『ダールグレン(Ⅰ・Ⅱ)』 サミュエル・R・ディレイニー (国書刊行会)
出る出る詐欺とまで言われたSF界の幻の名作が遂に出版された。サミュエル・R・ディレイニーの『ダールグレン』である。
1960年代から70年代に掛けてのニューウェイブの嵐の中で生まれ、アメリカの若者を釘付けにし、まさにバイブルとなった存在。その一端は、かのウィリアム・ギブスンが書く序文にも現れている。そして、それゆえに、ニューウェイブとサイバーパンクを繋ぐ架け橋としての興味も強かった。
真っ黒で光の反射率の差でしか読み取れない、スタイリッシュな表紙カバー。Ⅰ、Ⅱ合わせて約1000ページという重厚さ。「さあ、読めるものなら読んでみろ」とでも言うように、挑発的なたたずまい。
休日では読みきれず、通勤電車の中も持ち歩き、ほぼ2週間掛けて読みきったものの、うなるしかない作品だった。
『アインシュタイン交点』のように何が書いてあるのかわからないような小説でもなく、読んでいる間はワクワクし、セックスと暴力と狂気の街に引き込まれ、主人公キッドと、見捨てられた都市ベローナがこれからどうなっていくのかということに心を惹かれた。しかし、SFファンでありSFとは何かを考えてみたい人、60年代のアメリカの風俗や文化に興味のある人、そんな人以外にはなかなか薦める気にはなれない。
もちろん、それは好みの問題であるに過ぎないだろう。ギブスンを始めとしたSF作家たちが褒め称え、絶賛するブログだって腐るほど見つかるだろう。しかし、しかし、敢えて言おう。この小説は面白くない。この“SF”小説は面白くなかった。
最大にして、まったくもってそれに尽きる問題というのは、ベローナとキッドの正体だ。
名を失い、そしてまた名を貰い、最後には名(の一部)を思い出したキッドという存在は、いったい何者なのか。そして、この霧と煙に包まれた街ベローナとは、いったい何物なのか。最初にその問題にとらわれてしまったということが悪かったのかもしれない。
最初に抱いた問いに対して、明確な答えは得られないままに、物語は螺旋を描く。円環ではなく、螺旋である。循環ではなく、無限に続く流れである。そして、その流れに読者は飲み込まれ、囚われる。そういう構造の物語である。
しかし、敢えてキッドとは何者か、ベローナとは何物かということを考えたとき、かなり明確にその答えは与えられる。物語に散りばめられたエピソードや小道具が、あるときは思わせぶりに、あるときは露骨に、ひとつの避けがたい結論を示している。
キッドとは、ディレイニーの分身である。ベローナとは、ディレイニーの妄想であり、夢想であり、内宇宙(インナースペース)である。
それゆえに、二つの月も、巨大な太陽も、品物がなくならない店舗や酒場も、すべての謎に科学的な理由もSF的な理由も、何も無い。そこにあるのは、文学的な理由だけだ。
ディレイニーは黒人でありながら上流家庭で育ち、ゲイでありながらバイであり、SFにおいても『バベル17』のようなオールドスタイルSFを書きながら、ニューウェイブSF作家として広く認知されている。この鵺的な彼の脳内の妄想が、当時のアメリカ文化を取り込み、攪拌され、醗酵し、妖怪人間べムのようにして生まれ、すでにSF作家として確立していたディレイニーの販路をたどり、当時の若者文化を共通言語として持つ読者層に拡がり、ジャンル小説の枠を飛び越え、さらなる妄想を生み出す原動力となったもの。それがこの小説である。
ゆえに、この小説は自伝的であり、完全な私小説である。無意識のうちに腕の武器で他人を傷付けることを恐れ、詩人にあこがれながら剽窃の指摘や批判を恐れ、セックスでも暴力でもスーパーマンでありたいと願う若者の振りをした中年親父の妄想である。
俺はゲイにもドラッグにもヒッピーにも、夜な夜な廃屋を襲撃する暴力にも興味は無いし、60年代のアメリカに特別な思い入れなど何も無い。アメリカン・グラフティなら勝手にやってろ。
実は夢でした。実は妄想でした。そんなオチのSFは、普通は駄作と言われる。SFですという顔をして、SFネタを振りつつ、夢の中なので理由はありません。あったとしても、夢見る主体の心象の現われに過ぎません。それはSFとして読んだ場合、とてもアンフェアで不誠実な態度ではないか。
いやいや、SFじゃないよ。“未来の文学”だよ。
