鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

連載中の「ぷらっとウオーク」などをまとめました。

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・我が家のスキーと登山の思い出 ④

2018-04-15 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

我が家のスキーと登山の思い出 ④     

                                                                          高知ファンクラブ、No.191,4 (2018)

バードウオッチング

 最初は、国土地理院の五万分の一の地図上に、自分の歩いた経路に、赤い線を引くことを、最大の目的とし、楽しみとする登山だった。高山植物など有名なものは別として、そこに普通にある樹木や山野草や菌類、その山に生息する動物などに、特別の興味や関心を持つことはなかった。

 札幌に住んでからすぐに、ちえ子が「バードウオッチングの会」に入会した。8倍の双眼鏡を首から下げて、仲間と頻繁に出掛けるようになっていた。これだけ多くの登山経験にも関らず、全く知らないことも多い。知らなくても、良く聞けば沢山の心当たりがある。ちえ子の話を補強する話題はたくさん持っていた。誘われて私も双眼鏡を求め、会のイベントに参加するようになっていた。その時はリーダーにぴったりと付いて歩くのが常だった。鳥だけではなく、生き物の兆候を直ぐに知ることができるし、質問や疑問のチャンスも増えるからである。そして、足跡、糞、ペリットなどから、動物を想定できるようになっていた。

 木の先端に止まり、ツーピーと縄張り宣言をしている鳥を、人に示すことは容易である。しかし、小枝の一つに止まっている鳥を探すのは大変である。鳥の居る場所を人に教えることも、居る場所を教わることも大変である。自分で探すしか方法はないのである。漠然と眺めている視野の中に、黒い動きを感じて、その先を見れば鳥が止まっているのである。流れ星の観察と似ている。焦点を定めずに、視野を全体に広げて待つ態度である。

 「結婚して以来、あなたの趣味に全て引き込まれて来たのよ。登山も、スキーも、テニスも。今度は私の開拓した趣味に引き込んだつもりだったのに、もう横取りしてしまって」とちえ子が嘆くようになるのに、多くの時間は不要だった。短時間で鳥や、獣の気配を感じる名人になっていた。

 高知に住んだことで、「森ときのこを愛する会」に入会し、様々なきのこで山盛りのきのこ鍋を楽しんでいる。これだけ沢山の登山をしたのに、何も見ていなかったことを悔やんでいる。

2001年のゴールデンウイークは

元日には、猪野沢温泉の今戸さんが、大勢集まる正月の渓鬼荘の席に呼んでくださった。6日の夕方には、車庫の梁に七草粥が依光美代子のお名前付きで吊るしてあった。きのこの会で親しくさせて頂いている。2月の休日には、山田の駅前通りの美容院の尾立さんご夫妻の誘いで、剣山の手前の次郎笈まで登った。その夕方には駅前で反省会が開かれた。とても楽しい一日であった。樹木診断の講習会で知り合った南国市八京の湯浅さんが、近くの梅林を案内して下さり、そして奥様の手作りの昼食を頂いた。

 「森ときのこを愛する会」のイベントには、きのこ鍋が美味しいので、積極的に参加している。「森の音楽会」での企画も順調に進んでいるおり、この一年間のスケジュールを決めることができた。高知工科大学の新設に際して、林業関連の県の公設研究機関が物部川の対岸に移転した。それに併設されたのが、県民の地域活動を支援する役割を持たせたのが「森の情報交流館」である。これの有効活用の一事例として「森の音楽会」を企画したのである。                                  

昨年暮れに(2001年12月16日)家内のちえ子を失った私を、皆さんが、地域の方々が心配して下さっていることが良く判る。でも、集まりが楽しければ楽しいほど、電気の付いていない暗い我が家に、誰も居ない部屋に帰り着いても、寂しさが倍増してくる。

 連休後半の明日(5月3日)は、きのこを愛する会の仲間たちと伊予富士に登り、木の香温泉で汗を流し、一泊してコツ酒を飲む予定である。朝6時20分に近くに住む斉藤さんが我が家にピックアップに来てくれる。先ほどまで降っていた土砂降りは終わっている。明日は良い天気に。

 山は霧雨、登山は中止。林道をドライブ。早めに木の香温泉へ。駐車場の隅にコンロを設営して、イワナ・アメゴ焼き。夕食後に、これを浸したコツ酒を試飲。翌日は稲叢山に登山、満開のあけぼのツツジを胆嚢できた。

 5日(土)は11;00にお迎えがあり、猪野沢温泉へ。渓鬼荘で織物作家の山田裕司さんを励ます会に出席。夕方には門馬義雄先生のお宅へ。奥様の手料理をご馳走になった。

 6日(日)が残っているのが大助かりであった。のんびりと過ごせた連休最後の日だった。

クロスカントリー・スキー

 我々が札幌に住むようになって、クロスカントリーの仲間達がやって来た。裏磐梯・国民休暇村、日光高徳牧場などを選び、皆でクロスカントリーを楽しむグループである。今年は札幌を選んだ。大倉山シャンツェで開かれるシーズン最後のジャンプ大会の観戦から始まる。全員、ジャンプの実際を見るのは初めてである。

 皆で昼食を済ましてから、ビルの谷間にある中島公園へ向かう。無料の貸し出しスキーがあるからである。次の日は、我が家近くの真駒内公園でスキーの後、我が家でちえ子の手料理で歓談、三日目はすずらん公園でクロスカントリー・スキーを楽しんだ。ジャンプとクロカン・スキーの複合競技を楽しんだのである。

註:この部分は「クロカン・スキー」として(情報プラットフォーム、No.225、6 (2006))に掲載したものの要約である。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・我が家のスキーと登山の思い出 ③

2018-04-15 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

我が家のスキーと登山の思い出 ③     

                                                                                 高知ファンクラブ、No.190,3 (2018)

槍ヶ岳、初めての登山

本格的な登山にちえ子を誘ったのは、夏山シーズンも終わりに近い9月初頭の北アルプ

スである。裏銀座である。上高地から大滝山へ。大滝小屋はその季節にしては混み合っていた上に、夜半からはトイレに行くのも怖い大荒れの天気になっていた。翌朝は風雨も収まったが、蝶が岳から常念岳への縦走中は、視界が全く利かなかった。彼女のペースに合わせてゆっくりと歩く。槍ヶ岳の頂上がこの辺に見える筈と、見上げるような位置を指さすと「そんなに高いの。嘘だ」と半信半疑のちえ子である。

 突然、霧に動きが出て来る。指さした先に、槍ヶ岳の黒い山肌がチョット見え、また隠れる。やがて全貌が見えて来た。感動的だった。「あなたが自慢することではないでしょ」と言われながらも、あれが穂高、槍の隣は南岳と、興奮気味に説明をする。

大天井岳の山小屋が今日の目的地である。翌朝は快晴であるが、夜半に降った雪がうっすらと山全体を覆っている。昨日の山なってと今日の山は全くの別物である。慎重に雪の上に足跡を残しながら、縦走を続け燕岳から下山。その日は中房温泉でゆっくりと体を休めた。これ以来、ちえ子は山の魅力の虜になってしまったようである。最初の山行で、辛い目に遭うこともなく、山の気象の大部分を経験できたと言っても良い山行だった。

何度でも富士山、何度でも

「一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」の諺があるが、富士山には、ほぼ3年に1度の割で

4回も登っている。富士登山を経験した留学生が卒業してしまうと、また、新しく入学して来た留学生達を中心として、鈴木研究室の学生を富士登山に誘っていた。韓国や中国を始めとする20人に近い留学生を、一度は登る「利口」にした勘定になっている。帰国した留学生達は日本の最高峰・富士山に登ったことを自慢にしている。国外でも、大いに羨ましがられ、尊敬されていると聞く。ちえ子と子供達は、異なるルートで、2度も富士登山に付き合って呉れた。

尾瀬ヶ原の山小屋

 「夕食の時にはスカートが要るでしょう。着替えはどうなるのかな」と準備に一生懸命である。「日数分だけの下着を持って行き、毎日着替える気なの。濡れた下着を持ち歩くことになるよ。登山のときに着替えは予備の下着の一組だけで十分。それに何故、登山にスカートが要るの」と反対する。家族4人で尾瀬に行く前日である。

 我々山仲間では、「荷物は可能な限り軽く、しかし必要なものはすべて持っている」を原則としている。複数の機能を持つ道具や衣服を工夫し、その出来映えをテントの中で自慢するのが、そしてそれを称賛する、賛美するのがしきたりであった。安全な登山のあるべき姿を創り出す原動力となればと思っている。

 至仏山に登り,尾瀬ヶ原を横切り、山小屋に着いた。「今晩、4人、お願いします」に対して、小屋の主は我々を上から下まで眺めて「あんた達、至仏山に登ってきただろう。靴の泥を落として入って」と言われて吃驚した。ここは山小屋なのに。

