『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◎ジョンはヨハネ、ピーターはペテロ/聖書人名小伝(上)

2009年06月27日 18時38分40秒 | ◇聖書人名小事典

   
  海外の男子人名に多いイエスの「十二使徒名」

 西洋人に多い男子名の「ジョン」や「ピーター」それに「トム」など、日本人にも馴染みが深いようです。それだけ多くの人に付けられている名前といえるでしょう。  

 「ジョン」の名前がつく人物としてまず思いつくのは……筆者の独断と偏見によれば、まず『ビートルズ』の「ジョン・レノン」、次にダラスの凶弾に倒れた「ジョン・F・ケネディ」米国大統領でしょうか。
 
 しかし、映画大好き人間の筆者には、三人の「映画監督」がすぐに浮かんで来ます。

 『駅馬車』や『荒野の決闘』の「ジョン・フォード」、『天地創造』や『荒馬と女』の「ジョン・ヒューストン」、それに「七人の侍」を西部劇にリメークした、『荒野の七人』の「ジョン・スタージェス」監督です。

 同様に「ピーター」は、『ピーターパン』や『ピーター・ラビット』、それに映画『アラビアのロレンス』の主役「ピーター・オトウール」。また「トム」は、ハリウッドスターの「トム・ハンクス」「トム・クルーズ」それに歌手の「トム・ジョーンズ」など。ゴルフファンには、「トム・ワトソン」が想い浮かぶかもしれません。

            

 実は、この「ジョン」や「ピーター」そして「トム」は、「イエス・キリスト」の「十二使徒」の名前から来ています。

 とはいえ、「アルファベット」を主言語としない日本人には、ピンとこないのかもしれません。というのも、上記の名前は “英名” 読みであり、『旧約聖書』は本来「ヘブライ語」で書かれ、また「十二使徒」が登場する『新約聖書』は、「ギリシア語」で書かれているからです。

 結論を言えば、「ジョン(John)」は「ヨハネ」、「ピーター(Peter)」は「ペテロ」となります。そして「トム(Tom)」は、「トミー(Tommy)」同様、「トマス(Thomas)」の愛称であり、この「トマス」は「トーマス」ともなります。

 子供に人気のあの『機関車トーマス』であり、『魔の山』の作者「トーマス・マン」、発明王の「トーマス・エジソン」、さらには「米国独立宣言」の起草者として、後に第3代の大統領となった「トーマス・ジェファーソン」がいます。

                           ★

 「十二使徒」は、他に「ヤコブ」の「ジェームス(James)」、「アンデレ」の「アンドリュー(Andrew)」、「マタイ」の「マシューMatthew)」、「シモン」の「サイモン(Simon)」、「ピリポフィリポ)」の「フィリップ(Philip)」や「フィリップス」があり、またあまり馴染みのない「バルトロマイ」や「タダイ」、それにイエスを売った「ユダ」もいます。 (※十二使徒中には、「ヤコブ」という名の弟子が二人いました)。

 「ジェームス(ジェームズ)」には、映画『エデンの東』の主役「ジェームス・ディーン」をはじめ、俳優の「ジェームス・スチュワート」、さらには歌手の「ジェームズ・ブラウン」が挙げられるでしょう。

 スコットランドや英国には、「ジェームズ」という名前の「キング(国王)」が何人も出て来ます。

 ところで、『イエス・キリスト』の「英名」は何でしょうか? 

 

 ★ ◎2020年12月12日 午後 加筆修正 花雅美 秀理

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・口パク

2009年06月20日 17時49分51秒 | ○MUSIC
 

 TV音楽番組の多くが“口パク”というのは、今や常識といえるのかもしれない。つまり、実際に歌手が歌っているのではなく、CDやDVDを流している。生(ナマ)ではちょっと厳しいかな……というのが一番の理由のようだ。

 しかし、「perfume」という女性グループのように、意図的にメカニックな声質を出すために声を加工し、あえて“口パク”をさせるケースもあるそうだ。

 何よりも、生ではバックバンドへのギャラや音合わせその他に「コスト」や「時間」がかかるからと業界氏は語る。その点“口パク”は、画面に合わせて声やバックミュージックをあれこれ調整でき、また「音と映像とのコラボレーション」によって、効果的な画面が創れるというのが魅力らしい。

 局内の制作番組であればそれでいいだろう。しかし、「コンサート」となると問題があるはずだ。高いチケットを買わされた上に、たとえ一部分とは言え、CDやDVDを聴かされたとなれば、何となく詐欺にあったような気分ではないだろうか。と余計な心配をしていたら、コンサートにはその種の疑惑がいつも付きまとうと、業界氏は平然と語る。
 
 業界氏は続ける――。マイクで口元を隠し、動きの早い踊りで視線を「振付け」に引きつけるのは、“口パク”の可能性が大きいとか。確かに、激しく歌って踊り、それが終わったすぐ後に、観客に向かって語りかけるなど、生理的にかなり困難なはずだ。

