『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◎閑や岩にしみ入る蝉の声/芭蕉(下)

2012年07月20日 23時41分38秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 さて二案の、

  さびしさや岩にしみ込蝉の声

 無論、これはこれで作品として完成しており、個人的にも嫌いではありません。『さびしさや』と、自らの心情を吐露した作者・芭蕉の想いも充分伝わって来ます。

 この場合の『さびしさ』は、

 第一に、「蝉の声」以外は何も聞こえないという「閑寂」の世界の「しずけさを意味しています。

 第二に、芭蕉を取り巻く人間関係ことに「俳人宗匠」としての彼の “立場を象徴的に表現” しているのではないでしょうか。具体的には、俳句創作や指導における弟子たちとの “距離感” のようなもの……。

 ずばり言えば、芭蕉の俳句観や創作観における “孤高の寂しさといったものかもしれません。

 それだけ、芭蕉と弟子たちとの力量の差は歴然としていました……と筆者には思えるのですが。事実、現時点から「芭蕉の時代」を振り返るとき、芭蕉に並び得る俳人を挙げることなど容易ではありません。

 立石寺を訪れたとき、芭蕉は満45歳であり、この5年半後に51歳で没しています。意外に短い生涯のようですが、、「蕉門十哲」と呼ばれた芭蕉高弟の享年が、宝井基角の46歳、服部嵐雪と向井去来の53歳、森川許六(※注1)の59歳などと比較するとき、それほど短命というほどでもありません。

             

 とはいえ、『さびしさや』として「感情」を前面に出すのは、作者の「表現世界」の広がりを阻むとともに、受け手の鑑賞世界を間違いなく浅くしています。

 無論、芭蕉自身、そのことは百も承知の上でしょう。それを承知の上で、なおかつ『さびしさや』といわざるを得なかった芭蕉の心情……。芭蕉が「言いたかった」というより、「訴えたかった」ものが垣間見えるようです。 

 そう思ったとき、以下のような推理が芽生えました。

 ……芭蕉は早い段階で最終稿の「閑や」に辿り着いていたのではないでしょうか。いえ、そう考えるのが自然なような気がします。前回ご紹介した「紀行文」にも―、

 『……岩上の院々扉を閉じて物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ』(下線、筆者)とあり、「物の音きこえず」「佳景寂寞」「心すみ行くのみおぼゆ」などに、「閑寂」に浸りきった芭蕉の姿が浮かんでくるからです。

 ご覧のように、「閑」すなわち「閑や」と「寂」すなわち「さびしさや」であり、言うまでもなく「閑」と「寂」とを併せて感じ取っていたのは間違いありません。

             ☆

 筆者の勝手な想像ですが、芭蕉は上記紹介の「“閑寂” を客観写生化 した紀行文」に対し、「については自らの心情を中心にまとめようとした」のではないでしょうか。そのほうが、いっそう「俳句」を引き立てるとともに、「紀行文」としての叙述を膨らませることにもなるからです。

 つまりは「紀行文(おくのおほそ道)」が、「俳句」の「単なる説明文」ではないとの表明にもなるからでしょう。というより、元々この「紀行文」としての「おくのほそ道」は、文学創作的な意味合いが強いと言われています(※注2)。

 つまり、芭蕉は最終判断を下したのです。「紀行文」よりも「句」を、「取り止めもなく広がり行く感情や想い」よりも、「句としの完成度の高さ」を。つまりは『さびしさや』を捨てて、『閑や』に徹することを。

 かくて「最終稿」は決まりました。『閑や』はもはや「動かない」のであり、他に置き換えようがなかったのでしょう。つまりは、『岩にしみ込』を『岩にしみ入る』としたのです。

 「しみ入る」によって、「しみ込む」の物質現象的な “生々しさ” や  “くさみ” のようなものが抜け落ち、芭蕉の心情が “心の襞(ひだ)” に柔らかく織り込まれたような気がします。

 文字通り、作者の、そして受け手の「全身全霊にしみ入る」のであり、「しみ入る」と感じる芭蕉の深い精神性を余すところなく伝えています。「しみ込む」ではそのような解釈に至らないことを、読者のみなさんも確かめていただきたいと思います。

 

  閑や岩にしみ入る蝉の声

  『さびしさや岩にしみ込む蝉の声』の〝景〟に 紛れ込んでいた〝物欲しげ〟 な芭蕉は、もう何処にもいません。天地自然の采配による「あるがままの岩」が、そしてその「岩肌に照りつける鋭い日差し」があるだけです。