 夕食時間になり、食堂に出て見入ると、雰囲気はホテルのレストランである。女性の大部分がロングスカートで、登山のままのスタイルは、我々だけである。「貴方の登山はもう時代遅れになっているのが判らなの」と責められた。立派な浴室があり、トイレは水洗に変わっていた。今から20年も前の話である。現時点ではどうなっているだろうか。

最上階からの眺め、札幌と高知

高知に来る前に、3年間住んだ札幌での住まいは、地下鉄の自衛隊前駅の道路を隔てた駅前だった。次は終点の真駒内である。我が家の真下は、雪まつりの時の第2会場になる自衛隊真駒内基地である。駅から坂道の多い賃貸住宅は避けることにした。最上階の10階だったので、360度の展望が可能である。ここから見える山を全て登ろうと決心した。

 藻岩山はルートを変えて何回も登った。その時、山続きの硬石山にも登って来た、札幌岳、空沼岳、恵庭岳、樽前山とその横に並ぶ風不死岳にも登った。さらに北側の窓から遠くに見える暑寒別の山々にも行った。また、家からは見えないが大雪山系の旭岳や十勝岳にも、そして利尻富士にも登った。ちえ子も2、3の山を除いて一緒だった。

余談になるが、九州、屋久島の宮之浦岳の登山は、数回も試みたが何れも豪雨に遭遇し、引き返している。「一年に400日、雨が降る」と言われる原則を体験したのである。

 高知でも、最初は市内のマンションの最上階の11階に住んだ。南に竹林寺のある五台山と浦戸湾を挿んでの筆山、北には北山スカイラインが見える。もちろん北山は縦走した。登るべきは、四国の背中の山々である。千本山、剣山、次郎笈、三嶺、御在所山、矢筈山、梶が森、奥工石山、大座礼山、寒風山、伊予富士、稲叢山、横倉山、鶴松森、天狗高原などに登った。私にとって、剣山は深田久弥の選んだ日本百名山の中の60番目の山となった。

 新旧の地層が混ざり合い、植物の種類の豊富な横倉山は牧野富太郎の研究フィールドだった。横倉山も、その登山口にある「自然の森博物館」にも、何度も行った。大座礼山の尾根筋にある巨木のブナ林には感激した。登るにつれて照葉樹林から落葉樹林帯に変わるのが西日本の山の特徴と言える。稲叢山のあけぼのつつじが見事だった。

 鶴松森は四万十川の源流であるが、もう一つの源流、自然林の不入山にも行く必要がある。

吉野川の源流の瓶ケ森、そして四国最高峰の石鎚山にはぜひとも行く必要がある。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )

 


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・高知ファンクラブに掲載 2017年~

2018-04-15 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・高知ファンクラブに掲載 2018年~

No.188 高知ファンクラブ,1(2018)・・・ 我が家のスキーと登山の思い出①

No.189 高知ファンクラブ,2(2018)・・・我が家のスキーと登山の思い出②

No.190 高知ファンクラブ,3(2018)・・・我が家のスキーと登山の思い出 ③ 

No.191 高知ファンクラブ,4(2018)・・・我が家のスキーと登山の思い出 ④ 

  

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・高知ファンクラブに掲載 2017年~

No.176,高知ファンクラブ,1(2017)・・・物部川流域から新春のお慶びを申し上げます

No.177,高知ファンクラブ,2(2017)・・・土佐の高知にありがとう(Ⅶ)、故郷 

No.178,高知ファンクラブ,3(2017)・・・土佐の高知にありがとう(Ⅷ)、道草

No.179,高知ファンクラブ,4(2017)・・・土佐の高知にありがとう(Ⅸ)、白い犬

No.180,高知ファンクラブ,5(2017)・・・土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号

No.181高知ファンクラブ,6(2017)・・・土佐の高知にありがとう(Ⅺ)、住まい 

No.182高知ファンクラブ,7(2017)・・・土佐の高知にありがとう(Ⅻ)、三角屋根

No.183高知ファンクラブ,8(2017)・・・ちびっこ島木彫館のオープンまで(1/2)

No.184高知ファンクラブ,9(2017)・・・ ちびっこ島木彫館のオープンまで(2/2)

No.185高知ファンクラブ,10(2017)・・・(ふわっと’92) 25周年記念、羽田行?(1/3)

No.186高知ファンクラブ,11(2017)・・・(ふわっと’92)25周年記念、パーティー(2/3) 

No.187高知ファンクラブ,12(2017)・・・(ふわっと”92)25周年記念、酒と桜(3/3) 

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・我が家のスキーと登山の思い出②

2018-03-25 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

我が家のスキーと登山の思い出②

                                                                               高知ファンクラブ、No.189、2(2018)

鳥海山と「お見合い」

 ようやくギブスが取れた5月中旬に、「お見合い」の話が持ち上がった。まだまだ結婚する気はなかったのだが、怪我の所為で少し気が弱くなっていたらしい。お見合いの場所は青山通り、でもかき氷の旗が出ている団子屋さんである。この時、ちえ子さんは東京女子大学を卒業し、すぐに名古屋の金城学院中学に就職し、英語を教えていた。両親の居る東京を離れて、縁もゆかりもない名古屋に赴任するとは、勇気のある、変わった女の子だなと思った。

 鳥海山に向かったのは3月上旬である。いつもの山仲間の2人と一緒である。羽越本線の吹浦駅で降りて山と反対側の海に向かった。登山靴を海水で濡らすためである。海抜ゼロから2236mまでの登山である。無人の営林署の小屋に一泊する。快晴の翌朝、スキーを横に乗せたザックを肩に、快調に頂上を目指す。この山域に居るのは我々3人だけである。頂上では何時ものように、握手をして「ありがとう」を交換する。山が許してくれたから、この仲間と巡り合えて一緒に協力したから、頂上に立てたのだの思いがこの握手には込められている。「山を征服した」は我々の感覚ではない。

 雪質の変化するところで、足を取られ不覚にも転倒した。捻挫したと思った。これからの降りが思いやられるな、片足加重の斜滑降だけで降りられるだろうかなどと、咄嗟に考えた。雪の消えるところまで来て、先に降りた仲間が呼んでくれたタクシーで駅に向かう。夜行列車で上野に戻り、母に電話を掛けて、病院に直行。くるぶしの骨折だった。仲間は返す刀でもう一山と言って途中下車して行った。

 「あの時、足を折らなかったら、まだ結婚する気になっていなかっただろうね。あなたとの出会いもなかったと思うよ」と言うような話をすると、ちえ子は「そんなこと言う必要のないことでしょう」と不機嫌になっていた。

ツエルマットからのマッターホルン

 金属間化合物の国際会議がスイスのヌシャテルで開かれた。会議に出席する前にツエルマットで3泊した。快晴の中、ゆったりとスキーを楽しむことができた。マッターホルンを背にしての滑りは最高である。尾根の向こうのイタリア側へ滑り込みたい衝動に駆られる。ゲレンデからも、街角の家々の間からも、ホテルの窓からも、見上げるような位置にマッターホルンが見える。ちえ子は「何処に行っても付いてくる。私達を見張っているようで、気に入らないね」と贅沢なことを言っている。私は10年ほど前にここに来ているが、見ることが出来なかったのである。

 料金を乗った回数で割って、1日券の元を取ったかを確かめる。スイスのスキー場、ツエルマットで3日券を購入した。スイス・フランをドルへ、ドルを円に換算、それを乗った回数で割るような暗算は、すぐにはできない。

 100人が定員のロープウェイに乗る。乗客が首から下げている搭乗券のほとんどが、写真付きで週単位が多い。有効期間3日以上にでは顔写真が必要になる。豪華な3日間のリフト券の筈であったのだが。ゲレンデの中のプチホテル前を滑り過ぎると、「あの年配のご夫婦はさっきからデッキチェアに座ったままだよ」とちえ子が気にしている。「あの夫婦は割り算などしないだろう」と答える。

 国際会議の受付を済ますと、旧知のアメリカ人研究者が声を掛けてきた。「スイスに何時来ましたか」、「ツエルマットやグリンデルワルトのスキー場はどうでしたか」と矢継ぎ早の質問攻めである。「スキーヤーのほとんどは1週間、2週間など、週単位の搭乗券が多いので吃驚しました」に対して、「その連中の違いに気が付きましたか」とジョークを思いついた顔つきで攻めてくる。「1週間はドイツ人、2週間はアメリカ人、3週間はフランス人だよ」と来る。「日本人は3日だね」とお返しをする。でも、ゲレンデで出会った日本人スキーヤーは「3日も滑るのですか。羨ましいな」と言っていたのである。

