今日のうた

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長崎の痕(きずあと) ①

2019-08-06 17:53:27 | ①核と人間は共存できない
大石芳野写真集『長崎の痕(きずあと)』を読む。
長崎に落とされた原子爆弾により被爆された方々の、証言と写真が載っている。
証言された方がどこで被爆したのかを見ると、兵器工場が目立つ。
「三菱兵器大橋工場(後に三菱兵器住吉トンネル工場に疎開)」、
「川南工業香焼島造船所」、「三菱造船所」、「三菱重工業長崎兵器製作所」、
「三菱製鋼所」、「三菱工作隊本部」、「三菱造船所立神工具工場」、
「三菱電機長崎製作所」、「三菱造船所幸町工場」・・・・・・。
(言い方が違うだけで、同じものもあるかもしれません)

●〈ヒバクシャーー核時代を生きるホモ・サピエンス 朝長万左男〉より
 引用させて頂きます。

 江戸時代の長崎は、明治維新まで一貫して西洋文明の摂取に専念する
 国際都市であった。海軍、医学、語学、造船、炭鉱、出版、食物、料理などの
 文化が長崎を通して日本中に広がった。
 明治期の日本の帝国主義模倣時代には、殖産、興業に多大な貢献を果たした。
 昭和に入り、第二次世界大戦になると、造船業の長崎では戦艦「武蔵」の建造で
 そのピークを迎えていた。造船所と種々の軍需産業が建ちならぶ浦上川沿いの
 工業地帯は、戦争末期の昭和20年のはじめには、連合軍の無差別爆弾を
 必然的に受ける標的となる運命にあったことを長崎市民は誰も
 まだ知るよしもなかった。それが原爆であった。

 瞬間的爆発から放出されたガンマー線と中性子線からなる初期放射線は
 1分程度つづき被爆者の全身を貫いた。
 細胞の核の主成分のDNA(その中に27000個の遺伝子が含まれる)の鎖が
 標的となり、放射線の高線量被曝ではDNA鎖はずたずたに切断され細胞の死を招き、
 それはただちに臓器の破壊につながり、多くの被爆者が原爆3か月の間に
 重傷の急性放射線症によって死亡する原因となった。
 低~中線量の被曝ではDNA鎖の切断は細胞死ではなく、DNA鎖に傷を与えるに止まる。
 その傷はいくつかの遺伝子の修復力によって快復し、被爆者はいったんは
 健康を取り戻す。

 しかし3年後からは早くもこのDNA修復のミスから臓器の腫瘍が誘発され始める。
 はじめに白血病が子どもに現れ、次第に大人にも多発するようになった。
 15年後には種々の固形癌が発症し始め、これは今日まで持続する後障害となり、
 ここに「生涯持続性」が明白となっている。
 簡単に説明すると、放射線は細胞を標的とし、たくさんの遺伝子が乗っている
 DNA鎖を傷つけ、数十年の潜伏期間ののちに被爆者に腫瘍の発生をもたらす。
 現在は二つ目、あるいは三つ目の腫瘍をみる「多重癌」も少なくないため、
 被爆者にとって大きな心と身体の負担となっている。   (引用ここまで)

●〈造船と軍需産業の町で〉より引用させて頂きます。

 「魚雷」も国力の象徴として対米戦争の要の一つだったが、アメリカは日本に先駆けて
 原爆を開発し、成功させた。三菱製作所だけでも、全体の従業員と
 学徒報国隊(学徒動員)、女子挺身隊を含めて「1万7793人のうち原爆による
 死亡者は2273人、負傷者は5679人」と同社史は述べる。
 実際の数は遥かに上回ったと推測されている。
 徴用された朝鮮人労働者の被害も多大だった。  (引用ここまで)

1945年8月6日に広島に落とされたのはウラン235爆弾だ。
そして3日後の長崎に落とされたのはプルトニウム239爆弾だ。
たった3日後に別の種類の原子爆弾が落とされたことから、
これは太平洋戦争を終わらせるためではなく、ウラン爆弾とプルトニウム爆弾の
両方を実験したかったからに他ならない、と私は思う。
(⑦の最後に、アメリカ軍が撒いたビラの内容が載っています)
是非、世界中の人がご自分の目で、この写真集を見て欲しいと思います。

●〈ある晴れた日に〉から引用させて頂きます。

 北東の空からアメリカ軍機が飛んできた。晴れ渡った長崎の青空のなか、
 急降下したそのB29は、目的を遂行して去って行った。
 警戒警報も鳴らされなかったために、人びとは、上空500mという間近から
 もう一つの太陽に晒された。火の玉は直径100mもあり、30万~100万°Cに
 達したと推定されている。
 西洋文化を受け入れて豊かな精神を育み、つつましく暮らしていた市民に
 アメリカが落とした原子爆弾の惨劇は余りにも深刻だ。当時の長崎市民21万人、
 うち約15万人が瞬時に死傷したから、3人に2人がやられた。その後も原爆症で
 次々に亡くなり、今や18万人以上が鬼畜に入った。

 長崎の〈ある晴れた日〉の悲劇から50年、いや70年、いや90年・・・・・・、
 人びとは暗黒の記憶と蝕まれる身体と闘わなければならない日々を生きている。
 当人のいのちが果てて終わるものではなく、さらに苦悩は続く。子や孫に、曾孫に、
 そして関係者や私たちにも。終わることがない果てしない記憶が、
 どこまでもどこまでも追いかけてくる。      (引用ここまで)

●谷口稜暉(すみてる)さんは郵便を配達途中に被爆し、背中から腰全体に大火傷を負った。
 1年9か月間、うつぶせ状態で、「ベッドの上が毎日食堂になり、また便所」の
 日々だったという。肋骨、顎、左頬が床ずれになり左ひじは伸びなくなった。
 谷口さんの言葉を引用させて頂きます。

 こんな苦しみは私たち被爆者だけでたくさんだ。
 それだけに日本の核武装への道への不安は大きい。
 決してあってはならない。

 身体の傷痕は「見世物ではない。だが、私の姿を見てしまったあなたは、
 どうか目をそむけないで、もう一度よく見てほしい。
 私は奇跡的に生き延びたが、今もなお私たちの全身には
 原爆の呪うべき爪痕がある」と25年後の『長崎の証言』で述べている。
 思いは亡くなるまで同じだった。     (引用ここまで)    ②につづく


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