『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・時を超えて:下/V.E.フランクル『夜と霧』

2011年09月01日 14時44分42秒 | □愛読書及び文学談義

 

 父は英書に示されたアウシュビッツのあるポーランドの地図を示した。「強制収容所」の位置がいくつもあり、父はそこで行われた実態を、原書の一部を拾い読みしながら話し始めた。と同時に、最初は見せなかった屍体の写真も見せてくれた。

 ……労働と飢餓により骨と皮だけとなってうずたかく積まれたもの。処刑されたもの。ブルドーザーにより取り除かれるもの……。それらの夥しい屍体の山は、どれもが信じがたく、とても現実に起きたものとは想えなかった。

 だがそうした事実が、偽りのない歴史として残されたことにひどく傷ついた。子供なりに“人間というもの”についての信頼や安心が、揺らぎ始めた瞬間であったと言えるのかもしれない。

 少年は“生々しい人間世界の現実”を覗き見たのであり、その“リアリティ”のインパクトとその持つ意味の大きさに圧倒されていた。しかし少年はこれ以降、こっそり父の書棚の本を開き、また拾い読みすることとなった。それは生来の“読書好きの少年”を、“終わりのない本の世界”へと誘うきっかけとなった。

        ★  ★  ★

 それから十余年後、私は法学部の学生となっていた。大学生協の書籍売場で拾い読みしているとき、『夜と霧』という背表紙の表題が眼を引いた。題名がとても気に入り、導かれるようにその下の小さな副題に視線が行った。そこには「ドイツ強制収容所の体験記録」とあり、手にした表紙のセピア色の写真に釘付けとなった。  

 銃を抱えたドイツ親衛隊の前で、あどけない帽子姿の少年が手を挙げている(いわゆる「ホールドアップ」している)。その少年の隣で、一人の婦人が手を挙げたまま、少年とドイツ兵を振り向いて見ているようだ。少年の母親なのかもしれない。……どこかで見たことがあるような写真……と想ったそのとき、一瞬にして小学三年生当時の記憶が甦った。
 
 永く喪っていたものを探り当てたような気持だった。私は急いで巻末の写真をめくった。やはり、“それらしき写真”があった。紛れもなくあの日に見せられたのと同じような写真だった。私は軽い興奮を感じながら、その本をレジまで運んだ。

        ★  ★  ★

 いま手元に『夜と霧』(みすず書房)がある。数年前に新たに購入したものだが、学生時代に生協で購入したものと変わりはない。何気なく目を通したある一節に釘付けになった。

 心理学者でもあった著者のフランクルは、新婚早々、妻とともにアウシュビッツへ送られた。彼は著作の中で、学者としての怜悧な観察と緻密な分析に徹している。それが抑えの効いた文章であるだけに、背景としての残虐で悲惨な状況が、いっそう不気味にまた切々と伝わってくる。彼は述懐する。

 
 ――収容所という、考えうる限りのもっとも悲惨な外的状態――できることといえば、その苦悩に耐えることだけであるような状態にあっても、人間は愛する人間の精神的な像を想像して、自らを満たすことができるのである。

 彼が収容所の中で死の恐怖と闘いながら、そのような思索を続けているまさにそのとき、最愛の妻は同じ収容所の中ですでに殺戮の被害者となっていた。のみならず、両親と二人の子供も、ガス室や飢餓によって死に追いやられていたのだ。彼はそのことを想定しながらも、なお次のように述べている。

 ――愛する人間が生きているかどうかということを、私は今や全く知る必要がなかった。そのことは、私の愛、私の愛の想い、精神的な像を愛しつつ見つめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわずに今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。 

 この「愛する直視」に敬服するとともに、妻への愛をこれほど確信的かつ純粋に言い留めえたことに驚く。殺戮する側とされる側という極限状況……。その中にあっても「あるべき人間」を捨てず、高雅な精神を保ち続けた人間が存在していた。

 『夜と霧』――。数少ない愛読書の一つとなっている。同時に小学三年生のあの時、父が写真を見せてくれたことにあらためて感謝しながら、自分がフランクルの立場であったらと何度も考える機会があった。

 いつの世においても、そしてどのような状況下においても、人間の尊厳と希望は喪われない。無論、それは深い洞察力と人間性によって初めて可能になるのだろう。そういう崇高さと可能性とを学ぶことができる。(了)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ・時を超えて:上/V.E.フラ... | トップ | ・十団子も小粒になりぬ秋の... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

□愛読書及び文学談義」カテゴリの最新記事