「最近、更新少ないね」
と、いろんな人から言われて、自分でも書きたいのに……とジレンマ。
仕事や飲みやらで、とにかくゆっくりとパソコンに向かう時間がなくて。
でも、今日から3日間はその時間がとれるので、ガンガン文章を書く。
お盆休みでヒマな人はチェックしてくれたら、かなりの確率で更新されていると思う。
ずっと書きたかったのだ。
いろんな想いを。
まずは、本の話から。
この間、少し書いていたけれど、再読したい本がいくつかあって、
最初に、有吉佐和子の「非色」を読んだ。
まあ、本当に久しぶりに感動した。
再読だったわけだが、最初に読んだのは大学生の時だろうか。
かなり昔の記憶。
その当時は旅とライブにバイト代をつぎ込んで暮らしていたので、
本はほぼ100%古本屋。
これも見るからにその当時買ったことを匂わせるような色褪せた本で。
昭和42年初版、そして私が持っている本自体は昭和50年で十五版。
初版当時はもちろん私も生まれていないし、
平成生まれが20歳を超えている今となっては、
昭和50年というのも大昔のように思う人も多いだろう。
でも、本当に、活字を読むのが嫌いでなければ、ぜひ読んでほしい1冊だ。
時代背景は戦争直後だというのに、全く古さを感じさせない。
エンターテイメント性と私小説性との両方を兼ね揃えているし、内容も深い。
久しぶりに夜寝るのを惜しんで読んだ。
電車の中だけではガマンできなくて、
夜中3時4時まで読み続け、結局355ページを2日で読み切った。
この本を読んだきっかけは、私が20歳の頃からBLUESという黒人音楽を好きだったことがある。
BLUESというのは人種的な背景をもって生まれた音楽で、
簡単に言ってしまえばアメリカ黒人が生み出したものだ。
黒人音楽だけれど、アフリカでは生まれなかった。
アメリカという国に奴隷として連れてこられ、迫害と差別を受け、
だからこそ生まれてきた音楽だと思う。
今となっては「文化」であり「ミュージック」だけれど、
BLUESが生まれた当時は、文化やミュージックというよりも
主張であり、娯楽であり、叫びであり、自嘲であり、存在意義であり、
様々な意味をもっていたものだったと思う。
それこそ生活に根付いていた、というか。
綿花畑で来る日も来る日も働き続け、不当な扱いを受け、
金もない、希望もない、女は出て行ったし、酒でも飲むしかない・・・
みたいな。そういう音楽だ。
私は小学生の頃から音楽(演奏ではなく聴くことのみ)が好きでしょうがなかったのだけど、
いろんなジャンルの音楽を聴いてきて、結局自分の心をとらえたのがBLUESだったとき、
黒人に対して特別な想いを抱くようになった。
この「非色」を手にとったのも、たぶん黒人のことが書かれていると知ったからだと思う。
簡単にあらすじを言えば、
(ここからかなりネタバレなんで、本を読もうと思っている人はここで終わりにしてね)
戦後の日本でなんとか生きていこうとする主人公の女性がいる。
進駐軍相手の店で働くようになり、そこで黒人の兵士と出逢い、恋をする。
黒人兵士は敗戦国の日本人とは違い、物資の供給を受け、かなり裕福。
その援助を受け、何不自由なく暮らす。
そして、周囲の反対を押し切って結婚し、子供を生む。
この辺りから、この本の本題に入っていく。
まず、子供が生まれたとき、黒人の夫が自分の娘を「白雪姫」と呼んで溺愛するのだ。
でも、大きくなるにつれて肌の色が黒くなっていくと、ほとんど興味がなくなる。
母親である主人公は逆で、生むまでは不安だったのに、肌の色など関係なく、その娘を愛す。
たとえ、親族や実の母親から疎ましがられようと。
やがて、日本からの撤退を命じられ、黒人の夫は本国アメリカへ帰る。
「必ず呼ぶから、一緒に暮らそう」と言い残して。
