稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.32(昭和61年10月30日)循環無端ということ

2018年11月20日 | 長井長正範士の遺文

(長正館に掲げていた笹森順造宗家の「循環無端」直筆)

○循環無端ということ。
「一刀流極意」の本の613頁にありますが、これを大略解説すると、
太刀わざが生まれる所にどよまず、消滅して消滅するところにおらず、始めなく終りなく、
終始見えない、めぐりめぐって端てしない不生不滅の常勝の所であると教えられている。

剣道即実生活なら我々の日常生活においても、
このように、あくなき人間としての修養を積んでゆかねばなりません。

例えばあの二十日ねずみのように、竹篭の輪の中で一所けんめいに走りつづけているようなもので、
いつまで経ってもこれで終焉という事はないように、我々の修養もこれでよいという事はないのであります。
若し修養途中で、これで満足だと留まったならば、他のすべてのものが、
前進成長してゆくのでありますから、自分はその時点でストップするどころか、退化であります。

我々が正しいと信じ、真っすぐに、あくなき前進する時、いつしか又、原点に帰って来ます。
なぜなら地球は丸く、直線は極言すれば円であると解釈したいのであります。
そしてこの直線は点と点を結ぶ最短距離を言い、然も点は位置存在を示すが、
大きさは無いと言うことは、ご承知の通りであり、
この直線の両端の点をわが心と相手の心に置きかえて見ます時、
実は直線を通じ、離れているかのように見えますが、心は一つの点であります。

この考えから私は点(心)=直線=円と自覚し、
我々の進むところ永遠に初心に帰る修養の繰り返しと悟り一日一日を大事にし、
修養を続けるべく努めております。

従って剣道という限り、この心構えで
竹刀に己れの最高の道徳を表現し合うものでなければなりません。
ここに大切な剣道即実生活という所以(ゆえん)があるのであります。

ここで一寸、西行法師(平安末期から鎌倉初期にかけての“旅の歌人”と言われた方。
本名佐藤義清。七十三才亡)のお話をしておきます。

或る日、西行さんが京の河原で、修業途中の雲水達にお話をしておられた時、
前夜の食あたりか冷え込みか、なぜか腹具合が悪く、講和最中、しきりに下痢痛を催され、
辛棒しきれず、たまらなくなって、ふと周辺を見られると、堤防の傍に、
萩の大木がありましたので、法師はつつーと走って行かれました。

おつきの門弟が心配してあとをを追って走って行きますと、
法師は矢も楯もたまらず、萩の木陰に入るや否や、その根元で片足をあげ、
衣の裾をめくるなり、ピッピーと放たれたのであります。
しゃがむ余裕もなかったのでしょう、その水溶液は勢いよく萩の根株に当り、
飛び散ったので、その跳ね返りが、法師の尻の頬っぺたにかかったのであります。

法師はおくげもなく、すぐさま取り囲む門人に
『西行も今まで修業したけれど、萩のはねくそ今が見始め』と詠まれたので、
門人も笑うに笑えず、師が恥ずかしいとも思われず、すぐに実感を詠まれたその奥底にある
『自分は人間として修業を全うしたからこれで良いと思っていても、
次から次へと試練がやってくるから修業の道は無限である。
今のわたしの無様のようにお前達の尊敬している私とてまだまだ未熟者じゃ』
と教えられたものと悟り、さすがにわが師と益々尊敬の念を新たにしたというお話。

これでお判りのように、我々はどの道を歩むにしても、地球内のちっぽけな考えではなく、
大宇宙の真理を具現するために人間としての存在の意義があるものと思います。
即ち我々は小我であってはいけない。大我でなければならないと思います。
それでこそ万物の霊長である人間と申せましょう。

終り


(上の撮影画像を加工しました)
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