 その強い「日差し」の中、「鳴き続ける」ことだけが「生きている証」であるかのような蝉の一群。その「岩にしみ入るような蝉の声」。

 それはまた、「孤高の俳聖」の、到達しがたい〝句境の高み〟を暗示してはいないでしょうか。(了)

          ★   ★   ★

 

※注1

 ◆『十団子も小粒になりぬ秋の風 森川許六』(2011.9.9) 👈クリック 

※注2

 「おくのほそ道」の旅に同行した芭蕉門人・河合曽良の「曽良旅日記」と、芭蕉の「紀行文」との比較により、両者にはかなりの違いがあることが指摘されています。

 それは取りも直さず、事実としての「旅の記録」を重視した「曽良旅日記」に対し、芭蕉がいかに「文学創作としての句づくり」に力を注いでいたかということでしょう。表題の「おくのほそ道」を、「おくのほそ道紀行」としなかったのも、「紀行文」という意味合いを避けたかったのかもしれません。


◎閑や岩にしみ入る蝉の声/芭蕉(上)

2012年07月14日 09時00分02秒 | ■俳句・短歌・詩

 

    閑や岩にしみ入る蝉の声   芭蕉  

 
 あまりにもよく知られたこの句。芭蕉の句の中でも、認知度の高さからいえば「ベスト5」に入るでしょう。そのため、“今さら採り上げてみても” と、実は書きかけの「原稿」を一年近く放っておいたほどです。
 
 再び綴りながらも、“今さら” の気持が完全に消えないのは、これまた厖大な「鑑賞」や「解釈」の対象となっているか らでしょうか。
 
  それでも今回、あえて「鑑賞・解釈」したいと思ったのは、芭蕉が「本句」の最終稿を得るまでに、二回の「改作(推敲)」をしたということにあるようです。
 「改作」の事実も「推敲過程」もすっかり忘れていましたが、今回あらためてあれこれ眼を通すうちに無性に触れたいと思ったのです
 
             
 
  「閑や」は「しずかさや」と読み、紀行文集『おくのほそ道』(奥の細道)の一句です。ちなみにこの紀行文集は、月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり』という有名な一節で始まっています。多くの方が、一度は耳にされたことでしょう。
 
 さて本句は、元禄二年(1689)、出羽(現・山形県)・立石寺(りっしゃくじ)」での作であり、芭蕉はその経緯を次のように語っています――。
 
 山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮れず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉じて物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ(「おくのほそ道文学館」)
 
             
 
 筆者は「古文」は苦手なのですが、これくらいは何とかわかるようです。
 
 『佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ』とは、“閑寂の心、ここに極まれり”とでも言いたいのかも知れません。
 
 『心澄み行くのみおぼゆ』に、最大の賛辞が込められているのでしょう。と同時に、そのように “感じ” また “イメージ” を膨らませた芭蕉独自の “感性” と “世界観” が、秘かに息づいてもいます。
 
 ところで本句の初案」は――、
 
   山寺や岩にしみつく蝉の声
 
 となっていたようです。「山寺」すなわち「立石寺」に対する、俳人特有の「挨拶(句)」の意味があったのでしょう。だが筆者には、「しみつく」という表現が気になって仕方がありません。
 
 第一に、この「言い回し」は、あまりにも “簡明直截” であり、“即物的” すぎるような気がします。「重い」感じが前面に出過ぎているようです。
 
 何かに「へばりついて」鳴いている「実像としての蝉」が、あまりにも生々しく浮かんでくるからです。もちろん、事実はそうであったのでしょう。しかし、『ほら、こんなにもたくさんの蝉が鳴いているでしょ』といった “あざとさ” が透けて見え、個人的にはあまり好きにはなれません。
 
 第二に、「しみつく」の「つく」には、「何かが表面につく」という物理的ニュアンスが強すぎるように思います。何よりもこの「つく」という動詞は、動作や行為の継続性や空間の広がりに乏しいようです。
 
 そのため、完成句のしみ入る」と比較するとき、表現世界の広がりや時間的経過の幅において、断然このしみ入る」の方が優っています。それにこの「しみ入る」には、「しみこむ」にはない〝主情のゆらぎ〟のようなものが感じられるのです。
 
 作句当初は、立石寺(山寺)に対する「挨拶」代わりの即吟という意味があったのでしょう。立石寺に対する「敬意」や「サービス精神」の所産という一面も否定できません。
 
 だがやがて、芭蕉は「立石寺(山寺)」を離れ、時間の経過の中で「初案」に向き合うこととなるのです。
 
             
 
