普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

内なる革命

2014-04-19 01:56:45 | まあまあ社会<的>な
ある方から、「あなたは革命についてどう思っているのか?」という問いかけがあった。非常に難しい問いかけで、すっと答えられはしないのだが、それでも試みに……。

なによりもまず、革命という言葉の意味を、ボクたちは意外に知らない。

東洋的には、中国の易姓革命的概念がまずくる。それは王朝の交代を示す言葉であり、西洋的な「古い概念(例えば政治秩序)の破壊と、新秩序の構築にいたる急激な変革」といった意味とは異なる。

西洋的な革命とは、ヘーゲルの弁証法(テーゼ→アンチテーゼ→アウフヘーベンしてのジンテーゼ)に端的に言い表されているように、何者かによる既成の価値に対する変革であり、何者かによる改革なのだが、その改革・変革をもたらす主体者が何者であるかが、大きな問題になる。

近世以降は、革命と言えば一般的に「共産革命」あるいは「民主革命」、「市民革命」を意味するようになった。いずれも王侯・貴族・ブルジョアジーらの既得権益を破壊する働きを持っていて、その主体者は市民、あるいは民衆ということになった。西洋的な革命とは、端的に言えば抑圧するものへの被抑圧側からの反乱という意味合いが強かった。

だが、革命を単純に「激的な変化」ととらえれば、日本でも近世以降何度か革命は起きている。もっとも劇的で激的だったのは第二次世界大戦後の変革だろうか。

ただ、その革命=変化の主体者は、日本国内の勢力ではなかった。それが良かったのか悪かったのかどうでもよかったのかは別にして、アメリカ主導による「日本の民主化」という名の無意識領域の変革も伴った政治、経済、教育・文化など、およそ人の営みすべての、徹底的な破壊と再構築が行われたのだった。

それ以前にも日本の西洋化、世界化を果たす端緒となった明治維新もあったが、これとても変革の主体者は、決して民衆ではなく、尊皇攘夷派という大きな政治勢力による領導だった。だが、激的な変化という意味では、明らかに革命だった。

革命をもう少し狭義の西洋的民衆革命と理解して、そうした運動が日本にあったかと問われれば、あったと答える。

それは、60年安保から70年安保へと引き継がれていった、学生・労働者を主体とした左翼勢力による反米・反戦、反権力(自民党などの右翼政治勢力、大企業などのブルジョアジー等)闘争がそれだった。

ご存じのようにこの闘争は、半ば自壊といった形で頓挫・崩壊した。成功を収めなかったという一点で、革命とは呼べない。だが、西洋革命的要素は満々としてあった。

こうしたポリティカルな組織だった変革を「革命」と呼ぶ場合が多いのだが、実は「革命」とは本質的に個々一人ひとりの営為と考えることが重要なのではないかと、後々は思うようになった。

内なる革命、である。

そしてこの内なる革命こそが、おもしろい。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」という、三国志演義に登場する呉の呂蒙の言葉があるが、まさにこれこそが、内なる革命を端的に言い表した言葉。

最近のイギリス&アイルランド出身のPOPグループ=ワンダイレクションの登場するTVCMでも、「三年前の自分は平凡な少年だった」みたいなことを言っている。

もっと言えば、内なる革命は瞬時に起こる。三年、三日どころか三秒もいらない。そこに生命のダイナミズムがある。

変わる! そう決意した瞬間に人はすでに変わっている。それを革命というのだ。

革命とは「生命の変革」、そう理解するのがもっとも良いのではなかろうか?

異論も反論もあるだろうが、これがボクの、最近の革命論。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする