goo blog サービス終了のお知らせ 

2011荒尾市議選 6期目挑戦19票差で落選 田中ひろはるブログ!

ひろげたい! みどりと 平和と みんなの笑顔を! 新社会党でがんばります!  

よっぽどだったんですね 22年度社明運動反省会

2010年08月31日 | 地域活動
本日の午後2時から、荒尾市総合福祉センター(旧四小校舎)で開催されました、平成22年度の社会を明るくする運動の反省会へ市高P連を代表して出席してきました。
代表と言っても、他の役員さんはそれぞれに仕事がありますので、ということです。
議題のうちの経過報告では、それぞれの活動に対して意見があり、その中で特に『第4回ヤングステージインあらお』について意見が集中。
ある小学校からの参加者が多かった。出演者は頑張っていた。口蹄疫問題で学生から寄付カンパを会場で取り組もうと、急な提案があったものの34887円のカンパがあり、荒尾市を通じて宮崎県に送ったなどの良かった面の発言もありました。その反面、『出演者の内容を事前に把握しておくべき』とか『子ども達には見せたくない格好であった』とか、とにかく批判の声の方が多かったですね。
私はその日、ちょうど同時刻に新社会党荒尾総支部定期大会がありましたので、参加することができず見ていないので分からないんですが、批判の声が多いことによっぽどの格好をして出演していたんですね。来年の反省として、一番に掲げられました。
他にも、出発式後の市内5ヵ所での啓発活動において、荒尾消防署前の鮮ど市場も加えるべき。ティッシュだけでなくチラシも配布すべき。イベントがマンネリ化している、などの意見もあり、少年指導センターを中心に検討をされることになりました。
この活動の中で特筆すべきは、金銭面から行動まで、保護司会の方々の多大なご協力があった事を紹介しておきます。
荒尾市社明運動は38団体で構成されており、市高P連もその一翼を担っていますが、一つのイベントの推進母体ではなく、参加できるイベントに参加する程度の取り組みしかありません。
私は来年度においては役が消滅してしまいますので、個人的な参加になってしまいますが、昭和25年から始まり今回で第60回を迎えた社明運動。
青少年の健全育成、非行防止、犯罪に巻き込まれないよう、私も行動をともにしていきたいと思っています。皆さん、お疲れ様でした。

第30回市同協レポート ③

2010年08月23日 | 地域活動
やっぱり、入りきれませんでした。ですので『続きを読む』でどうぞ 。この③で終わりです。

<o:p></o:p>

『まちがったものさしが差別を生む。差別は今もある。各地で相次ぐ差別事件。世間体に縛られない生き方をしよう。迷信や風習へのこだわりを捨てよう。人間らしく生きてきた人々の生き方から学ぼう。人間は尊敬すべきもの』。子どもたちを車に例えて、『エンジンは学校でも塾でも大きくしてくれるが、ハンドルの切り方は学校が、家庭が、大人がしっかりと教えなければダメ。子ども達に間違ったハンドルの切り方を教えているのは大人』という講演も聞いてきました。<o:p></o:p>

2008年8月23日の新聞に掲載されていました。中学生8人が自分達よりも弱い立場にある知的障がい者を狙い、暴行・恐喝そして逮捕後に語った言葉が『障がい者をいじめて何が悪い』と。<o:p></o:p>

差別事象は、このような取り組みをしているにも関わらず、一向に消滅する気配がありません。結婚差別・就職差別・差別落書き・差別発言、インターネットを使った書き込みもされていると聞きます。被差別を作り上げたのは誰か!歯がゆい思いです。<o:p></o:p>

平等ではない事からねたみ、差別はこの社会の様々な場面にあり、そしてそれは生活環境の中から差別を助長しています。<o:p></o:p>

社会状況を問題とし、すべての差別を憎む仲間の輪を広めていくこと。職場を定年退職したから、差別問題に関わらない。組合を退会したから、関係ないでは真の差別の消滅はありません。<o:p></o:p>

あらゆるすべての差別を許さない取り組みを広範にしていきましょう。<o:p></o:p>

以上で、報告を終わります。<o:p></o:p>


第30回市同協レポートを公開します ②

2010年08月23日 | 地域活動
やっぱり、切れていました。A4の6枚は入りきれません。②で入りきれるかどうか分かりませんが、『続きを読む』でどうぞ 。

私の高校時代の経験談で大変申しわけありませんが、私はいじめを受けたと思っています。<o:p></o:p>

私は、学校生活3年間のうち、ほとんど学級委員長をしてきました。「してきました」というよりも、させられてきたというほうが当たっているかもしれません。<o:p></o:p>

学級委員長は、勉強ができる子、スポーツ万能の子、統率力があってクラスの人気者など目立った子がなるものと思われがちですが、実際のところ私もそう思っていました。<o:p></o:p>

ですから、1年生の2学期に初めて「田中さんにお願いします」という発言があったときは大変にうれしかったことを覚えています。先生が入ってくる授業の際に「起立、礼」と自分の言葉に全員が対応する、そして、一番に声を出すことに恥ずかしくもあり、うれしくもある、そんな思いでいました。<o:p></o:p>

ところが、その後に学級委員長はクラスの代表ではなく、クラスの雑用係としか見られず、だれもがなりたくない。言うなれば、クラスの中での嫌われ者がなるということを友達から聞かされたときには、大変ショックでありました。<o:p></o:p>

私は学生時代、まじめでおとなしくて騒ぐほうではなかったのですが、体がでかいことから教室のどこにいても目立ち、たたかれても抵抗しない、そんなタイプの人間で、学生時代にどんなにたたかれても、ののしられても一度も抵抗をしたことはありません。<o:p></o:p>

