当日は、付け加えて『いじめを苦に?8歳児の首吊り自殺』という新聞の記事からと、その日の午前中にあった西成高校の取り組み『反貧困学習』も取り上げ発表しましたので、配布したレポートと発言した内容が若干違いますが、よろしくお願いします。
『続きを読む』に掲載をしていますが、A4の6ページですので入りきれずに途中で切れていた時は、すみません。
第30回荒尾市人権同和教育研究大会 特別部会レポート <o:p></o:p>
2010年8月21日 提出者 田中ひろはる<o:p></o:p>
【自己紹介】<o:p></o:p>
こんにちは。私は田中ひろはると申します。<o:p></o:p>
私は、1963年(昭和38年)8月9日に生まれ。47歳となりました。出身は<st1:address ProductID="福岡県 0 0">福岡県三池郡</st1:address>、現在のみやま市の<st1:address ProductID="高田町で生まれ育ち 0 0">高田町</st1:address>で生まれ育ち、1989年10月の結婚を機に<st1:address ProductID="高田町 0 0">高田町</st1:address>を離れ<st1:address ProductID="長洲町に 0 0">長洲町</st1:address>に移住。そして当時の日本社会党の要請により、荒尾市議会議員選挙の予定候補者となり、そのため現在の<st1:address ProductID="荒尾市万田に移り住んだのが1990年7月 0 0">荒尾市</st1:address>万田(二小校区)に移り住んだのが1990年7月。そして翌年の1991年4月の荒尾市議選に立候補。初当選を果たし、現在、議員活動20年目を迎えています。<o:p></o:p>
仕事関係では、1982年3月に<st1:address ProductID="福岡県立大牟田北高校 0 0">福岡県立</st1:address>大牟田北高校を卒業し、同年4月に日本国有鉄道(略:国鉄)熊本鉄道管理局荒尾駅に配属され、国鉄分割・民営化が強行された1987年3月末まで勤務。<o:p></o:p>
JR勤務を希望していましたが不採用となったため、JRが発足した同年4月からは国鉄清算事業団大牟田雇用対策支所に異動。1990年3月31日に、国鉄清算事業団を解雇されました。<o:p></o:p>
荒尾市議選に立候補するまでの1年間はアルバイトに従事し、トマト農家や金型鉄工所、荒尾郵便局にて郵便配達などをしておりました。<o:p></o:p>
【国鉄労働組合に加入。荒尾地区解放共闘会議への参加】<o:p></o:p>
私は、高校卒業後に国鉄に就職し、その翌月には、荒尾駅に勤務していた職員のほとんどが国鉄労働組合(略:国労)に加入されていたことから、職場での勧誘や地域にお住まいの国鉄職員からの勧めもあり、加入しました。<o:p></o:p>
私は、学生の頃から労働組合活動に興味、関心があったわけではありません。<o:p></o:p>
しかし、『一人ひとりの力は小さいけれど、みんなが団結すれば大きな力となる。差別は許さない。権利を守ろう。』などの言葉に共感するところがあったから、また、私の思いや悩みを聞いてくれる、困っているときには察知をしてくれて声をかけてくれる、そんな心を寄せることができる方が組合にいたことから、すすんで参加していくことになっていきました。<o:p></o:p>
解放共闘会議は、日本労働組合総評議会(略:総評)により他単産労組との結びつきによる労働運動が盛んであったころ、問題に対しても『の解放なくして労働者の解放なし。労働者の解放なくしての解放なし』と、盛んに労働組合と解放同盟との結合した共闘会議が全国各地で結成され、荒尾地区においても29年ほど前に結成されています。<o:p></o:p>
国労もその傘下にあったことからこの活動に参加し、狭山と人権集会をはじめ人権同和講演会などへも参加し、また学習と交流を重ねる中で問題について学んできたところですが、しかしまだまだ不十分なところは否めません。<o:p></o:p>
私が、解放同盟の方々と交流した中で、いまでも心に残っている事があります。<o:p></o:p>
1987年2月、私は交通事故の被害者として左腕を骨折、骨折した際に神経を圧迫したため麻痺の症状が表れ、左手首から先が上がらない状態になりました。今では、奇跡的に麻痺が完治とまではいきませんが、日常生活において肢体的不自由さを感じません。その当時は、障がい者12級の認定を受け、装具着用を余儀なくされていました。<o:p></o:p>
