けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

対立軸を単純化することの重要性

2013-11-01 01:25:01 | 政治
名前を呼ぶのもおぞましいポピュリズムを極めた某政治家が、こともあろうに天皇陛下に田中正造を気取って園遊会の場で手紙を手渡すという無礼な行為が行われた。幸いにも天皇陛下はそれを見ることなしに侍従長に渡したので、「直訴」という点では失敗したのかも知れないが、ある種のひとつの象徴的な出来事の様に思える。今日はこの問題を出発点にして議論してみたい。

さて今日の事件であるが、(一部では同様のことを指摘している方もいるようだが)ある種、命がけの直訴の田中正造氏と、お気楽な場でのお遊びでの直訴とでは訳が違う。田中正造氏の時代には、(当時の天皇は「神」であったから)国民的にも国家的にもその非礼さは筆舌を尽くしがたいものと受け止められたのだろうが、明治天皇が国家の最高責任者だったから天皇の持つ強大な政治力を活用しようという意味で向かうべきベクトルとしては間違っていなかったし、明治天皇がご存知ではないであろう秘密の暴露(足尾銅山の鉱毒事件の詳細)をするのだから、通常では拉致のあかない問題を一気に解決する「一発逆転」を狙った奇策として評価すべきだろう。常識的には、「国賊もの」として打ち首になってもおかしくなさそうなことをするのだから、その命を張った行動も市民の共感を得ることが出来るだろう。

しかし、今回のケースは真逆である。向かうべきベクトルの方向と全く逆方向に突っ走った形である。まず第一に、原発関連の報道は腐るほど世間に溢れているから、多分、(手紙に書かれていたであろう)子供や現場作業員にかかわる問題などは一度は聞いたはずであろう。勿論、誇大妄想の怖い怖い詐欺の常習犯だから、客観的なデータに基づく精度の高い情報ではなく、怖い怖い詐欺的な表現になっていたであろうことも予想できる。ただ、その様な怖い怖い詐欺も巷には溢れているから、被災地のことを常にご心配されて様々な行動をされている天皇皇后両陛下の耳には入っているのだろう。だから、直訴の手紙を仮に読んだとしても、新しい事実の暴露など何もなかったはずである。これでは直訴の意味がない。

にもかかわらず、ここで直訴することに何らかの有益な価値があると信じていたのなら、その有益である可能性はふたつに限られ、ひとつは「天皇陛下のお力で、彼の政治信条が何らかの形で前進する」という狙い、もうひとつは「天皇陛下を利用した政治パフォーマンス」である。しかし言うまでもないことであるが、日本国憲法第4条にあるように「国政に関する権能を有しない」はずの天皇陛下が政治的な活動を行うことは出来ないし、第7条で規定されている天皇陛下に許されている行為の中にも、原発という極めて政治的な内容にひとつの方向性を示すような発言を公の場で発することは許されていない。私は法律家ではないので細かいロジックは分からないが、これらの憲法の条文の行間から天皇陛下の政治利用は許されていないと言われるので、先の前者の意図を持っていたのであれば、国会議員でありながら憲法違反をしていることになる。彼が記者会見で言っている様に、「この行動の何処が天皇の政治利用なんだ!」というのはその意味では本心であり、単なる「天皇陛下を利用した政治パフォーマンス」ということなのだろう。「ただ、天皇陛下に知って頂きたかっただけ」と言い訳をするかも知れないが、例えば何らかの罪の冤罪で逮捕された時、愛する人に「あなただけには、本当の真実を知って貰いたかった・・・」と心より願うことはあるかも知れないが、彼にとって天皇陛下はその様な存在ではない。以前より左翼集団と行動を共にしていることが知られているが、左翼とは天皇制を否定するものだから、天皇陛下を心より愛して止まないなどというシナリオは有り得ない。自己矛盾である。

この意味では、「政治パフォーマンス」での「天皇陛下の政治利用」であるから、やはり憲法違反とツッコミを入れたくなるところであるが、彼にとっては天皇陛下でも安倍総理でも朴槿恵でもオバマ大統領でも、誰でも良かったのだろうからそのツッコミは横においておこう。

ただ、この様な「政治パフォーマンス」が行われる背景には、民主主義の限界が背景にはあるはずである。アメリカでの政府機関の閉鎖やデフォルト危機なども、共和党内のティーパーティを背景とする政治家が、一種の「政治パフォーマンス」的に行ったオバマ政権に対して行った反乱が事態を泥沼化させた。昨日のブログでも、韓国は人の足を引っ張っても「恥ずかしいこと」とは感じないという事実を紹介したが、無茶苦茶な政治パフォーマンスが本来は有権者からネガティブな評価を受けなければならないはずだが、現在は韓国に留まらず、アメリカでも日本でも、ある一部の人たちにとってはネガティブな評価どころか思いっきりポジティブな評価へと繋がっているようだ。

この現象は何が原因かと言えば、それは国民の思想的な偏りの分布が昔と今とでは大分変化してきているのではないかという仮説を私は抱いている。もう少し具体的に言えば、以前であれば、左翼と右翼が存在し、1次元のx軸上にその右左翼度を示すとすれば、y軸上にその分布確率密度の様なものを表した時に、中央に高いピークを持ち、両端に行くにしたがって指数関数的に減少して「正規分布」的な振る舞いを示していたのではないかと思う。と言うのも、東西冷戦(ないしは資本主義と共産主義でも良い)という分かり易い1次元的な対立軸があったから、所属するグループ(例えば国籍)が異なれば別の分布を示すにしても、同一グループであれば正規分布に近い形を示していたのだと思う。しかし、現在は対立軸が複雑化し、1次元の軸上では単純に語れないような背景から、適当な1次元軸を設定するとその軸上で正規分布とは異なる二つ以上の大きなピークが出来てしまい、そのピークにチューンした発言をすると、国政の場で多数派を取ることは不可能でも、一定の票を集めることが可能な状態になってきているのだろう。しかも、ピークが多数存在すると、ひとつの政党への支持が分散し、捻じれ現象を生みやすい土壌を作ってしまう。捻じれ現象がひとたび起こると、少数派と思われた小さなピークに属する人たちが、結果的にキャスティングボードを握ってしまう可能性が高まり、それを恐れてアメリカのデフォルト危機の様なものが生まれてしまった。

アメリカに比べれば日本はまだましだとは思うが、それでもクレイジーな政治家が当選できるような制度であるが故、今回の様な「さらなる過激な政治パフォーマンス」のモチベーションが湧いてくるのである。以前のブログ「民主主義の限界」では、韓国の民主主義の特異性を語り、日本における教育の重要性を説いてきたが、単に教育だけで済む話ではなさそうだ。ある程度複雑になってしまった現状であるが、これをもう少し議論を整理し、より少ない対立軸に落とし込んでいく作業というものが必要なのかも知れない。そんなことが可能なのかと心配にはなるが、大きな視点で見た国益(ナショナリストの戦略的な意味ではなく、もっと一般的な意味での国民の幸せの総量の様な概念)を最大化することを軸とした大局的な議論が必要なのだろう。そのためには、枝葉の部分に対しては、もっと鈍感になる努力も必要かも知れない。

少々抽象的な話で分かり難いが、非常に残念な事態に今日は不愉快この上ない状況である。

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