ですから学級委員長選出の際、だれもが顔も上げず手も挙げず、『早くだれかに決まればいいのに』、とのざわめきの中で「田中」という名前が出たことに私は喜びましたが、「自分にならなくてよかった」と思っていたのではないでしょうか。<o:p></o:p>

おとなしい、口数が少ない、消極的な者が学級委員長になると、それからが大変で、授業が終わった後の黒板消しは担当が決まっていましたが学級委員長、先生からの呼び出しや先生からの連絡も学級委員長、体育の時間の準備も片付けも手伝ってくれる者もなく学級委員長、先生が職員室に教材を忘れたといっては学級委員長、自習時間にクラスが騒いでいると「学級委員長はどうした」と先生からは怒られ、何でもかんでも「学級委員長、学級委員長」と言われることに嫌気がさし、そして私は学校を休むようになり、1年生のときに7日、2年生のときには14日、3年生のときには30日学校を休みました。<o:p></o:p>

私も、そんな時に自殺というものを考えてみまして、自殺にならなかったのは、性格的に似通った友人がそばにいたこと、学校に行く目的に陸上競技というクラブ活動があったこと、学校を休むということで逃げ場があったということではなかったのかな、というふうに思っています。<o:p></o:p>

それで2年生の時に一度だけ、担任の先生に学級委員長を交代させてほしいという相談をいたしました。ところがクラスの反応は冷たく、そのまま続行というときには、もう本当に「だれも」という気持ちになっていたのは事実であります。<o:p></o:p>

高校3年間、日に日に自分の心がきつくなり、顔つきが変わっていったのも自分で分かりました。就職後も職場の雰囲気になじむことができなかったんですが、そんな私を救ってくれたのが、労働組合であり、労働組合とのかかわりの中で、自分自身が成長できましたし、今日の自分があるのも労働組合のおかげだと思っています。<o:p></o:p>

しかし今でも、そしてこの文章を書いていた時もそうですが、クラスメートが楽しく笑っている時に、私は笑えなかった、いや笑わせてもらえなかった、そういった恨みがあるのも事実です。<o:p></o:p>

「そんな昔のことを」と言われるかもしれませんが、その時に傷ついた心は簡単に消せるものではなく、怒りは時間がたてば消えていきますが、恨みというものは、そんなにたやすく消えるものではないということを、私自身がよく知っています。<o:p></o:p>

ですから、いじめに悩んでいる、自殺をする子どもたちの気持ちは痛いほどよく分かりますし、子どもの自殺により残された保護者の無念さもよく分かるつもりでいます。<o:p></o:p>

私のように変われるきっかけは、子どもたちにも必ずあります。自殺を選択するなら、学校に行くのが苦しくて辛いのなら、私は「逃げなさい」と声を大にして言います。私のような経験をさせない、自ら命を絶つという行為をさせない、学校は楽しく遊べ、学べるところ、辛い悲しい思い出よりも楽しい思い出をつくってあげられる、そんな学校づくり、いじめを生み出さない、そんな教育が求められていると思います。<o:p></o:p>

という前置きをして質問を行いました。<o:p></o:p>

『弱者いじめや差別など、絶対に認められないし許さない』。そういった思いが根底にありましたので、組合活動に自ら参加していくようになったと言う事です。<o:p></o:p>

【私自身にかけられた差別、所属組合に対する差別】<o:p></o:p>

最後に、国鉄労働組合に加入していることから、新会社JRに採用されなかった。所属組合による差別を受けたことの報告をしたいと思います。<o:p></o:p>

1986年、当時の中曽根首相をはじめとした自民党政府は、国民の財産である国鉄をJRへと民営化し、各会社に分割する、国鉄分割・民営化を強行しました。<o:p></o:p>

その目的は、中曽根元首相が雑誌のインタビューやNHKの番組でも発言していますが、『国労をつぶせば総評がつぶれる。総評がつぶれれば、日本社会党がつぶれる。だから、意図的に行った』と、国労をつぶし労働運動を排除することが目的だったと明言しています。<o:p></o:p>

国労は、分割民営化に対して反対を貫き、国民とともに闘いを展開しましたが、当時の国会の力関係では、圧倒的に自民党の保守勢力が強いことから、力不足のため分割・民営化(国鉄職員24万人を14万人に削減しJRへ移行。10万人の削減合理化)を止めることはできず、しかし野党の抵抗もあって、国会での付帯決議『一人の労働者も路頭に迷わせない。所属組合による差別はしない』との文言を勝ち取りましたが、1987年2月16日。<o:p></o:p>

その日は、新会社JRへの採用、不採用の振り分け発表の日で、不採用者は国鉄清算事業団行きとなり、まさに清算の対象者となる運命の日でした。<o:p></o:p>

結果は、労使協調路線の『分割・民営化』賛成組合の組合員の採用率はほぼ100%だったのに対し、反対をした国労組合員は37.5%、全動労組合員は約20%という、このような数字からみても採用差別があったことは明らかです。<o:p></o:p>

後に報告しますが、国労として全国の都道府県で闘った労働委員会闘争。北海道労働委員会では、元国鉄管理者(助役)が証言に立ち、『100点の持ち点があり、処分の回数等で減点し65点以上あればJR採用。しかし国労組合員には、更にマイナス20点を課した』と。<o:p></o:p>

JR不採用になったとき、『あそこの息子さんは採用されたのに、田中さん方は不採用。何か悪いことをしたんじゃろう』という声が家族の耳に入り、恥ずかしいやら情けないやらの思いをしたと亡くなった母から聞いたことがあります。<o:p></o:p>