スキー学科卒の葉子

 採用試験の解禁日が近づく頃、「大手町や丸の内のオフィス街のと非yか敷いていたOLになりたいのだったら、どこが良いか言ってご覧。恥を忍んで大手の企業に頼みに行っても良いよ」と娘に尋ねた。「ありがとう。でも、スキーのインストラクターなりたいの」が彼女の答えだった。

葉子は甲子園に応援に行けるような高校が良いといって、桜美林高校を選んだ。入学した年の夏に西東京代表になったのである。桜美林大学に進学したが、専門はスキー学部スキー学科であり、クラブ活動が英米文学科だったと言った方が適切に思われる。「パパの教えてくれたスキーは全部インチキだよ」が初めてのスキー合宿から帰って来た時の報告であった。おむつが取れる前には肩車で滑り、その後は股の間に挟んで滑ったのである。

志賀高原や裏磐梯猫魔でのSIA(日本スキー教師連盟)のスキースクールでの冬の生活が始まった。「全くの季節労働者だね」と冷やかしていた。ちえ子と2人でスキーを担いで仕事ぶりを見に行ったものである。

偶然ではあるが、ちえ子の母の従兄弟の天野誠一さんがSIAの会長だった。「そんな偉い人が親戚に居るなど信じられない」が葉子の口癖であった。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・我が家のスキーと登山の思い出①

2018-03-25 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

我が家のスキーと登山の思い出①

                                                                            高知ファンクラブ、No.188,1(2018)

 スキーと登山に熱中していた若き時代の物語である。新妻を始めとして、息子と娘、研究室の学生達を、夏は登山、冬はスキーツアーに誘い込んだ。

雪の裏磐梯

 スキーリフトを降りると、ちえ子は上で私を待っている。ここでもそれなりの景色が楽しめるが、長靴やスノーブーツで来ている大勢の観光客はここ止まりである。リフトを降りた場所から山の向こう側は見ることはできない。ストックを押しながら目の前の小高い丘を登る。5分程で丘の頂上に出れば、志賀高原の360度の展望が開けている。「あの人達、この景色が見られないのね。スキーができて良かったな」と感激している。「あなたの趣味に強引に引き込まれた」と常々言っているちえ子だが、スキーに引き込んだことを感謝しているのだと思える瞬間だった。

 結婚式を挙げたのは3月21日である。ちえ子は3年間クラス担任として面倒を見た生徒達の卒業式を終えて、名古屋から東京に戻って来たのである。新婚旅行は誰も行かないところを条件にして、会津・裏磐梯を選んだ。当時は、この季節ならば宮崎や鹿児島と相場が決まっていた。「特急ばんだい」のグリーン車は私たちの専用車両だった。新しくモダンな裏磐梯高原ホテルでは特別室に泊まることができたのである。

 五色沼巡りを深い雪に長靴を取られながら楽しんだ。ゲレンデでは、最初はソリ遊びだったが、新妻にとっては、初めてのスキーに誘ってしまったのである。シーズンも終わりに近く、人影も疎らなゲレンデではあるが、ずいぶん無茶なことをしたと思っている。

ヘリコプターでの積丹岳

4月半ばから一か月間、土曜と日曜ごとに、積丹岳のヘリコプター・スキーがある。定員は30人である。申込のメンバーは、朝夫・ちえ子、娘(葉子)と婿、それに北大の寺田君の5人である。娘夫婦はスキー・インストラクターのプロ(SIA)である。

国道脇のドライブインが集合場所で、ヘリの出発点でもある。快晴の空に10人程を乗せ

て山腹を這うように飛び、山頂から一段下がった平らな場所に着陸する。山頂までは雪上車が何回でも運んでくれる。先に滑り降りて、戻って来る雪上車を待つ。下に一段滑り降りれば、もう一台の雪上車が上段に戻して呉れる。標高が高いのでターンする度にスキーのテールから雪煙が上がる最高の雪質である。参加者の皆はさすがに上手である。昼食はコンロを埋め込んだ雪のテーブルに、段ボールを敷いた雪のベンチでのジンギスカン料理である。ビールがないのが残念である。

 パウダースノーを満喫した午後3時、「自信のない人から順次下山を始めて下さい」と告げられる。心配性のちえ子に促されて下山を始めた。追い越していく人が沢山いる。標高が下がるに従って、重たい雪に変わっていく。ゲレンデのようには滑れない雪質である。ちえ子はボーゲンが得意で、スキーツアーの経験も豊富である。転んでいる人々を尻目に優雅にゆっくりと滑っている。雪の消えたところにマイクロバスが待っている。「奥さん、お上手ですね」と一旦は追い越されたが、結局は後で追い越してきた人に言われている。

家族スキーは池の平

 中野和和夫先生のご家族4人と我が家の4人で池の平へスキーに行くのが恒例になっていた。国家公務員共済が定宿である。国道18号線を北へ、2台の車が連れ立って走っていた。このスキー旅行は10年以上に亘って続いたのである。先生の弟さんご一家の3人とお会いするのは、この時、年1回だけである。

 妙高山の西面にある杉の沢ゲレンデから、南面の池の平スキー場までのツアーを計画した。全員が2台に分乗してツアーの出発点に。全員を降ろして2台で戻り、1台を池の平の宿に置き、1台で杉の沢に再度向かう。合流した後、リフトで頂上に向かい、全員でツアーの開始である。池の平に戻って来たら、2人で車を取りに向かう段取りである。沢山ある懐かしい思い出の一つである。

 中野先生は東工大山岳部の、私がワンダーフォーゲル部の顧問をしている。それぞれが学生時代からの山男である。中野さんの奥様がどの様に考えていたか不明であるが、「私はあなたの趣味に強引に引き込まれた」とちえ子は良く言っていた。

 帰りは決まって大渋滞に引っ掛かった。上田、軽井沢を過ぎ、安中あたりから最悪になる。娘たちは車の窓からの走り書きのビラでの意思の疎通を楽しんでいた。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・(ふわっと”92)25周年記念、酒と桜(3/3)

2017-12-10 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

(ふわっと”92)25周年記念、酒と桜(3/3)   

                                                                                 高知ファンクラブ、No.187,12(2017)

 今回、高知龍馬空港で、そして羽田空港で便を待つのは久しぶりである。月に平均3回ほどは空港に来ていたが、神経変性疾患(パーキンソン症候群)を発症してからは多くの公的な仕事を辞退させて頂き、この3年間、ほとんど県外に出ることがなくなっていた。高知空港では必ずと言っても良いほど知り合いの方にお会いしていたが、今回は搭乗者の中に知り合いは一人も現れなかった。リタイアした人も多くなったのではと想像した。帰りの羽田空港では有り余るほどの時間を、マイレージクラブのラウンジで一枝と二人でゆっくりと過ごしていた。離発着する航空機をガラス越しにぼんやりと眺めていた。車椅子での大旅行が無事に終ろうとしていた。

ラウンジの入口近くのボックスに日和崎三郎さんを見付けて吃驚した。彼は日和崎ホールディングス株式会社の社長さんである。しかも座席が5Kで、私たちの5H、5Jの隣の窓側である。二度目の吃驚である。不思議な因縁を感じる出来事である。今回の宇宙旅にも似た旅を、一大決心の旅を、締めくくるに最も相応しい出会いであると感じながら、日和崎さんとの最初の出会いを思い出していたのである。

高知工科大学を退職し、高知県産業振興センターでプロジェクト・マネージャーとして地域振興に関わろうとしていたときである。「地方の中小企業でも、宇宙のこと、そして国際宇宙ステーション利用を考えても良いらしい。何か我々でできるものはないだろうか」と日和崎さんが「地域宇宙利用推進」の要綱を携えて、産業振興センターを訪ねてきたのが出会いの発端である。私の机の後ろの壁には毛利衛宇宙飛行士と並んでいる私達の写真が飾ってあったのである。(註6)

「直ぐに役に立つことを前提にしては、アイデアは出ないこと、遊びごころで、楽しみながら、夢を追うことでなければ」と私の持論を述べたのである。(註3) そして、2002年10月10月に高知県宇宙利用推進研究会(会長;鈴木朝夫、幹事;日和崎三郎)が発足し、ニックネームを「てんくろうの会(天喰郎の会)」としたのである。多岐にわたる活動に対応するために幾つかの分科会を設けた。

先行したのは「ノアの箱舟構想(微生物宇宙旅行計画)」であった。先ずは、高知の代表として土佐酒の酵母菌が主役に抜擢された。技術的な検討はそれとして、県内の18の蔵元の一体化、「土佐宇宙酒」の商標登録の先取り、ロシアとの交渉・契約、風評被害の予防・克服のような付随的な問題解決が急務であり、これらが「転苦労」の始まりである。(註6)

