けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

丁寧な議論と乱暴な議論

2015-01-15 00:51:56 | 政治
政治や経済の問題を議論するとき、その問題の複雑な背景を丁寧に扱い、データに基づき正確な議論をする人と、真逆の乱暴な議論をする人がいる。今日は、既に周回遅れの議論となっているが、朝まで生テレビでの竹中平蔵氏の発言を引き合いにだしてコメントしてみたい。

まず、いつもの如く関係ない話題から入る。例えば、科学やエンジニアリングの世界では、ある現象に着目してそこから真実を引き出そうとするとき、その背景にあるメカニズムを簡単なモデルで表現することを試みる。そのモデルを出発点として様々な物理現象を説明するとき、観測される結果とモデルからの予測結果が一致するか否かでそのモデルの妥当性を議論する。そのモデルが妥当であれば、そのモデルの数学的な記述を出発点として、未知の更なる有益な情報を引き出すことが可能であったりする。ただ、多くの物理現象はやはり複雑な効果を伴うため、シンプルなモデルで全てを表現できる訳ではなく、ある部分まではそのモデルで実際の現象を説明できても、別の側面に関しては説明できない可能性もある。その様な時、ある人はひとつでも現実の現象に合致しない条件を見つけ出してそのモデルの妥当性を否定するかも知れないし、別のある人は、どの様な条件の時にそのモデルが有効であり、逆にどの様な条件が重なると有効でなくなるかを詳細に調査するかも知れない。その規則性が分かれば、そのモデルを最大限に活用し、様々な有益な技術を引き出すことが可能かも知れない。しかし、ひとつの失敗例から単純にそのモデルの妥当性を否定してしまうと、折角の有益な技術をみすみす棒に振ってしまうかも知れない。様々な可能性を丁寧に吟味し、複雑に入り組んだ様々な問題の背景にある真実を少しでも見出そうと努力するならば、そこに道は開けるかも知れない。

更に道を逸れるが、先日読んだある雑誌で、ある評論家がアベノミクスに関して変なコメントをしていた。(私の意訳であるが)その評論家曰く、「現在の経済は非常にグローバルであり、ある一国がその国だけに特化したときには完璧な経済政策を取っていたとしても、世界的な視点で見た時には逆に悪い経済政策であるという可能性がある。しかし逆に、その国に特化してみた時に無茶苦茶な政策を取っていたとしても、世界全体でみるとそれなりにプラスの効果を生じる結果に繋がるかも知れない。つまり、アベノミクスが出鱈目な政策であっても、安倍総理達が『アベノミクスは有益な政策だ!!』と言い続けられるチャンスがあり、それが現在の様に安倍総理が好き勝手なことを言う困った結果に繋がっている・・・」といった主張をしていた。しかし、パッと聞いただけで変な主張である。1年ほど前に株価がグングン上がっていた中、急に米国の金融緩和策の縮小やそれに伴う新興国リスクが高まり株価が一時的に暴落し、それを受けて「アベノミクス程、危うい政策はない!」と貶す人達がいた。しかし考えて欲しい。もし民主党政権下でこの様なことが起きていたら、タダでさえ不況で株価が低迷している中、更なる株の暴落に繋がりどうなっていたか分からない。アベノミクスのある程度の成功があったからこそ、あの程度の結果で済んでいた可能性は高い。世界経済の影響を受けての景気失速の責任を、全て安倍総理のせいにするのは筋違いである。つまり、グローバルな世界経済に不安定要素があったとしても、そこから日本の経済政策の是非を議論する際には、外的要因によるバイアスをキャンセルし、純粋な日本の政策の妥当性を議論するのが筋である。先の評論家の言葉を借りれば、アベノミクスがそれなりに妥当な政策であったとしても、安倍総理が嫌いな評論家に「アベノミクスは無茶苦茶な政策だ!!」と言い続けられるチャンスも同様に転がっているとも言える。しかし、先の評論家はその様な可能性を全く排除して、一方的に自分の主張が正しいと言っている。そのどちらの主張の方が妥当であるかを議論したいなら、ある一面で物事を単純化して判断するのではなく、複雑な現実を丁寧に精査しなければならない。

さて、ここからが本題である。

元旦の深夜から早朝にかけて放送された「朝まで生テレビ」の中で、(既に周回遅れの話題であるが)竹中平蔵氏が発言した内容な物議を醸しだしていた。BLOGOSの中で「竹中平蔵」のタグで検索すると、例えば下記の4件の様な記事がヒットする。

BLOGOS 2015年1月2日「竹中平蔵『正社員をなくしましょう』これが安倍政権が目指す新自由主義経済だ(宮武嶺)
BLOGOS 2015年1月5日「竹中平蔵氏に欠けている左右のイデオロギーに関係ない大切な資質〜『木走日記』が竹中平蔵氏に政治を語ってほしくない理由
BLOGOS 2015年1月6日「竹中平蔵氏の『正社員をなくしましょう』はどんな流れで発せられたか?(文字起こし)(弁護士ドットコム)
BLOGOS 2015年1月8日「話題沸騰『正社員制度をなくしたらどうなるか問題』を、ファイナンス論的に考えてみた。- 本田康博(Sharescafe ONLINE)

