私の高校時代の経験談で大変申しわけありませんが、私はいじめを受けたと思っています。<o:p></o:p>
私は、学校生活3年間のうち、ほとんど学級委員長をしてきました。「してきました」というよりも、させられてきたというほうが当たっているかもしれません。<o:p></o:p>
学級委員長は、勉強ができる子、スポーツ万能の子、統率力があってクラスの人気者など目立った子がなるものと思われがちですが、実際のところ私もそう思っていました。<o:p></o:p>
ですから、1年生の2学期に初めて「田中さんにお願いします」という発言があったときは大変にうれしかったことを覚えています。先生が入ってくる授業の際に「起立、礼」と自分の言葉に全員が対応する、そして、一番に声を出すことに恥ずかしくもあり、うれしくもある、そんな思いでいました。<o:p></o:p>
ところが、その後に学級委員長はクラスの代表ではなく、クラスの雑用係としか見られず、だれもがなりたくない。言うなれば、クラスの中での嫌われ者がなるということを友達から聞かされたときには、大変ショックでありました。<o:p></o:p>
私は学生時代、まじめでおとなしくて騒ぐほうではなかったのですが、体がでかいことから教室のどこにいても目立ち、たたかれても抵抗しない、そんなタイプの人間で、学生時代にどんなにたたかれても、ののしられても一度も抵抗をしたことはありません。<o:p></o:p>
ですから学級委員長選出の際、だれもが顔も上げず手も挙げず、『早くだれかに決まればいいのに』、とのざわめきの中で「田中」という名前が出たことに私は喜びましたが、「自分にならなくてよかった」と思っていたのではないでしょうか。<o:p></o:p>
おとなしい、口数が少ない、消極的な者が学級委員長になると、それからが大変で、授業が終わった後の黒板消しは担当が決まっていましたが学級委員長、先生からの呼び出しや先生からの連絡も学級委員長、体育の時間の準備も片付けも手伝ってくれる者もなく学級委員長、先生が職員室に教材を忘れたといっては学級委員長、自習時間にクラスが騒いでいると「学級委員長はどうした」と先生からは怒られ、何でもかんでも「学級委員長、学級委員長」と言われることに嫌気がさし、そして私は学校を休むようになり、1年生のときに7日、2年生のときには14日、3年生のときには30日学校を休みました。<o:p></o:p>
私も、そんな時に自殺というものを考えてみまして、自殺にならなかったのは、性格的に似通った友人がそばにいたこと、学校に行く目的に陸上競技というクラブ活動があったこと、学校を休むということで逃げ場があったということではなかったのかな、というふうに思っています。<o:p></o:p>
それで2年生の時に一度だけ、担任の先生に学級委員長を交代させてほしいという相談をいたしました。ところがクラスの反応は冷たく、そのまま続行というときには、もう本当に「だれも」という気持ちになっていたのは事実であります。<o:p></o:p>
高校3年間、日に日に自分の心がきつくなり、顔つきが変わっていったのも自分で分かりました。就職後も職場の雰囲気になじむことができなかったんですが、そんな私を救ってくれたのが、労働組合であり、労働組合とのかかわりの中で、自分自身が成長できましたし、今日の自分があるのも労働組合のおかげだと思っています。<o:p></o:p>
しかし今でも、そしてこの文章を書いていた時もそうですが、クラスメートが楽しく笑っている時に、私は笑えなかった、いや笑わせてもらえなかった、そういった恨みがあるのも事実です。<o:p></o:p>
「そんな昔のことを」と言われるかもしれませんが、その時に傷ついた心は簡単に消せるものではなく、怒りは時間がたてば消えていきますが、恨みというものは、そんなにたやすく消えるものではないということを、私自身がよく知っています。<o:p></o:p>
ですから、いじめに悩んでいる、自殺をする子どもたちの気持ちは痛いほどよく分かりますし、子どもの自殺により残された保護者の無念さもよく分かるつもりでいます。<o:p></o:p>
私のように変われるきっかけは、子どもたちにも必ずあります。自殺を選択するなら、学校に行くのが苦しくて辛いのなら、私は「逃げなさい」と声を大にして言います。私のような経験をさせない、自ら命を絶つという行為をさせない、学校は楽しく遊べ、学べるところ、辛い悲しい思い出よりも楽しい思い出をつくってあげられる、そんな学校づくり、いじめを生み出さない、そんな教育が求められていると思います。<o:p></o:p>