宇宙から帰還した酒造好適米の種籾は輸入と見なされ、植物検疫上から持ち込みが不可能であるとの指摘を受けたのである。助命の努力も空しく密封のガラス管を煮沸しなければならなかった。査読のクレームは「文章中に出て来る人名が多すぎる」であった。全6頁に記した人数は40名を越えていたのである。我々の回答は「この研究の重点は『ビジネスモデルの構築』であり、更に1名を追加したい」としたのである。酵母菌などを含む高知の方舟を搭載したソユーズは、2005年10月1日にバイコヌール基地から打ち上げられ、10月11日に地球に帰還した。2回目の実験は2006年3月に行われた。2006年4月、各蔵元から一斉に土佐宇宙酒が売り出された。(註6),(註7)

 有人宇宙システムの長谷川洋一さんが、桜の話を持って高知に現れたのは2008年4月である。北海道から沖縄までの巨樹・古木の桜を探していた。高知からの候補は樹齢600年とされる仁淀川町桜地区のひょうたん桜であった。高知の桜ならば、植物学の牧野富太郎にゆかりの桜が欲しいと感じていた。それが佐川町尾川地区の稚木の桜である。花が咲くまでに実生から始まって普通は4~5年は掛かるところ、この桜は1年目から花を咲かせるとのことである。宇宙桜で一番先に開花することを売りとしたのである。打ち上げは、2008年11月15日であるが、若田光一さんを迎えに行くエンデバーの打ち上げが遅れに遅れ、帰還は2009年3月となり、桜の種の宇宙滞在期間は8ヶ月半にもなった。(註8),(註9)  

 牧野富太郎の俳句 ”櫻花 朝日に匂い 咲きにけり”(五七五)に、付け句 (七七)を加えて短歌にする企画に応募した。一例を披露する。(註10)

    櫻花 朝日に匂い 咲きにけり/土佐の宇宙酒 ただよい香る   富太郎/朝夫、  

ついでに、高知と宇宙に関わる名句を一つ。

  好きなもの イチゴコーヒー 花美人 ふところ手して 宇宙見物  寺田寅彦

牧野富太郎も寺田寅彦もともに、理系・文系の区別なく、凡てに好奇心一杯である。(註10)  

 本当に不思議な二日間の旅である。25年前の「ふわっと”92」に始まり、12年前の土佐の宇宙酒や9年前の高知の宇宙桜を創り出した二日間の旅である。高知行の機内の入口付近の座席で、搭乗して来る人々をぼんやりと眺めていた。その中に、黒岩世履さんがいた。彼は物部川こども祭実行委員会事務局長であり、物部川流域のアンパンマン・ミュージアムの丘に高知からの2種類の宇宙桜の記念植樹に立ち会ってくれたのである。(註11)

 宇宙桜の種を拾った小学生たちの顔写真とサインの縮小コピーが種と一緒に宇宙に行ったが、今では大学生の年齢である。100年後、300年後にこれらの桜がここにある物語を創り出すことを約束していたが、まだ出来ていない。(香山)リカちゃんと初音ミクちゃんが協力したと言ったようなお話はどうかと、一枝が押して呉れる車椅子の上で考えていた。

註6 ;{土佐宇宙酒と『てんくろう学』~ビジネスモデルの構築~}、上東治彦、竹村彰夫、広田豊一、松井隆、日和崎三郎、受田浩之、鈴木朝夫、日本航空宇宙学会誌、Vol.55,No.646,11(2007)、p296-301.

註7;{土佐の宇宙酒}、情報プラットフォーム、No.218、11(2005);{夢}、同、No.232、1(2007)

註8;{花伝説・宙へ!}、同、No.265,10(2009)

註9;{花伝説・宙へ!(宇宙を旅した桜たち)}、長谷川洋一著、ランダムハウス講談社、12(2009)、p48 、p100、p162

註10 ;{付け句に、宙(そら)、酒、桜}、情報プラットフォーム、No.334,7(2015)

註11;{森のこども祭、いつ、どこで}、同、No.331,4(2015);{森のこども祭、どのように}、同、No.332,5(2015)

 

{後から来るもの突き落せ}

この句の前に来るものは、「お山の大将おれ一人」である。西城八十作詞の童謡の出だしであるが、「お山の大将」は子供の遊びでもある。アメリカ合衆国の歴史はまさにこの歌詞のようであると言っても過言ではない。この様な「遊び?」は今も続いている。

 15世紀末の1492年、コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いたのである。今のドミニカ共和国と推定されている。地球を想定できても、アメリカ大陸を知らなければ、西回りで黄金の国ジパングに、あるいはインドに到着と考えても無理はない。アメリカ先住民をインディアンと名付けたのである。

 16世紀に入ると、北米、中南米の探検の時代が始まる。そして、1565年にスペインがフロリダに植民地を建設した。

17世紀は植民地建設の世紀となる。例を挙げてみる。1607年にイギリスがヴァージニアに、1610年にスペインがサンタフェに植民地を建設した。1682年

 

 アフリカ大陸から黒人が労働力として連れてこられたのは1619年であり、開拓の初期から黒人の身分は奴隷だったのである。

移住人、アジア系)、黒人(アフリカン)  白人至上主義

 

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・ふわっと’92)25周年記念、パーティー(2/3)

2017-12-10 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

(ふわっと’92)25周年記念、パーティー(2/3)     

                                                                          高知ファンクラブ、No.186,11(2017)

  羽田からタクシーでホテルに着いたのが16時前、程なくして娘の葉子、少し遅れて孫の樹ちゃんがやって来た。車椅子での25年周年記念パーティーの出席を決断できたのは妻 一枝のお陰であり、車椅子の担当を樹(たつき)ちゃんに任せる決断もしてくれたのである。                          

 早めに会場に向かい、受付で手続き済ませ、懐かしい方々にご挨拶を済ませたが、50人ほどの参加予定者名簿には、既に「鈴木朝夫先生のお孫さん」と樹ちゃんが記入されていた。次々に出席する方々にお会いするにつれて、25年前の記憶が蘇って来る。会場のあちこちで思い出話に花が咲き、次第に賑やかになってくる。話題の中心は水漏れ事件である。 

-- -- -- -- {代表研究者が居ない材料実験M23}からの抜粋(註4)-- -- -- --         

 ・・・材料実験はM01からM22まで全部で22テーマである。第2・第3材料グループ実験の大半はラック8だ。冷却水を使わない実験が1つできるだけである。これらの実験の責任者である東京大学の西永先生と金属材料研究所の中谷先生に、いつもの笑顔はない。第1材料グループは、ラック10でのタイムラインの最初の実験がM11である。「私の実験だけが出来てしまっては大変具合が悪い」・・・「ここは無重力の空間である。水漏れで大騒ぎすることはない。なぜならば、ビール券を持って謝りに行くような階下の実験室は何処にもないではないか」・・・回復作業が成功したとき、忘れることが出来ないのは、顔中笑顔の西永先生の大きな笑い声である。・・・運命の女神はちょっといたずらをし、そして微笑んだのだ。そして我々は思わぬ実験をしたことになる。この実験を提案したPI(実験提案者)はどこにもいない。私はこれを材料実験M23と名付けたい。無重力下で水漏れしたとき、どのようになるかを、映像を通じて世界中の人々が見ることができたのである。・・・

-- -- -- --- -- -- --

私達の提案した複合材料の無重力下での製造実験、M11{高剛性超低密度 炭素繊維/アルミニウム合金 複合材料の製造}(註5)にたどり着くまでの苦労を、会話の中で、車椅子の上で思い出していた。まず、アイデアを模型で示すことが必要であった。グリコのポッキーを使った模型である。プリッツ部分を炭素繊維、表面に被せたチョコレートをアルミニュウム合金と見立てた。短くしたポッキーを、2リッターのペット・ボトルの上を切り取った円筒形の筒に、ランダムに詰み上げる。チョコレートが柔らかくなる程度にゆっくりと温める。チョコレートが接着剤となり、空隙の多い立体ポッキーが出来上がる。短い炭素繊維から出来た柱は、人工衛星のアンテナやソーラー・パネルの支柱として使える。

無重力下で使う構造物は、自重を支える強度の必要性よりも、剛性が高いこと、軽量であること、そしてマテリアル・マイレージが小さいことが重要である。この場合、原材料の体積を最小にしての運搬、その場での製造・製作が必須となる。実際に人工衛星のアンテナなどの場合には、折り紙や昆虫の羽化のように畳み込んだものを、必要とする場所で拡げることが行われている。炭素繊維間の接着には濡れ性を良くする合金元素の知見が重要と考えていた。M23の水漏れを目撃できたことは、濡れ性の重要性の再確認だったと感じたのである。孫の樹ちゃんが動かしてくれる車椅子の上での思いは、地域の、高知の活性化である。副産物として作り出した「無重力ポッキー」の商品化はできないだろか、さらに愉快なこと、楽しいことはないか、と考えていた。