……そうですね。その通りですよ。
出る出る詐欺とまで言われたSF界の幻の名作が遂に出版された。サミュエル・R・ディレイニーの『ダールグレン』である。
1960年代から70年代に掛けてのニューウェイブの嵐の中で生まれ、アメリカの若者を釘付けにし、まさにバイブルとなった存在。その一端は、かのウィリアム・ギブスンが書く序文にも現れている。そして、それゆえに、ニューウェイブとサイバーパンクを繋ぐ架け橋としての興味も強かった。
真っ黒で光の反射率の差でしか読み取れない、スタイリッシュな表紙カバー。Ⅰ、Ⅱ合わせて約1000ページという重厚さ。「さあ、読めるものなら読んでみろ」とでも言うように、挑発的なたたずまい。
休日では読みきれず、通勤電車の中も持ち歩き、ほぼ2週間掛けて読みきったものの、うなるしかない作品だった。
『アインシュタイン交点』のように何が書いてあるのかわからないような小説でもなく、読んでいる間はワクワクし、セックスと暴力と狂気の街に引き込まれ、主人公キッドと、見捨てられた都市ベローナがこれからどうなっていくのかということに心を惹かれた。しかし、SFファンでありSFとは何かを考えてみたい人、60年代のアメリカの風俗や文化に興味のある人、そんな人以外にはなかなか薦める気にはなれない。
もちろん、それは好みの問題であるに過ぎないだろう。ギブスンを始めとしたSF作家たちが褒め称え、絶賛するブログだって腐るほど見つかるだろう。しかし、しかし、敢えて言おう。この小説は面白くない。この“SF”小説は面白くなかった。
最大にして、まったくもってそれに尽きる問題というのは、ベローナとキッドの正体だ。
名を失い、そしてまた名を貰い、最後には名(の一部)を思い出したキッドという存在は、いったい何者なのか。そして、この霧と煙に包まれた街ベローナとは、いったい何物なのか。最初にその問題にとらわれてしまったということが悪かったのかもしれない。
最初に抱いた問いに対して、明確な答えは得られないままに、物語は螺旋を描く。円環ではなく、螺旋である。循環ではなく、無限に続く流れである。そして、その流れに読者は飲み込まれ、囚われる。そういう構造の物語である。
しかし、敢えてキッドとは何者か、ベローナとは何物かということを考えたとき、かなり明確にその答えは与えられる。物語に散りばめられたエピソードや小道具が、あるときは思わせぶりに、あるときは露骨に、ひとつの避けがたい結論を示している。
キッドとは、ディレイニーの分身である。ベローナとは、ディレイニーの妄想であり、夢想であり、内宇宙(インナースペース)である。
それゆえに、二つの月も、巨大な太陽も、品物がなくならない店舗や酒場も、すべての謎に科学的な理由もSF的な理由も、何も無い。そこにあるのは、文学的な理由だけだ。
ディレイニーは黒人でありながら上流家庭で育ち、ゲイでありながらバイであり、SFにおいても『バベル17』のようなオールドスタイルSFを書きながら、ニューウェイブSF作家として広く認知されている。この鵺的な彼の脳内の妄想が、当時のアメリカ文化を取り込み、攪拌され、醗酵し、妖怪人間べムのようにして生まれ、すでにSF作家として確立していたディレイニーの販路をたどり、当時の若者文化を共通言語として持つ読者層に拡がり、ジャンル小説の枠を飛び越え、さらなる妄想を生み出す原動力となったもの。それがこの小説である。
ゆえに、この小説は自伝的であり、完全な私小説である。無意識のうちに腕の武器で他人を傷付けることを恐れ、詩人にあこがれながら剽窃の指摘や批判を恐れ、セックスでも暴力でもスーパーマンでありたいと願う若者の振りをした中年親父の妄想である。
俺はゲイにもドラッグにもヒッピーにも、夜な夜な廃屋を襲撃する暴力にも興味は無いし、60年代のアメリカに特別な思い入れなど何も無い。アメリカン・グラフティなら勝手にやってろ。
実は夢でした。実は妄想でした。そんなオチのSFは、普通は駄作と言われる。SFですという顔をして、SFネタを振りつつ、夢の中なので理由はありません。あったとしても、夢見る主体の心象の現われに過ぎません。それはSFとして読んだ場合、とてもアンフェアで不誠実な態度ではないか。
いやいや、SFじゃないよ。“未来の文学”だよ。
……そうですね。その通りですよ。