私は、勤務時代に一度も事故を起こしたことがなく、踏み切りの安全を守る業務の際には、事故を未然に防ぐために、踏切は約25メートルの幅があることから、手押し車などで通っている高齢者を見かけたときには声をかけたり、手を取って一緒に歩いたこともあります。また、乳母車の車輪が線路の隙間に入り込んで取れないで困っている方がいましたが、そのときにもすばやい行動で対処し、そのことで大変に喜ばれたこともあります。目が不自由な方もいましたが、そのときにも手を携えて踏み切りを渡ったこともあります。<o:p></o:p>

また、誰かが病気等で勤務ができなくなったとき、休みの日を返上して勤務に就いたり、草取りが業務の際には、人よりも汗を流し頑張った自負があります。<o:p></o:p>

それでも、不採用となったのは国労に所属していたからという、差別に他なりません。<o:p></o:p>

新会社JR採用を希望していた、全国で7600名もの国鉄労働者が不採用の通知を受け、同年4月1日、華々しく発足したJRの陰でその間、100名を超える自殺者が生み出されました。<o:p></o:p>

不採用にされた者の多くが、国鉄清算事業団(のちに鉄建公団、現在は独立行政法人『鉄道建設・運輸施設整備支援機構』と名称変更)に送り込まれ、その3年後の1990年3月31日には全国で1047名の労働者が再度、解雇されました。<o:p></o:p>

【採用差別撤回の闘い。労働委員会闘争と裁判闘争。闘えば成果はある】<o:p></o:p>

国労が『JR不採用は所属組合による差別だ』として、全国で展開しました闘いに労働委員会闘争と裁判闘争があります。<o:p></o:p>

先ほど申し述べました元国鉄管理者の証言、さらには様々な証拠書類を突き付け、地労委闘争は全国で勝利命令を勝ち取り、ここ<st1:address ProductID="熊本県でも 0 0">熊本県</st1:address>でも、1989年4月25日にJR九州旅客鉄道株式会社は、採用を希望している組合員を、1987年4月1日付で社員に採用したものとして取り扱い、就労させなければならない。組合員が就労するまでの間、同人らが1987年4月1日に社員として採用されていたならば受けるはずの賃金相当額と、清算事業団において実際に支払われた賃金額との差額を、同人らに対して支払わなければならない、などの国労完全勝利の救済命令が出されました。<o:p></o:p>

私たちが、組合差別があったことを立証した事を深く受け止めたことによる救済命令でしたが、JR側は中央労働委員会に上申し、そのことから長い裁判闘争へとなっていきました。<o:p></o:p>

この地労委救済命令の履行を信じ、またJR採用に当たって組合差別による不当労働行為が行われてきたことは許されないとして立証してきた裁判において、2005年9月15日東京地裁判決(鉄建公団訴訟)、2008年1月23日東京地裁判決(鉄道運輸機構訴訟)、2009年3月25日東京高裁判決(鉄建公団訴訟)などでは、労働組合の主張を認め『分割・民営化に反対した組合員に対する不利益な扱いは違法』と認定し、判決は、『組合の運動方針の違いを理由に異なる扱いをしたことは、国鉄の負う中立義務に反し、正当化するのは困難。公平にJRへの就職を果たす機会を奪い、多大な精神的打撃を与えた』と指摘しています。<o:p></o:p>

『分割・民営化』以来、23年もの長い闘いの中で解雇された1047名のうち、現在までに60名を超える方が志半ばで死亡しており、平均年齢は55歳にもなっています。<o:p></o:p>

  荒尾駅時代のこと、清算事業団でのことが今でも思い出されますし、『分割・民営化』で、家族や同僚、友人との人間関係をズタズタにされてしまい、また私の人生を大きく変えられたことに今も怨みとしてあります。当時の管理職と会うことはありませんが、会ったときには感情を抑えきれない、怒りが込み上げてくると思います。<o:p></o:p>

当時、処分がありながらも国労を脱退しJR採用となった者、仕事を休まずまじめに働いてきた私とくらべて、私を採用しなかったのは、私が国労に所属していたからに他ならない事実です。思想信条の自由を憲法で保障されているにもかかわらず、公然と組合による差別扱いをしたことは明白であります。このことは絶対に許されません。<o:p></o:p>

【最高裁で和解。採用差別事件の全面解決を求めて】<o:p></o:p>

2009年8月30日の衆議院解散総選挙により、JR採用差別事件の解決を求めていた民主党を初めとした連立政権に変わったことで、2010年6月28日、最高裁判所において国労などの原告団と鉄道運輸機構との間で和解が成立しました。<o:p></o:p>

現段階においては、金銭面での解決に止まっていますが、前原国交省はJR<st1:address ProductID="北海道 0 0">北海道</st1:address>、九州、四国、貨物の各会社に対して、55歳以下の希望する200名程度の原告団の採用を要望しています。私も、JR九州の採用を要求しています。<o:p></o:p>

JR各社は頑なにその採用を拒否していますが、組合差別がなかったならば採用をされていたものとして、道義的責任をJRは持つべきです。<o:p></o:p>

雇用の面では未解決になっていますが、頑張り闘い続けたことで成果が表れています。<o:p></o:p>

JR不採用ということで、私に張られた不適格労働者としてのレッテルを剥がすために、キチンと雇用の責任を取らせるために、今後も頑張ります。<o:p></o:p>

【最後に】<o:p></o:p>

国労に所属をしていたから差別された。所属労働組合による差別がまかり通るならば、すべての差別がまかり通る事にもなります。泣き寝入りをせず、絶対に許してはなりません。<o:p></o:p>

私は、あらゆるすべての差別に対して絶対に許してはならない思いで、対岸の火事ではなく、差別も世間に広く訴え、そして自分のものとして考える事で、これからも頑張っていく所存です。<o:p></o:p>