電車などの公共交通機関を利用する際や徒歩、買い物の時などでは、その装具に見た者の注目を集めることで恥ずかしいやら、かわいそうねとの声が聞こえるやらで、装具をはずしていることが多くなり、そのことを発言すると『隠す事はいけない』と諭され、『自分を明らかにすることで、周りの目を変える努力が必要』と、言われた事があります。<o:p></o:p>
問題を隠すのではなく、明らかにすることで今もなお、言われなき差別で苦しんでいる、悩んでいる事から抜け出し、問題の撤廃をみんなの力で進めていこうと言う事だと思います。<o:p></o:p>
【問題との出会い】<o:p></o:p>
共闘会議への参加以外に具体的なことは思い当たりませんが、小学校の頃に運動会の種目で『部落対抗リレー』が『地域対抗リレー』に名称が変わったこと。高校のときに、人権問題をテーマにした映写会があったことが思い出されますが、何の気にも留めていなかったのが実情です。<o:p></o:p>
その当時、『問題など知らなかった』というのが本当で、根深い問題があることを知ったのは、共闘会議に参加した22歳ぐらいの時だったと思います。<o:p></o:p>
私は、1989年10月に結婚しましたが、その前段に母からは私だけでなく相手の女性に対しても『どこに住んでいるのか』、『両親の出身はどうか』など根ほり葉ほり聞いていて、もしかしたら被差別出身かどうかを気にしていたのかもしれません。<o:p></o:p>
地域の寄り合いの中で私から、『人権講演会に参加を』という話をしたところ、『問題を知らない人にあえて教えんでもよかろうに』との意見が返ってきたことがあります。『そうではない』と切り返したこともあり、問題の解消には地道な努力が必要だと感じました。<o:p></o:p>
市議会議員の間でも、この問題が議論となることがありますが、行政は私たちと同じように問題として捉え、その取り組みを進めています。<o:p></o:p>
【組合活動の根底にあるのはいじめ問題。差別は許さない思い】<o:p></o:p>
今から話をしますのは、2006年11月28日の第5回荒尾市議会定例会の質問戦において、当時、いじめ自殺問題が社会現象となっていたことから、私の体験談も含めて市内の子どもたちへのメッセージとして発言した内容です。部分的に省略しながら報告します。それでは・・・・、<o:p></o:p>
マスコミにより、子どもたちの自殺が大きく報道されています。世界中には、病気や悲惨な事故、虐待、更には戦争の犠牲などにより、生きたくても生きられない子どもたちが多くいるにもかかわらず、自ら命を絶つ行為が子どもたちの中で起きていることに胸を締めつけられると同時に、その原因がいじめであればなおさらのこと、加害者に対し怒りがわいてきます。また、いじめそのものがなくならないことに、憂いも感じています。<o:p></o:p>
今のいじめられる原因は、私たちが経験をしたことがない、「そんなことで」と思うぐらいのことが原因となり、そしていじめの質が陰湿化、巧妙化、そしてインターネットや携帯電話利用によって広くに、いじめを助長しているわけですが、NHKの番組の中でいじめに対する子どもたちの討論会があり、出演した子どもたちにはいじめ行為は悪いという認識はあるのですが、しかし、いじめられるほうにも問題があると発言していました。<o:p></o:p>
いじめにあわないように自分で原因をつくらないよう気をつけるとか、大勢の中にいてターゲットにならないように努力をするとか、いじめにあったらけんかして戦うとか、先生や親、友達に相談して解決をしてもらうとか、そういった努力がないから問題だと発言していました。<o:p></o:p>
いじめの存在を認め、また戦うといった勇ましい声がある中、司会者の発言があるまでだれ一人、いじめる側をつくらないためにどうしたらよいのかという発言はありませんでした。<o:p></o:p>
いじめはなくならないというのが、子どもたちの気持ちだと感じました。<o:p></o:p>
私は、いじめられる側に何の問題もないと思っております。いじめられる側の子どもの多くが、おとなしい、抵抗しないなど、その子が持つ個性を否定しているのであり、きっかけがあったとしても注意をしてあげれば改善できるであろうし、ちょっかいをかけてくる、その原因にいつまでも執着する、いじめる側の加害者にだれもがならなければ、いじめ自体はこの世に存在しないと考えています。<o:p></o:p>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます