットは人目に付くし、「私」が属しているらしい精神看護の世界では、リストカッターは人格障害者と見られるから。

「リストカッターというのは、見せたくて手首を切っている面もあるのだと思う」
「どうやら、リストカットというのは、依存症があるようなのだ」
「基本的には、リストカットは何らかのストレスによって行われることが多い」
「切るとすっきりしたり、人によっては、生きている実感が得られる、という人も居る」
「基本的に、リストカットでは、まず死なない」
「要するに、リストカットというのは、「辛いんだ、苦しいんだ」という表現の一つなのだろう」

全面的に同意したい。とりわけ「依存症がある」という指摘は正しいと思う。何年も前、ぼくは紛れもないリストカッターだったけれど、一度切ってしまうと止められなくなるというのは身に沁みて実感できる。なぜなら、「切るとすっきり」するから。「すっきり」することを知ってしまったから、もう止められない。いや、「すっきり」という言葉は弱過ぎる。「快楽」と言ってもいい。ぼくの経験では、リストカットというのは、人が感じられうる最大の快楽の一つだ。これほど甘美な瞬間は他にほとんど例がない気がする。刃物を手首に押し当てるときの緊張、ゆっくりとそれを横にずらしていくときの狂おしい熱中、切り終えたときの体中の弛緩、血が滲み出てくるのを見つめる歓喜。この一連の経験を通して、それまでの自分の苦悶が蒸発してゆくのをはっきりと自覚できる。今まで感じたことのないような幸福感に包まれる。

でもそれが「表現方法としては不適切」であることも十分に分かっている。それが分かり過ぎているから、ぼくはリストカットを止められたのかもしれない。最後に切ったのは今から7~8年前だ。今やもうぼくはリストカットをするような歳ではないし、まだ半袖の季節だからリストカットをしたくない。

まだ半袖の季節だからリストカットをしたくない。――ぼくは追い詰められている。これだというきっかけはないけれど、2~3日前に知らない番号から6件の不在着信があって以降、なんとなく精神状態を崩している。神経が参ってしまっている。久々に死にたくて堪らなくなっている。坂道を転げ落ちている恐怖、落ちぶれてしまった絶望、取り残された不安。昨夜布団の中で、自分がリストカットをする瞬間を何度も繰り返し想像してみた。試しに右手の爪で左の手首を引っ掻いてみた。たったそれだけでも、気持ちが少し楽になるのを感じた。もう一度やりたい。

リストカットは自殺行為ではない。ただ死を願う人はリストカットをしてしまう。甘えかもしれない。妥協かもしれない。自己満足かもしれない。自殺するほどの度胸はないけれど、自分はこんなにも苦しいのだと誰かに知ってほしくて、自身の体を傷つける。どうせなら、公衆の面前で喉笛を掻っ切って死ねればいいのに。ざまあみろと誰かを嘲笑しながら死ねればいいのに。お前らはおれ一人救うこともできないのか? それなのにどんな幸福がありうるっていうんだ。どんなに才能があっても社会に尽くしてもロシア語が堪能になっても本を出してもボランティアをしてもおれ一人救うこともできないのか? おれはお前らの十字架だ。

この十字架を背負って、全部の十字架を背負い込んで、生きてみろよ。