 したがって、立ったままの姿勢で、しかも“節回し”がその都度変わるような演歌では、“口パク”はかなり困難だという。というより、何といっても演歌歌手は実際に歌がうまいから、と業界氏は付け加えた。

 シンセサイザーや音のミキシング技術の進歩により、歌は上手くなくとも「それなりの歌手」に仕立てることができる音楽業界――。そのことによって、関連産業は数多くの「音とパフォーマンス」のバリエーションを創り出し、またファンの拡大を図って来た。無論、今後も関連技術の向上や販促のアイディアはいっそう進むことになるのだろうが……。
 
 その昔、どうお世辞を繕っても上手いとはいえない浅田美代子が、たどたどしく歌っている様子を想い出した。振付けもマイク・パフォーマンスも何もなかった。彼女なりに懸命に歌っている姿を、はらはらしながら見ているだけだった。そして、大きく音を外すこともなく何とか歌い終えたとき、万雷の拍手があり、みんなほっとしたものだ。

 歌う方も聴く方も“素朴な真実”に支えられていた。
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・『話を聞かない男、地図が読めない女』

2009年06月13日 15時16分57秒 | ■男と女のゐる風景
 

 数年前、『話を聞かない男、地図が読めない女』という本が話題になった。タイトルのとおり、男性は“人の話を聞こうとはしない”傾向が強いという。もっともそれについては、“他に何かをしているときには……”という前提条件が付く。

 つまり男性は、“一度に二つ以上のことができない”との欠点を指しているようだ。だが男性は、女性に比べて「空間感覚」に優れている。そのため何処までも獲物を追いかけ、それを手に入れて自分の塒(ねぐら)に帰り着くのも、この能力があればこそのものだろう。 

 一方、「空間感覚」が苦手な女性は“地図がなかなか読めない”。縦列駐車や車庫入れがぎこちないのも、この空間感覚の未発達から来ているという。だがその反面、女性は同時併行的にいくつもの仕事や動作をこなせるようだ。

  『わたしなんかテレビを観ながらお化粧し、母とも話をするんですよ』

 A嬢はこともなげに語る。そのシーンの彼女を想い浮かべながら、我が身に置き換えてみた。
 ……「テレビ」を観ながら「髭を剃り」、同時に誰かと「会話」もする……。『特撮』でもしないかぎり、絶対にそうしたシーンはありえない。いやそれ以前に、そもそもそのようなイメージが浮んで来ない。髭を剃るときは、ただひたすら髭剃りだけに集中する。

 音楽を聴きながら勉強したことなど、これまでただの一度もなかった。今でも「書き物」をしたり「ネット」を覗くとき、テレビも音楽も一切つけない。音楽を聴くときは、ひたすらそれだけに集中するからだ。

 もし音楽を聴いている最中に電話がかかれば、間違いなく音楽を止める。それは“パブロフの犬”にも負けない俊敏な“条件反射”を示し、寸分の躊躇(ちゅうちょ)も狂いもない。

 以上のことは、多少の個人差はあれ、その源は男女の「脳」の違いから来ているようだ。そしてそれを司るものが、各種の「ホルモン」ということになるのだろう。曰く「男性ホルモン」であり、「女性ホルモン」というやつだ。


 ――結局、いつもの“男女の脳とホルモン”の話なのね。要するに「空間感覚」は「論理」の基本だって言いたいんでしょ? だから“ロジカルでない女”は、必然、視野も狭く思考能力も弱いって。それに“感情の奴隷”であるため静かに考える習性がなく、何やかや喋り続けるだけなんでしょ? そして都合が悪くなったら涙を武器に沈黙する……。そのくせ『どうしてそんなことを言うの? あなただけはそんな人じゃないって信じてたのに』と、思わせぶりに逃げ帰る。でもあっという間にお化粧を落とし、ケロっとしてテレビに観入っている……。あとはあれこれ食べ散らかしながらも、彼からの“お詫びメール”をひたすら待ってるって……。

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・“はっぱふみふみ”と“ボイン”

2009年06月06日 14時53分18秒 | ■文化小論




“みじかびのきゃぷりてとればすぎちょびれ すぎかきすらのはっぱふみふみ”

 以上の文言が正しいかどうか、正直のところ自信がない。しかし、筆者の脳裏には、何十年となくそのように記憶されて来た。
 “団塊の世代”前後の人々には覚えがあると思う。正確に“いつの時代”と問われても困るが、おそらく1960年台前半、つまりは昭和40年台の後半あたりだろうか。大橋巨泉氏によるパイロット万年筆のCMフレーズだ。

 三十一文字の短歌となっており、歌の意味は、“短めの万年筆のキャップをとったところ、つい書きすぎてしまうくらいにスラスラと調子よく筆が進み、何通もの手紙を綴ってしまったよ”……というところだろうか。

