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神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] 未来へ……

2017-07-31 22:31:26 | SF

『未来へ…… (上下)』 新井素子 (ハルキ文庫)

 

なんともお久しぶりの新井素子。

新井素子と言えば、中学校に雑誌付録のピンナップを持ってきた奴がいたが、あれは月刊コバルトだったか、アニメージュだったか。いいか、綿谷りさみたいな、あるいは、川上未映子みたいな美人じゃないぞ。あの、新井素子のピンナップだぞ。思えば、声優だって昔は林原やみやむーが絶世の美女扱いだったのだから、まあそういうこともあるだろう。とにかく、そんな感じで素子姫はアイドルだった時代があるのだよ。……って、いったい何十年前の話だ。

まぁ、そんなことはさておき……。

えっと、この作品は夢を媒介にして過去の自分とつながってしまった主人公が、娘(双子の片割れ)の香苗を事故死から救うために四苦八苦する、というお話です。

まぁ、とにかくこの主人公が、学はそれなりにある(カッサンドラとか知っているし)ものの、かなり知識が偏っていて、しかも本人が思っている以上にすっとぼけているので、かなりイライラする。例えるならば、コニー・ウィリスが繰り返す、すれ違いくらいイライラする。まったく、おばちゃんというものは……!(偏見)

上巻は本当に、なんでこいつらこんなに阿呆なんだろうとイライラしっぱなしで困った。

それが、下巻に入ると、生き残った双子の片割れである菜苗やら、男気のあるママ友やらに助けられ、最後は香苗本人のチカラによってミッションは成功するのだが、そこにはタイムパラドクスが!

しかし、そこはさすがの新井素子。綺麗に感動の枝篇までつなげているところは感心した。なんというか、本人も生粋のSFファンだけあって、SFの勘所を押さえてるよなと思う。このあたりはなんとも説明しづらいのだけれど。

で、やっぱり気になるのが、旦那の不在なのだよ。

香苗の死の直後に、あれだけ妻の支えになり、男性っぽく(そこは新井素子が意識しているのかどうかは不明だけれど)共感よりも問題解決を重視する対策を打ち出し、主人公を救った旦那さんは、いったい何をしていたのか。

これ、もしかしたら、旦那さんは主人公の異常を気づいていて、相談があるまで待っていたのかとも思うんだけど、それにしては解決までが長過ぎ。相談が無いからと言って、半年は待たないよなぁとか。もし、相談があったら何か解決ができたのかとか考えるんだけど……。少なくとも、野球のくだりは簡単になってたよね。あーでも、それだと坂井さんとのきっかけが無くなるか。

まぁそんなわけで、イライラとモヤモヤがつのりながらも、最後はさわやかに感動できた一品でした。

 


[SF] 誰の息子でもない

2017-07-24 21:26:03 | SF

『誰の息子でもない』 神林長平 (講談社文庫)

 

初出が「小説現代」というところが珍しいかもしれないが、円城塔が芥川賞を取って、宮内悠介が直木賞……はまた取れなかったけど、猫も杓子も伊藤計劃やケン・リュウを読んでいる時代ならば、神林長平が中間誌に書くくらいでは、なんの驚きも無い。(とか言いつつ、文庫化されるまでノーマークだったけど)

各家庭に一台、携帯型対空ミサイル(略称:オーデン改)が配備されている。とか。ぼくの仕事は、故人となった市民の、ネット内の人工人格=アバターを消去することだ。とか。ことごとく設定はおかしい。考え抜かれた設定というより、取り留めのない白昼夢というか、悪夢的な明晰夢を文章化したような感じ。

まあ、なにしろ“ネット内”の人格と言いつつ、その存在が目の前に現れるのだ。ARグラス越しでもなく、すぐそこに見えるらしい。しかし、他人からはその存在は見えない。こんなもの、まったくもって、幻覚と区別がつかない。

