『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・新春俳話―下巻(正月の生活と遊び)

2021年01月05日 12時13分32秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 鏡餅、雑煮、初夢

 前回までの「上・中巻」は、「新年」の「風物(「時候・天文・地理」)に関する「季語」を採り上げていました。

 そこで今回は「生活・行事」の季語を選び、できるだけ多くの作品に触れてみたいと思います。ただし、本稿で採り上げる「季語」について、若い世代の方々にはピンとこない部分があると思います。

 最初に採り上げる「鏡餅」にしても、今日スーパーなどで売られている「パッケージ・パック化された鏡餅」とは異なります。私が小学一、二年生の頃は、一般家庭等においても、竈(釜戸)などでもち米を蒸し、臼と杵を使ってつくということが、結構行われていました。(※注①)。

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 それでは、さっそく「鏡餅」からまいりましょう。

  鏡餅暗きところに割れて坐す   西東 三鬼

 〝割れて坐す〟という表現に、これぞまさしく〝旧き良き時代〟の「鏡餅」という雰囲気が出ています。

 「鏡餅」は陽に当たりすぎたり、暖房が効きすぎると、当然のようにヒビや割れが早く進むため、極力、日の光や火の気を避けたものです。

 といって、全く人目に触れない所に置いたのでは意味がありません。そのため、床の間や玄関、それに廊下の突き当たりなど、できるだけ室温の低い所(といっても、低すぎてもいけないわけですが)に置かれていました。少なくとも、私が小学低学年時の自宅や祖父の家はそうでした。

 この句の「鏡餅」の場合、ヒビや割れが酷くなっていたのでしょう。それでやむなく〝お役御免〟として「暗きところ」に置き換えられ、「割れて坐す」という姿に成ったのでしょうか。子供の頃、祖父の家において、階段下に〝ヒビ割れてぼろぼろになった鏡餅〟が 置かれているのを見た記憶があります。65、6年前の話ですが。

 「坐す」としたところに、この「鏡餅」が、結構な大きさであることをうかがい知ることができるとともに、〝ヒビ割れてまでよく頑張ったね〟といった〝労いの気持ち〟も感じられます。

 「鏡餅」は大きければ大きいほど、それに比例して〝割れ〟も大きくなるものです。逆に言えば、「鏡餅のヒビや割れの大きさ」は、或る意味〝ステイタス・シンボル〟でもあったのかも知れません。

 〝物そして物事の本質〟を〝有無を言わさずズバリと言い切る〟西東三鬼ここにありと言える秀句です。団塊世代の方々には、本句によって、子供時代の正月の記憶や想い出が甦って来たのではないでしょうか。

 

  青黴の春色ふかし鏡餅   佐々木 有風

 一般家庭において自分たちで「ついた餅」は、言うまでもなく防腐や防黴処理を施すことはありませんでした。そこで当然のことながら〝ヒビや割れ〟だけでなく、〝黴(カビ)〟にも見まわれたものです。といって嫌悪感や悲壮感はなく、子供の頃は〝黴の部分だけ〟を巧みに〝こそぎ落す〟ことを、ゲーム感覚でやっていました。

 その土地や室内の温熱環境にもよるでしょうが、「青黴」が生えるまでには結構時間がかかったように記憶しています。本句の「春色ふかし」に、その時間の経過がさりげなく詠み込まれていますね。

 ところで「春色」とは、〝春らしい柔らかい光や明るさ〟がもたらす「春の景色や趣き」を意味する「春の季語」であり、また「青黴」も、本来、梅雨期を象徴するものとして「夏の季語」になっています。

 とはいえ、ここでの主役はあくまでも「鏡餅」(新年の季語)であるため、「春色ふかし」は、「鏡餅」に係る形容となっています。つまりは〝戸外の景色〟云々ではなく、〝気がつけば、青黴が生えるほど時間が経過していたんだ〟といった感じに受け止める必要があります。

