けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

元朝日新聞記者、植村氏の記者会見に思う

2015-01-14 01:13:41 | 政治
先日、元朝日新聞記者の植村隆氏が外国特派員協会で記者会見を行った件についてコメントしたい。

まず最初に大前提について触れておくが、いかなる理由があるにせよ、誰かに対して匿名で脅迫行為を行うことは許されるべきではなく、この様な輩がいるから「まっとうな議論」が「愚劣な議論」とレッテル張りされてしまう訳で、単なる自己満足・鬱憤晴らしがその人たちの本来の主張の足を引っ張り首を絞めていることを自覚すべきである。

さて、植村氏の記者会見の内容は例えば下記の記事に詳細が書かれているのでここでは敢えて触れない。

Blogos 2015年1月9日「【全文】『私は捏造記者ではありません。不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。』〜慰安婦問題で元朝日新聞記者の植村隆氏が会見

言うまでもなく、「私は被害者」の一点張りで、この記者会見の趣旨は「言論の自由を否定する者との戦い」と位置付けているようである。ちなみに、本来、この会見では下記の池田信夫氏の記事の様なポイントをしつこく議論すべきであったが、残念ながら全体は植村氏を糾弾する側よりも、植村氏を擁護する側の勢力が支配的で、この様な議論が出来る土壌はなかったようである。

アゴラ2014年12月11日「『強制連行』をでっち上げたのは植村隆ではない

こちらの記事を読めば、植村氏の行為は全体の中では「雑魚」の部類で、全体のストーリーを書いたのはもう少し上層部で、上手く組織(朝日新聞)に利用された側かも知れない。勿論、彼の責任は重大であり、その責任を問われて然るべきなのだが、既に時間も経過していたりして不明瞭なことが多く、状況証拠的には完全にアウトでも、本人が口を割らない限り決定的な物的証拠を見つけることは困難である。植村氏はその様な事情を利用し、肝心なことには「知らぬ、存ぜぬ、忘れました」と繰り返し、決定的な尻尾をつかませようとはしない。多分、国会の証人喚問に召致しても、同様の言い訳を繰り返すのは目に見えている。中々、難しい状況である。

さて、ここからが本題である。

まず、植村氏がこのタイミングで記者会見を開いたのには二つの理由があると思われる。ひとつは植村氏を糾弾する勢力に対する戦いとして、彼の支援者などが協力して文藝春秋や東京基督教大教授の西岡力氏などを裁判で訴えたこと、更にその後も様々な裁判闘争を繰り広げることを宣言し、逆の意味で自己に対立する勢力に対し「力で恫喝する」戦略を声高に世間に訴えることである。そしてもう一つは、フランスの「シャルリー・エブド襲撃事件」の報道を悪用し、自らがフランスで殺された被害者と同じ側の人間と主張することで、論理的な議論をすっ飛ばして、短絡的に自らへの同情票を集めようと思ったからであろう。具体的な時系列は不明だから推測でしかないが、裁判闘争の記者会見の準備をしていた最中に格好の事件が起きたので、慌ててそこに便乗したのだろう。実際、記者会見でも冒頭でフランスのシャルリー・エブド襲撃事件を引用し、更には朝日新聞阪神支局襲撃事件まで引合いに出し、自分も一歩間違えば殺されかねない・・・というニュアンスを必死で醸し出していた。しかし、彼の置かれている立場とフランスの事件は全く別物で、彼は自分の身の潔白を示したければ産経新聞や彼に批判的な主張をする者の取材を受け、真摯にそのひとつひとつに答えれば良いのである。しかし、実際には彼は自らに批判的なメディアの取材を避け、同情的なメディアだけを選択して取材に答えているから、彼は本質的に問題の解決を目指すのではなく、なし崩し的に力で相手をねじ伏せればそれで良いという判断であることが伺い知れる。

