トッペイのみんなちがってみんないい

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五日市憲法草案 その後

2008-05-08 03:20:49 | 多様性
 千葉卓三郎を中心に、五日市学芸講談会というグループの若者たちにより、「日本帝国憲法」(五日市憲法草案)が作られた。内容をみると、その当時の民権派の一般論であるイギリス流の立憲君主制、国会の三部制(天皇・民撰議員・上院)、直接選挙による議院内閣主義、アメリカ流の三権分立主義が採用されていた。
 しかし、特筆すべきは、国民に関する第二、三、五章に150条もの条文を割いている草案だったことである。こうしたことは、他の私擬草案にはないことであった。国民の権利の章では、まず日本国民を定義し、次に「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ」と基本的人権の不可侵性と国法による保護という大前提を置いている。(日本国憲法第11条「国民は、すべての基本的人権の享有をさまたげられない。」) まさに、現憲法の源流である。

 もちろん、草案は時代の制約を受けていたものである。しかし、千葉卓三郎の私見は、天皇主権主義原理の否定であった。彼は、自分の事を「ジャパン国法大博士タクロン・チーバー氏」と名乗り、西洋の「法律格言」を自分流に読み替えている。「国王は決して死せず」は「国王は死す国民は決して死せず」に、「国王の特権は一般の由て与ふることなし」を「国王には特権を与ふること勿れ」「若し人民権利と人君の権利と集合するときは人民の権利を勝れりとす」としている。このような読み替えを明治の日本人は自由自在にやっていた。儒教に対しても、自分たちの論理に組み込むような自由な解釈を加え、それを内側から変質してしまうような思考方法を持っていたのである。(色川大吉氏) 彼は、王道論では、「詩経」「書経」を使って、明治の立憲主義の理論の構築を図っている。
 
 彼らの志は明治23年の大日本帝国憲法に生かされることも無かった。天賦人権、基本的人権が声高に発言できるには、日本国憲法の登場を待たなければならなかった。

 「周知のように帝国憲法は、伊藤博文ら数人の官僚の手で秘密裏に起草され、(中略)一般国民には一度もその草案を示されず、国民大衆の意見には全く耳を貸すことなしに制定されたもので、(中略)これこそ文字通りの”おしつけ憲法”といわなければならない」(家永三郎「憲法読本」)

 千葉卓三郎は、明治16年に32歳で病死、その後、深沢権八も28歳で夭逝している。

  資料 色川大吉他著「民衆憲法の創造」(評論社)
 

 


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