 正直に言えば、当初この句は〝鑑賞文を付けず、例句のみの紹介〟の予定でした。それはやはり、トリプルの〝季重なり〟が気になっていたからです。

 しかし、先ほどの「三鬼の句」をよりよく理解していただくためには、欠かせない句との判断によって鑑賞を加えました。

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 「餅」と来たら、次はやはり「雑煮」でしょうね。

 しかし、こと「季節限定の食べ物」となれば、それこそ〝地域の風土や慣習〟それに〝各人各様〟の好みがかなり異なるため、収拾がつかなくなるおそれがあります。そこでここでは、「例句」のご紹介だけにしておきましょう。

 もし私が、うっかり「博多の雑煮」について語り出すとなれば、今日この「俳話」はとても終わりそうにないでしょう。そのため、ここでの鑑賞は強制終了といたします。

  高砂や雑煮の餅に松の塵        志太 野坡

  脇差を横にまはして雑煮かな      森川 許六

  笹鳴きを覗く子と待つ雑煮かな     渡辺 水巴

  空たかき風ききながら雑煮かな     臼田 亜浪

  (はぜ)だしの博多雑煮は家伝もの 小原 菁々子  

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 次は「初夢」。「上巻」でご紹介した「講談社版・大歳時記」では、「初夢」を〝正月元日から二日にかけての夜見る夢〟と定義付けています。

 しかし、他の「歳時記」では、〝正月二日の夜あるいは節分の夜(昔の節分は正月)の夢〟としています(角川:入門歳時記)※注②)。

 

  初夢のあいふれし手の覚めて冷ゆ   野澤 節子

 夢の中で触れた手と手。それは〝ゆったりと揺蕩(たゆた)うような調子〟からして、「作者」と「異性(男性)」ということでしょうか。とはいえ、その「男性」がどのような人物で、また二人の関係がどのようなものであるのか、もちろん何一つ判ってはいません。

 というより、そもそも「夢そのもの」の多くが〝とりとめもない〟ものであり、〝儚(はかな)い〟存在なのですから。

 それでも〝夢とは潜在願望の充足である〟とするS・フロイトの精神分析学的「夢判断」に従えば、やはりこの場合の「男性」は〝特定の人〟ではないでしょうか。

 私がそう感じた一番の理由は、「覚めて冷ゆ」という下五の表現にありました。どこか〝自分自身をも突き離したような醒めた〟言い回しです。

 そこには、作者の〝口惜しさ〟……もっと言えば〝落胆〟のようなものが感じられたからです。それを、病弱であったと言われる節子の〝生〟そして〝性〟の〝密やかな 心の叫び〟と言うのは言い過ぎでしょうか。

 「あいふれし」は「相触れし」であり、もちろん〝互いに触れ合う〟ことを意味しています。本句では「あいふれし」として、〝だけが触れ合ったような〟表現となってはいますが……。

 「あいふれし」と「ひらがな表記」にしたことによって、「漢字」部分の「初夢・手・覚・冷」の4文字が、不思議な結びつきと響きを感じさせてもいるようです。

 もちろん、それはこの「初夢」に対する節子自身の心の有り様であり、読者へ何かを託しているように私は受け取ったのですが。

 これ以上のことは控えることにして、読者各位のイマジネーションとクリエイティビティにお任せしましょう。

  なお本句鑑賞に当たっての参照句として――、

  初夢や秘して語らず一人笑(え)む      伊藤 松宇 

  初夢の思い出せねどよきめざめ    三浦 恒礼子

 の2句をあげておきましょう。その他〝いかにも初夢らしい〟雰囲気たっぷりの例句として、 

  初夢に見たり返らぬ日のことを     日野 草城

  初夢のせめては末のよかりけり     久保田 万太郎

  初夢の河が光ってをりしのみ      加倉井 秋を

 

 そして――、

  初夢の扇ひろげしところまで     後藤 夜半

 この場合の「」は、作者の二人の実弟が「能楽師」であることを考えると、能楽で使われるものかもしれません。

 「初夢」にかぎらず、およそ「」というものは、この句の「扇ひろげしところまで」のように、〝結末がなんとも曖昧〟という感じのものが大半ではありませんか? そのため〝あの先は、どうなるんだろう?〟という、モヤモヤ感に付き纏われるようです。