 ノアの箱舟、打ち下ろし花火、新々古今和集などは1987年に提案済みである。(註3) 車椅子に座っているから思い付いたことが沢山ある。宇宙での食生活を念頭に置くとき、液体状態が関わるゾル・ゲルの状態に注目すべきであろう。ゾル(コロイド溶液)とは、豆乳、牛乳、コーヒー、ペンキなど、ゲル(半固体状態)とは、豆腐、ヨーグルト、ゼリー、煮こごり、などである。また、無重力下での発泡体の挙動を知りたい。フィルターなどに使える連続発泡体と断熱材に使われる独立発泡体がある。

高齢化社会・人生百歳時代にとって、ホスピスや宇宙葬の必要性も増してくる。長期滞在での体力維持や娯楽も重要である。ネットやゴールの球技、格闘技などの各種のスポーツのルール作りも必須である。壁を相手のスカッシュや立体ビリヤードなどを考えていた。

このパーティーの主役はアラバマ州ハンツビルの指令センターで運用に関わった面々が、主役である。最初は誰?と思っても、話を続ける内にお互いを思い出してくる。毛利衛さん始めとする宇宙飛行士、向井千秋さん、そして土井隆雄さんの3人に樹ちゃんを引き合わせることができた。記念写真も撮らせて頂いた。

 註4、{代表研究者の居ない材料実験M23}、NASDA NEWS、No.133,12(1992) p8

註5、{高剛性超低密度 炭素繊維/アルミニウム合金 複合材料の製造}、鈴木朝夫、三島良直、三浦誠司;ふわっと’92宇宙実験成果報告(2/2分冊);宇宙開発事業団、5(1994)   p648~p684.

 

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・(ふわっと’92) 25周年記念、羽田行?(1/3)

2017-11-03 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

(ふわっと’92) 25周年記念、羽田行?(1/3)

                                                                                   高知ファンクラブ、No.185,10(2017)

 第1次(微小重力)材料実験 ふわっと’92(FMPT) の 25周年記念パーティーを9月8日(金)に開催する旨の案内を、宇宙開発事業団(NASDA)の藤森義典様より頂いたとき、即座に残念だけど東京行きは無理だとの判断が先行した。転倒し易くなったのは2014年の夏頃であり、高知大学医学部付属病院で進行性核上性麻痺(パーキンソン症候群の一種)と診断されたのが2015年2月のことである。(註1)  要支援2の判定を2015年5月に、次いで2016年11月には要介護1の認定を受けた。病名の接頭語が示すように「進行性」であり、現在では長距離の移動には車椅子と介護支援が必要となっている。

毛利衛宇宙飛行士の搭乗する日本初の無重力宇宙実験が行われたのは、「ふわっと’92」の愛称が示すように1992年(9月12日~9月20日)である。この第1次材料実験は1988年の予定であったが、チャレンジャー号の事故(1986年) で4年以上も遅れた。定年60才の東工大に在職の最後の年度であり、1993年3月の退職前に辛うじて間に合ったのである。

妻 一枝は「私が付いて行くから、出席することにしては?」、「車椅子を押す一枝さんの体力負担だけではなく、人との精神的ストレスも相当なものだよ」、「もう一度、宇宙材料実験の感激を味わいたくないの。二度とない25周年の記念でしょう」の様な対話が、7月末にご案内を頂いてから繰り返された。一ヶ月前の8月上旬を過ぎようとする頃、「このパーティーに出席するだけで、それ以外のことは一切考えないことにしよう。そして、パーティー会場となるホテル メルパルク東京(芝公園) に宿泊の“東京1泊、2日間”のパックが取れれば行くことを決心しょう」、「往復のタクシー代もそれほどではない」との結論となった。

早速、“ANA楽パック(航空券+宿泊)”を申し込んだのだが、そのホテルに空き部屋がなかった。数分後に再挑戦してみると、キャンセルが1室でていた。これで東京行きを決心した。ANA566 (9/8(金)、高知発13:30)⇒ メルパルク(1泊)⇒ ANA565 (9/9(土)、羽田発13:35)とゆとり持たせた予約を確定できた。この日以降、気がかりな体調はとくに問題なく推移していた。今年は一枝の運転する車の助手席に座って、桑田山の雪割り桜に始まり、横波半島のオンツツジまで、花見三昧の春だった。歩くことが多くなければの思いがある。(註2)

我々の東京行を伝えるのは、娘の葉子と孫の樹ちゃんだけにしていた。樹ちゃんは、所沢にある国際航空専門学校の航空整備科に在学中であり、来年3月に卒業の予定である。彼が嬉しいニュースを持って、高知にやって来たのが夏休み始めの7月末である。第一志望のANAの整備関連企業への就職が確定したとの報告である。

出発当日の朝、突然、一枝が「良いことを思いついたわ。パーティで車椅子を押す役を樹ちゃんに頼むことにしようよ。樹ちゃんは、宇宙飛行士の毛利衛さん・向井千秋さん・土井隆雄さんに会えるでしょう。素晴らしい思い出ができるよ。航空機整備の仕事は宇宙開発と無関係ではない、やがて役に立つことがあるかもしれません」、「それは困る。あなたが高知から出てきた意味がなくなります。あなたに申し訳ないですよ」、「私は葉子ちゃんとディナーをするから大丈夫よ」のようなやり取りがあった。早速、幹事役の藤森さんにメールした。  

高知からの旅が始まった。介助・介護を必要とする乗客への対応が素晴らしい。チェックインで車椅子を「預け荷物」にすると、直ちにエアラインの車椅子が用意される。最優先の搭乗であり、座席はスーパー・シートのすぐ後方の通路側5H、中央5Jである。トイレに近い席でもある。なお、機種はB737であり、通路の右にABC、左にHJKがある。全ての乗客が降りてからで、最後になる。帰りの羽田空港でも同じように優先搭乗である。余裕を持って羽田に着いたので、SFCラウンジで休息した。搭乗時間前になると、車椅子を押すスタッフが来てくれる。羽田での高知行の搭乗口は非常に遠い西寄りの60番台が普通である。今回の搭乗口も67Aであり、車椅子でシートベルトを締めることが必須である。

押して貰う車椅子の上で「無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか」との命題が頭を過ぎって来る。(註3)身体機能が低下しても、無重力下では、車椅子も手すりも杖も不要であろう。我々、人類がすでに蓄積している微小重力下での生活体験を活用して、終末期ケアとしての、天空に近づけるホスピス、自立できるホスピスはどうだろうと考えたりした。

 註1:{ディープラーニングの破綻、脳の機能}、情報プラットフォーム、No.349,10(2016)

 註2:{ちびっこ島木彫館のオープンまで(1/2)}、高知ファンクラブ、No.182,8(2017);{ちびっこ島木彫館のオープンまで(2/2)}、同、No.183,9(2017)

註3:{無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか}、BOUNDARY、8(1987)p64~p66

;情報プラットフォーム、No.290,11(2011)、No.291,12(2011)、No.292,1(2012)

 

  

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・ちびっこ島木彫館のオープンまで(2/2) 

2017-09-23 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

ちびっこ島木彫館のオープンまで(2/2)  

                                                                                No.184、高知ファンクラブ、9(2017)

  高知新聞の7月10日付けの朝刊で「ちびっこ島木彫館」のことが、カメラレポートの欄に大きく報じられている。「圧倒!木彫り像1700体」、「77歳男性 目指せ ギネス 須崎市」の大見出しの上には、奥行き約40mの展示棟の内部に、木彫り像がぎっしりと詰まっている写真が、ひと際目立っている。もう一つの写真には、浦戸の工房でチェンソーを操る山本さんとその作業を見守る横矢年夫さんが映っている。

 その木彫館は、横波半島への橋を渡り、黒潮ラインから明徳義塾中高校のグランドまで降りて、その手前で右に曲がれば見えてくる。少し登れば、一列に並んだカラフルな木彫り像、日本各地のユルキャラが、出迎えてくれる。展示棟には木彫り像が通勤電車のようにひしめいている。山本さんの木彫りは、ここで研磨し、ニスを塗っている。横矢さんの作品もあると聞く。展示棟は尾根の背にあり、島に居るようなイメージ、それこそ「わんぱく島」である。ここからは、眼下に海辺が、目を上げれば湾の対岸が見える。木彫の像達を背に、景色を眺めながら食事ができるカウンター・テーブルがある。さらに、昔、鏡川などで使っていたUFO型の船を設置して、円形のパーティー・テーブルにしている。横矢さんのミュージアムの島には、他にも幾つかの小屋があり、カラオケ・ルームや釣を楽しめる場所もある。