主人公はアメリカなど全く行く気持ちはなく、この時に離婚したつもりでいるのだが。
でも、主人公の心に変化が生まれる。
それは、自分の黒い娘が周囲からおかしな目で見られ、いじめにあっているのを知ってからだ。
夫から「アメリカに来い」という便りがあったことをきっかけに、アメリカへ娘と渡る。
いわゆる「戦争花嫁」として。
その船中、同じ境遇の花嫁たちと出逢い、彼女たちとはアメリカにわたってからも苦労を共にする。
アメリカに着いてみて、初めて気づく。
黒人差別という問題に。
貧しいハーレム暮らし。病院での夜勤という労働で安い賃金しかない夫。
日本料理屋で自分が働き、なんとか生計を立てる。
その間に、子種をたくさん持っていると言われている黒人ゆえに、
気をつけていても、どんどん子供は生まれていく。
貧しいのに、子供は毎年生まれる。
日本にいれば堂々としていたのに、「ニグロの妻」ということにどこか恥ずかしさ、
後ろめたさを感じていく主人公。
卑屈になっていく。
そして、アメリカという他民族の国の現状にも詳しくなっていく。
差別を受けていたニグロでさえも馬鹿にする民族、プエルトリコ人がいることを知る。
いつしか、主人公はプエルトリコ人よりはマシだと感じている自分にも気づく。
肌の色だ。
黒人夫やその家族のぐうたらさ、いい加減さ、無気力さに腹を立て、
「やっぱりニグロはニグロだ!」と思う。
それが、色なんだと思っていたのに、
見た目は白人であるプエルトリコ人が一番下の階級であることに疑問を感じるようになる。
肌の色じゃないのか?
その答えは、アメリカで暮らす上流社会の日本人のお手伝いとして働くようになってから明らかになる。
パーティーにやってくる、アフリカの肌の黒い上流階級の人々。
同じ肌の黒さなのに、彼らはアメリカ黒人をバカにしている。
主人公がニグロの妻と知ったとたんに態度が変わる。
娘と二人で全く知らない土地、アメリカに渡って来て、
いろんな人種を見て、いろんな暮らしを目の当たりにし、
様々な疑問をもって生きてきた主人公が、最後に答えを出す。
それが、この本のタイトルだ。
「色にあらず」
そのことに気づいた主人公は、自分は日本人だ、黄色人種だ、
あんな黒い肌の低俗なニグロとは違うんだと思っていた気持ちを捨てる。
アメリカという国で、ニグロの妻として、母として生きていく決心をする。
肌の黒い娘を誇りに思い、ほとんど面倒を見てやれない状態の一番下の息子を思い、
どこかスッキリとした思いで家に戻る。
色に非ず、差別は階級なのだと気づく。
そして、その気づきは、失望ではなかった。
むしろ、希望だった。
肌の黒い夫、親戚、娘、息子。
でも、肌の色じゃない。
瞳の輝きは肌の色では決まらない。
社会が作り出した階級なんだ。
でも、肌の色じゃないってことは、希望がある。
私はアメリカで7年も暮らしていて、ハーレムと日本料理屋しか知らないのだ。
明日、エンパイア・ステイト・ビルに上ってみよう。
主人公はそう決意して、物語は終わる。
久しぶりに、本を読んだ後、心の震えが止まらなかった。
それも、再読なのに。
ほとんどあらすじは書いたけれど、興味をもった人はぜひ読んでほしい。
あらすじを紹介しているけれど、実はもっといろんなエピソードもあるし、
あらすじと結末を知ったからといって、つまらなくなるような本じゃない。
ストーリーやこの物語に秘められている命題の重さもさることながら、
とりあえず、全く古さを感じさせないエンターテイメント性、
面白さ、文章の巧みさなど、読みどころは満載だ。
むしろ、新しい。
夫は「その本、全然知らん。聞いたこともない」と言った。
確かに、誰もが知っている文学ではない。
でも、こういう文学はおそらくずっと残る。
初版から40年経っても色褪せないというのは、本当にすごい。
今更ながら、イチオシの本である。