 あるいは〝何のためにこういう夢を……〟とか、〝その夢が過去、現在の自分と、どのように関わって来たのか……また将来、どのように関わろうとするのか〟といった「?」を突きつけられることも数多くあることでしょう。

 まさしく、あの「いろは歌」の最終句〝あさきゆめみし、ゑひもせす〟(浅き夢見し、酔いもせず)に通じています。

 

 ところが――、

  初ゆめのゆめの深さに溺れをり  村沢 夏風

 というのですから……。「ゆめの深さに」……「溺れをり」ですよ。あのMr.タモリは、同郷のMr.鉄矢に言うでしょう。

 『……鉄ちゃん。どげん思うね? 初夢ってゆうたっちゃ、たかが夢やなかね。その夢が深いてバイ。そやけん、溺れようて言いよんしゃあ……。あんた、なんか言葉ば、贈ってやりんしゃい……。』

 もっとも、人さまが意見したり慰めたりしたところで、解決する問題ではありませんが。果たして夏風氏の初夢とは、一体どのようなものだったのでしょうか。ず~っと気になっています。

 ついでに言えば、この句も〝ひらがな〟の使い方が巧みです。「初夢」の「夢」を「ゆめ」としたことにより、上五の終りと中七の始めとが、「……ゆめのゆめの……」と、素晴らしいリフレインとなっているからです。

 それだからこそ、下五の「溺れをり」がグンと引き立つとともに、上五へ戻っての「初ゆめの」そして中七の「ゆめの」への流れが、いっそう流麗になっているのです。

 文字を目で確かめながら、ゆっくりと何度も口ずさんでみませんか。作者の気持ちに近づくことができると思います。

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 最後は、昔々の「お正月の遊び」について――。

 私の子供の頃、正月には本当に「」を揚げたものです。もちろん何人かの近所の子供や大人達も一緒でした。「」を揚げる「空」と、走り回る「原っぱ」とがあったからでしょう。

 テレビもゲームも携帯電話もなく、コミック雑誌も満足にない時代でした。文字通り目を瞑って〝瞑想〟するとき、実に鮮やかにそのときの原っぱや周辺の光景、そして仲間や大人達の顔の表情や身ぶり手ぶりが甦って来ます。

 しかし、実は「」そのものは「新年の季語」ではなく、「春の季語」となっています。「独楽」や「羽子板・羽根つき」それに「手毬・毬つき」が「新年の季語」になっているだけに、個人的にはちょっと残念な気が致します。

 ところで「独楽」に関しては、特に「正月」だからといって遊んだ記憶はありません。それは、一時期、日常的に遊んでいたからでしょうか。

 一方、女の子達の「羽根つき」や「手毬つき」……。遊んでいた女の子の顔立ちや声の弾みなども、案外記憶に残っています。私と同世代の方々は、みなさん同じではないでしょうか。

 

  羽子板の重きが嬉し突かで立つ  長谷川 かな女

 この句は、小学一年生の頃の私の実体験でもあるのです。もちろん正月であり、着物姿の三人姉妹でした。上は、確か小学4年か5年生だったと思います。真中が私より一つ上、そして下の子は五つくらいではなかったでしょうか。

 三人が手にしていたのは、大きくて分厚い、いわゆる「役者絵」と言われる少し派手なものでした。幾重もの布地の工作が施された、とても豪華な、そして重たそうな「羽子板」でした。「飾り羽子板」であり、実際に「羽根つき」をするものではありません。 

 淑やかな仕草の「上のお姉さん」が、急に〝大人びて見えた〟のがとても印象的でした。下二人も可愛らしく見えたものの、今思えばお姉さんの〝引き立て役〟というところでしょうか。しばらくして着替えに戻ったこの二人は、ふだんの感じで遊んでいたようです。

 この句の「重きが嬉し」に全てが言い尽されていますね。

 関連句として、

  羽子板や唯にめでたきうらおもて    服部 嵐雪

  音冴えて羽根の羽白し松の風       泉 鏡花

  羽子板や子はまぼろしのすみだ川   水原 秋櫻子

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 女の子達の「手毬つき」も、その「唄声」とともに記憶しています。といっても「唄の内容」は、全く憶えてはいませんが。

  手毬唄かなしきことをうつくしく   高浜 虚子

 この句も、正月の句としてはかなり有名な作品です。

 手毬と言えば、女の子が一人寂しく……という記憶はあまりありません。やはり、何人かがあれこれおしゃべりをしながら……あるいは、手毬唄を唄いながらというのが風情も臨場感もあっていいのでしょう。

   手毬つく髪ふさふさと動きけり    山口 波津女

 この句も次の句も、私個人の実景でもあります。「髪ふさふさと動きけり」に、元気溌剌とした少女達が、正月の淑気の中で……。

  姉のつく手毬妹(いもと)の手毬唄      野村 久雄

 住宅街の道路ことに表通りから少し引っ込んだ「路地」など、ごくまれにリヤカーを見かけることはあっても、車が通ることなど皆無と言ってよい時代でした。そこで女の子達が「手毬」をつくとなれば、そのかしましい声や弾んだ様子は、確たる風景となって路地に刻み込まれたのでしょう。

 しかもそれが〝正月の一こま〟となればなおのこと……。いつしか、ご近所間の年始の〝ささやかな挨拶のきっかけ〟となったのは確かです。そしてそのあと、ごく自然に他の子供や大人達が顔を出し、また笑みを浮かべながらそそくさと通り過ぎて行きました。

 それでも時折、近所のおばあさんや大きなお姉さんが、女の子達に交じって「手毬唄」を口ずさんだり、手毬を突いたり……。その様子に気づいた女子の中・高生もが、その輪に加わって来ました……。

 正月ならではの、そして〝あの時代〟ならではの風景だったのでしょうか。

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  締めは「独楽の句」といたしましょう。どうぞ。各位それぞれのご鑑賞を……。

  たとふれば独楽のはじける如くなり    高浜 虚子

  はし汚れたる新しき独楽の紐        後藤 夜半

  手のくぼに重さうしなひ独楽まはる    篠原 梵

  独楽舐(ねぶ)鉄輪の匂ひわれも知る  橋本  多佳子 

  一片の雲ときそえる独楽の澄み       木下 夕爾

  おのが影ふりはなさんとあばれ独楽  上村 占魚

  独楽うつやなかに見知らぬ子がひとり  村上 しゅら

  ふところに勝独楽のあり畔をとぶ     神蔵 器

 ※4句目の「鉄輪」:かなわ。 この独楽は、独楽の「胴」の周囲に「鉄の輪」がはめられているものです。そのため、回っているときに独楽同士が接触した場合、「鉄輪(かなわ)」同士が〝こすれあい〟、その結果〝こすれあう鉄の匂い〟がしたと言う次第です。「(ねぶ)る」は「なめる」と同義。ここでは接触した「独楽」同士が〝こすれあう〟ことを物語っています。

    (完) 2021年1月5日 午前11時52分 花雅美 秀理

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  メールアドレス sunlight_moonriver@yahoo.co.jp

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長谷川かな女 (はせがわ かなじょ)/明治20(1887.10.22)~昭和44(1969.9.22)。高浜虚子主宰の俳誌「ホトトギス」において、杉田久女竹下しずの女等とともに、大正期を代表する女流俳人となる。俳人の長谷川零余子(はせがわ れいよし)は夫。

佐々木有風/明治24(1891.4.12)~昭和34(1959.4.13)。新潟県新発田市生。東大法卒。昭和2「雲母」に拠り、飯田蛇笏に師事。昭和28「雲」を主宰する。