 芭蕉の中で、次第に「立石寺」が消えて行ったのでしょう。それに代わって、「ひたすら鳴き続ける蝉の声」の「宙空」が現出しはじめたのです。その「宙空」は「岩山の重なり」を見せながらも、「その他一切のもの」を捨象していく……。
 
 そして、「岩山」と「蝉の声」だけの世界へと……。「その声」を「岩にしみ込ませる」かのように鳴き続ける「蝉」。そして、「自分(芭蕉)という存在」。つまりは「蝉の声」と「岩山」とによって、「さびしい」とのみ「おぼえさせられた自分(芭蕉)」とでも言うのでしょうか。かくて「再案(二案)」は――、
 
   さびしさや岩にしみ込蝉の声
 
 「さびしい」という詠嘆のこころが、「岩にしみ込」という表現を生み出したのでしょうか。いえ、「堅固な岩ですら声をしみ込ませることができる蝉」が、芭蕉をして「さびしい」と言わしめたのかもしれません。
 
 それほど、「間断なく強く鳴き続けている蝉」なる存在の重み。いえいえ、「そのように聞き、感じている芭蕉」という存在。そういう芭蕉の推敲過程が垣間見えます。
 
 しかし、無論、芭蕉はここで止まりませんでした。
 「さびしさや」を「閑や」に、「しみ込(む)」を「しみ入る」へと改稿する俳聖・芭蕉の “こころの軌跡” が待ち受けていました。続く)  
 
 

・『愛と青春の旅立ち』-13/リネットにプロポーズするシド

2012年07月05日 20時36分14秒 | ◆映画を読み解く
 
 【26】 高度訓練「不適性」により「DOR」をするシド
 
 ……「高度3万フィート(約9,000m)」想定の減圧訓練室。その中にザックシドシーガーたちの姿が見える。
 
       ☆
 
 戦闘機搭乗時には「酸素マスク」を付けるのですが、ここではそのマスクを外し、酸素欠乏による目まい、息切れ、閉所恐怖などを体感させるのでしょう。そういう徴候を感じたら、直ちに「酸素マスク」を着用して酸素を補給するという訓練です。
 
 のみならず、低酸素での「パイロット適性」のチェックという狙いもあるのかもしれません。結果としてシドは「不適性」となり、自ら「DOR」(自主退学)を申請します。あとわずか1週間で「訓練修了」でした。
 
       ☆
 
 ところが、この「DOR」をフォーリー教官による圧力と考えたザックは、それを「撤回」させようと「やっき」になります。そのアピール方法に、激高しやすいザックの一面が出ています。上官でもあるフォーリー教官に無礼な態度をとるわけですが、言葉遣いはひどいですね。
 
 しかし、ザックとフォーリー教官との間には、「シゴキともいえるあのペナルティ訓練」以降、不思議な「連帯感」が感じられます。「連帯感」というより、「できの悪い無礼な息子」を「好きなようにさせている父親」というところでしょうか。
 ザックも甘えているわけではないのでしょうが、「実の父親と息子」にしか判らないような「特異な馴れ」を感じさせます。
 
 まるで「実父バイロン」に甘えられなかった部分を、フォーリー上官に求めているような気がしないでもありません。無論、両者ともそのような意識はないのでしょうが。
 ともあれザックの一番の親友は、「パイロット(海軍士官)」への道を自らの手で閉ざしたのです
 
 
 【27】 リネットへのシドのプロポーズ
  
 ……タクシーに乗ったシドが、リネットの家にやってくる――。
 
       ☆
 
 彼はリネットに「指輪」を渡すため、つまりは「プロポーズ」をするための訪問です。リネットのことで思い悩んでいたシドが、「DOR」(自主退学)によって導き出した結論でしょう。
 
 久しぶりに見せるシドの明るい笑顔。“吹っ切れた”表情をしていますね。
 リネットは、シドが士官候補生の軍服姿ではないことに気づきますが、シドは無視したように上着のポケットから、「指輪」の入ったケースを取り出します。
 
 海兵隊の「パイロット」にこだわっていないシドと、あくまでも「パイロット(士官)」との結婚にこだわり続けるリネット。その違いが表れる場面です。
  
 指輪を渡されたリネットは、「パイロットとの結婚」という夢が、今まさに実現しようとしている感激と興奮を抑えることができません。
 
 シドは、すぐにでも判事の所に行って「婚姻の手続き」をしようとするのですが、ひとりはしゃいでいるリネットは、最初の赴任地にハワイを希望するなど、興奮冷めやらぬ状態です。
 
 しかし、その興奮も――、
 
 ――DORしたんだ。
 
 というシドの「ひと言」で吹き飛んでしまいます。何が起きたか信じられないといったリネットの表情。シドは再度「DOR」という言葉を口にするとともに、さらに追い討ちをかけるかのように言葉を続けます。
 
 ――パイロットには向かない。自分をごまかしてた。
 
 信じがたい表情のまま、リネットは聞き返します。
 
 ――じゃ、どうするの?
 