第30回市同協レポートを公開します

2010年08月23日 | 地域活動
読んで見たいというメールが届きましたので、紹介することにしました。
当日は、付け加えて『いじめを苦に?8歳児の首吊り自殺』という新聞の記事からと、その日の午前中にあった西成高校の取り組み『反貧困学習』も取り上げ発表しましたので、配布したレポートと発言した内容が若干違いますが、よろしくお願いします。
『続きを読む』に掲載をしていますが、A4の6ページですので入りきれずに途中で切れていた時は、すみません。

第30回荒尾市人権同和教育研究大会 特別部会レポート <o:p></o:p>

2010年8月21日  提出者 田中ひろはる<o:p></o:p>

【自己紹介】<o:p></o:p>

こんにちは。私は田中ひろはると申します。<o:p></o:p>

私は、1963年(昭和38年)8月9日に生まれ。47歳となりました。出身は<st1:address ProductID="福岡県 0 0">福岡県三池郡</st1:address>、現在のみやま市の<st1:address ProductID="高田町で生まれ育ち 0 0">高田町</st1:address>で生まれ育ち、1989年10月の結婚を機に<st1:address ProductID="高田町 0 0">高田町</st1:address>を離れ<st1:address ProductID="長洲町に 0 0">長洲町</st1:address>に移住。そして当時の日本社会党の要請により、荒尾市議会議員選挙の予定候補者となり、そのため現在の<st1:address ProductID="荒尾市万田に移り住んだのが1990年7月 0 0">荒尾市</st1:address>万田(二小校区)に移り住んだのが1990年7月。そして翌年の1991年4月の荒尾市議選に立候補。初当選を果たし、現在、議員活動20年目を迎えています。<o:p></o:p>

仕事関係では、1982年3月に<st1:address ProductID="福岡県立大牟田北高校 0 0">福岡県立</st1:address>大牟田北高校を卒業し、同年4月に日本国有鉄道(略:国鉄)熊本鉄道管理局荒尾駅に配属され、国鉄分割・民営化が強行された1987年3月末まで勤務。<o:p></o:p>

JR勤務を希望していましたが不採用となったため、JRが発足した同年4月からは国鉄清算事業団大牟田雇用対策支所に異動。1990年3月31日に、国鉄清算事業団を解雇されました。<o:p></o:p>

荒尾市議選に立候補するまでの1年間はアルバイトに従事し、トマト農家や金型鉄工所、荒尾郵便局にて郵便配達などをしておりました。<o:p></o:p>

【国鉄労働組合に加入。荒尾地区解放共闘会議への参加】<o:p></o:p>

私は、高校卒業後に国鉄に就職し、その翌月には、荒尾駅に勤務していた職員のほとんどが国鉄労働組合(略:国労)に加入されていたことから、職場での勧誘や地域にお住まいの国鉄職員からの勧めもあり、加入しました。<o:p></o:p>

私は、学生の頃から労働組合活動に興味、関心があったわけではありません。<o:p></o:p>

しかし、『一人ひとりの力は小さいけれど、みんなが団結すれば大きな力となる。差別は許さない。権利を守ろう。』などの言葉に共感するところがあったから、また、私の思いや悩みを聞いてくれる、困っているときには察知をしてくれて声をかけてくれる、そんな心を寄せることができる方が組合にいたことから、すすんで参加していくことになっていきました。<o:p></o:p>

解放共闘会議は、日本労働組合総評議会(略:総評)により他単産労組との結びつきによる労働運動が盛んであったころ、問題に対しても『の解放なくして労働者の解放なし。労働者の解放なくしての解放なし』と、盛んに労働組合と解放同盟との結合した共闘会議が全国各地で結成され、荒尾地区においても29年ほど前に結成されています。<o:p></o:p>

国労もその傘下にあったことからこの活動に参加し、狭山と人権集会をはじめ人権同和講演会などへも参加し、また学習と交流を重ねる中で問題について学んできたところですが、しかしまだまだ不十分なところは否めません。<o:p></o:p>

私が、解放同盟の方々と交流した中で、いまでも心に残っている事があります。<o:p></o:p>

1987年2月、私は交通事故の被害者として左腕を骨折、骨折した際に神経を圧迫したため麻痺の症状が表れ、左手首から先が上がらない状態になりました。今では、奇跡的に麻痺が完治とまではいきませんが、日常生活において肢体的不自由さを感じません。その当時は、障がい者12級の認定を受け、装具着用を余儀なくされていました。<o:p></o:p>

電車などの公共交通機関を利用する際や徒歩、買い物の時などでは、その装具に見た者の注目を集めることで恥ずかしいやら、かわいそうねとの声が聞こえるやらで、装具をはずしていることが多くなり、そのことを発言すると『隠す事はいけない』と諭され、『自分を明らかにすることで、周りの目を変える努力が必要』と、言われた事があります。<o:p></o:p>

問題を隠すのではなく、明らかにすることで今もなお、言われなき差別で苦しんでいる、悩んでいる事から抜け出し、問題の撤廃をみんなの力で進めていこうと言う事だと思います。<o:p></o:p>

【問題との出会い】<o:p></o:p>

共闘会議への参加以外に具体的なことは思い当たりませんが、小学校の頃に運動会の種目で『部落対抗リレー』が『地域対抗リレー』に名称が変わったこと。高校のときに、人権問題をテーマにした映写会があったことが思い出されますが、何の気にも留めていなかったのが実情です。<o:p></o:p>

その当時、『問題など知らなかった』というのが本当で、根深い問題があることを知ったのは、共闘会議に参加した22歳ぐらいの時だったと思います。<o:p></o:p>

私は、1989年10月に結婚しましたが、その前段に母からは私だけでなく相手の女性に対しても『どこに住んでいるのか』、『両親の出身はどうか』など根ほり葉ほり聞いていて、もしかしたら被差別出身かどうかを気にしていたのかもしれません。<o:p></o:p>

地域の寄り合いの中で私から、『人権講演会に参加を』という話をしたところ、『問題を知らない人にあえて教えんでもよかろうに』との意見が返ってきたことがあります。『そうではない』と切り返したこともあり、問題の解消には地道な努力が必要だと感じました。<o:p></o:p>

市議会議員の間でも、この問題が議論となることがありますが、行政は私たちと同じように問題として捉え、その取り組みを進めています。<o:p></o:p>

【組合活動の根底にあるのはいじめ問題。差別は許さない思い】<o:p></o:p>

今から話をしますのは、2006年11月28日の第5回荒尾市議会定例会の質問戦において、当時、いじめ自殺問題が社会現象となっていたことから、私の体験談も含めて市内の子どもたちへのメッセージとして発言した内容です。部分的に省略しながら報告します。それでは・・・・、<o:p></o:p>

マスコミにより、子どもたちの自殺が大きく報道されています。世界中には、病気や悲惨な事故、虐待、更には戦争の犠牲などにより、生きたくても生きられない子どもたちが多くいるにもかかわらず、自ら命を絶つ行為が子どもたちの中で起きていることに胸を締めつけられると同時に、その原因がいじめであればなおさらのこと、加害者に対し怒りがわいてきます。また、いじめそのものがなくならないことに、憂いも感じています。<o:p></o:p>

今のいじめられる原因は、私たちが経験をしたことがない、「そんなことで」と思うぐらいのことが原因となり、そしていじめの質が陰湿化、巧妙化、そしてインターネットや携帯電話利用によって広くに、いじめを助長しているわけですが、NHKの番組の中でいじめに対する子どもたちの討論会があり、出演した子どもたちにはいじめ行為は悪いという認識はあるのですが、しかし、いじめられるほうにも問題があると発言していました。<o:p></o:p>

いじめにあわないように自分で原因をつくらないよう気をつけるとか、大勢の中にいてターゲットにならないように努力をするとか、いじめにあったらけんかして戦うとか、先生や親、友達に相談して解決をしてもらうとか、そういった努力がないから問題だと発言していました。<o:p></o:p>

いじめの存在を認め、また戦うといった勇ましい声がある中、司会者の発言があるまでだれ一人、いじめる側をつくらないためにどうしたらよいのかという発言はありませんでした。<o:p></o:p>

いじめはなくならないというのが、子どもたちの気持ちだと感じました。<o:p></o:p>

私は、いじめられる側に何の問題もないと思っております。いじめられる側の子どもの多くが、おとなしい、抵抗しないなど、その子が持つ個性を否定しているのであり、きっかけがあったとしても注意をしてあげれば改善できるであろうし、ちょっかいをかけてくる、その原因にいつまでも執着する、いじめる側の加害者にだれもがならなければ、いじめ自体はこの世に存在しないと考えています。<o:p></o:p>

私の高校時代の経験談で大変申しわけありませんが、私は


第30回市人権同和教育研究大会終了す。

2010年08月21日 | 地域活動

今日も外は大変な暑さでしたね。参りました。熱中症ということで、病院搬送やお亡くなりになられる方が今もなお止まる事を知りません。こまめな水分補給や休養をとられ、そして暑さ対策をなされてこの残暑を乗り切ってください。
さて、第30回荒尾市人権同和教育研究大会が午前中は文化センターにて、午後は有明高校にて開催されました。市職員や教職員は出張扱いでの仕事。私は、市高P連と部落会報共闘会議から参加しました。
この研究大会は、荒尾市人権同和教育研究協議会(約600名で構成)や荒尾市、教育委員会が主催して毎年、この時期に行われているものです。
記念講演『反貧困学習~子どもの貧困と学校の役割~』では、大阪府立西成高校での反貧困学習の取り組みが紹介されました。
労働者としての権利をはじめ、労働者を守る法律や制度(ユニオンも含めて)を学習し、実社会に出ても戸惑わない、泣き寝入りをしないためになされています。
学校の授業の中でこんなことが取り上げられているなんて、驚きです。高校のうちから労働者として生きるために力をつけておく、もの凄い取り組みです。
その取組状況や生徒の発表などがパソコンとプロジェクターを使って投射され、とても分かりやすい内容でした。
その取り組みをまとめられた本、『反貧困学習~格差の連鎖を立つために~』を購入(1800円)しました。読んで、私も勉強したいと思います。
午後からは、有明高校を舞台に各教室ごとに分かれての分科会。
私は、特別分科会の報告者として出席。A4用紙で10枚書いていましたが、削除に削除を重ねて6枚に。両面印刷で3枚にまとめ、発言の際には要約して報告。それでも16分はかかりました。
質疑応答含めて一人30分割り当てでしたので、質問の時間はありましたが手を上げられたのは2名。時間が余りました。
答える時に、ぜんぜんまとめていなかったので後になって、『あれを言えばよかった』と後悔をしています。聞かれてすぐには、なかなかその場で言えないものです。
聞かれていた方は、私が言っている事を理解されたならば良いのですが、果たしてどうだったんでしょう。『問題のみならず、あらゆるすべての差別を許さない』という私の想いに共感していただければと思います。
特別分科会は、引っ込み思案の方が多かった事もあって、活発な意見交換とはなりませんでしたが、無事に終了。後の2人の報告『識字との出会い』、『第三小学校での人権学習の取り組み』も聞けてよかったです。
人権同和教育とは、一人ひとりの子どもたちを大切にしながら、差別をはじめあらゆる差別をなくす教育です。
その研究大会は終了しましたが、差別を憎む、差別を許さない取り組みを巻き起こしていきましょう。



