藤井太洋は“コンテンポラリー”な作家だ。彼の描く近未来は、いまここ、現在と地続きであり、我々の前に必然的に表れてくる道筋そのものである。まるで、暗闇の中でそこだけが明るく照らされた道のように。しかし、その未来が明るいかどうかは定かではない。
今回も舞台は近未来。オリンピック直前の東京。少子化と移民の増加により激変する社会は現在をはるかにしのぐレベルで二極化を進めていく。過密する都市と、過疎化する地方。持てるものと、持たざる者。正規雇用と非正規雇用。日本人と非日本人。デジタルネイティブと非デジタルネイティブ。
持たざる者たちの課税逃れから始まった仮想通貨によるアンダーグラウンド・マーケットは、またたく間に東京を飲みこんでいく。
正直なところ、このような未来が数年後に訪れる可能性を受容することはできない。こうなる前に、何とかなるんじゃないかと。しかし、現在におけるすべての指標が、このような極端な階層社会の到来を指し示していることは否定できない。
果たして、自分はこの世界で生きていけるのだろうか。実のところ、自分はいわゆる大企業の正規雇用労働者であるわけで、このようなアンダーグラウンド・マーケットの到来を知らずに生きているかもしれない。一方で、自分の職種はこのマーケットを支える技術に非常に近い仕事をしているわけで、もしかしたら、本作の悪役である城村のような係わり方をしてしまうかもしれない。
いろいろな可能性を考えながらも、実際のところ、流されるままに生きていくのではないだろうか。
ところで、本文中でもちょっと言及されているが、仮想通貨って本当に大丈夫なものなのか。それが今一つ確信が無い。
通貨というのはいわば信用そのものであるわけで、日本円=日本銀行券は日本国の信用を体現している。それに対し、ビットコインのような仮想通貨(分散化された暗号化通貨というのが正しいのか)が体現している信用は、暗号アルゴリズムの信用なのではないかと思われ、その信用は原理的に解読できないのではなく、有効時間内に解読できないというレベルのはずだ。つまり、無限の(に近い)計算能力を仮定する場合や、新たな解読法が発見された場合には、この信用は吹き飛んでしまう。
日本国の信用と、仮想通貨の信用のどっちが高いかといえば、現時点では日本国の信用が高いのだろうが、それでは仮想通貨の信用がどのくらいなのかというと、それこそ利用者がどれだけそれを信用するかに依存してしまうのではないか。
そんなわけで、日本においてアンダーグラウンド・マーケットが生まれるであろうことは予測できるとしても、そこで採用される通貨がビットコインのような仮想通貨なのかどうかというのは微妙なところ。
もしかしたら、それはT-ポイントのようなポイントなのではないかという気もしているのだけれど、どうだろうか。いやそれも仮想通貨であることに間違いないんだけどさ。