今日のうた

思いつくままに書いています

「はがき通信」 2013年6月26日、朝日新聞

2013-06-26 05:14:40 | ②一市民運動
「いつ、どこでも」

10回にわたり放送された「BS世界のドキュメンタリー シリーズ 
オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」(BS1)が14日に終わった。
日本では見られないような昔の映像がたくさん出てきた。

アメリカがどのようにして戦争に追い込まれていったのか、よく理解できた。
為政者は自分に有利な情報のみを流し、国民の正義と忠誠心に訴える。
これはいつの時代でも、どこの国でも起こりえることなのだと、改めて思った。

    *原稿は「起こり得る」で出したが、紙面では「うる」ではなく
     「える」と直されていた。
     今は「起こりえる」というのだろうか。


 この番組には、戦争で亡くなった死体がたくさん出てくる。
時に山をなして写される。日本では考えられないことだ。
死体を直視することで、戦争の残虐さ、愚かしさが直接伝わってくる。

 姜 尚中氏は、著書 『心』の中で 、同じようなことを書いている。
これは東日本大震災で犠牲になられた方を海中で探し出す、ライフ・セービングの
ボランティアをしている若者に向けたメール、という形をとっている。

 「直広君。
 メディアで報じられる被災地の映像を見て、君は気づいていますか。

 テレビの画面にも、新聞や雑誌の写真にも、具体的な死者の写真は
一つも写っていません。
だから、君たちと違って、現場から離れたところにいるわたしたちは、
隠蔽(いんぺい)された死、あるいはきれいに消毒された上澄みの死だけ
しか見ていないのですよ。
そんなものにどうして哀悼の念や畏敬の念を感じられるでしょうか。
どうして涙を流したり、あるいは目を背けたりするでしょうか。

 その結果、わたしたちはもはや五千人の死も一万人の死もまったく同じにしか
思えなくなっています。
増えていく数の違いにも見向きもしなくなっています。
これこそまさに、直広君、君が最初のころにさかんに言っていた
「無意味な死」というものではないでしょうか。

 じっさいには、そうではないはずなのです。

 五千人の死と、五千一人の死はたった一人の違いかもしれませんが、
両者の間には雲泥の違いがあります。
そう思えなければ、死者の尊厳などどこにもないことになります。
死者を統計的な数字に置き換えることは、じつは両者の違いを掻(か)き消し、
生だけに満たされた元の世界に戻るためではないかと思ったりします。・・・」

追記1
2015年6月14日放送、NHKスペシャル「沖縄戦・全記録」を観る。
番組の始めに遺体処理をしていないという字幕が出て、映像には遺体がそのまま
映し出されていた。
こうした形を取らないと、戦争や死の現実を知ることが出来ないと思う。
観るのがつらい人は、字幕が出た時点で、観ることを止めることが出来る。
これからもこのような形での視聴を、私は望んでいます。
(2015年6月15日 記)
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