発行まであとわずか 市民会議 会報35号

2010年08月19日 | 地域活動
荒尾市青少年育成市民会議の啓発委員会。
昨夜、教育委員会の会議室をお借りして打ち合わせ会議を行いました。
その内容は、9月15日発行の市民会議会報35号についてですが、宿題としていただいた原稿を元に私が作成することにいましたので、作り上げた原稿を元に誤字や脱字、表現方法、レイアウトなどをチェック。
紙面が、真っ赤なボールペンで埋まるほどにご意見をいただきました。
委員長としてつらいところです。
会長をはじめ、各種団体からいただいた原稿を字数を合わせて掲載しましたが、ダメだしが多かったですね。『表現方法が・・・・・・』。言わんとする内容は誰もがわかりますが、表現の仕方がマズイと。
私が書いた原稿ではなく、他の人が書いた原稿をそのままの形で載せていますから、書いた本人がいなくて良かった。いたら、意見はなかったのかもしれませんね。
表現方法にこれが正解があるのでしょうか。
新聞などにはあるのかもしれませんが、それぞれご自身がいつも使っている言葉、表現を文章にされてあるので、私てきには意味が通れば何とも思いませんが、それではイカンということなんでしょうね。
いずれにせよ、訂正を数多くいただきました。
あとは、手直しした原稿を会長に見せて、OKがでれば印刷所にデータをもって行き、刷り上ったところで行政区ごとに枚数の仕分け作業。9月10日(金)に実施する事にしています。
昨年度は、刷り上ったチラシを3人で仕分けしたところ、2時間以上かかったそうです。やはり、2万2000枚という数字はスゴイですね。
当日、多くの委員さんがお出でになる事を期待しています。
そうそう、今度は色紙にて発行します。薄いピンクです。私は、チョッと濃い黄色の紙が良かったのですが、多数決で決定。目立つのは、ゼッタイに黄色のほうですよ。いまさらなんですが・・・・。

盛会でした原区夏祭り

2010年08月13日 | 地域活動
荒尾市にとって台風4号の影響はたいしてなく、その翌日の昨日は台風一過の中ですごしやすく、そんな中で行われた三小校区にある原区の夏祭り
午後6時30分の開始ですが、集まっていた多くが子どもと役員の皆さん。民間企業はお盆休みと言われていますが、仕事でまだ帰ってきていない世帯が多かったのかもしれません。
しかし、8時過ぎともなると会場である原万田公園内は、中心を取り囲むように数珠繋ぎのようにブルーシートを敷いて酒盛りなどがなされ、子ども達は狭くなった公園の隅っこで元気にはしゃいでいました。
まつり内容は、パン食い競争、お尻で風船割り、景品釣り、グラウンドゴルフリレー、踊り(荒尾音頭、炭坑節、オクラホマミキサー、ボケない音頭)、カキ氷の無料提供には長い行列、そして最後の抽選会はやはり大賑わいです。
昨年はかすりもせずに、会場にきていた小さな子どもから慰められる始末でしたが。今年は5等に。午前中から運が良い事が多くて、その流れが夜まで続いたようです。
祭り会場でいろんな人から名前を呼ばれ、声をかけてもらったことに嬉しかったですね。ご案内いただきまして、ありがとうございました。
この原区は公民館行事が多く、特に老人会の行事が多いんですよ。
役員さんは大変だと思いますが、喜ぶ顔を見られればそれで良い、と言われていた言葉が印象的でした。これからも、活発な活動を祈念いたします。 

明日は原区の夏祭り

2010年08月11日 | 地域活動
昨年に引き続き、今年もご案内をいただきました三小校区の原区の夏祭り。
いよいよ明日の午後6時に開催ですが、台風4号の影響で準備のほうはどうなんでしょう。明日の予報は曇りのち雨。水をさされないと良いんですが・・・・・。
ご案内をいただいたときに、『平日にですか??』と率直に思いましたね。民間企業は、お盆の休みに入っているところもありますが、平日開催というのは果たして準備も含めて人が集まるのか心配ですね。
どこの地区かは忘れましたが、8月15日(日)に夏祭り開催という事を聞きました。どこの家も、家族・親戚集まっての談笑があるのでは。準備する役員さんのご家庭では、大変になっていないのかしら。
とにかく、明日は出席する事にしています。
雨が降らず、多くの区民のご参加で無事に開催される事を祈っています。

24年ぶりに駅構内を清掃 二小元気会活動に参加

2010年08月11日 | 地域活動
二小元気会の環境部会の呼びかけにより、午前9時よりJR荒尾駅構内とプロローグ広場での草取りならびに花植え作業に参加してきました。広場だけの作業はしたことがありましたが、駅構内に入っての作業は初めてですね。
参加人数は、15人程度。山下副市長も、短時間ではありましたが参加されました。
最初は、駅構内での草取りから始まりましたが、取っている時に24年前の事を思い出しましたね。
24年前の1986年は、国鉄分割・民営化を前にしてダイヤ改正の合理化が吹き荒れ、私の勤務場所になっていた踏切詰め所が無人化。そのため私は過員センター、のちの人材活用センターに放り込まれ、おもな業務が駅構内の草取り。
プロローグ広場ができたことや線路の本数が大幅に削減されている事以外には、何ら変わる事はなく、草をとりながら見た風景がフラッシュバックのように甦ってきましたね。
当時は、駅長や助役の監視の下に作業が強制されていましたが、今日はまったくのボランティア。名前を何というのか知りませんが、駅長は『ありがとうございます』の連発。近々、支社のほうよりお偉いさんが来るとのこと。市民のボランティアの皆さんとともに、花植えができた事を鼻高々に自慢ができると笑っていました。
『現在、この駅には何人いるの』と尋ねたところ、駅長含めて5人とのこと。駅長除いて4人のローテーションで泊まり勤務を含めてできるのかと思いましたよ。JR復帰した際には、過酷な労働が待っているのかと思うとゾッとしますね。
花植えは、予定されていたすべての花苗を植えつけることができましたが、草取りのほうはプロローグ広場がかなり残っています。花壇は、草ボーボー。とても、今日の人数では全部はできません。
また次回ということにして作業は終了。
荒尾駅は、電車でお見えになるお客さんからしてみれば荒尾市の玄関。綺麗なところを見せて、好印象をもっていただければと思います。

