家庭にテレビが入ってきてから、
映画館の入場者が減ってきました
しかし、映画館では毎週新しい映画を
封切っていました
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しかも、東映は二本立て興業でしたから
東映にもう一つ第二東映ができて
京都太秦(うずまさ)の広隆寺の裏に
広いオープンセットと
多くのスタジオで制作していました
東映撮影所はよく、夜間撮影(残業)が行われて
オープンセットのあたりが照明で明るく見えました
東映では、スタッフの時間外、残業代を本人に渡さず
家庭の奥さん宛に送っていたと,
聞いたことがありました
撮影所は奥さんを味方につけてしまったのでした
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太秦の映画人の間では「夜間は東映」「火事は松竹」
「争議は東宝」「映画は大映」と囃していました
いままで、制作した映画は必ず大入りで
赤字にはならなかったのですが
テレビの登場で、斜陽化が始まりました
やがて「ミッチーブーム」が訪れて
ご成婚パレードの実況テレビ中継が行われました
同時に、テレビ受像機が大量に売れました
このあたりで映画とテレビが逆転するのでしょう
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このご成婚パレードの中継に
大阪のテレビ局をはじめ
地方局のテレビ中継車と技術員を
東京に持ち込みました