ところで、シャルリー・エブド襲撃事件については最近は少し議論が発散する傾向にある。ベースとしてあるのは、あのテロのことを「言論の自由への挑戦」と位置付けるもので、「言論の自由はいかなる理由があるにせよ、守られるべきである」というシンプルな主張である。これには私も賛同する。しかし、一方で「言論の自由は何処まで保証されるべきか?」という議論もある。ヨーロッパでは、長い歴史の中で宗教が個人の自由を制約していた経緯があり、「言論の自由」と「宗教からの自由」は表裏一体の真理と見なされている。その議論(戦い)の中では多くの犠牲者も見られ、例えば「天動説」の様な真理でさえも宗教的には許容できない「邪悪な説」と位置付けられ、コペルニクスやガリレオの主張は受け入れられなかった。科学的な真理ですら支配しようとする宗教的価値観に疑問を持つ人たちが長い時間をかけて行った改革の成果で、現在、我々は様々な多様な価値観を相互に尊重可能となっている。

これはキリスト教の世界で起きた出来事であるが、しかし、イスラム教の世界ではその様な宗教的改革はなされていない。昨日のテレ朝の報道ステーションでも何処かの有識者が語っていたが、イスラム教の世界では「ムハンマドがいたから今の私がある」という価値観があり、ムハンマドを茶化すメディアはムハンマドと自らの存在を否定するものであり、それは「レイシストのヘイトスピーチと同類」の野蛮な行為であるとイスラム教の人々は認識すると解説していた。日本でもヘイトスピーチに関する対立の構図はマスコミの間にも登場する。マスコミがレイシストと呼ぶ在特会と、そのヘイトスピーチへのカウンター側の勢力がしばしば衝突する。過去に私のブログでも思想家?の東浩紀氏の記事を紹介したが、言っていることは在特会の方が問題だが、行動自体はこのカウンター勢力の方が遥かに暴力的である。しかし多くのマスコミは何故かその暴力には目を瞑り、メディアはこれに結構好意的な報道を行ったりする。「背景にある信念が正しいのだから、その主張の仕方が少々野蛮でも許容範囲」だと黙認しているように見える。「両者とも問題あり」という評価には至らないらしい。日本ですらこの様な発想が自然なのだから、敬虔なイスラム教信者であれば(それ程の過激派的な集団でなくても)自分たちを否定してかかる集団(例えばシャルリー・エブドなど)に対するカウンター勢力が暴力的な報復を行っても「共感」を覚えてもおかしくはない。それすら、彼らにとっては「言論の自由」の範疇だという理解なのかも知れない。

勿論、多くの人々はシャルリー・エブド襲撃事件の犯人を許しはしないだろうが、しかし、だからと言って多くのイスラム教徒がシャルリー・エブドを称賛したりもしない。つまり、「神の前ですら自由と平等という欧米の価値観」は、「アッラーの他に神なし」というイスラム教の価値観に対して極めて「不寛容」であり、そもそもこの「不寛容性」は是か非か?という問いとなって返ってくる。欧米的な価値観では答えははっきりしているが、イスラム教徒にとっては相いれる物ではなく、世界はたったひとつの価値観では動いていないという典型的な例と言えよう。

この辺の事情に対するフェアな論評が、どうやらニューヨークタイムズに掲載されているらしい。

地政学を英国で学んだ(奥山真司)2015年1月13日「私はシャルリー・エブドではない

ニューヨークタイムズ紙の保守論客のディヴィッド・ブルックス氏が書いた記事では、世界はシャルリー・エブド誌のテロ被害者を言論の自由の「殉教者」としてあがめるようであるが、彼らの下品な表現手法は例えばアメリカの大学キャンパス内で出版しようとしたら、「ヘイトスピーチ」として非難されてもおかしくはないもので、その意味で彼らもまた上述の様に対立する意見を持つ者に対して不寛容な存在であることを知るべきであるという。だから、偽善的に「私はシャルリー・エブドだ」と主張するのは不適切で、実際、多くの人は他者の宗教を嘲笑うことを良しとはしない。この記事には指摘していないが、どうやらシャルリー・エブド紙は事件後の最新号の表紙で、ムハンマドが「私はシャルリー」との標語が書かれた紙を手にした絵柄を表紙に掲載するらしい。