全体会で事前の打ち合わせ 市同教研究大会に向けて

2010年08月10日 | 地域活動
午前9時から人権啓発センターにおいて、8月21日開催の荒尾市人権同和教育研究大会に向けた、事前打ち合わせのための全体会に、私はレポート報告者として出席してきました。
出席された方の多くが、学校の先生。先生以外には、私を含めて何人いたのでしょう。
知り合いの先生に尋ねてみると『仕事としてきた』と言われていましたが、私には『義務』としてはないんですが、レポート報告者としての『責任』として出席してきたところです。
全体会では、各分科会に分かれての提起があっただけで、中心は分科会の進め方。
私の分科会は特別部会として設けられており、報告者は3名。
それぞれが持ってきたレポートを要約して報告し、その中から共通の課題について当日は討議する事になりました。
お一人は、貧しくて家族を養うためには働かなければならず、学校に行けなかったことから識字学級に通って学んだ時の事。もうお一人は、学校現場で取り組んでいる人権学習の取り組みが報告され、私は、解放共闘会議から出席していますので、私だけが視点が違っています。
『の解放なくして労働者の解放なし。労働者の解放なくしての解放なし』という、共闘会議の精神から差別問題に取り組み、労働者を取り巻く差別、特に国労に所属している事から採用されなかったJR不採用事件について報告。
『同和問題による差別について考えようという研究大会に、何で組合でガンバロウが出てくるのかが分からない。』との私への質問。
『差別事象はいろんな場面でこの社会にいっぱいある。被差別に対する差別だけではなく、あらゆるすべての差別に対して問題にしている。すべての差別を許してはならない』と返答。
報告がバラバラでは、分科会の討議の時間が深まっていかないので、3本の報告に対しての共通項として学校にしようということになり、学校に関することを中心に報告する事にしました。学校の先生方が中心の研究大会ですので、仕方がないですね。
若い先生に『国鉄を知っていますか?』と尋ねたら、『名前だけは聞いたことがある』と。風化させないためにも、是非とも聞いてほしかったのですが・・・・。
様々な差別事象や差別を憎む想いをA4用紙で10枚は書いていましたが、焦点がぼけないように、そしてもっと分かりやすくするために書き直しです。
明日は、二小元気会の草取り作業。国労闘争記念誌編集会議などがあって、またまた大変になってきます。レポート作成は大変ですね。

青少年育成市民会議で懇親会

2010年08月07日 | 地域活動
荒尾市青少年育成市民会議による、昨夜は遅くまでの懇親会。午後7時から自動車学校となりの『時代屋』。久しぶりの店内に行きました。
この市民会議のメンバーは36名で構成されていますが、懇親会は8名の出席。今ひとつでしたね。
それでも、初めて出会った方や久しぶりに出会った方もいらして、それはそれで楽しかったですよ。若い方が2名いましたが、うち1名は市議の息子さん。好感の持てる方でした。
何の話をしたかあまり覚えていないので、大した話しではなかったと思いますね。
一つだけ。啓発委員会では、9月15日発行の会報35号を作成していますが、『印刷は色紙にしたい。それだと、今までより9000円の割高になりますが・・・・』。
会長は気前が良いですね。そのぐらいならと、簡単にOKを出していただきました。
来年2月発行の会報36号は、B4サイズにしたいという希望を持っていますが、そのことはまだ伏せています。
持てる能力を駆使して作成した原稿。このブログにて掲載できればと思いますが、やり方がわからず・・・・。9月15日発行の公報あらおと一緒に配布しますので、是非ともお読みくださいね。
ということで、聞けば今の会長になってから初めての懇親会だということ。次回にあるときは、より多くの方のご参加を私からもお願いします。
今日はいまから、大牟田のガーデンホテルのビアガーデンへ行きます。組合レクとしてですが、昨日の今日で気乗りはあまりないんですが・・・・。
お酒は、明日も飲めるようにと程ほどにしとかなければなりませんね。毎回の反省です。

書きに書きました!レポート A4サイズで10枚

2010年08月03日 | 地域活動
荒尾市人権同和教育研究大会でのレポート提出者となっていることから、その原稿締め切りが8月5日。
予定されていたが急遽、出席できなくなったために回ってきた話ですが、今日の昼すぎからパソコンの前に座り、思いつくまま書いていったら、ナントA4サイズで10枚になってしまいました。
『差別とわたしということで、A4で数枚で』と言われていましたが、解放共闘会議やJR採用差別事件、いじめなどの事を書いていったら、そんな枚数になってしまいました。
明日、事務局の先生の方へ持っていきますが、何て言われるか心配です。『もっと短く、分かりやすく、そして焦点がぼけないように』と言われたら、どこをどう切ればと考えてしまいます。
聞けば、書いたレポートを読み上げて質問に答えるという感じのようなので、言葉の意味が分かるように、そして1982年の国鉄荒尾駅時代の事が分かるように書いたので、その説明があることから長くなっていますが、説明部分をカットしたら、当事者しか分からなくなるのではないでしょうか。
とにかく、明日に先生のところへ提出してきます。話はまた、そこからです。
何事もなく終わればよいのですが・・・・・。次の仕事に移れます。
他のレポート提出者の方から聞きましたが、2回のチェックが入り書き直しを命じられたそうです。自分の思いで書いているんだから、書き直しなんてどうなんですかねぇ。