事の発端は、正社員と非正規社員の問題を議論している最中、「同一労働(同一価値)同一賃金」の原則に話題が移り、竹中氏もその原則には大いに賛成しながらも、しかし実際に同一労働同一賃金を実現しようとするとそれはハードルが高く、敢えて実現するならば尤も実現可能性が高いアプローチのひとつとして「正社員と非正規社員を同一化する」という選択肢を示し、民主党の辻元氏に対して「同一労働・同一賃金と言うんだったら、『正社員をなくしましょう』って、やっぱり、あなた、言わなきゃいけない」と迫った。つまり、机上の空論を振り回していても仕方なく、強硬に同一労働同一賃金と言うならば、「正社員をなくしましょう」という覚悟があるのか・・・と辻元氏をたしなめた発言である。この辺は3つ目の弁護士ドットコムの記事に事実関係として記されている。また、竹中氏の直接意図することではないが、滅茶苦茶噛み砕いて意訳しまくった解説記事が4件目の記事である。

ただ、先の2件ははっきり言って酷い記事で、単なるボヤキと言って良い。1件目の記事の途中には下記の様な記載がある。

「そして、せめて竹中氏のような、小泉『改革』によって、日本の失われた10年を生み出したような戦犯くらいは、2度とテレビに出られないくらいにお仕置きできるようになりたいものです。」

世界的に日本の不良債権問題が失われた10年と呼ばれて深刻に受け止められている中、その不良債権処理を一気に短期間で実行したのは竹中氏であり(大局的にはそれを支えた小泉氏であり)、これは世界中で評価されている事実である。多分、竹中氏を悪く言うのは日本国内だけであろう。にも拘らず、既に失われた10年が経過していたにもかかわらず、そこから日本の失われた10年が始まるかの様な言い方で、戦犯呼ばわりする。しかも、本当に問題があるのなら議論で相手を論破すれば良いのだが、私の知る限り、竹中氏がテレビで討論して論破されたところは見たことがない。大抵は論理的に相手を言い負かし、相手が止むを得なく議論を煙に巻くための「話題を逸らす」戦略に出て、収拾がつかなくなるケースがほとんどである。だから、彼の様な人は竹中氏がテレビに出るのを嫌うのだろう。

また二つ目の記事にしても、竹中氏の経済政策はともかくとして、「経済弱者に対する無慈悲な論考」が酷いと主張して「政治を語って欲しくない」としている。しかし、竹中氏も繰り返しっ主張している話だが、弱者救済には二つのアプローチがあり、ひとつは富の再分配で富める者から貧しい者への富の移動であり、もう一つは経済成長に伴う国民全体の富の増大である。民主党政権は実質的には経済成長を否定(ないしは成長を半ば諦める)する立場から今あるパイをより多くの人が喜ぶように再分配をしようという制度であったが、結果的に経済が失速することを許容していたがために、失業者が増え生活保護が増大した。働かずに生活保護でそれなりの生活をしている人は良いが、働きまくって生活保護より貧しい生活を余儀なくされるワーキングプアが生じた。全体のパイを増やさずに、これらのワーキングプアの救済のため最低所得の補償などしようものなら、更に多くの赤字国債で借金を増やさなければならない。超円高政策を取り、ドル建てで見れば日本の資産は増大したようにも見えるが、高い法人税や円高に不安定なエネルギー供給など、国内の産業が海外に逃げ出し空洞化を起こした。気が付けば、当初の予定よりも遥かに速いペースで、全体のパイが縮小し、景気が減退した。年金運用の財源の株価は底を突き、財政破たんを起こす年金基金も増えた。弱者救済とは耳触りは良いが、実際には自分の手をチューチューしゃぶって食べているスルメ烏賊の様なものである。つまり、選択肢は経済成長に伴う国民全体の富の増大しか残されておらず、その全体のパイの拡大の政策と共にセーフティネットを如何に張り、成経済長の果実を味わうことの出来ない者に、如何にその恩恵を味あわせるかを合わせて考えることが必要である。その議論は経済成長の部分とセーフティネットの部分とを分けて議論する必要があり、どちらかと言えば竹中氏は経済成長の部分を中心に責任を担っているのである。過剰に弱者だけに気を取られていては、思い切った経済成長政策は取れないのである。