このアバターの実行ハードウェアは主人公の脳であって、その動作は主人公の動作として現れるとか、どう考えたって幻覚だし、精神疾患だろう。そもそも、ミサイルだって幻覚なのかもしれない。いや、この小説のクライマックス、というか、各章の目的は、いかにミサイルをぶっ放すかなのだから、ミサイルだけは本物なのだろうか。

ただ、注目すべきは、この奇妙な設定よりも、主人公(もしくは著者)と世界の関係性、そして、父親との関係性だろう。

かつての『死して咲く花、実のある夢』も、この作品と同様、信州を舞台にして、ズブズブと現実が崩壊していく様子が描かれていた。しかしそこで崩壊するのは世界の方であって、主人公の信念に揺るぎはなかった。

一方で、この『誰の息子でもない』では、疑われて崩壊していくのは主人公のアイデンティティであって、現実は(いかに奇妙であろうとも)そこに硬く存在している。その一端が、ミサイルだったりするわけだ。

これが、20年前の神林長平であれば、おかしいのは世界の方だ。そもそもこれは本当にミサイルなのか。という方向へ話が転がりそうな気がする。

これはいったいどうしたことか。

そして、また、そのアイデンティティを揺り動かす元凶というか触媒は、父親の存在なのである。この構図はS-Fマガジンに連載されていた『絞首台の黙示録』と同様であり、ふたつの小説は表裏一体のものなのだろう。

どうもこの小説は、これまでのように自我とか意識の問題を描いた作品ではなく、父親との関係性や、父親への想いを語った神林的私小説なのではないかという気がするのだよな。そういった意味では、これが中間誌に連載されたという経緯も大きな意味を持ってくるように思えて仕方がない。

 


[SF] 蒲公英王朝記

2017-07-18 21:39:57 | SF

『蒲公英王朝記』 ケン・リュウ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

『紙の動物園』で一躍有名になったケン・リュウの初長編は、なんと、中華系ファンタジーだった。

っていうか、内容は楚漢戦争そのもの。読み終わってからwikipediaをはじめとするWebの楚漢戦争の記述を見て回ったが、読めば読むほどそのまんま。登場人物も、戦争の行方も、細かいエピソードも、すべてどこからどう見ても、項羽と劉邦。

最初はまさにスーパーヒーロ、強くて優しくて頭も良くて非の打ちどころのない英雄のような扱いだったマタ・ジンドゥが、途中から手のひらを返すように、ただの阿呆をさらすのが不満だったのだけれど、最初から項羽だと思えばそうとしかならんわな、これ。

中華系の戦記モノというと、やたらと説教臭くて、しかも敵にはとことん残忍というイメージがあるのだが、まさにそんな感じ。なにかというと、一族郎党みな殺しである。マタ・ジンドゥはこういった古来の中華思想を体現するキャラクターとして描かれる。

一方の劉邦であるクニ・ガルは進歩的で、伝統や面子よりも実利を重んじる。盗賊や社会的下位層の出身者、さらには女性を重用し、新たな時代を切り開こうとする。

この二人の文化、性格のぶつかり合いが、物語の中の大きな流れのひとつになっていると言えるかもしれない。

ただ、マタの凋落があまりにも極端で、中華的な文化を西洋的な道徳で断罪しているような気もしてしまう。このあたりは、ケン・リュウの立ち位置も微妙な感じ。

SFとしてみれば、舞台は史実の中国とはまったく異なる島国での話(島にしてはデカいが、どれくらいの想定なのだろう。中国と同じサイズなら大陸規模?)になっており、完全な異世界ファンタジーということになる。鱗のある一角クジラであるクルーベンをはじめ、生態系も地球とは異なる。さらに、機械仕掛けの飛行船や潜水艦も登場し、スチームパンクの趣もある。

しかしながら、SF的なガジェットはちょっとした味付け程度で、そこが大きな魅力というほどでもないのは惜しい。ここまでは、あくまでも楚漢戦争の再話にとどまっていて、新たな世界の創出としては物足りない。