啓発委員会 9月会報の発行目途がたちまちした

2010年08月03日 | 地域活動
青少年育成市民会議の啓発委員会。
会報第35号の新聞発行に向けて、本日、第2回目の会議を教育委員会会議室で午後7時より開催しました。
前回の会議において、掲載する記事を決定し、その原稿依頼も行っていましたが、字数がもの凄く多い原稿(600文字以内といっていたのにその倍以上はあった)があったり、期限内に未提出の団体があったりもしましたが、何とか発行する目途が立ちました。
と言っても、チラシを作成するのは私の仕事となってしまって・・・・・。
今までに私が経験した各種団体での新聞作りでは、その多くが原稿を印刷所に渡せば構成をしてくれて仕上げてくれていましたが、聞けば経費削減のために印刷するだけに仕上げて持って行くこと、となっているようで、委員メンバーに振りましたが誰も手を上げず、よって委員長の私が仕上げる事にしました。
データでいただければよいのですが、ペーパーだったので原稿すべて打ち直しです。
他にも原稿作成などの仕事があって、『この忙しい時に重なってしまって』と思いましたが、発行時期をずらす事でなんとかできそうです。広報あらおと一緒に配布しますが、9月1日号とではなく、9月15日号としました。
それでも、あまりゆっくりとはできず、8月16日までにはチラシ作成を終了し、18日の委員会で構成や誤字脱字がないかをチェックしていきます。間違いがなければ、印刷所へ。
印刷に10日以上はかかるらしく、刷り上ったチラシを行政区ごとに仕分けをしなければなりませんので、9月1日号には無理となります。22000枚は大変なようです。
お盆もありますが、これからの2週間。またまたパソコンの前での仕事が続きそうです。

市同教研究大会へのレポート作成 大変です!

2010年08月02日 | 地域活動
第30回荒尾市人権同和教育研究大会
8月21日(土) 午前9時に開会
午前は総合文化センター、午後は有明高校が会場。
参加費は無料。
記念講演『反貧困学習~子どもの貧困と学校の役割~』
この研究大会は、荒尾市人権同和教育研究協議会(約600名で構成)や荒尾市、教育委員会が主催して毎年、この時期に行われているものです。
参加される方の多くが、市内小・中・高校の先生方そして教育関係者。また、解放同盟や荒尾地区解放共闘会議をはじめ、様々な団体が参加しています。
人権同和教育とは、一人ひとりの子どもたちを大切にしながら、差別をはじめあらゆる差別をなくす教育です。
そんな研究大会において、午後の部の分科会の一つに発言者としてレポートを提出する事になってしまいました。
他の方に要請されていたんですが、その方がその日には参加できないとなってしまって急遽、私のところに回ってきたということです。
私にとっては、他の原稿作成や資料作りなど大変なこの時期にプラス、レポートの作成も舞い込んできたもんだからてんてこ舞いです。
『他の方に代わってほしい』としたものの、やはり誰もレポート作成は億劫で時間も取られて大変ということが分かっているみたいでNo!
ということで、今日から暫くはパソコンの前にて仕事をこなす毎日が続きそうです。自分が伝えたい言葉の表現がスラスラッと出ればよいのですが・・・・・・。

登録証をいただいたものの・・・ 食品表示ウォッチャー

2010年07月28日 | 地域活動
午前中に頑張られる分だけ議会報告チラシ配布。やっと二小校区の約2900枚は配り終えたものの、まだまだ先は長く・・・・。
午後2時からは、熊本県庁の新館8階で、熊本県食品表示ウォッチャーの講習会。間に合うように、お昼過ぎには自宅を出発しました。
明日が雨ということなので、さすがに今日のこの時間を色々と考えました。
さて、このウォッチャー制度に平成21年度末の登録者数は592名。今回新規で125名が登録し活動を行っていきます。登録は更新性ではないので、辞退等の申し出がない限り登録は継続されます。
そして今日の講習会は、登録時に原則として受講するもので、研修会は年に1回、秋頃に開催されているようです。
とにかく私たちの任務は、食品の表示が適正に行われているかどうかをチェックする事です。
昨年は102件の報告があったそうで、例えば産地の表示が欠落していたとか、アレルギー表示が欠落していたとかがあったそうです。
パワーポイントによるスライドショーで詳細に説明がありましたが、JAS法・食品衛生法・景品表示法・健康増進法などいろいろと言われても、よく分かりません。クーラーの効いた部屋でしたので、たまに首がガクッとなって体制を立て直すのに大変でした。
それでも、何となくは分かりました。ガイドハンドブックなど数多くいただきましたので、読んでいきたいと思います。
例えば、アレルギー物質の表示において、原材料を含む容器包装に入れられた加工食品および食品添加物の中に『卵・乳・小麦・えび・かに・そば・落花生』が含まれているならば、表示が義務付けられているそうです。
その表示の方法は、例えば卵で言いますと、特定原材料に『卵』と表示するか、代替表記として特定原材料と同じものであると理解できるよう『玉子・たまご・タマゴ・エッグ・鶏卵・あひる卵・うずら卵』として表示するか、原材料として特定原材料等が含まれていることが理解できる特定加工食品としての表示『マヨネーズ・オムレツ・目玉焼き・かに玉・オムライス・親子丼』などと表示しなければなりません。
分かりそうで複雑なところが大変です。
とにかく、自宅に購入してきたものをハンドブックと照らし合わせて、勉強していきたいと思います。