さて、少し話を戻してみたい。竹中氏の「正社員と非正規社員を同一化」の意味を今一つ考えてみたい。

まず、上記の記事には記載がないが、朝生の議論の前半の方で宋文洲氏が面白いことを言っていた。アメリカなど海外では、従業員と企業の間では「契約書」を交わすのが普通であるが、日本では一般的にはその様な契約書がないという。私もその様な契約書を交わした記憶がないが、多分、学生が企業に就職の応募をする段階で学生側は企業の採用条件に合意したものと見なされ、企業から採用通知が送られればその時点で契約が成立したような状況になっているのだろう。自分の就職時を思い出しても正確な記憶がないので、多分そんなもんだったのだろうと思う。しかし、これを聞いた出演者がテレビのフレームの外でぼやく声が多数拾われていた。曰く、「そんなこたぁーない。契約書があるから派遣労働者のことを『契約社員』とよぶのではないか・・・」。実はこれが的を得た答えであり、日本では有期の期間限定で雇用する場合には、解雇などで煩わしい問題が発生しないよう、「契約書」で解雇すべき期限を明確にする契約書を交わす。しかし、終身雇用が前提の日本では、この期間を明記する必要がないため、明示的な契約書がなかったりするのである。勿論、それなりの書類にサインをしたりはするのだろうが、本人たちが「契約書」と意識する様な明確な労働条件や賃金の条件などを明記したものにはなっていない。海外で契約書を交わす背景には、所謂「年俸制」の様に「どれだけのことをすれば、どれだけの報酬を払う」という明確な条件を明確にし、後で裁判沙汰にならない様に防御線を張っているのだが、一方では当人のモチベーションを高め、その成果に対する責任の所在も明確にしている。上述の本田氏のご指摘に明確にあるように、「正社員制度のキモは、『終身雇用オプション』と『正社員を好きなだけ働かせられるオプション』、それから『団体契約』です。」という本質がある。これは明らかに海外の「契約」の概念からは大きく外れたものであり、これらの「オプション」と団体契約部分を外すと海外の「契約」に近づく。言い換えれば、これらの「オプション」と団体契約部分を外すと、「非正規社員」と呼ばれる「契約社員」の「契約」に近づくのである。この本田氏のご指摘は真っ当であり、是非ともご一読をお勧めする。そして、これが竹中氏の言うところの「正社員と非正規社員を同一化」の意味である。

ただ、この様なラディカルな改革を民主党や共産党などは決して好まない。それは「正社員」の地位を得ている6割方の有権者の反発を恐れるからである。つまり、「弱い者の味方」の振りをしたいから、耳触りの良い事ばかりを言っていて、本質を議論していない。例えば、先の本田氏の記事の中では正社員を非正規と同一化した結果を以下の様に整理している。

==================
■「正社員採用」取引をキャンセルするとどうなるか
(・・・中略・・・)
現状と比較した場合の変化の方向を矢印で表すと、概ね次のようになります。
若年または優秀な正社員↑↑   優秀でない中高年の正社員↓↓
優秀な非正規社員↑↑↑      その他の非正規社員↑↑
失業者↑↑↑↑            ブラック企業の元社員↑↑↑(転職による)
企業→(短期)↑↑(長期)      ブラック企業↓↓↓↓↓
社会全体としては、格差是正の絶大な効果により経済状況は短期的にも長期的にも上向くでしょう。
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例えば「優秀な非正規社員」「その他の非正規社員」「失業者」に属する所謂弱者を「正社員と非正規社員を同一化」することで「同一労働(同一価値)・同一賃金」を実現し、結果的に彼らを大幅に救済することが可能であるが、この場合には価値以上の対価を受け取っていた「優秀でない中高年の正社員」が大幅に損をすることになる。民主党や共産党は既得権益者の彼らの反発が怖いから、決してこの様な政策を好まない。「企業」だけが泣いてくれればそれでいいじゃないか・・・という発想である。しかし、企業が儲からなくて会社の成長はない。新規の投資も期待できないし、親成長分野での技術革新も期待できない。これでは社員は不幸になるだけである。

また、番組中、田原総一郎氏が例示していたが、田原氏がテレビ局に入社した頃、テレビや新聞には多くのアルバイトが働いていた。安く人材を確保するためだが、3年以上働いたそれらの人が正社員を希望したとき、裁判を起こすとことごとく新聞社などは敗訴し、正社員として受け入れなくてはならなくなった。そこで、3年もアルバイトを継続的に雇うことを止め、1年で首を切ることにした。それでも裁判で負ける恐れが出ると、今度は派遣社員を使うようになった。つまり、社会正義として弱者の権利を守ろうとすると、それに対する抜け道・逃げ道を相手は探すから、結果として弱者の権利はより失われる結果に繋がっている。だから、本気で「結果」を求めるなら、短絡的な耳触りの良いことを訴えるのではなく、もっと本質的な改善を目指すのか、逆に企業に逃げ込む余地を残しながら、その妥協点の様なものが結果的に弱者の首を絞めない様にするのが現実的な解となり得るのである。

以上、長々と書いてきたが、政権政党として責任ある立場にない人は、耳触りの良い無責任な短絡的な議論を好む。しかし、議論が雑になると、生産的な議論には繋がらない。あくまでも丁寧な議論が必要であり、誰かを貶める為に取ってつけたような議論は最悪である。

竹中氏の発言は少々勇気がいる発言だと思うが、4つ目の記事の本田氏の様な議論を呼び起こすことに繋がったことを考えれば、それなりに意味のある問題提起であると感じた。日本に求められるのは、この様な論客である。それを忘れてはいけない。

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