山本さんの木彫りを展示している施設が高知にはもう一つある。四万十町打井川の「海洋堂ホビー館四万十」に付属する「海洋堂かっぱ館」である。様々な種類・材質・サイズのカッパ像は見事であるが、山本さんの木彫カッパ像は「かっぱ館」の目玉になっている。

土佐山田町植の我が家は、山本裕市さんの木彫作品のささやかな展示場である。チェンソーそのままに、赤褐色(ピニー)の木材保護塗料を塗っただけである。そして、古い民具・農機具と併せ、四季の草花と組んで、特別な雰囲気を醸し出している。

「木彫館での横矢年夫さんとの出会い」       (記:鈴木一枝)

山本さんの案内で浦の内へ行ったが、連絡の不十分で横矢さん達は全員留守、外廻りだけを見て帰って来た。後日、再び主人と共に浦の内に向かった。敷地の入口付近を整備中の横矢さんにお会いすることができた。完成間近い館内を丁寧に案内して貰った。母も、主人も、私も、ただその種類の多さ、数の多さ、表情の豊かさなどに圧倒されっぱなしだった。

横矢さんを表現すれば、物好きというか、大物と言うか、何時までも子供の心を忘れない少年というか、そんな人柄である。男らしい風貌でありながら、笑顔の中に幼な顔が覗いており、年齢からは考えつかない子供心・遊び心を宿している。ここを訪れ、楽しんでミュージアムを後にしたときは、心が和んでくる。このミュージアムの名称に、「笑楽香(小学校)では」と意見を求められた。本当っぽい、嘘っぽい,有得ない木彫りの生き物を見て、笑いながら、楽しみながら、雰囲気を感じて、見学できることが、とってもステキなことである。

4月中旬には、鳥いっぱい、自生している背の高いオンツツジが満開になり、尾根の先端の展望台のベンチ・テーブルから、三方に海を望むことができると勧めてくれた。今年は朱色のオンツツジを主役に据えて、花見三昧で春を迎えようと考えた。

 花見の始まりは、須崎桑田山の雪割り桜(別名;椿寒桜)である(2/28)。桃色の模様が点在する幡蛇森の斜面は趣がある。オーベルジュ土佐山を過ぎて更に奥へ、土佐山嫁石の紅梅・白梅は美しい(3/4)。ピンクの花桃と黄色の菜の花のコントラストは香我美町中西川で楽しめる(4/4)。毎年かならず見に行く桜は、鏡野公園とそれに隣接する高知工科大学のキャンパスである。山芍薬は道の山側に白一輪が散見されることが多いが、 笹温泉の先の矢筈峠(アリラン峠)付近では群落も見られる(5/18)。香我美町山北の「くだもの畑」では、藤の滝が落ちる藤棚の下を車で流した。アジサイは野市父養寺のあじさい街道で楽しんだ。

オンツツジの見頃には(4/15)、「ちびっこ島木彫館」でその朱色を存分に堪能できた。

 

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・ちびっこ島木彫館のオープンまで(1/2)

2017-08-07 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

ちびっこ島木彫館のオープンまで(1/2)

                                                No.183、高知ファンクラブ、8(2017)

 大根の鎖切りの様に、木材の丸太から連続した鎖を切り出す匠の技の作品を始めて見たのは、高知県総合森林センター付設の「森の情報交流館」であり、玄関外の右側を飾っている。杉丸太から削り出しただけなので、すでに暗く色褪せており、目立たなくなっている。小型のチェンソーを巧みに操っている山本裕市さんとの出会いは、森の情報交流館での山の日のイベントのときである。妻の一枝が始めて山本さんにお会いしたのは、布師田の高知県地場産センターで開催された「第4回高知もくもくランド2009」(3/14~15)の時である。

「始めて山本ご夫妻にお会いしてから」     (記;鈴木一枝)

 展示してある「閉じた傘」が欲しくて、そのコーナーの担当者を探していたら、奥様が現れて、山本さんを呼んで来てくれた。さっそくチェンソーでの丸太の鎖の製作作業を披露して下さった。ホーッと感心・感激したのである。そして、お名前と浦戸の住所をお聞きした。

 後日、浦戸のお宅に押しかけて、居間に飾ってある作品、納屋の棚に置いてある作品、工房にある制作中の作品などを見せて頂き、木彫り像を預かって帰るようになった。素朴な、ユーモアのある作風に惹かれ、私が御免で喫茶店を開業していた頃は、値札を付けて展示させて頂いたのである。珍しさもあり、注文が殺到した。時には、失敗作だから安くすると言われて買い取ったもの、気に入らないからとタダで貰ったもの、注文で作成したがイメージが出ていないと返品されたものもある。我が家のウッドデッキに置いている大きなテーブルがその一例である。楕円形状の厚い天板ガラスの原価だけで譲って貰ったものである。

 居間・寝室のインテリアは。亀、オコゼ、フクロウの室内ランプは夜の寝室や客間を明るくしてくれる。菓子折り袋の文房具・鉛筆立てはパソコン机の上にあり、切り株の中で切り離した球状ボールが動くようにした丸太の椅子がある。

 庭を飾るエクステリアは。既に、「歴史民俗博物館のような我が家」でも述べたように(註)、唐箕やこまざらえ・除草機を置いてある。加えて、門番のように立つコロポックル2体と1匹の猿、段々の北斜面には角が見事な牡鹿が4頭、車庫を守るように座っているカッパが4体、大きく口を開けた鯨1匹、枝にぶら下がる小鳥のエサ台が1つ、そして鉢を置く為の大きな木製の靴が2足と、それのモデルとした陶磁器製の靴1足が花壇を飾っている。余談になるが、この木製靴は好評で50足を超える注文があったと聞いている。

中にはどうにも飾りたくない木彫もある。例えば、大きなカツオが出て来る水道蛇口、猫が食べ残した魚の骨、よれよれになったハンガーの背広、股覗きのお坊さんなどである。

 ご夫妻の人柄は、その作品の木彫りさながらに素朴で、気さくで、漁師が本業と言いながら御畳瀬のチリメンジャコをパック一杯に持たせて下さることも多かった。賀状のやり取りもしていたが、しばらくお会いしていなくても、何時も会っている感じで、何の遠慮も要らない間柄になっていたと言っても過言ではない。

 回覧板を持って来た近所の奥様が、玄関先に座っているコロポックルの笑顔を見て、「可愛らしいね。家にも欲しいわ。どこで手に入れたの」とのこと、そして電話で注文を取り次ぐと、元の図面も写真も見付からないので作品を見せて欲しいとのことで、我が家のコロポックルを車に乗せて、山本氏宅に向かっていた。その途上で、そのコロポックルを見た知人も「私にも。是非とも欲しいわ」と次々と注文が集まってきたのである。母も乗せて山本さんを訪れると、「横矢さんと云う人が、こじゃんと、いっぱい木彫を集めちゅうき、いっぺん見に行って来いや。なんやったら、わしが連れて行っちゃらえ」とのことである。須崎の浦の内へ連れて行ってもらう相談がまとまった。行く先は、この時はまだ呼び名は検討中とのことだったが、整備中の「ちびっこ島木彫館」だったのである。 

 註)情報プラットフォーム、No.262,7(2007)

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅻ)、三角屋根

2017-07-14 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅻ)、三角屋根      

                                                        No.182,高知ファンクラブ,7(2017)

 ここでは、先妻ちえ子が残した遺稿(応募作品)を利用して、高知で一軒家を購入した時のエピソードを紹介させて頂く。

大きな衝動買い      (記:2001/10/1)

 ちえ子が通信教育の随筆講座を申し込んだのは1998年の初夏、高知市内に住んでいるときです。この随筆を提出したのは、土佐山田に家を買った直後の8月のことです。これは第1回の「お気に入り」をテーマにした添削課題に提出したものです。「講評」が付いていました。

 「売り主も感じの良い人だった」とちえ子の文章にもあるように、その後もお付き合いを頂いています。先方の言い値で契約しようとしたとき、「値切らなくても宜しいのですか。少しお引きしましょう」と言われてしまいました。その位に、この家は理想的な、そして夢に描いていたそのものだったのです。沢山の分譲団地を見に行きました。でも、それらはミニ・ニュウータウンでした。首都圏には幾らでもある普通の住宅団地でした。それらは探している高知ではありませんでした。

 娘の葉子は小さい時から、三角お屋根の家に住みたいと言っていました。マンションでは犬が飼えません。その娘が家を出た今、その三角屋根の家に住むことが出来るとは皮肉なものです。それにしても、この時点で「緑の見える場所で病気になりたい」などと、何故、書いたのでしょうか。