後藤夜半(ごとう やはん)/明治28(1895.1.30)~昭和51(1976.8.29)。大阪市出身。大正12より「ホトトギス」入会、高浜虚子に師事する。同誌の日野草城、山口誓子、阿波野清畝等と「無名会」を結成。昭和7に「蘆火」を創刊主宰するも病気のため廃刊。 昭和23「花鳥集」創刊主宰、28より「諷詠」と改称。

 なお喜多流の能楽師で人間国宝の後藤得三、喜多流十五世宗家の喜多実はともに実弟。また後藤比奈夫(ごとうひなお)は子息。 

西東三鬼(さいとう さんき)/明治33(1900.5.15)~昭和37(1962.4.1)。岡山県出身。現・日本歯科大学卒。歯科医。1933三谷昭らが創刊した日野草城選「走馬燈」に投句、翌年、同人となる。「馬酔木」「天の川」「旗艦」「天香」に拠り、伝統俳句から距離を置いた「新興俳句運動」の中心人物の一人として活躍。戦後は「現代俳句協会」の設立に参与。「激狼」「雷光」「断崖」を主宰。

山口波津女(やまぐちはつじょ)/明治39(1906.10.25)~昭和60(1985.6.17)。大阪市北区中之島生。父親が俳句をしていたこともあって、自宅に高浜虚子、村上鬼城が来泊。昭和2、山口誓子に俳句の指導を受け、翌年、誓子と結婚。「ホトトギス」「馬酔木」の同人を経て1948年、誓子主宰の「天狼」創刊と同時に同人となる。

村沢夏風(むらさわ かふう)/大正7(1918.11.14)~平成12(2000.11.29)。東京都出身。保善商業校卒。1942「鶴」に入会し、石田破郷(いしだ はきょう)に師事。1987に村山古郷(むらやま こきょう)没後の「嵯峨野」を継承し主宰となる。

野澤節子(のざわ せつこ)/大正9(1920.3.23)~平成7(1995.4.9)。横浜市生。フェリス女学校二年在学中に脊椎カリエスを病み中退。病臥の身で哲学書等を乱読する中、松尾芭蕉の「芭蕉七部集」と出会って俳句との縁を得、大野林火の「現代の俳句」に感動。臼田亜浪の「石楠(しゃくなげ)」に入会したのち、林火の「濱(はま)」創刊とともに参加、師事。翌年、同人となる。

    女の手年の始めの火を使ふ           野澤 節子

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 参考

※注①: 私が小学生の頃、福岡市東区の一部では、基本的に「餅つき」は〝各家庭〟若しくは〝数軒共同〟というスタイルで行っていたようです。とはいえ、「石臼に杵(きね)」それに「もち米」を噴かす「蒸籠(せいろう)」等はどの家庭にあるものではなく、大半の家庭が特定のお宅や農家などから一式を借り受けていました。

 また当時は専門の「餅つき代行屋」も存在し、大きな特製のリヤカーに、「小型の釜戸、石臼、杵、蒸籠など」を積み込んでいました。今でも当時の事はよく憶えています。

※注②: 「合本俳句歳時記」では、「元日又は二日の夜見る夢」/「現代俳句歳時記」では「元日から二日に見る夢」/「ホトトギス俳句季題便覧」では「二日の夜から三日の朝にかけてみる夢」としています。

※参考資料(追加)

「上・中巻」に追加:「入門歳時記」(大野林火監修・俳句文学館編/角川書店)。


・新春俳話―中巻(女流にみる抒情と余情)

2021年01月03日 12時12分49秒 | ■俳句・短歌・詩

 女流における抒情と余情

  さて、「元日」の鑑賞対象となった五人の俳人は、いずれも男性でした。

 そこで今日は「女流」に重点を置いた巻として、お三方に登場していただきましょう。もちろん私が大好きな「女流俳人」であり、また大好きな「作品」です。

 

 まずは次の一句から――、

  鵜は潜(かづ)き鷗は舞ふを初景色   鈴木 真砂女

 「初景色」とは、「元日に眺める晴れやかな景色」をさす季語です。もちろん、「晴れやかではない」句も可能ですが……。それにしても、いかにも俳句らしい、そしてまことに「新春」に相応しいといえるでしょう。

