さて二案の、
さびしさや岩にしみ込蝉の声
無論、これはこれで作品として完成しており、個人的にも嫌いではありません。『さびしさや』と、自らの心情を吐露した作者・芭蕉の想いも充分伝わって来ます。
この場合の『さびしさ』は、
第一に、「蝉の声」以外は何も聞こえないという「閑寂」の世界の「しずけさ」を意味しています。
第二に、芭蕉を取り巻く人間関係ことに「俳人宗匠」としての彼の “立場を象徴的に表現” しているのではないでしょうか。具体的には、俳句創作や指導における弟子たちとの “距離感” のようなもの……。
ずばり言えば、芭蕉の俳句観や創作観における “孤高の寂しさ” といったものかもしれません。
それだけ、芭蕉と弟子たちとの力量の差は歴然としていました……と筆者には思えるのですが。事実、現時点から「芭蕉の時代」を振り返るとき、芭蕉に並び得る俳人を挙げることなど容易ではありません。
立石寺を訪れたとき、芭蕉は満45歳であり、この5年半後に51歳で没しています。意外に短い生涯のようですが、、「蕉門十哲」と呼ばれた芭蕉高弟の享年が、宝井基角の46歳、服部嵐雪と向井去来の53歳、森川許六(※注1)の59歳などと比較するとき、それほど短命というほどでもありません。
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とはいえ、『さびしさや』として「感情」を前面に出すのは、作者の「表現世界」の広がりを阻むとともに、受け手の鑑賞世界を間違いなく浅くしています。
無論、芭蕉自身、そのことは百も承知の上でしょう。それを承知の上で、なおかつ『さびしさや』といわざるを得なかった芭蕉の心情……。芭蕉が「言いたかった」というより、「訴えたかった」ものが垣間見えるようです。
そう思ったとき、以下のような推理が芽生えました。
……芭蕉は早い段階で最終稿の「閑や」に辿り着いていたのではないでしょうか。いえ、そう考えるのが自然なような気がします。前回ご紹介した「紀行文」にも―、
『……岩上の院々扉を閉じて物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ』(下線、筆者)とあり、「物の音きこえず」「佳景寂寞」「心すみ行くのみおぼゆ」などに、「閑寂」に浸りきった芭蕉の姿が浮かんでくるからです。
ご覧のように、「閑」すなわち「閑や」と「寂」すなわち「さびしさや」であり、言うまでもなく「閑」と「寂」とを併せて感じ取っていたのは間違いありません。
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筆者の勝手な想像ですが、芭蕉は上記紹介の「“閑寂” を客観写生化 した紀行文」に対し、「句については自らの心情を中心にまとめようとした」のではないでしょうか。そのほうが、いっそう「俳句」を引き立てるとともに、「紀行文」としての叙述を膨らませることにもなるからです。
つまりは「紀行文(おくのおほそ道)」が、「俳句」の「単なる説明文」ではないとの表明にもなるからでしょう。というより、元々この「紀行文」としての「おくのほそ道」は、文学創作的な意味合いが強いと言われています(※注2)。
つまり、芭蕉は最終判断を下したのです。「紀行文」よりも「句」を、「取り止めもなく広がり行く感情や想い」よりも、「句としの完成度の高さ」を。つまりは『さびしさや』を捨てて、『閑や』に徹することを。
かくて「最終稿」は決まりました。『閑や』はもはや「動かない」のであり、他に置き換えようがなかったのでしょう。つまりは、『岩にしみ込』を『岩にしみ入る』としたのです。
「しみ入る」によって、「しみ込む」の物質現象的な “生々しさ” や “くさみ” のようなものが抜け落ち、芭蕉の心情が “心の襞(ひだ)” に柔らかく織り込まれたような気がします。
文字通り、作者の、そして受け手の「全身全霊にしみ入る」のであり、「しみ入る」と感じる芭蕉の深い精神性を余すところなく伝えています。「しみ込む」ではそのような解釈に至らないことを、読者のみなさんも確かめていただきたいと思います。
閑や岩にしみ入る蝉の声
『さびしさや岩にしみ込む蝉の声』の〝景〟に 紛れ込んでいた〝物欲しげ〟 な芭蕉は、もう何処にもいません。天地自然の采配による「あるがままの岩」が、そしてその「岩肌に照りつける鋭い日差し」があるだけです。
その強い「日差し」の中、「鳴き続ける」ことだけが「生きている証」であるかのような蝉の一群。その「岩にしみ入るような蝉の声」。
それはまた、「孤高の俳聖」の、到達しがたい〝句境の高み〟を暗示してはいないでしょうか。(了)
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※注1
◆『十団子も小粒になりぬ秋の風 森川許六』(2011.9.9) 👈クリック
※注2
「おくのほそ道」の旅に同行した芭蕉門人・河合曽良の「曽良旅日記」と、芭蕉の「紀行文」との比較により、両者にはかなりの違いがあることが指摘されています。
それは取りも直さず、事実としての「旅の記録」を重視した「曽良旅日記」に対し、芭蕉がいかに「文学創作としての句づくり」に力を注いでいたかということでしょう。表題の「おくのほそ道」を、「おくのほそ道紀行」としなかったのも、「紀行文」という意味合いを避けたかったのかもしれません。