60歳を越えたが、不思議で仕方ないことがある。それは、記憶。
皆さんは、幾つくらいの時からの記憶があるのだろう? 是非コメントにして教えて欲しいのだが、僕はおそらく生まれた瞬間からの記憶がある。その有様は次のようなものだ。
父が島根新聞の編集局長だったこともあって、以前にも書いた松江の城を囲む堀端の、島根新聞の社宅のような一軒家でボクは生まれた。
それは夏の夕方だった。空はオレンジ色だった。ボクは縁側にいる。盥があり、ボクはその中に入れられる。暖かい感触。それが産湯だった。
その前、ボクは母の腹から出ようともがいていたが、出られない。足がうまく外に出てくれないのだ。逆子だった。
ボクは病院ではなく、自宅で産まれた。産婆も間に合わず、母は半ば立ったまま自然分娩で逆子のボクを産んだ、とかなり大きくなって聞かされた。
ボクの記憶の中で、瓦礫の山に乗り上げる戦車の写真というのがある。それは1950年6月に勃発した「朝鮮動乱」を報ずる写真だと、かなり大人になって父に教えてもらった。それまで、なんの写真かまったく不明だったのだが、胸の痞えが降りた。生後11ヶ月の記憶。
ボクは4歳で松江から家族で上京した。だから松江の記憶は4歳までのものだが、その記憶を書けといわれれば、優に原稿用紙100枚は書けるだろう。
真剣に。皆さんの記憶を教えて欲しい。
皆さんは、幾つくらいの時からの記憶があるのだろう? 是非コメントにして教えて欲しいのだが、僕はおそらく生まれた瞬間からの記憶がある。その有様は次のようなものだ。
父が島根新聞の編集局長だったこともあって、以前にも書いた松江の城を囲む堀端の、島根新聞の社宅のような一軒家でボクは生まれた。
それは夏の夕方だった。空はオレンジ色だった。ボクは縁側にいる。盥があり、ボクはその中に入れられる。暖かい感触。それが産湯だった。
その前、ボクは母の腹から出ようともがいていたが、出られない。足がうまく外に出てくれないのだ。逆子だった。
ボクは病院ではなく、自宅で産まれた。産婆も間に合わず、母は半ば立ったまま自然分娩で逆子のボクを産んだ、とかなり大きくなって聞かされた。
ボクの記憶の中で、瓦礫の山に乗り上げる戦車の写真というのがある。それは1950年6月に勃発した「朝鮮動乱」を報ずる写真だと、かなり大人になって父に教えてもらった。それまで、なんの写真かまったく不明だったのだが、胸の痞えが降りた。生後11ヶ月の記憶。
ボクは4歳で松江から家族で上京した。だから松江の記憶は4歳までのものだが、その記憶を書けといわれれば、優に原稿用紙100枚は書けるだろう。
真剣に。皆さんの記憶を教えて欲しい。
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