産経ニュース 2015年1月14日「ムハンマドが『私はシャルリー』…仏週刊紙、事件後も風刺画掲載へ 仏軍、全土に1万人展開

これは言いたいことは分かるが、イスラム教過激派への挑戦状的な挑発であるのは間違いなく、下品さを否定できない。ディヴィッド・ブルックス氏などはこの様な下品さを指摘しての「私はシャルリー・エブドではない」とのコメントなのだと思う。
面白いのはそれに続く記載で、人は歳と共に現実がより複雑なものであることを自覚する様になり、他者に寛容にもなれるようになるという。他者の言い分も聞く耳を持ち、対立した意見にもある種の尊敬の念を抱けるようになるという。一方で、風刺家や嘲笑家たちは問題の所在を時として指摘し、原理主義者の馬鹿らしさも暴いてくれる。心地良いばかりではないが、必要悪的にこの様なスピーチへの規制はあってはならず、結論としては「われわれに法律的には攻撃的な声には寛容ながら、社会的にはそれを許さないような姿勢が大切であることを思い起こさせるべきなのだ」としている。

ただ現実の世界に立ち戻れば、中々、対立した価値観の対立の和解は簡単なものではない。植村氏や朝日新聞の主義主張も同様で、まさに相容れない価値観の対立の様に見える。例えば、我々が長い歴史の中で勝ち取ってきた「証拠に基づく議論の原則」に対し、裏付け可能な証拠に基づかない「抽象的な弱者救済の観点からの議論」は相容れないだろう。しかし、植村氏の言葉に騙されて相容れない価値観の対立の様に感じてしまったが、冷静になって考えてみれば、宗教的価値観の様な「どうしようもない対立」に比べたら、少なくとも日本国内での慰安婦問題の対立は、もう少しは対処可能な対立のはずである。もう少し言えば、相手が韓国や中国となると、既に宗教論争に近いものがあり、多分、解決は不可能だろうが、少なくとも日本国内での対立が決着しなければ韓国相手に問題解決など図れるはずはないから、まずは国内の議論をもう少しは丁寧に行うべきであろう。

先にも述べたとおり、既に植村氏の責任追及は余程彼がポカでもしない限り厳しい状況にある。であれば、我々としては彼の様な元朝日新聞記者に謝罪させることを第1の目的とするよりも、日本国内だからこそ成り立つ可能性のある議論にエネルギーを集中させるべきである。例えば、朝日新聞は慰安婦問題の「広義の強制性」を問題にするが、朝日新聞社長に「狭義の強制性」の有無に対する認識と、その認識の根拠を明確にするように求めればよい。「広義の強制性」の問題に関しては、勿論、自らの意思に反して不幸な経験をした女性がいる事実を争うのではなく、その事象が法的に日韓請求権協定で未解決の問題(これから補償問題を議論すべき問題、更にはアジア女性基金でも解決しえない問題)であるかを、法的な視点で議論をすればよい。女性の人権問題も同様で、戦時中の殺人行為までを含むはずの日韓請求権協定で未解決というのであれば、その法的根拠を明確にしてもらえれば良い。勿論議論はそんな単純ではないが、議論の仕方次第ではまだ議論が噛みあうチャンスだけは残されていると思う。

植村氏などの記者会見を見れば、どうも彼は宗教論争に持ち込み議論を煙に巻きたいようであるが、我々は世界を相手に宗教の教義の正しさを議論しようとせずに、まじはあくまでも国内限定で冷静に議論できる領域を探していくべきだろう。

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