とはいえ、これはまだ第1部完とのことで、すでに本国(アメリカの方!)では第2部も刊行済みとのこと。楚漢戦争の枠組みを越え、ここからが本番。群島の外、つまりは中華圏の外に飛び出していくクニ・ガルや子供たちの活躍に期待しよう。

 


蠅の王

2017-06-27 22:34:40 | SF

『蠅の王〔新訳版〕』 ウィリアム・ゴールディング (ハヤカワepi文庫)

 

その昔、図書館で借りて読んだ気がするのだけれど、新訳版が出ていたので購入。これもディストピア・フェアだ。

記憶では、もっとどぎつい感じで救いが無かったようなイメージなんだけれど、そこまで酷い話ではなかった。きっと、これにインスパイアされたりされなかったりしたどぎつい奴を読み過ぎたせいだ。あれとか、それとか……。

読み返してみると、狡猾な狂人だと思っていたジャックはまるっきりの子供。主人公のラルフも絶望的なほどに子供。これって、全員小学生くらいだよね。そういう意味では、十代後半が入っているあれとか、それとかよりも、さらに絶望的と言えるかもしれない。

自らの中にある《獣》を畏れよというのが主題であろうかと思うが、個人的には最後に指摘された「全部で何人いるのかわからない」というので背筋がうすら寒くなった。

明確にジャックたちに殺されたふたりの他は、顔に痣があるせいで印象に残った少年の不在のみが示される。しかし、“おチビ”たちが何人生き残っていたのかは、ジャックどころかラルフも、ピギーですら把握できていない。心なしか、最初はうじゃうじゃといた“おチビ”たちが、最期には数人になっている描写があるようにも読める。

こういう小説を読むとき、自分だったら生き残れるかということを考えながら読んでいる。この小説の設定の場合、ジャックから離れて生き延びることは簡単かもしれない。しかし、読者としての自分が、“おチビ”たちをひとりも死なせずに救助を待てるかと考えもしなかったことに、改めて気づかされたのだ。なんというか、ものすごい自己嫌悪を感じた。

小説(もちろん映画やコミックでもそうだ)には読むのに最適な時期があると思っている。かつては規制図書にされたこともあるようだが、これはぜひ子供たちに読んでもらいたい小説だと思った。そして、自分だったらどうすべきだったのか、活発な子ならラルフの立場で、思慮深い子ならばピギーの立場で、それぞれ考えて欲しいものだ。

 


[SF] 風雲のヤガ

2017-06-27 21:54:33 | SF

『風雲のヤガ グイン・サーガ141』 五代ゆう (ハヤカワ文庫 JA)

 

まだまだ終わらないジジイ大戦。やっぱり、宵野篇とは時間の流れが違うような気がしてならない。

リギアとマリウスはサイロンへ。アッシャはヴァレリウスと離脱。五代篇のアッシャは、宵野編のアウロラと並んで、そのシリーズを象徴するキャラクターになりそう。この二人は栗本篇には登場しないので、存分に暴れて欲しいと思っている。

つまりは、栗本篇の登場人物の性格や設定はこれ以上いじってくれるな、と言うことなんだけど。

そして、ヤガのジジイ大戦。楽しいジジイの二人組は掃除用具入れに押し込められて、さらなるヘンなキャラクターが登場。まぁ、なんだかわけのわからぬ楽しいことになってきた。ヤガで何が起こっていたのかはだいたい明らかになってきたけれど、『七人の魔導師』からは想像もできない展開。本人もあとがきに書いているけれど、これって収集を付けるのが大変そう。

最後に……ブランとブロンてややこしいんだけど、どうにかならない?(いまさら……)

 


[SF] ブルー・マーズ

2017-06-27 21:24:06 | SF

『ブルーマーズ 〈上下〉』 キム・スタンリー・ロビンスン (創元SF文庫)

 

いやー、長かった。上下合わせて1200ページという長さも長かったが、《火星三部作》の第1巻、『レッド・マーズ』が出てからも長かった。『レッド』が1998年、『グリーン』が2001年。なんとそこから15年以上も空いての『ブルー』だ。

解説でも「諸事情あり」としか書いていないが、この諸事情はSF大会にでも行くと聞けるのだろうか?