という前置きをして質問を行いました。<o:p></o:p>
『弱者いじめや差別など、絶対に認められないし許さない』。そういった思いが根底にありましたので、組合活動に自ら参加していくようになったと言う事です。<o:p></o:p>
【私自身にかけられた差別、所属組合に対する差別】<o:p></o:p>
最後に、国鉄労働組合に加入していることから、新会社JRに採用されなかった。所属組合による差別を受けたことの報告をしたいと思います。<o:p></o:p>
1986年、当時の中曽根首相をはじめとした自民党政府は、国民の財産である国鉄をJRへと民営化し、各会社に分割する、国鉄分割・民営化を強行しました。<o:p></o:p>
その目的は、中曽根元首相が雑誌のインタビューやNHKの番組でも発言していますが、『国労をつぶせば総評がつぶれる。総評がつぶれれば、日本社会党がつぶれる。だから、意図的に行った』と、国労をつぶし労働運動を排除することが目的だったと明言しています。<o:p></o:p>
国労は、分割民営化に対して反対を貫き、国民とともに闘いを展開しましたが、当時の国会の力関係では、圧倒的に自民党の保守勢力が強いことから、力不足のため分割・民営化(国鉄職員24万人を14万人に削減しJRへ移行。10万人の削減合理化)を止めることはできず、しかし野党の抵抗もあって、国会での付帯決議『一人の労働者も路頭に迷わせない。所属組合による差別はしない』との文言を勝ち取りましたが、1987年2月16日。<o:p></o:p>
その日は、新会社JRへの採用、不採用の振り分け発表の日で、不採用者は国鉄清算事業団行きとなり、まさに清算の対象者となる運命の日でした。<o:p></o:p>
結果は、労使協調路線の『分割・民営化』賛成組合の組合員の採用率はほぼ100%だったのに対し、反対をした国労組合員は37.5%、全動労組合員は約20%という、このような数字からみても採用差別があったことは明らかです。<o:p></o:p>
後に報告しますが、国労として全国の都道府県で闘った労働委員会闘争。北海道労働委員会では、元国鉄管理者(助役)が証言に立ち、『100点の持ち点があり、処分の回数等で減点し65点以上あればJR採用。しかし国労組合員には、更にマイナス20点を課した』と。<o:p></o:p>
JR不採用になったとき、『あそこの息子さんは採用されたのに、田中さん方は不採用。何か悪いことをしたんじゃろう』という声が家族の耳に入り、恥ずかしいやら情けないやらの思いをしたと亡くなった母から聞いたことがあります。<o:p></o:p>
私は、勤務時代に一度も事故を起こしたことがなく、踏み切りの安全を守る業務の際には、事故を未然に防ぐために、踏切は約25メートルの幅があることから、手押し車などで通っている高齢者を見かけたときには声をかけたり、手を取って一緒に歩いたこともあります。また、乳母車の車輪が線路の隙間に入り込んで取れないで困っている方がいましたが、そのときにもすばやい行動で対処し、そのことで大変に喜ばれたこともあります。目が不自由な方もいましたが、そのときにも手を携えて踏み切りを渡ったこともあります。<o:p></o:p>
また、誰かが病気等で勤務ができなくなったとき、休みの日を返上して勤務に就いたり、草取りが業務の際には、人よりも汗を流し頑張った自負があります。<o:p></o:p>
それでも、不採用となったのは国労に所属していたからという、差別に他なりません。<o:p></o:p>
新会社JR採用を希望していた、全国で7600名もの国鉄労働者が不採用の通知を受け、同年4月1日、華々しく発足したJRの陰でその間、100名を超える自殺者が生み出されました。<o:p></o:p>
不採用にされた者の多くが、国鉄清算事業団(のちに鉄建公団、現在は独立行政法人『鉄道建設・運輸施設整備支援機構』と名称変更)に送り込まれ、その3年後の1990年3月31日には全国で1047名の労働者が再度、解雇されました。<o:p></o:p>
【採用差別撤回の闘い。労働委員会闘争と裁判闘争。闘えば成果はある】<o:p></o:p>
国労が『JR不採用は所属組合による差別だ』として、全国で展開しました闘いに労働委員会闘争と裁判闘争があります。<o:p></o:p>