と、いろんな人から言われて、自分でも書きたいのに……とジレンマ。
仕事や飲みやらで、とにかくゆっくりとパソコンに向かう時間がなくて。
でも、今日から3日間はその時間がとれるので、ガンガン文章を書く。
お盆休みでヒマな人はチェックしてくれたら、かなりの確率で更新されていると思う。
ずっと書きたかったのだ。
いろんな想いを。
まずは、本の話から。
この間、少し書いていたけれど、再読したい本がいくつかあって、
最初に、有吉佐和子の「非色」を読んだ。
まあ、本当に久しぶりに感動した。
再読だったわけだが、最初に読んだのは大学生の時だろうか。
かなり昔の記憶。
その当時は旅とライブにバイト代をつぎ込んで暮らしていたので、
本はほぼ100%古本屋。
これも見るからにその当時買ったことを匂わせるような色褪せた本で。
昭和42年初版、そして私が持っている本自体は昭和50年で十五版。
初版当時はもちろん私も生まれていないし、
平成生まれが20歳を超えている今となっては、
昭和50年というのも大昔のように思う人も多いだろう。
でも、本当に、活字を読むのが嫌いでなければ、ぜひ読んでほしい1冊だ。
時代背景は戦争直後だというのに、全く古さを感じさせない。
エンターテイメント性と私小説性との両方を兼ね揃えているし、内容も深い。
久しぶりに夜寝るのを惜しんで読んだ。
電車の中だけではガマンできなくて、
夜中3時4時まで読み続け、結局355ページを2日で読み切った。
この本を読んだきっかけは、私が20歳の頃からBLUESという黒人音楽を好きだったことがある。
BLUESというのは人種的な背景をもって生まれた音楽で、
簡単に言ってしまえばアメリカ黒人が生み出したものだ。
黒人音楽だけれど、アフリカでは生まれなかった。
アメリカという国に奴隷として連れてこられ、迫害と差別を受け、
だからこそ生まれてきた音楽だと思う。
今となっては「文化」であり「ミュージック」だけれど、
BLUESが生まれた当時は、文化やミュージックというよりも
主張であり、娯楽であり、叫びであり、自嘲であり、存在意義であり、
様々な意味をもっていたものだったと思う。
それこそ生活に根付いていた、というか。
綿花畑で来る日も来る日も働き続け、不当な扱いを受け、
金もない、希望もない、女は出て行ったし、酒でも飲むしかない・・・
みたいな。そういう音楽だ。
私は小学生の頃から音楽(演奏ではなく聴くことのみ)が好きでしょうがなかったのだけど、
いろんなジャンルの音楽を聴いてきて、結局自分の心をとらえたのがBLUESだったとき、
黒人に対して特別な想いを抱くようになった。
この「非色」を手にとったのも、たぶん黒人のことが書かれていると知ったからだと思う。
簡単にあらすじを言えば、
(ここからかなりネタバレなんで、本を読もうと思っている人はここで終わりにしてね)
戦後の日本でなんとか生きていこうとする主人公の女性がいる。
進駐軍相手の店で働くようになり、そこで黒人の兵士と出逢い、恋をする。
黒人兵士は敗戦国の日本人とは違い、物資の供給を受け、かなり裕福。
その援助を受け、何不自由なく暮らす。
そして、周囲の反対を押し切って結婚し、子供を生む。
この辺りから、この本の本題に入っていく。
まず、子供が生まれたとき、黒人の夫が自分の娘を「白雪姫」と呼んで溺愛するのだ。
でも、大きくなるにつれて肌の色が黒くなっていくと、ほとんど興味がなくなる。
母親である主人公は逆で、生むまでは不安だったのに、肌の色など関係なく、その娘を愛す。
たとえ、親族や実の母親から疎ましがられようと。
やがて、日本からの撤退を命じられ、黒人の夫は本国アメリカへ帰る。
「必ず呼ぶから、一緒に暮らそう」と言い残して。