 「潜(かづ)く」は、「潜(もぐ)る」の古語のようです。(かもめ)も一緒にいるところから、この場合の「(う)」は、「カワウ(川鵜)」ではなく「ウミウ(海鵜)」と考えられます。ということは、やはり「海」を背景としたものでしょう。

 私の住んでいる近くに、国宝の「金印(※注①)」出土で名高い「志賀島」が見える海岸があります。長崎の小さな島で生まれた私は、とにかく子供のころから海が大好きでした。そのため、週に2、3回はここに車で出かけ、砂浜や海に面した丘や雑木林を、健康管理の一環として散策しています。

 実は4日前の旧臘(きゅうろう)30日も、体調がかなり戻っていたので思いきって出かけ、冬濤(なみ)に荒れる早朝の浜辺を、防寒具を着込んで歩き回ったものです。ほとんど人影らしきものもない暗雲立ち込める冬の海は、冬独特の北風や北西風が強く、この十年の散策の中でももっとも寒く、そして荒れた海景でした。

 その海辺に続く小さな湾そして漁港に、旧臘初旬、一羽の「ウミウ」を見かけました。まさに「カワウ」と同じような潜り方で魚を取っていたのです。

 そしてその上空には、悠々と「」が飛んで……。まさしく誰かの歌の〝…♪  かもめは飛んで~ ♪……〟そのものの世界でした。

 「句意」は説明の必要もないと思いますが、簡単に言えば。 

 ――清々しい、静かな元日の海辺――(湾の一角にはちょっとした商易港や、小さな漁港があるのかも知れません)――。そのには、〝ゆったりと流すように、穏やかに舞い浮かぶ〟が。

 一方、下界のには、〝思いついたように、ふいに潜って魚を銜(くわ)える(ウミウ)〟が戯れるように……。

 そのコントラスト豊かな光景が、「元日の景」として目に映るのですから。何と〝ゆとりある穏やかな時間〟でしょうか。

 

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  初景色富士を大きく母の里   文挟 夫佐恵

 「初景色」が「富士山」というのです。一見すると少々〝出来すぎ〟であり、俳句表現的には、「梅に鶯」のように〝即(つ)きすぎ〟となりかねません。

 しかもこの句の場合、「初景色」…「富士」…「大きく」…と、贅沢にもトリプルで畳みかけているのですから。

 ところが、最後に「母の里」を据えたことによって、〝出来すぎ・即きすぎ〟感は一瞬にして霧消したのです。のみならず、この句の底に流れる〝秘められた静かな詩情〟と、〝揺らぐことのない母への慕情〟とが、しっかり結びあわされたといえるでしょう。

 ただでさえ〝荘厳で雄大な富士〟……その「富士山」を〝大きく見据えることのできる母の里」〟。句の表現として、「富士を大きく」と「母の里」の〝あいだ〟には、もちろん「仰ぎ見ることができる」や「受け止め感じ取ることができるほど近い」といった言葉や想いが省略されているのです。

 まさしく、俳句ならではの〝独特な省略〟によって、読者の感性やイマジネーションを巧みに刺激しているとも言えます。

 しかもその「富士山」は、元日、正月に限らず、いつでもどんなときでも、「母の里」に厳然とその姿を現しているのですから。

 「富士を大きく」という表現からは、「富士山」に〝見守られ〟また〝抱かれている〟と言う〝秘かな誇り〟と、〝揺るぎない安堵感〟のようなものも伝わって来ます。作者にとっての「母の里」とは、恰好の「まほろば」なのかも知れません。

                

 ところで読者の中には、ご自身や身近な方の「郷里」が、まさしく〝富士山を仰ぎ見るほど大きく眺めることができる〟と言う方がいらっしゃるでしょう。事実、「富士山」はお気づきのように、地理的には静岡県の4市1町、山梨県の1市1町に跨っているようです。

 静岡側の富士市や富士宮市、山梨側の富士吉田市や富士河口湖町等が当該市町村ですが、地理的に跨ってはいなくとも、「富士山を大きく見上げることができる市町村はかなりあることでしょう。

