わたしは日本軍「慰安婦」だった―日本にも戦争があった〈3〉李 容洙,高柳 美知子新日本出版社このアイテムの詳細を見る |
本書の最初に、京都市東山にある「耳塚」のことが言及される。日本人には、すっかり忘れられた史跡だが、韓国からの観光客がひっきりなしに「耳塚」に訪れ、黙祷をするという。「耳塚」とは、豊臣秀吉が朝鮮出兵という侵略行為を行ったときに、日本の兵士が戦功の証拠にと、討ち取った朝鮮半島の軍兵や農民の鼻や耳を切りそぎ、樽に塩漬けにして日本に持ち帰り埋めた塚のことである。侵略した側は簡単に忘却に至るが、侵略された側の記憶は決して消えることがない。侵略者は、いともように自己の蛮行を忘れ去るものである。そして、豊臣秀吉の場合も、そうした面をそぎ落とした立身出世物語は人々の好むストーリーとして伝えられていく。
同様に、日本がアジアの国々を侵略したことも、「侵略された」側の記憶に配慮することもなく、都合の良い歴史観に書き換えられる危険がある。特に、最近の自由主義史観に基づく教科書を巡る各自治体での採択にその傾向がみられる。
軍事的性奴隷というべき従軍慰安婦の記述が歴史教科書から消されたのも、危険な傾向の中の動きであった。埼玉県の上田知事の「従軍慰安婦」は無かったという発言等、また、横浜市の前市長のもとでの教育委員の選任問題は、同様に一部の自治体で起こっている。教育委員に自由主義史観の立場をとる人物を選ぶことが、教科書採択問題につながっていく。扶桑社・自由社の二つに分裂して出版された歴史教科書は、産経新聞が誇っているように、確かに前回の採択と比べて1パーセント台後半になる模様である。まだ、多くの自治体では、偏ったこれら2社の教科書が採択されていないが、引き続き、警戒は怠らないようにしなければいけない。民主党のマニュフェストでは、自公政権化の文部科学省の教科書採択は教育委員会の権限と責任でしろとの通知とは違い、教職員や保護者の意見も反映するように、学校ごとの採択への段階的移行がうたわれた。この公約が実現されるように、国民としての監視は怠れない。
本書は、15歳の時に、従軍慰安婦とされた李容洙(イヨンス)さんの証言である。儒教の影響の強い韓国では、過去に従軍慰安婦であったことを告白することは、大変な覚悟がいることであった。その時の記憶が、彼女たちのその後の人生に暗い影を落とし、結婚できなかった女性も少なくなかった。覚悟を決めて証言を始めた女性たちも、高齢のために次々と世を去って行った。彼女らの証言を残すことも重要な作業となった。本書は、日本の青年に対して、従軍慰安婦制度の背景となる歴史の記述とともに、李さんの貴重な証言が収められた。
なお、日本では、従軍慰安婦の存在を否定しようとする勢力が存在する。ブログの中にも、当時の朝鮮は日本と比べて劣った国なので、日本による併合によって近代化が為されたなどとの投稿を続けているものもある。その中には、明らかに朝鮮の助成を蔑視するものがあり、日本により善導されて当然だとするとんでもないものもある。また、ある女性「文化人」は、外国人による慰安婦のおかげで、日本の婦女子が助かったなどと発言をしている。まずは、歴史をしっかりと見据えることが必要である。
彼女が、兵隊から暴力を受け、仕置小屋の入れられた時に助け出した日本人の特攻隊員の話が記憶に残った。
追記:劣った文明を指導してやるという思い込みは、歴史上、侵略する側の理屈となってきた。これこそ、大きなお世話である。
その独善性を、寓話的に読み取ることができる小説に「モスキート・コースト」があった。ホンジュラスのジャングルに文明を持ち込もうとするアメリカ人の独善的な発明家。それに絡むアメリカ人宣教師。この作品は映画化もされた。
日本の侵略行為を正当化したい人にぜひ、読んでもらいたい作品だ。直接には、国家が別の国家を侵略する話ではないが、独善性の持つ狂気を知ることが出来るだろう。
モスキート・コースト中野 圭二,村松 潔,ポール・セロー,Paul Theroux文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
モスキート・コースト(1986) - goo 映画
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