稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.30(昭和61年10月4日)剣と禅について(続き)

2018年11月06日 | 長井長正範士の遺文


剣禅一如の境地や如何(いかが)、吉田誠宏先生曰く「無我なり」と。
相手の技に自然に応じていける境地なりと。

この境地に入れた時、始めて剣も禅も一如であると言えるのである。
何事もそうであるが、水のように形に表れてはいけない。
これはあたかも字を書くのと一緒で筆が止まったら点が出来る。
これは自然ではない。禅の考察ははっきり答えが出るものである。

昔、ある貧乏村の和尚が駕篭に乗って隣村の檀家に葬式に出かけた。
駕篭に乗って出かけたのは良いが古ぼけたボロ駕篭だったので途中で底が抜けてしまった。
そこで担いでいた人たちは応急策として古縄を拾ってきて、
和尚を中に入れたまま駕篭をがんじがらめに縛って担ぎ、
よいしょよいしょと言って村の入口に着いた。

するとそこへ、ちょうどお参りをして
お説教を聞いて来たばかりの爺さん婆さん達が通りがかった。
「おや可愛そうに、今度お説教で聞いたばかり、無常の風は時を嫌わず、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えだした。

これはてっきり土左衛門(水死体)と思ったわけだ。
たとえ死人と間違われても、事実、自分は生きているのだから、
和尚はただ黙って自己に親しんで拝まれていれば良いのに
「縁起でもない、俺は生きているぞ」と言わんばかりに
駕篭の中で「エッヘン」と大きな咳払いをした。

爺さん婆さん達は驚いた。
「おやおや死人かと思うたら科人(咎人・とがにん=罪を犯した人)じゃそうな」と言った。
するとその和尚、いよいよムカムカして「馬鹿、科人じゃないぞ」と怒鳴った。
すると皆が「おや科人かと思うたら、可愛そうに、これは気狂いじゃそうな」と言った。
という話である。

これはまあたわいもない話だが、しかし我々としては大いに教えられる所がある。
人生にはこのような事は随分あるからである。
人が何と言おうが何と思おうが、本当に自分を掴んで本当の自分だけは見失わない。
そして真の自己に親しんでいる。こういう人になるような修行してゆかなければならない。

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○剣道に対する理念を考える事
自分が打突に入った瞬間が勝負である。
相手も打間に入っているから、入った瞬間の理念を考えねばならぬ。
即ち静から動へ変わる瞬間の理念は五常(仁義礼智信)を明らかにする。
そうでなければ迷ってしまうのである。
即ち気剣体の一致、心気力の一致の鍛錬の根源は五常の道にあるのである。
(№16の項、参考のこと)

○腹の落着と手の打方とは一致すると言う事
時は下腹、間合に入った時は中腹、甲手を打つ時は咽喉、面を打つ時は上腹に夫々変化する。
これが呼吸の稽古とつながるのである。

それを知らず終始下腹に力を入れて下腹からかけ声を出してやると
肉体が堅くなり気剣体一致の技が出ない。
力を入れる事を知っておっても力を抜くことを知らなければ呼吸の稽古は出来ないのである。
前へ攻める事を知っておっても、後へ引く事を知らなければ何にもならない。
なぜなら自然は二つから成り立っている。
即ち陰と陽、上下、左右、東西南北、プラスマイナス、
男女、深い浅い、濃い薄い、白黒、昼と夜、等々である。

剣道も自然から生れたものであるから、この二つの調子を狂わさない事である。
(この項は、№8、9、10を再度参照のこと)以上
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