けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

極悪非道の桃太郎と朝日新聞の関係

2014-08-08 11:41:42 | 政治
昨日のブログで朝日新聞の誤報訂正&検証記事についてコメントした。それと前後して話題になっているのは、例えば自民党の石破幹事長によるコメントのようなものだ。

毎日新聞2014年8月5日「慰安婦問題:朝日記事巡る自民・石破幹事長の一問一答
毎日新聞2014年8月6日「慰安婦問題:国会での朝日記事検証…何を検証するのか

朝日新聞の誤報が最近の日韓関係の極端な悪化の主要な原因なのだから、今後の類似の事案の再発防止も含めて「国会による報道の検証の必要性」を石破氏は訴えている訳である。

確かに、この問題は諸刃の刃でリスクも伴う。常識的に考えれば、一般人が国会に招致されようものなら、その発言のひとつひとつが全国の国民の注目の対象となり、誤ったことを言えば袋叩きにされるという恐怖を感じるに違いない。だから、細かな問題があるたびに報道関係者を招致していたら、それは「報道の自由」を制限することにつながる。この様な視点から、一般論としては「報道の自由」の錦の御旗のもとで、国会招致は許されるものではないというのは私も賛成するところだ。だから毎日新聞の下段の記事は十分に理解できる。

ただ、この記事にある「本来、報道の内容には、報道機関自身が責任を持つべきだ」との主張に対して私は聞いてみたい。「報道機関が責任を持つ」というのであれば、今回の朝日新聞のケースでは「朝日新聞は責任を持って何をすべきなのか?」ということを・・・。通常、何か問題を起こして誰かに迷惑をかけたら、第1に「原状回復」のための措置を行うのが原理原則である。福島第一の様に完全な原状復帰が不可能なケースでも、日本政府は除染のための努力を行っている訳で、慰安婦問題も不可能だなどと言わずに誤報に起因した問題の拗れを認識し、原状復帰の努力位を最低限見せてもらえば「報道機関が責任を持つ」との言葉に信憑性が産まれる。しかし、実際の朝日新聞の行為はその真逆で、「誤報にしらを切りとおせなくなったから誤報は認めるが、その誤報が生んだ影響が何処までかも検証せず、何故ここまで訂正が遅れたかも検証せず、『誤報が誤報であろうがなかろうが、結果は同じ』と短絡的に決めつけて逃げおうす」というのが責任の取り方というなら、それは自分の首を自分で締めているようなものだ。表現の自由や思想・信条の自由などは当然の権利ではあるが、その権利を今後も継続して守るためには、権利に伴う最低限の義務を伴う。今回の朝日新聞のケースは、その権利を主張して義務を果たさない部分が問題となり、今後も報道機関が「自主的に義務を守ろう!」という行動に繋がるようにするためには、朝日新聞に対して何らかのペナルティがあって然るべきである。それを(罪の重さが深刻で責任が重大なA級戦犯であることには違いないが)下っ端の記者を国会に招致するというのではなく、今回の記事の責任者の編集局長であり、下記の総括を行っている杉浦信之氏(ないしは朝日新聞社社
長)を朝日新聞の代表として国会に招致し、朝日新聞の問題点を正せば良いと思う。

朝日新聞DIGITAL 2014年8月5日「慰安婦問題の本質 直視を

もともと朝日新聞の立場は、報道の自由のあるはずのNHKですら会長が何度も国会に招致され、ケチョンケチョンのバッシングを受けて「当然」と考えているのだから、自ら非があるなら自ら進んで国会に乗り込んで来れば良い話である。NHKという特殊性はあったとしても、NHKは記者会見で繰り返し繰り返し挑発しつづける記者の発言に応えたささやかな不適切な発言が国会で何度も繰り返し吊し上げられるのに、何十年もかけて2国間関係をズタズタにして修復不可能にした歴史的大誤報の責任に対する国会招致は拒否して当然という主張は理解しがたい。