 シドはオクラホマへ戻り、そこで以前勤めていたデパートの仕事をする旨を伝えます。それに加え、母親が喜んでくれることや、お金がないため当分は親と同居することなども。
 
 失望と落胆の表情のリネット。無理もありません。パイロットの妻の夢も、海外赴任地での生活も、夢のまた夢と消えたのですから。
 意を決したように、リネットは口を開きます。
 
 
 ――シド。赤ん坊は間違いよ。
 
 つまりは「妊娠」していなかったことを明かしたものですが、言うまでもなく「妊娠」は、シドに対するリネットの「罠」だったのです。
 
 『何てこった』と言ったきり、すぐには言葉も出ないシド。大きな衝撃を受けたのは当然でしょう。
 
 それでもシドは、リネットから告げられた言葉の意味を確かめながら、これから先の「あるべき自分自身」を導き出そうとしているようです。そして、出した「結論」は――、
 
 ――とにかく結婚だ。君を愛している。いまそれがはっきり判った。ここにきて初めて幸せを知った。素直になり、君はありのままの僕を愛してくれた。僕の妻に、僕を世界一の幸せ者に……。
 
 シドは、左手の薬指に「指輪」をはめたリネットの手を握り締め、あらためてプロポーズの言葉を伝えます。
 
 しかし、シドの「プロポーズ」を受け入れることができないリネット。「断わりの言葉」を述べながら指輪を返し、はっきりと告げるのです。
 
 ――わたしはパイロットと結婚して外国へ行きたいの。パイロットエイビエイター)の妻に……
 
 リネットはそう告げた後、『あんたは馬鹿よ。大馬鹿よ。12週目にDORするなんて。大馬鹿よ』と言葉を浴びせます。そしてシドに背を向け、叩きつけるようにドアを激しく閉めて家の中に入ってしまうのです。
 
       ☆
 
 落胆と哀しみに打ちひがれたシド
 リネットを妊娠させたかもしれないと、「その事実に責任をもって立ち向かおうとしていた」シド。兄の身代わりとしての「パイロットの任務」と「戦死した兄の恋人との結婚」という二つを否定した上で、リネットとの結婚を選択したのですが……。
 
 素直に自分を振り返り、自分らしいと思って下したシドの結論……。
 
 それが「そうでない」としたら。「これしかない」との究極の選択が「否定された」としたら。シドは、これから先“どのように生きて行く”べきでしょうか……。(続く)
 
 
      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 ――演劇案内     !!! 「夜の部」は両日とも「売り切れ」のようです。
 
   元 集団あしゃしゃ 浜地泰造 × 九州大学演劇部 酒井絵莉子
 
   演劇ユニット  「 」(かぎかっこ)  旗揚げ公演決定!!
 
      ◇

  『F』
        作:宮森さつき  演出:浜地泰造
 
      ◇

   「あっち側」の男性型アンドロイドと「こっち側」の少女。
   交わるはずのない世界にいきる一人と一体。
   そんな彼らが出会いふれあい語り合い、
   見つけた喜びは片手に収まる程度のものだった。
   思い出は、ささやかでいい。
   これは、棄てられた世界で生きる女とアンドロイドが、季節をたどる物語。

 〈日時〉 7月14日(土)・15日(日) 両日とも 13時~/18時~ 
 
 〈場所〉 エンジョイスペース大名
         (福岡市中央区大名1丁目14-20)
        ・地下鉄:空港線「天神駅」下車、徒歩10分
        ・西鉄バス:「西鉄グランドホテル前」バス停下車、徒歩7分
              「今泉一丁目」バス停下車、徒歩5分

 〈料金〉 前売り500円  当日700円
 
 〈ご予約・お問い合わせ〉erikoro4416@yahoo.co.jp
                  090-1196-7569 酒井
 〈公式FBページ〉  http://www.facebook.com/playunitkagikakko

・紫陽花いろのもののふるなり

2012年07月01日 20時48分07秒 | ■俳句・短歌・詩
 
 ◆鉄工場(こうば)と濃紫陽花(こあじさい)  
 
 よく降る梅雨の候。“よく”どころか、地域によっては“とんでもない豪雨”となっている。ちと度が過ぎる“雨のたくらみ”と言えるのだが、そういう時節の花といえば、やはり「アジサイ」だろうか。
 