この3部作では、〈最初の百人〉と呼ばれる科学者集団が火星に入植してから、火星が独立するまでの約200年が描かれるのだが、なんと老化抑制技術によって彼らの中から最後まで生き残るものが出てくる。というか、彼ら〈最初の百人〉が常に中心に描かれていく。第4世代の子供たちも出てくるが、誰それの子という紹介がなされるあたり、〈最初の百人〉の特別さが良くわかる。

それはある意味、今回のクライマックスである記憶再活性実験において、〈最初の百人〉の生き残りたちが『レッド』の舞台であるアンダーヒルに集結する場面で最大の効果を発揮する……はずだったのだろう。しかし、俺は10年以上前に読んだ本の詳細なんて覚えているはずもなく、この感動を味わえなかったんだよ。ああ、記憶の劣化よ!

『ブルー』は群像劇であり、様々な角度からテラフォーミング後の火星、さらには水星や金星での社会や文化、さらには生態系について考察を交えながら想像を膨らませるという趣向の作品だった。それらをひとつに繋ぐのは〈最初の百人〉のひとりであり、神出鬼没で生死の知れないヒロコの存在だった。だから、ラストではヒロコの行方が判明、もしくは暗示されるものだと思っていた。

しかし、ヒロコの行方は杳として知れず、果ては神格化された伝説と化してしまう。その代わりに作品を貫く主題として浮かび上がってくるのが〈最初の百人〉を襲う記憶障害と突発性崩壊である。そしてそれが、記憶の原理の解明と再賦活化技術(このあたりは最新科学というよりは完全に著者の創造なのだろうが)へとつながり、アンダーヒルでの回想シーンに至る。

最後のシーンは〈最初の百人〉のひとりが、〈最初の百人〉の名前を受け継ぐ子供たちと穏やかに過ごすひと時である。マスクも、防寒服も要らず、アイスが融ける渚で遊ぶ子供たち。これこそが、火星と〈最初の百人〉が勝ち取ったものだ。衝撃的な事件も、不穏な空気も無く、穏やかな日々。これこそが勝利だと思える結末だった。

作品中で描かれる様々なシーンやテーマは多岐に渡るが、印象的なものが多かった。

ひとつは、火星憲法の制定である。様々な立場の人々からなる制憲会議において、そもそも憲法とは何かが議論される。このあたりの議論は、憲法改正が取り沙汰される現在の日本においても興味深かった。

さらには、火星で原始人さながらの狩を行う人々の物語は読んでいて楽しかった。槍を持ち、獲物を追う。それはスポーツでもあり、レクリエーションでもある。これは火星に豊かな生態系が現れた証明でもあるが、日本で考えるとなかなか難しいかもしれない。

もちろん、移民の問題は避けて通れない。火星に地球の文化や摩擦を持ったまま入植しようとする人々。もちろんそこに様々な摩擦が生まれるが、人工増加と海面上昇でパンクしそうな地球の各国はなりふり構っていられない。結果的に火星は戦争を避けるために、人道的に移民を受け入れざるを得ない。このあたりの話題は、2010年代になって初めて日本でも身近に感じられる危機になってきたわけで、そういった意味では今になって出版されたのも悪くなかったのかもしれない。

水星の移動都市も、火星の空を飛ぶ鳥人も、さらなる外惑星や他星系への旅立ちも、他の様々な話題も実に興味深く、それぞれの章だけで一晩中語れそうな具合だ。それぐらい濃密な想像力が溢れてくる作品だった。いずれ、『レッド』から通して読み直すために、積読の棚に積み直したわけだが、果たしていつになることやら。