家を買う、土佐山田に      (鈴木ちえ子の応募文章とそれの講評:1998/8/10)

   結婚以来30年、住宅公団、民間マンションなどの集合住宅で生活してきた。夫65歳、私61歳、そろそろ人生締めくくりの時期に入ってふと考え込んだ。ここで病気になって良いか、ここで死んでも良いか、つい先頃まで鍵一つで出られ、管理人任せの便利さ、仕事にも旅行にも気軽に出られ、歳を取ってからもこの簡素な生活スタイルが最適と考えていた。仕事中心の生活では、必ずしも住居が憩いの場所ではなくても、たまに旅に出たり、何か気分転換すれば充分だと思っていた。

 夫が60歳で転職した折、私も仕事を辞めて北海道に3年、また昨年高知へと移り住んだ。いずれも高層マンションの最上階を選んだ。引越し疲れもあると思うが、いつまでもたっても元気が出てこない。落ち着いて家の中で過ごせない。ふと疑問が出てきた。住み慣れた近隣との付き合いも希薄となり、仕事や友人から離れ、家の生活が中心になって、長年あこがれていた自分だけの時間が持てるようになったのに、狭い高層ビルは憩いの場とはならなかった。深呼吸のできる空間が欲しい。緑の見える場所で病気になりたい。

 まず新聞広告を見ることから始めた。どんな家を探すか方針が見えてくるのに2週間程かかった。ある日案内された中古の家は夫の職場にも近く、特急の止まる駅に車で5分、空港に20分、南側に田んぼと茶畑が広がっている。売り主も感じの良い人だった。これだ! 衝撃的に買う決心をした。

 今まだ引越し疲れで片付けも終わっていないが、目の前に広がる稲刈りの終わった田んぼときれいに刈り込まれた茶畑、鳥や虫たちの鳴き声に囲まれて、美味しい空気を一杯に吸い込み、やったという満足感を覚えている。集合住宅の合理性を主張してきた私達が、還暦を過ぎてやっと地に足の着いた喜びを味わっている。四国、高知にして初めて可能になったというのが本当のところであろう。

「講評:一軒家を買う、ということの意味と「やった」という率直な喜びが、とても淡々とした筆遣いの中で味わい深く描かれています。構成、文章ともにくせがなく、非常に好感の持てる随筆と評価します。(優)」

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )

 


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅺ)、住まい

2017-06-28 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅺ)、住まい      

                                                                                 No.181,高知ファンクラブ、6(2017)

今月は我が家の住まいの歴史を述べる。新婚生活、子育ての始まりはトイレが隣室と共同の六畳一間からである。千葉県松戸の住宅公団の賃貸(2LDK)に入居、横浜市の分譲(3LDK)に転居し、住居を、世田谷、松戸、横浜と変えてきた。そして高知に移住して、一戸建て住宅を持つことができた。

たまプラーザの分譲団地          (記:2001/5/30)

東急の田園都市線が開通し、新興住宅地の建設が始まりました。この「たまプラーザ団地」は魅力的でした。大岡山までの通勤がとても楽になります。九段下の日本住宅公団に、申込、抽選、契約など何度も通いました。公団の賃貸住宅の入居者は分譲住宅の当選率が10倍高くなる制度がありました。締切り時間の直前まで待ち、駅から遠く、人気のない街区に申し込みました。私の年収から見て、手が出せるのは小さい2LDKです。通勤には千葉県松戸から2時間も掛かっていました。是非とも入居したかったのです。

入居した昭和47年(1972)当時は、手前の鷺沼駅で2両を切り離し、残り2両で、たまプラーザ駅にやって来る状態でした。我が家では2人の子供達が幼稚園に通う時代でした。

戸建ての高知の住まい    (記:2001/6/21) 

 この時ほどファックスを有効に使ったことはありません。一ヶ月ほどの間に、熱転写ロール2本を使い切りました。ファックスが大いに活躍したのです。新聞に良さそうな物件を見つけると、不動産屋に敷地と間取りの図面を送ってもらいます。この使い方にちえ子は味を占めたようです。

 当時、私達は大学の教員宿舎になっている高知市内、知寄町のマンションの11階に住んでいました。五台山や筆山、それに浦戸湾が見渡せます。大阪からの、東京からのフェリーの出入港がよく見えます。汽笛を鳴らすので確実に見ることができます。しかし、国道に面し、路面電車の折り返し点も近くです。夜遅くまで騒音の激しい場所です。横浜の郊外に残してきた我が家の方が遥かに自然豊かです。そして駅まで歩いて5分、渋谷まで急行で30分、その駅の近くには2つの大手デパートと生協があります。

 「ここでは高知に住んだ意味がない。横浜に帰ります」とちえ子は言うようになりました。昼間はほとんど家に居ない私も、同じように感じていました。さっそく家探しが始まったのです。ファックスで取り寄せた物件の中から選んで、休日ごとに、一戸建ちの中古住宅や新築の建売住宅を見て回りました。東は野市町、西は春野町まで。大部分は宅地開発で造成した土地ですが、その規模は東京に比べれば知れたものです。これらも私達が求めている高知ではないと思いました。

 諦めかけていた時に、土佐山田にこの家を見付けたのです。法面も入れて敷地面積は100坪以上あります。南側の川向う、田んぼを隔てて茶畑の斜面が見えます。風が強いという山田ですが、北に山を背負っているこの家は無風状態です。両隣を始めご近所の皆さんは土地の方々です。旧道との合流点でもある我が家の前は道幅が広くなっています。すっかり気に入りました。

 「お金、いま幾ら持っている。決めようよ」とちえ子が聞いてきます。探し求めていたそのものです。歩いて15分程で土佐山田駅に、その途中にスーパーマーケットが開店したばかりです。すれ違いが難しそうな狭い近くの道路では、2ヶ所で拡幅工事が行われていました。私達が住むための準備が着々と進んでいるように思えました。「この家は衝動買いをしたのですよ。面白いでしょ」とちえ子はそんな話し方をしていました。でも、その時までに私達の不動産物件を見る目は十分に肥えていたのです。

 余談ですが、30坪にも満たない狭い敷地でも、必ず「駐車2台可」とあります。夫婦共稼ぎが普通の高知の、公共交通機関の便の良くない地方の宿命を示していると感じました。 

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )

 


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号

2017-06-08 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号      

                              No.180、高知ファンクラブ、5(2017)

 ちえ子と結婚してから(1962)、3年間の作行会給付金(1966~1969)、工学博士の学位取得(1969)、助教授に昇進(1969)、米国のスタンフォード大学への留学(1974~1975)と順調に歩みだしていた。

工学博士と助教授          (記:2001/7/1)

  婚約の時、ちえ子さんのご両親には「大学の助手の身分は不安定です。助教授になれるとは思わないで下さい」と申し上げました。ドイツ語会話のクラスの日以外は、ほとんど定時に帰宅していました。躍り上がるような研究テーマに出会っていませんでした。週末にはザックを担いで山へ出かけました。後日、私が助教授に昇任した時、ちえ子が言ったことは「難しい本は何時も読んでいたし、ドイツ語は一生懸命やっていた。でも、貴方が助教授になるとは思っても見なかった」でした。

 講座の教授が田中実先生に代わりました。面白いテーマに遭遇しました。実験で遅くなる日が多くなりました。徹夜も当たり前になってきました。やる気が出てきました。山に行く回数が次第に減ってきました。昼休みもテニスコートへ出なくなります。

 丁度、大学紛争の兆しが出た頃です。研究は大きく進展しました。学位が取れそうになりました。論文のまとめの段階では、ちえ子に筆耕を頼みました。学位論文の半分以上は彼女の筆跡です。「マルテンサイト変態」、「時効硬化性」、「平衡状態図」など、ちえ子は専門用語を覚えてしまいました。リコピーという複写機が出た頃です。手元に残した論文のコピーは読めない位に色あせています。

 学位記を学長から頂く日、学生が正門にバリケードを構築しました。学生から身分証明書の提示を求められます。教授・助教授は学内に入れて貰えません。「今日は御覧の状態です。後日、学位授与式を行う予定です。それまで待ちますか、それとも今にしますか」と担当の事務職員に聞かれます。「もちろん、今です」と答えます。儀式を型通りに行って、学長代理としての彼から学位記を頂きました。その後、彼には頭上がりません。「私が鈴木先生に学位を授与した」と誇りにして呉れました。

 学位を頂いた後、学外で開催された教授会で助教授への昇任が決まりました。機動隊を導入しての、座り込み学生の排除とバリケードの撤去に踏み切ったときは、若手教員としての体力を買われて先兵となりました。複雑な心境でした。

