けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

例え話をしよう!!

2019-08-04 09:25:28 | 政治
例え話をしよう。
ここには二つのケースがある。あなたなら、それぞれのケースにどの様な評価を行うだろうか?

これらは、どちらも地方の弱小銀行のお話である。弱小銀行は経営破綻が囁かれ、多くの銀行・禿鷹ファンドが狙っている状況である。

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【ケース1】
国内屈指の某大銀行は、その財力を駆使してその弱小銀行を吸収合併する。弱小銀行の経営者は経営権を奪われ、その社員も長年慣れ親しんだ銀行名を失うことになる。しかし、旧経営陣も含めて彼らの雇用は守られ、大銀行の福利厚生制度や様々な恩恵を享受できる状態になる。給料体型は大銀行の高給そのままとはならず若干の差別は残るが、旧弱小銀行時代より業績が大幅に改善したために、給料が上がり社員の暮らしは大幅に改善する。当初は弱小銀行系社員は簡単には出世できなかったが、徐々に課長、部長クラスの人材を排出するようになる。しかし、どこの世の中にも不満を口にする人はいて、中には「自分を育てた銀行の名前が消えてしまった」、「経営に一言も口を挟めなくなったのは屈辱だ」という人もいないわけではない。ただ、生活の改善度が目覚ましかったため、気がつけば旧弱小銀行系の社員の中で吸収合併した大銀行を悪く言う人は少なくなっていった。

【ケース2】
ケース1の国内屈指の大銀行が吸収合併する前に、外資系の禿鷹ファンドが一瞬の隙をついてその財力に物言わせて弱小銀行の株を買い漁り、2/3以上の株式を確保することに成功する。禿鷹ファンドは株主として弱小銀行の行動に何から何まで口出しをして自在に操るが、経営権は元々の経営陣に委ねたままである。当然、銀行名も元のままだが、禿鷹ファンドは株主として声高に声をあげ、弱小銀行が持つ資産を次々に売却させ、その売却益を株主(禿鷹ファンド)に還元させる。禿鷹ファンドは、株の購入に要した資金を遥かに越える売却益を得てぼろ儲けだが、弱小銀行は骨と皮だけになり、社員への給料もままならない。みるみるうちに、社員の大半はリストラされ、気がつけば経営陣と僅かな社員だけが残る。弱小銀行の名は残り、経営陣も退陣せずに済んだが、社員たちは地獄に突き落とされることになった。それでも、経営陣は「我々の尊厳だけは守り通した」と胸を張る。
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この様なふたつのストーリーを見てどう感じるだろうか?

私の感覚では、当然、ケース1の方がベターなストーリーだと思うが、中にはケース1を最悪と罵る人がいる。彼らにとっては、銀行として(会社として)の尊厳を保てる(正確には、わずかばかりでも延命できること)の方が重要なのだろう。「名より実をとる」のではなく、「実より名をとる」方が重要なのだと・・・。しかし、それは僅かな延命策でしかない。タイミングを逃せば、ケース2のストーリーが待っている。ケース1を非難する人はケース2を望んでいるのだろうか?

冷静に考えてみよう。買収を仕掛ける側に立てば、どちらが得かと言えば明らかにケース2の方だろう。国内の大銀行がケース1の行動をとらなくても、放っておけば外資系の禿鷹ファンドは普通にケース2の行動をとる。少なくとも、このストーリの時代には、それが常識だった。国内の巨大銀行が行動に起こすか、外資系禿鷹ファンドが行動に移すかの違いで、何れにしても、地方の弱小銀行がケース1の状態を回避すれば、ケース2の様にペンペン草も生えないほどにむしりとられる運命にあるのは間違いない。

なお、このケース1のストーリーには続編がある。巨大銀行が吸収合併した際の社員達には吸収合併したことを悪く言う人は少なかったが、その孫の世代になると雲行きが怪しくなる。とにかく「大企業=極悪」の思い込みの激しい思想の偏った人が「巨大銀行は極悪非道だった」と一大キャンペーンを張りだした。よくよく調べてみると、そのキャンペーンを仕掛けた人たちは、その巨大銀行に対し何故か敵意をもった人たちであった。責める方も責められる方も、その時代に生きていた人ではない。その時代に本当は巨大銀行がどの様な行動をとり、その弱小銀行の経営状態がどの様なもので、その社員の生活がどれほどだったかを定量的且つファクトベースで議論するのに必要な知識を持った人たちではない。ただ、あくまでも扇動的に煽りまくる人々の言葉を鵜呑みにしているだけである。

やがてマスコミもその騒動を記事にするようになるが、彼らのスタンスは「弱者に寄り添う」である。巨大銀行が「強者」なら、自動的に「強者」と対立するものを「弱者」と位置づけ、盲目的に巨大銀行を責めることになる。いつしか、マスコミの中には根拠のない誹謗中傷を平気で書くメディアも出てきた。

業を煮やした大銀行はついに法的措置に踏み切る。メディア上には、あからさまな誹謗中傷が躍っているので、裁判での証拠としては十分である。裁判で膨大な賠償請求が追わせられることにやっと気が付いたメディアは、紙上で「裁判に訴えるなど悪意に満ちている!」と書きなぐり狼狽する。この頃になって、新聞の読者は「記事が真実なら、裁判で正々堂々と戦えば勝てるのに・・・」と思い、狼狽するメディアに「なんかおかしくない?」と気づくことになる。

・・・
以上、ここに書いたお話は単なるたとえ話である。まさか、実際の世の中でこの様な展開になることはないだろう。というか、ならないことを私は信じている。しかし、えてして予想外の展開というのは何処の世界にもあるものである。そのような時に、その状況をファクトベースで精査し、本来、どう判断すべきかを自分自身の頭の中で整理すべきである。その「頭の中の整理」を訳の分からん活動家やマスメディアに任せてはいけないのである。

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