 


[SF] 終わりなき戦火 老人と宇宙6

2017-05-24 22:18:30 | SF

『終わりなき戦火 老人と宇宙6』 ジョン・スコルジー (ハヤカワ文庫 SF)

 

《老人と宇宙》シリーズも6冊目。なんで老人がタイトルなのか忘れ去られている気もするが、ハリー・ウィルスンはじめ、コロニー連合の兵士はことごとく中身が老人。最初っから兵士の人造人間もいたような気もするけど、どうなったんだっけ。

これで今回のエピソードは一段落。いやあ、××が死ぬとは思ってませんでしたよ。ちょっと衝撃的。

ここのところ、寝落ちが多くて、いまひとつ読書スピードが上がっていなかったのだけれど、これは比較的スムーズに読めた。スリリングな展開が続くのと、割と馴染みの世界というのが理由なのだろう。俺の頭が老化している証拠なのかもしれない。

そんなわけで、充分楽しめた割に、書くべきことが無い。SFネタ的に新しいわけでもなく、考えさせられるストーリーというわけでもない。でも、読んでいて楽しいというのは最も重要なんだと思った。

 


[SF] 深海大戦 超深海編

2017-05-23 23:07:22 | SF

『深海大戦 Abyssal Wars 超深海編』 藤崎慎吾 (角川書店)

 

深海大戦の第3部。完結篇。

帯の煽りのわりには、なんとなく退屈で期待外れだった気が。

おそらく、主人公たちの会話文に魅力が無いのではないかと思われ。これは藤崎慎吾の才能の無駄遣いというか、そこは期待しても困るしという部分なのかもしれない。もし、本当にアニメ化の話があるのだとすれば、その部分を中心に強化を期待したい。

海洋+ロボットといえば、『翠星のガルガンティア』だったり、『絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク』だったり、先行例が無いわけではないが、そこは藤崎慎吾。最新の深海研究をもとにしたネタをいろいろ放り込んでいて、昨今のダイオウイカに始まる深海ブームに乗れば、アニメ化しても一発当てられる可能性はあるのではないかと思う。

藤崎慎吾といえば、『ハイドゥナン』に代表される海洋SFの旗手。そして、共生微生物によるバイオスフィアが知性を持つかもしれないというのもお得意のモチーフ。

遺伝子改良によって生まれた海洋適応人類《ホモ・パイシーズ》の存在と、海中での戦闘を実現するためのバトル・イクチオイドが表のSFガジェットであるならば、バイオスフィアの持つ意識とネットワークによる繋がりが裏のSFテーマになる。

人類が非人類であるホモ・パイシーズを挟んで未知の存在に対峙するとき、人類とは何かという問いを突き付けられるわけである。

しかしながら、そうであるからこそ、ジオス島とハイドラ島の比喩の意味は地球とどこかの惑星ではなく、地上に住む人類と、地球の深海生物圏に住む生命体との間の争いであって欲しかった。ああいう無駄にオカルティックな設定は邪魔ななだけだと思うんだよね。それとも、アニメ化を見据えたうえでは、こういった派手な設定が必須になってくるのだろうか。

でも、どこだかわからない異次元でつながった惑星よりも、この地球の深海に知的生命体がいるかもしれないといった設定の方がワクワクするんだよね。みんなはそうじゃないの?

 


[SF] 棄種たちの冬

2017-05-23 21:34:43 | SF

『棄種たちの冬』 つかいまこと (ハヤカワ文庫 JA)

 

夏とくれば冬。『世界の涯ての夏』で第3回ハヤカワSFコンテスト佳作となった著者の第二弾。この作品も、ノスタルジックなジュブナイルの雰囲気が溢れている。

都市は菌類に覆われた深い森に侵されている(住んでいるのは蟲じゃなくて蟹だけどな!)とか、『ナウシカ』の腐海のパクリかオマージュかと思えば、それだけでは終わらず、ちゃんとその先も用意されているというところは評価したい。といっても、梗概でも帯でも、そのあたりはネタバレしまくりなんだけれど。