 そして、憧れのドイツではなく、アメリカへ留学するチャンスが与えられました。諸先輩のご指導を頂き、優秀な沢山の後輩に支えられ、歳を重ねて教授になりました。その時のちえ子の言ったことは「貴方が教授になるなど、思っても見なかった」でした。

日本金属学会ハワイ大会         (記:2001/12/29)

  2001・9・11に、世界貿易センタービルの崩れ去る映像をテレビで見たとき、二つのことが脳裏を過りました。一つは、何故あのような崩れ方をするのだろうか、という鉄鋼材料屋としての疑問、二つ目は、12月中旬にハワイで開催予定の「第4回先進材料環太平洋国際会議」は中止せざるを得ないとの予感でした.送られてきた中止決定の組織委員会の議事録はその苦悩の様子を伝えています。かってのハワイでの講演大会開催の苦労を思い出します。

 1996年12月中旬、日本金属学会が始めて海外で、ハワイで秋季講演大会を開催したことを思い出します。北海道大学での任期の最後の年でもあり、またこの年に日本金属学会会長に選出されていました。組織委員長として準備を進めてきた鈴木に全責任を持たせようと考えたのでしょう。ヒルトン・ハワイアン・ビレッジを会場として開かれたハワイ大会は、日本、中国、韓国、アメリカなど10数か国から800人を超える参加者を得て、大変有意義で楽しい大会になりました。何よりも大きな思い出は、ちえ子が会長主催の幾つものパーティーで見事にホステス役を務めてくれたことです。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅸ)、白い犬

2017-06-08 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅸ)、白い犬    

                               No.179、高知ファンクラブ、4(2017)

  病床でちえ子は「貴方は一人では暮らして行けない人です。私に気兼ねなく、後添いを貰って下さいね」と言っていた。子供達にはすぐに納得できないことであろう。東工大で私の研究室に居た小林郁夫さんから「先生のテイストではないかも知れませんが。『白い犬とワルツを』を家内の理恵が薦めるので」とメールを頂いた。早速、本屋で買い求めて読み、子供達にも回したのである。

携帯電話の大活躍    (記:2002/8/17)

  息子と娘が高知に来ている間、電話は出来るだけ控えましょうとの心遣いと「理詰めでは片付かない問題を急いでは駄目ですよ」との注意を一枝さんから頂いています。午前中、勤め先の産振センターに携帯電話で遠慮がちに連絡がありました。この電話で息子達に会って頂くチャンスが作れるのではないかと思いました。子供達が高知に来る前の心積もりは別々に会う機会を作ることでした。息子と娘と一緒に会って貰うことは、面接試験のようであり、大変に失礼であると考えていました。しかし、携帯の向こう側では「よっしや、まかしとき。大丈夫」と一枝さんの心強い返事です。

 息子と、娘と携帯電話で打ち合わせを繰り返しました。結局、最寄りのスーパーの駐車場で待ち合わせと決まりました。そしてその向かいにある一枝さんの喫茶店で、落ち合うことになりました。夕方、閉店した後です。樹ちゃんと崚斗ちゃんの2人の孫の面倒は、嫁の敦子さんが車の中で見てくれています。

 4人でテーブルを囲んでの話の中で、終始、黙っているのは辛いことでした。でも、高知、に来た子供達が、一枝さんに会ってくれたことは、私にとって、私達にとって大きな前進です。夏休みが終わり、皆が帰ってしまった後も元気になれそうに感じています。皆さん、ありがとう。

「白い犬とワルツを」    (記:2002/9/8)

突然、妻を失った主人公サムの身の回りに、白い犬が現れるようになります。初めの頃は、庭から、戸口から眺めています。最初は野良犬と思って相手にしません。近所の犬が吠えることもありません。次第にサムの与える餌を食べるようになります。そしてタイトルのようにワルツを踊るようになります。普段はベッドの下で静かにしています。誰かが来るといつの間にか居なくなります。子供達や他の人達には姿の見え難い犬です。初めのうちは、誰もが、気が狂ったのではないかと心配します。

近くに住む娘たちやその家族と、そしてこの犬に支えられて、歩行補助具を必要としながらも自立の生活が始まります。癌と戦いながらの話が展開しつつ、いろいろなことが起こります。やがて死を迎えます。死の前日に「白い犬さ。あれはお前たちのママが戻って来てくれたんだ、俺を見守るために」と子供たちに話します。

解説には「愛の姿を美しく爽やかに描いて、痛いほどの感動を与える大人の童話。貴方は白い犬が見えますか?」とあります。それは間違いないのですが、私の感じとは異なります。居てくれたらどれだけ心強いだろうと思いますが、残念ながら私には白い犬は見えないのです。「今日、妻が死んだ。結婚生活57年。幸せだった」と日記に付けたこの時、サムは81歳、妻のコウラは75歳でした。彼の歳になっていれば、そのような心境になれるのかなとも考えます。

・・・・・

そうではなく、ちえ子は「もう十分です。一人でせいせいしています」と言っているかもしれないと思う。娘の葉子は「パパ、そんなことないよ。ママの言っていることが聞こえるでしょう。遠くから見ているよ。パパには絶対聞こえているよ」と携帯電話の向こうから聞こえてきた。  註:「白い犬とワルツを」、デリー・ケイ著、兼武進訳、新潮文庫(1990)

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅷ)、道草

2017-06-08 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅷ)、道草      

                                  No.178、高知ファンクラブ、3(2017)

   再婚を理解して貰うための、高知での家族会議の時の様々な思いのメモである。

漱石の「道草」     (記:2002/8/12)

   夏休みに娘の葉子と孫の樹ちゃんがやって来ました。会話が途切れがちです。私がお見合いをしたことがお互いの口数を少なくしています。この際、会って欲しいと思っていますが、具体的な予定の相談はできません。前もっての電話でも、葉子の気持ちは二転三転していました。複雑な思いであることは想像できます。裏切りと映るのでしょうか。売り言葉に、買い言葉の状態ではありませんが、必要なことしか言わない、聞かない、の状態に近いのです。もう少し親しみを込めてくれれば、一言相談してくれればと、お互いに思っているようです。

  夏目漱石の小説「道草」を思い出しました。確かめたくなり、段ボール箱を開けて探しました。何度かの引っ越しでも開けることのなかった「文庫本」と書いてある段ボール箱です。この中にありました。くしゃみが出そうな古本の匂いです。

 思い出せなかったのですが、主人公の夫婦の名前が健三とお住であることが判りました。優しい一言をその時に添えてくれれば、こちらもそれなりに嬉しい顔ができたのにと、お互いに思っている夫婦なのです。お前が、貴方がそのような態度ならば、敢えて口を利く必要もないと思ってしまうのです。だんだんと必要最小限の会話だけの夫婦になります。このように相手の所為にしてしまうのは普通にあることです。この小説の主人公健三と漱石自身が重なり合っているとの解説が付いています。

  これだけはお互いに止めようねと、ちえ子と話し合った記憶があります。この小説では「二人はお互いに徹底するまで話し合うことはできない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった」とある。私たちの場合、徹底するまでの話し合いは出きませんでしたが、「改める必要」はお互いに感じていましたし、改める努力もしていました。もちろん、ちえ子の証言も必要ですが、何と言うでしょうか。

   親子でそのような状態にならなくてもと反省しますが、親子だから遠慮がないと云うこともあるでしょう。将来のことは、今は触れないようにしています。時間が解決すると思っています。明日13日に息子の夏志夫妻が崚斗くんを連れて高知にやって来ます。

樹ちゃん(たっちやん)       (記:2002/8/16)

   息子や娘と込み入った話をしようと思っても、樹ちゃんは寝てくれません。話を持ち出せる雰囲気にはなりません。お互いに言い出せないでいる、避けたいと思っていることもあります。明日17日は夏志達の帰る日です。この機会に何も話し合わないことは、却って不自然であると少し焦っていました。

 朝食の後、10分で手短に話すから聞いて欲しいと話し始めました。お母さんを失った子供達と妻を亡くした私との痛手の違いの言い合いになります。葉子は涙を浮かべながら話します。夏志も意見を述べます。お母さんを忘れたいと思っている筈がないこと、そしてそれを相手の人にも伝えてあることを説明します。黙って聞いているのは嫁の敦子さんと孫の樹ちゃんです。崚斗ちゃんはお父さんの膝の上でうちわを舐めています。話が途切れた時、樹ちゃんが「みんな自分のことを言っている」と言ったのです。鋭い観察力と要を得た表現力に吃驚しました。「けんかは終わったの?」で家族会議は穏やかに進みました、樹ちゃん、有難う。            註)樹ちゃんはこの時4歳です。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

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