 数年前、初めて訪れた土地にて、思いもかけず「濃紫陽花のひと屯(たむろ)」に出会った。いつ降り始めてもおかしくない、どんよりとした曇りがちの空の下、あまり風もない昼下がりだった。
 
 近くに鉄屑処理場とおぼしき街工場(こうば)があり、淀んだ空気の中に金属の切削・研磨の際に出る鉄鋼片の微細な粉塵が、何となく鼻先に漂っているような気がして仕方がなかった。
 
 見知らぬ街の垢抜けしない小さな工場(こうば)。その隅っこを占める堂々たる紫陽花の一群。鞠の数は軽く三十を超えていただろう。逞しかったのを憶えている。
 植物や色彩に縁のない場所だけに、殺風景な中の濃紺の鞠は異彩であり、いやが上にも人目を惹いた。
 
 そのとき、俳句や短歌より先に『淡くかなしきもののふるなり、紫陽花いろのもののふるなり』という言葉が唇にのぼった。
 教科書などでおなじみの三好達治の詩の一節だ。中学に入ってすぐの頃、「紫陽花」が「あじさい」であることを知ったのも、初めてこの詩に触れたときであったように記憶している。
 
 
        ☆
  
             乳母車   
                     三好達治

     母よ――
     淡くかなしきもののふるなり
     紫陽花いろのもののふるなり
     はてしなき並樹のかげを
     そうそうと風のふくなり
     

     時はたそがれ
     母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ
     泣きぬれる夕陽にむかって
     りんりんと私の乳母車を押せ

     
     赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を
     つめたき額にかむらせよ
     旅いそぐ鳥の列にも
     季節は空を渡るなり

     淡くかなしきもののふる
     紫陽花いろのもののふる道
     母よ 私は知っている
     この道は遠く遠くはてしない道

               ――詩集『測量船』から
 
 
  ※「りんりん」の「りん」の文字は、「車」偏(へん)に、「隣」の「こざとへん」を除いた「つくり」と合体させた文字。「りんりん」とは、「車輪のきしる音」の形容。
 
 
        ☆
   
  さて読者は、この詩をどのように鑑賞されただろうか。それぞれのイメージや想いの中で、個々の「詩の世界」に遊ばれたのかもしれない。
 だが筆者は、正直言ってあまり触れたい気分にはならない。人口に膾炙したこの詩を、いまさら論じてもという気持が先に立つからだろう。
 
  いや、本当のことを言えば、今回久しぶりにこの詩を眺めたとき、「この詩に対してこれまで抱いていた何か」が、音を立てて崩れ去ったからだ。なんとも罪作りな詩であり、詩人だ。
 
 
  筆者がそう感じた原因は、次の3点にある。
 
 1.『淡くかなしきもの』や『紫陽花いろのもの』という「色合いの穏かさや優しさ」が、「夕陽」「赤い総」「ビロードの帽子」等の「強烈な色調」によって減殺されている。
 
 2.「はてしなき並樹」「そうそうと風」「泣きぬれる」「りんりんと」「冷たき額」「旅いそぐ鳥」「遠く遠くはてしない道」といった言葉は、あまりにも安直すぎる。
 
 まるで何処かの「バーゲンセール」において、つい安かったのでまとめて買っちゃいましたとでも言いたげだ。
 
 これらの言葉を用いる“詩的感興”が得られないため、感動も余韻も伝わりにくい。
 
 3.以上「1」と「2」による不用意かつ冗漫な表現がこの詩の緊張感を損ね、せっかくの淡くかなしき』と『紫陽花いろ』という二つの言葉による“秀逸な響き合いを“台無し”にしている。
 
 のみならず、この“響き合い”から豊かに広がっていくはずの『淡くかなしいものの正体』も、『紫陽花いろの変幻自在な変容』も、ともに膨らむこともなく萎(しぼ)んでしまったようだ。
 
 “たった2行”の“あの名詩”を作り出した“詩情”は、そしてその劇的な創造性に支えられた“感性”は何処に行ったのだろうか。 
 
          ☆
 
 
                雪       
                                                                 三好達治
                 
     太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

     次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

         ☆    

  そこで秘かなる「私家版」(筆者)の『乳母車』は――、

         ☆

         乳母車   

     淡くかなしきもののふるなり
     紫陽花いろのもののふるなり

    母よ 私の乳母車を押せ
     
     淡くかなしきもののふる
     紫陽花いろのもののふる道

     母よ 私は知っている

    この道は遠くはてしない道

 

       ※三好達治のファンのみなさん。お赦しを。