先ほど申し述べました元国鉄管理者の証言、さらには様々な証拠書類を突き付け、地労委闘争は全国で勝利命令を勝ち取り、ここ<st1:address ProductID="熊本県でも 0 0">熊本県</st1:address>でも、1989年4月25日にJR九州旅客鉄道株式会社は、採用を希望している組合員を、1987年4月1日付で社員に採用したものとして取り扱い、就労させなければならない。組合員が就労するまでの間、同人らが1987年4月1日に社員として採用されていたならば受けるはずの賃金相当額と、清算事業団において実際に支払われた賃金額との差額を、同人らに対して支払わなければならない、などの国労完全勝利の救済命令が出されました。<o:p></o:p>
私たちが、組合差別があったことを立証した事を深く受け止めたことによる救済命令でしたが、JR側は中央労働委員会に上申し、そのことから長い裁判闘争へとなっていきました。<o:p></o:p>
この地労委救済命令の履行を信じ、またJR採用に当たって組合差別による不当労働行為が行われてきたことは許されないとして立証してきた裁判において、2005年9月15日東京地裁判決(鉄建公団訴訟)、2008年1月23日東京地裁判決(鉄道運輸機構訴訟)、2009年3月25日東京高裁判決(鉄建公団訴訟)などでは、労働組合の主張を認め『分割・民営化に反対した組合員に対する不利益な扱いは違法』と認定し、判決は、『組合の運動方針の違いを理由に異なる扱いをしたことは、国鉄の負う中立義務に反し、正当化するのは困難。公平にJRへの就職を果たす機会を奪い、多大な精神的打撃を与えた』と指摘しています。<o:p></o:p>
『分割・民営化』以来、23年もの長い闘いの中で解雇された1047名のうち、現在までに60名を超える方が志半ばで死亡しており、平均年齢は55歳にもなっています。<o:p></o:p>
荒尾駅時代のこと、清算事業団でのことが今でも思い出されますし、『分割・民営化』で、家族や同僚、友人との人間関係をズタズタにされてしまい、また私の人生を大きく変えられたことに今も怨みとしてあります。当時の管理職と会うことはありませんが、会ったときには感情を抑えきれない、怒りが込み上げてくると思います。<o:p></o:p>
当時、処分がありながらも国労を脱退しJR採用となった者、仕事を休まずまじめに働いてきた私とくらべて、私を採用しなかったのは、私が国労に所属していたからに他ならない事実です。思想信条の自由を憲法で保障されているにもかかわらず、公然と組合による差別扱いをしたことは明白であります。このことは絶対に許されません。<o:p></o:p>
【最高裁で和解。採用差別事件の全面解決を求めて】<o:p></o:p>
2009年8月30日の衆議院解散総選挙により、JR採用差別事件の解決を求めていた民主党を初めとした連立政権に変わったことで、2010年6月28日、最高裁判所において国労などの原告団と鉄道運輸機構との間で和解が成立しました。<o:p></o:p>
現段階においては、金銭面での解決に止まっていますが、前原国交省はJR<st1:address ProductID="北海道 0 0">北海道</st1:address>、九州、四国、貨物の各会社に対して、55歳以下の希望する200名程度の原告団の採用を要望しています。私も、JR九州の採用を要求しています。<o:p></o:p>
JR各社は頑なにその採用を拒否していますが、組合差別がなかったならば採用をされていたものとして、道義的責任をJRは持つべきです。<o:p></o:p>
雇用の面では未解決になっていますが、頑張り闘い続けたことで成果が表れています。<o:p></o:p>
JR不採用ということで、私に張られた不適格労働者としてのレッテルを剥がすために、キチンと雇用の責任を取らせるために、今後も頑張ります。<o:p></o:p>
【最後に】<o:p></o:p>
国労に所属をしていたから差別された。所属労働組合による差別がまかり通るならば、すべての差別がまかり通る事にもなります。泣き寝入りをせず、絶対に許してはなりません。<o:p></o:p>
私は、あらゆるすべての差別に対して絶対に許してはならない思いで、対岸の火事ではなく、差別も世間に広く訴え、そして自分のものとして考える事で、これからも頑張っていく所存です。<o:p></o:p>
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