第5回日本SF評論賞・選考委員特別賞を受賞した『文字のないSF―イスフェークを探して』(高槻真樹)がSFマガジン6月号に掲載されている。野田昌宏の「SFってなァ、結局のところ絵だねェ」という名言を枕に、文字のない画像表現だけのSFが存在しうるのかという問いかけを投げてくる。
ここから先は、いつものように、自分語りの話であって恐縮なのだが、文字のないSFについてちょこっと書いてみる。
実は、高校時代に“文字のないSF”に出会ったことがある。美術の授業の一環で、美術館に行った時のことだ。それは地元出身の新進芸術家の作品を集めたローカルな展覧会で、作者の名前もタイトルも覚えていない。
禍々しく赤い色の空。
鉄錆色の波が打ち寄せる荒れた岸辺。
その上に、なぜか灰色の岩の列が浮かんでいる。
作者にとってはすさんだ心象風景を描いたつもりだったのだのかもしれない。しかし、その絵は自分にとっては、人類死滅後の遠い未来の地球を描いたものに見えた。そして、そこにいたる人類と地球の歴史に想いを馳せるように駆り立てるような絵に見えた。ウェルズが『タイムマシン』で描いた80億年後の地球にいたるまでの長い歴史が想起されるような、そんな絵だった。
話は変わるが、徳間書店のSF誌(あのSFアドベンチャーの後継で、現在はムック形式)『SF Japan』と月刊一般紙『問題小説』の連動企画で「イラスト先行企画」シリーズというのが続いている。これは先に挿絵となるイラストがあり、それに複数の作家が物語をつけるという形式の企画だ。困ったことに、これが面白くない。なぜならば、お題となるイラストが抽象的過ぎて、ちっともイメージを喚起しないからだ。そのおかげで、せっかく複数の作家が発想のオリジナリティを競うような企画でありながら、どんな小説が書かれても驚きがないし、テーマも不鮮明になっている。まさしく、あれは挿絵でしかなくて、“文字のないSF”作品とは言いがたい。
言葉による物語が映像的なイメージを積み重ねる。それが、何かの映像的表現がきっかけとなって別な物語を紡ぎ出す。それはSFには限らない。その表現を観る者の記憶や文化的背景に大きく依存しているはずだ。
たとえば、夜の丘にぽつんと立った一本の木を描いた映像を見たとき。
恋愛小説ファンはロマンチックな逢引の場所をイメージするかもしれない。
ホラー小説ファンは死体が埋められた場所をイメージするかもしれない。
SF小説ファンは遠くの惑星で一本だけ育った故郷の木をイメージするかもしれない。
しかし、画家は単純に裏山の木を写生しただけだったりするかもしれない。
結局のところ、SFのイメージは観るものの頭の中にこそあり、そのイメージをうまく引き出せたものが観る者にとって“文字のないSF”として認識されるのではないだろうか。
「SFってのは絵だねェ」という言葉の意味は、「SFは映像的なイメージを喚起させる」という意味だけでも、「映像表現こそがSFである」という意味だけでも無い。どちらの意味が正しいかという問いかけはナンセンスだ。
SF小説は、および、SF的言説(ノンフィクションや架空論説も含め)は映像的なイメージを喚起させる。そしてまた、そこで呼び起こされたイメージが、まったく別な映像表現を呼び出し、観る者からSF的な言説を引き出す。
このような言論的SF表現と映像的SF表現が、観る者の認識の中で共振装置として作動することこそが、「SFってのは絵だねェ」の意味なんじゃなかろうか、と思う。
いや、まさしくそれが、高槻氏の言う“我々読者に託された可能性”ということなんでしょうがね。
ここから先は、いつものように、自分語りの話であって恐縮なのだが、文字のないSFについてちょこっと書いてみる。
実は、高校時代に“文字のないSF”に出会ったことがある。美術の授業の一環で、美術館に行った時のことだ。それは地元出身の新進芸術家の作品を集めたローカルな展覧会で、作者の名前もタイトルも覚えていない。
禍々しく赤い色の空。
鉄錆色の波が打ち寄せる荒れた岸辺。
その上に、なぜか灰色の岩の列が浮かんでいる。
作者にとってはすさんだ心象風景を描いたつもりだったのだのかもしれない。しかし、その絵は自分にとっては、人類死滅後の遠い未来の地球を描いたものに見えた。そして、そこにいたる人類と地球の歴史に想いを馳せるように駆り立てるような絵に見えた。ウェルズが『タイムマシン』で描いた80億年後の地球にいたるまでの長い歴史が想起されるような、そんな絵だった。
話は変わるが、徳間書店のSF誌(あのSFアドベンチャーの後継で、現在はムック形式)『SF Japan』と月刊一般紙『問題小説』の連動企画で「イラスト先行企画」シリーズというのが続いている。これは先に挿絵となるイラストがあり、それに複数の作家が物語をつけるという形式の企画だ。困ったことに、これが面白くない。なぜならば、お題となるイラストが抽象的過ぎて、ちっともイメージを喚起しないからだ。そのおかげで、せっかく複数の作家が発想のオリジナリティを競うような企画でありながら、どんな小説が書かれても驚きがないし、テーマも不鮮明になっている。まさしく、あれは挿絵でしかなくて、“文字のないSF”作品とは言いがたい。
言葉による物語が映像的なイメージを積み重ねる。それが、何かの映像的表現がきっかけとなって別な物語を紡ぎ出す。それはSFには限らない。その表現を観る者の記憶や文化的背景に大きく依存しているはずだ。
たとえば、夜の丘にぽつんと立った一本の木を描いた映像を見たとき。
恋愛小説ファンはロマンチックな逢引の場所をイメージするかもしれない。
ホラー小説ファンは死体が埋められた場所をイメージするかもしれない。
SF小説ファンは遠くの惑星で一本だけ育った故郷の木をイメージするかもしれない。
しかし、画家は単純に裏山の木を写生しただけだったりするかもしれない。
結局のところ、SFのイメージは観るものの頭の中にこそあり、そのイメージをうまく引き出せたものが観る者にとって“文字のないSF”として認識されるのではないだろうか。
「SFってのは絵だねェ」という言葉の意味は、「SFは映像的なイメージを喚起させる」という意味だけでも、「映像表現こそがSFである」という意味だけでも無い。どちらの意味が正しいかという問いかけはナンセンスだ。
SF小説は、および、SF的言説(ノンフィクションや架空論説も含め)は映像的なイメージを喚起させる。そしてまた、そこで呼び起こされたイメージが、まったく別な映像表現を呼び出し、観る者からSF的な言説を引き出す。
このような言論的SF表現と映像的SF表現が、観る者の認識の中で共振装置として作動することこそが、「SFってのは絵だねェ」の意味なんじゃなかろうか、と思う。
いや、まさしくそれが、高槻氏の言う“我々読者に託された可能性”ということなんでしょうがね。
どちらかというと、私は賛否を問うよりは新しい議論の触媒となるような作品を目指したから。そのあたり、過去の挑発的な「SF評論」とはだいぶん違うので「これを評論と認めていいのか」と最後まで渋った先生方もおられたということなのでしょう。
今回語り残してしまいましたけど「一枚絵のSF」の可能性も考えるべきものがあります。その点で、今回のご意見は、非常に刺激的でした。ぜひ、次回は「SF評論賞」挑戦してみてください。待ってます。
TOCONに向けて大会ブログで、東京を舞台にしたSF作品評を展開中です。私も参加しています。よかったらぜひごらんになってください。