神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] 深紅の碑文

2014-01-18 22:49:36 | SF

『深紅の碑文』 上田早夕里 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

 

『華竜の宮』の“姉妹編”と記載されているが、完全に続編。さらに、短編集『リリエンタールの末裔』までも含め、ひとつの世界設定、未来の歴史≪オーシャン・クロニクル≫を形作る。

『華竜の宮』において小松左京の後継者としての名を馳せた著者が送る、日本沈没、ならぬ、世界沈没。予測された≪大異変≫を目前に右往左往する人々。理系科学だけでなく、経済学、社会学、心理学といった方面にも気を配り、“世界の有り様”を描いた処は、まさに小松左京の後継者の面目躍如といえる。

破滅に瀕した世界の中で、希望と言えるのが外宇宙探査船、≪アキーリ号≫。核融合エンジンを利用し、人間の替わりにアシスタント知性を載せ、遥かな旅へ出発する。

しかし、破滅に瀕した世界でも人々は希望を持ち続けるという暖かな話ではまったくない。そこは、他の読者さんとは違い、希望よりも諦観のようなものを強く感じた。

物語の中で大きなウェイトを占めるラブカ。彼らがどうして陸上民を敵視し、武装闘争を選んでいったのかという歴史は、読んでいて息が詰まりそうだった。違うんだ、そうじゃないんだ。そう思いながら読んでいた。

特筆すべきは、“仲間”という言葉の残酷さ。仲間であるか、そうでないかの間にはくっきりとした線が引かれる。その向こう側にはどんなことがあろうと、どんな仕打ちをしようと、自らのこととは考えられない。たとえ、同じ人間だということを頭で理解していても、心が仲間であることを拒否する。

海上民を支援する人々ですら、彼らを仲間として考えていない。支援すべき弱者、保護すべきかわいそうな人々と考えている。自分たちとの間には、見えない太い線がしっかりと存在する。どうして共に歩む仲間と考えることができないのか。

東日本震災、福島原発事故後のことを考えれば、誰にでも心当たりはあるだろう。被災者は仲間だったか。福島に住む人々は仲間であるのか。そして、地球全体で考えれば、海の向こうや国境や文化の間に線を引いていないか。自爆テロを繰り返すアラブの人々は仲間と言えるか。南スーダンで怯えながら銃を手にする男を仲間だと思うことができるのか。

それは、とてつもなく難しい。

≪アキーリ号≫に関する件もそうだ。外宇宙探査船を希望と見る人々と、そうでない人々の溝は深い。現代ですら、宇宙開発を無駄と言い切る人々もいる。例え、宇宙開発にかかる予算がGDPのわずか0.05%であろうとも。それは、生活保護の不正受給問題にも似ている。割合の大小が問題なのではなく、それがわずかでもあることが無駄であり、許せないのだろう。

そのような人々をも、我々は共に歩む仲間と思うことができるのだろうか。

すべての人々が同じ方向を向くことは、たとえ地球規模の大災害が目前に迫っていようとも、無理なのかもしれない。しかし、その中でも、なんとか我々はやって行かなければならない。そういう諦めと決意を強く感じた。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