さて、ここで話を少し変えてみたい。下記の記事を読んで頂きたい。

JIBURi.com 2013年10月25日「ボクのおとうさんは、ボランティアというやつに殺されました。

この記事は、国際協力のボランティアで発展途上局で活躍をしている著者が、見方に寄っては本人の望まないことを押し付けて、結果として現地の人を不幸にしてはいまいか・・・という自問自答をする記事である。例えば、貧しい生活を抜け出すためには「お金を稼げる農産物」の生産が有効だが、それまでは自分たちが生きるために食べるための食物である穀物を生産していたが、ボランティア連中が野菜を積極的に作れと指導したがために、これまでの生活が大きく変わり、言ってみればライフワークバランスが崩れる事態と過剰労働状態を強いることになったという。著者は確かにより幸福になるためには避けて通れない道なのだろうが、何故、現状のままではいけないのかとの問いには答えがなく、自問自答の葛藤状態にあるという告白をしている。ここで引用している話の中に、極悪非道の桃太郎が心優しい鬼を退治する話がある。我々の知る桃太郎は「正義の見方」であるが、それは「鬼が極悪非道である」ことを前提とするから成り立つ話である。仮に鬼が心優しい人であったらどうだろうか・・・。人の評価は真逆になる可能性をはらんでいるのである。勝者が歴史を塗り替えるのが常識の世界で、勝った桃太郎が負けた鬼を「極悪非道」呼ばわりするのは当然だが、第三者からすれば真実は紙一重で、立場が変わると全く異なる評価に繋がる可能性があるのである。だからこそこの記事の著者は、誰が見ても「正義」と思える様なボランティア活動に対しても自問自答しているのである。

ここでのテーマは、「だったら辞めればいいじゃん」という話ではなく、「正義」と「悪」は表裏一体であり、自分は「正義」だと信じて行う行動であっても、ひょっとしたらそれは別の立場の人にとって「極悪非道」の行動かも知れないというきわどさを、人の生活に影響を与えうる立場の人は、常に意識して、自問自答しながら他人の言葉にも謙虚に耳を傾けなければならないというお話である。

話が逸れてしまったが、朝日新聞の慰安婦報道の世紀の大誤報はこの様な「正義」を気取った「極悪非道」の行動だと多くの人が思い始めている。勿論、この「多くの人」がどの程度であるかは定量的には分からないが、今回の記事で朝日新聞も吉見義明氏も認める「(多くの人が血眼になって探しても)朝鮮半島では強制連行を裏付ける証拠が存在しない」という事実を知った上で、「慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたこと」を理由に、世界中で日本だけがバッシングを受けることの正当性を問うたなら、「それって、おかしくない?」と感じる人は8割を超えるのではないかと予想する。さらに言えば、「本人の意に反して日本兵の相手をさせられた韓国人女性」の救済は重要だが、「同様の慰安婦だった日本人女性」の人権救済、ないしは「借金のかたで、現在、望まずして風俗嬢に身を落としている、(今行動すれば救えるかも知れない)現在進行形の被害者である女性」の人権救済には全く興味を示さず、一言も言及がないような「自称・人権派」の行動に「正義を感じるか?」と問えば、多分、9割の人が「裏に政治的な意図を感じる」と答えるであろう。

つまり、「正義」と「極悪非道」が表裏一体の現実の中で、非常にきわどい「正義」を訴えていたところ、致命的な瑕疵が見つかったので仕方がないので議論をすり替えて有耶無耶にしようというのは明らかに「正義に反する行為」である。しかし、朝日新聞の杉浦信之氏の上記の責任記事からは、その様な「正義に反する行為」を開き直って続けている姿がうかがえる。国会招致も正義と悪が紙一重の行動かも知れないが、「正義」の仮面をかぶった「悪」の行為が引き続くなら、何処かで大きな決断が必要なのかも知れない。

今回の一件はその様な紙一重の難しさを感じさせる一件であった。

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