これは確かに『エピローグ』を読んでからの方がおもしろい。
榎室、朝戸、クラビトなんて苗字に加え、アガタなんてのも出てきたりする。実はこれ、人名自動生成プログラムの出力結果なのだ。なるほど、なるほど。
プログラムから自動的に生成された13人の名前。ここから物語は始まる。それぞれの名前にはミッションが割り振られ、その結果がエッセイや小説の形で繋がっていく。
その中で、ひとつの漢字を1回だけ使った(いろは唄のように)漢詩である千字文や、和歌集の解析の解析。さらにはこの小説自身の解析が始まる。
そして、無限のサルや、過去の名作からランダムに引用する猩猩を経て、遂には自らが語り出すプログラムにいたる。そう、これはまさしくイザナミ・システムだ。
しかしながら、この小説の文章は全体的にわけがわからない。だいたい、“わたし”と“私”が出てきたり、一人称も二人称も指している対象がわかりずらい。これが試験問題に使われたら、誰にも正しい解答なんてわからないんじゃないか。
登場人物たちがそれぞれ勝手に語り始めるため、各章やモジュールの著者が誰なのかも冒頭部分からはわからない。しかも、登場人物それぞれにバージョンがあり、空間的なつながりも、時間的な因果関係も崩れていく。
おまけに、登場人物の性格や文体に一貫性が無いと、地の文で宣言してしまうほどの野放図さ。一度は誰かがブン投げた伏線を、別な登場人物が拾って回収するという展開。これらは意図したものではなく、連載という形式から偶然に生まれた産物なのかもしれない。いや、絶対そうだろう。
河南と川南と札幌。巨大な霊長類。滝野霊園のモアイ。円城塔にとっての小説の理想型とは何か。とりとめもなく、思考があっちこっちに飛ぶ感じ。唐突に村上龍の例の迷言まで出てきて吹き出すくらい。無視しておけばよろしいって、まだ和解してないのか。
『エピローグ』にも出てきた、バージョン管理されるデータとしての書物と言う解釈は実に面白い。電子版どころか、Git管理される書物だ。コーパスごとに分解され、検索ラベルを貼られ、まさに再利用可能なデータとして小説が生まれ変わっていく。この先にあるのが、『エピローグ』の自らを語り続けるプログラム=イザナミ・システムだ。
なぜこれが『プロローグ』で、あれが『エピローグ』なのか。なるほど、なるほど。これは実におもしろい。