主人公はアメリカなど全く行く気持ちはなく、この時に離婚したつもりでいるのだが。
でも、主人公の心に変化が生まれる。
それは、自分の黒い娘が周囲からおかしな目で見られ、いじめにあっているのを知ってからだ。
夫から「アメリカに来い」という便りがあったことをきっかけに、アメリカへ娘と渡る。
いわゆる「戦争花嫁」として。
その船中、同じ境遇の花嫁たちと出逢い、彼女たちとはアメリカにわたってからも苦労を共にする。
アメリカに着いてみて、初めて気づく。
黒人差別という問題に。
貧しいハーレム暮らし。病院での夜勤という労働で安い賃金しかない夫。
日本料理屋で自分が働き、なんとか生計を立てる。
その間に、子種をたくさん持っていると言われている黒人ゆえに、
気をつけていても、どんどん子供は生まれていく。
貧しいのに、子供は毎年生まれる。
日本にいれば堂々としていたのに、「ニグロの妻」ということにどこか恥ずかしさ、
後ろめたさを感じていく主人公。
卑屈になっていく。
そして、アメリカという他民族の国の現状にも詳しくなっていく。
差別を受けていたニグロでさえも馬鹿にする民族、プエルトリコ人がいることを知る。
いつしか、主人公はプエルトリコ人よりはマシだと感じている自分にも気づく。
肌の色だ。
黒人夫やその家族のぐうたらさ、いい加減さ、無気力さに腹を立て、
「やっぱりニグロはニグロだ!」と思う。
それが、色なんだと思っていたのに、
見た目は白人であるプエルトリコ人が一番下の階級であることに疑問を感じるようになる。
肌の色じゃないのか?
その答えは、アメリカで暮らす上流社会の日本人のお手伝いとして働くようになってから明らかになる。
パーティーにやってくる、アフリカの肌の黒い上流階級の人々。
同じ肌の黒さなのに、彼らはアメリカ黒人をバカにしている。
主人公がニグロの妻と知ったとたんに態度が変わる。
娘と二人で全く知らない土地、アメリカに渡って来て、
いろんな人種を見て、いろんな暮らしを目の当たりにし、
様々な疑問をもって生きてきた主人公が、最後に答えを出す。
それが、この本のタイトルだ。
「色にあらず」
そのことに気づいた主人公は、自分は日本人だ、黄色人種だ、
あんな黒い肌の低俗なニグロとは違うんだと思っていた気持ちを捨てる。
アメリカという国で、ニグロの妻として、母として生きていく決心をする。
肌の黒い娘を誇りに思い、ほとんど面倒を見てやれない状態の一番下の息子を思い、
どこかスッキリとした思いで家に戻る。
色に非ず、差別は階級なのだと気づく。
そして、その気づきは、失望ではなかった。
むしろ、希望だった。
肌の黒い夫、親戚、娘、息子。
でも、肌の色じゃない。
瞳の輝きは肌の色では決まらない。
社会が作り出した階級なんだ。
でも、肌の色じゃないってことは、希望がある。
私はアメリカで7年も暮らしていて、ハーレムと日本料理屋しか知らないのだ。
明日、エンパイア・ステイト・ビルに上ってみよう。
主人公はそう決意して、物語は終わる。
久しぶりに、本を読んだ後、心の震えが止まらなかった。
それも、再読なのに。
ほとんどあらすじは書いたけれど、興味をもった人はぜひ読んでほしい。
あらすじを紹介しているけれど、実はもっといろんなエピソードもあるし、
あらすじと結末を知ったからといって、つまらなくなるような本じゃない。
ストーリーやこの物語に秘められている命題の重さもさることながら、
とりあえず、全く古さを感じさせないエンターテイメント性、
面白さ、文章の巧みさなど、読みどころは満載だ。
むしろ、新しい。
夫は「その本、全然知らん。聞いたこともない」と言った。
確かに、誰もが知っている文学ではない。
でも、こういう文学はおそらくずっと残る。
初版から40年経っても色褪せないというのは、本当にすごい。
今更ながら、イチオシの本である。