 「すぎちょびれ」の他は、おおむね意味が通じるはずだ。とはいえ、これといって決まった意味や解釈があるわけではない。何かの弾みで調子よく言葉が出て来るときがあるように、この万年筆には、思わず手紙を綴りたくなる何かの力があるのでは……といった意味づけを狙っていたのかもしれない。

 “はっぱふみふみ”と言い終えた巨泉氏が、にんまりしながら“ウッシッシ!”と締めくくる表情が印象的だった。気障(きざ)な感じがしなくもなかったが、太めの身体に大きな黒縁メガネという巨泉氏のスタイルには、どことなく愛嬌があり少しも厭味がなかった。

 何と言っても調子が良いため、知らない間に言葉が頭の中に留まってしまったのだろう。五七調のフレーズはリズミカルに日本人の脳細胞を揺すり、記憶の底に刻み込まれる。それが時間の経過とともにいっそう記憶を強めていくようだ。


 巨泉氏といえば、深夜番組の「11PM(イレブン・ピーエム)」において、“チョイワル”文化の草創期を担ったタレントと言えるのかもしれない。
 この番組は、子供達が寝静まった後を見計らうように放映され、お色気たっぷりの雰囲気のなか、大人の遊びを紹介する番組であったように思う。大学を東京で過ごした筆者にとって、友達の下宿でたまに観る機会があった。

 当時、この番組の「メイン・アシスタント」が、グラマラスなボディの朝丘雪路さんだった(今でもあまり変わらない体形を維持されているように思う)。 
 見事な“バスト”の持主であり、それを巨泉氏は“ボイン”と名づけたのだ。いかにも“省略と語感”を大切にするテレビ的表現だが、巨泉氏のすぐれた言語感覚と表現力の勝利と言えるだろう。

 だが最大の功労者は、上品なお色気の中にも慎みと爽やかさを備えた朝丘雪路という女優、いや人間その人であったことは言うまでもない。ことに彼女が、女性美をこよなく追究した日本画の大家、伊藤深水画伯の愛娘(まなむすめ)であることを考え併せるとき、その意味はいっそう深い。

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・“美しき鬼”―女優・山口智子

2009年06月01日 07時46分24秒 | ●演劇鑑賞
 


 ノートを整理していたら、週刊誌に関する次のような「抜き書き」を見つけた。

 『……それにしても山口智子は凄かった。巧いとか下手とかの次元ではなかった。美しい鬼なのだ。こだわるところは徹底的にこだわり、納得がいかないと梃子(てこ)でも動かなかった。久しぶりに私は狂気というものを見たと思った』
 
 演出家の久世光彦(くぜてるひこ)氏、が「向田邦子(むこうだくにこ)の恋文」というテレビドラマ(数年前に放映)について書いたエッセイ(週刊誌)の一節だった。
 
 記憶は定かではないが、数年前に放映されたこのドラマは、向田邦子とその恋人の実生活を描いたものであり、山口智子が向田を演じていた。恋人とは、向田の遺品(日記や書簡等)によって明らかにされたN氏であり、彼には妻子があった。N氏は『日記』の中で向田とのことを語っており、ドラマはそれを元に台本が作られたようだ。

 「抜き書き」即ち久世氏のエッセイは続く――。
 『……長い稽古を終わって家に帰ると、演技についての自分の考えを述べた長文のFAXが、山口智子から届いている。《お帰りなさい。ところでシーン54のことですが……》 これが連日なのだ。撮り終えて数えてみたら、ファックスは百数十枚を超えていた』
 
 演出家に“美しき鬼”と言わせた山口智子も凄いが、百数十枚ものFAXを女優から受信し続けた久世氏も凄い。さすがに稀代の演出家と言われる所以だ。送信する側と受信する側との間に、さぞかし緊迫した熱いやりとりがあったことだろう。

 しかし、女優と演出家をそこまでさせた“向田邦子”という人間の存在についても、改めて考えざるをえなかった。
 向田邦子と久世氏は、かつてのTV番組『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』という、一世を風靡したドラマの「脚本家」と「演出家」の間柄であり、向田に対する久世氏のこだわりは尋常ではない。そのような二人であればこそ、山口智子も自分が演じる向田邦子という存在を、特別な役回りとして受け止めていたのだろう。無論、一人の人間そして同性として、“共感”できる部分もあったはずだ。

 久世氏に送りつけたFAXの内容は詳(つまび)らかでないが、女の役者としての山口智子が、男の演出家に対して、ときには向田邦子に違和感や反感を抱きながらも、同性としての共有部分を必死で代弁しようとしていたような気がする。

 一方、久世氏は“山口智子”への視線の先に、“向田邦子”を見ていたのだろう。そしてこの演出の鬼才が呼ぶ“美しき鬼”とは、“演じた女”と“演じられた女”二人に対するものであったように思えてならないのだが……。
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