そこは読みどころではなく、やっぱり主人公の少年少女たちが目指す未来が主題だというべきか。

なぜ生きるのか。なぜ死ぬのか。山の向こう、空の向こうには何があるのか。そうした幼年期の素朴な疑問と好奇心が、大人になった今でも、心の奥底からボクらを駆り立てて止まない。そんな焦燥感を呼び起こされる。

そして、たぶん、それこそが、SFを読まずにいられない理由のひとつなんだと思う。

そんな感じで、中学生、高校生時代の読書体験まで思い出させるような小説だった。

 


[SF] S-Fマガジン2017年6月号

2017-05-22 22:20:54 | SF

『S-Fマガジン2017年6月号』

 

アジア系SF作家特集。アジア系とは何ぞ、という感じではあるが、要は英米SF市場における“アジア系SF作家”の出版現状の紹介。もちろん、そういう意味で日本の作家もこの枠の中に入る。

ただ、オタクカルチャーの延長として紹介される日本SFに対し、テッド・チャンやケン・リュウなどのアジア系SF作家の作品や、彼らによって紹介される中華SFという違いは大きいかも。ネイティブな英語で書ける日系SF作家は出てこないものか。カズオ・イシグロにはこの方面は期待できそうにないしな。

一方で、中華SFが中国語からではなく、英語を挟んで訳されるというのも興味深い現象。そういえば、ロシア人作家もこのパターンが多いんだっけ。日本は日本だけで市場が作れてしまうのが、良くもあり、悪くもあり……といった感じ。どんな分野においても、ガラパゴス化しやすいのだよね。

そして、ここで紹介されている中華SFを読む限り、閉塞感と諦観が苦しいくらいに伝わってくる。世界を変えようとか、冒険に出かけようというイメージではなく、世界はこうなっているのだ、こうしかならないのだというイメージ。ありのままの世界を受け入れようというか……。これって、向こうの政治情勢を反映したりしてるんだよね、きっと。

2017年春アニメ特集がらみでは、今季見ているのは『正解するカド』ぐらい。しかし、あれも展開が遅くて退屈。もうひとつ、特集には出てこないけど『有頂天家族2』を連ドラ予約しているはずが、何度も録画ミスになっていて原因不明。まぁ、こっちは原作を読んでるからいいんだけど。

筒井康隆の「筒井康隆自作を語る」は割と貴重な連載になるかも。この人をはじめ、あの時代のSF作家は、あの時代だからこそSFを書き始めたんだなと思う。SFも才能ある若者が集う“新たな何か”であった時代があるのだ。今でいうとなんだろうな。ちょっと思いつかない。


「折りたたみ北京」 カク 景芳/大谷真弓訳(カク=赤へんにおおざと)
固定された格差と、それを乗り越えることを子供に託す人々。折りたたまれる世界のイメージは強烈。しかしこれも、世界を変えようという話ではないのだよね。

「母の記憶に」 ケン・リュウ/古沢嘉通訳
わずか数ページの短編ながら、今年一番泣ける小説。

「麗江の魚」 スタンリー・チェン/中原尚哉訳
時間拡大と時間圧縮。生ける屍と、生産性向上のモルモット。この舞台を中国にしたことに特別の意味はあるか。

「コンピューターお義母さん」澤村伊智
タイトルの出オチと見せかけて、二重にオチが待っていた。いやしかし、真相がわかってもウザイ。

「スタウトのなかに落ちていく人間の血の爆弾」藤田祥平
タイトルは妙に気が惹かれるが、苦手なタイプの小説かも。

「と、ある日のアルバイト」宮崎夏次系
なんか、そこで意地張って引っ張り続けるのもズレてる気がした。

連載はどれも、ほら2か月空いたら忘れてる、というのが事実。何とかならんのか、俺の記憶力は。