 今回、この句を採りあげたのも、そういう地理的背景を考慮した上での判断でした。それにしても「富士山」の「絶景スポット」が、ネット上において〝あちこち〟紹介されていますね。

 そういうメディアの訴求力によって、〝富士山に対する日本人独特の親近感や憧れ〟は、より多くの人々に、そしてより深く広く伝わって行くのではないでしょうか。

 とはいえ、中には本句について、「とりたてて言うこともない」と思われた方もあるでしょう。特に趣向を凝らした目新しい〝言い回し〟もなく、ただ淡々と拙いと思えるほどの平凡な表現に徹しているのですから。

 しかし、何と言っても「富士山」であり、それも「初景色」として、あらためて「その雄大な威容を眼前にしながらの想い」となれば、話は違ってくると思います。しかもそこが、最愛の「」と言うのですから……。

 初夢に、「富士二鷹三茄子」(いちふじにたかさんなすび)が出て来れば、縁起よしという〝大和の国〟日本。その「富士山」が、現実の景として今まさに眼の前に聳え立っているのです。

             

 

  初富士にかくすべき身もなかりけり   中村 汀女

 これも素晴らしい一句ですね。 この句については、元日稿の最後に「資料」として記した、「カラー図説 講談社版 日本大歳時記:新年巻」において、加藤楸邨氏の短い鑑賞文があります。

 私の鑑賞文の趣旨も同じと言えるでしょう。というより、どなたが鑑賞しても、最終的には同じような内容になるような気がいたします。それは取りも直さず、本句が〝人間それぞれの人生観や思想・心情〟を超えた〝あるべき人間精神の根源〟に根差しているからではないでしょうか。

 さきほどの「初景色富士を大きく母の里」の句の鑑賞文が、ここでも活きています。

 「元日」の「富士山」を意味する「初富士」――。霊峰としてのその雄大で清麗な姿を前にしたとき、人は何を感じるのでしょうか。おそらくそこでは〝自分はどうあるべきか〟といった、揺るぎない深層の思いが呼び覚まされるような気がするのですが……。

 春夏秋冬を問わず、何ら隠れることもなく、また隠れようともせずに〝堂々たる真実の姿〟を晒し続ける「富士山――。それはまた私達に対しても、〝かくあるべきでは〟と語りかけているのかも知れません。

 少なくとも私自身はそう感じたのであり、また作者自身も同じなのだと思います。下五の「なかりけり」に、作者の並々ならぬ〝覚悟〟とともに、そう言う〝覚悟〟を促した「富士山」への感謝と畏敬の念を込めた措辞として伝わって来るのですが……。

                ★

 

  生きることやうやく楽し老の春      富安  風生  

 「老の春」とは、これまた俳句独特の省略表現により生み出された「季語」といえるでしょう。〝年老いて迎える新春〟といった感じですが、少なくともこの句の場合の〝老い〟には、悲壮感や惨めさは一切ありませんね。

 「やうやく」は、「ようやく」です。それにしても、どうでしょうか。「生きることやうやく楽し」と言うのですから。93歳という天寿を全うした作者は、このとき何歳だったのでしょうか。私と同じ「団塊世代」そしてその前後の方々には、ちょっと……あるいは、う~んと気になるものかも知れませんが。

 「やうやく」に、残りの時間を淡々と生き抜こうとする思いがうかがえます。泰然自若と言ってしまえばそれまでですが、鷹揚に構えた〝心のゆとり〟が伝わって来ます。何とも心地よいと同時に、いつしか励まされてもいるようです。

                

  年立って自転車一つ過ぎしのみ    森 澄雄

 年立って」とは、「年が明けて」つまり「新年」を意味しています。この句の「年立って」は、「元日」と考えるべきでしょう。〝年があらたまった〟からといって、特別な何かがドラマティックに起きたり、また始まることもないようなのですが……。

 そういう凡庸な時の流れの中、〝……ああ、自転車が通り過ぎて行った……誰が、何処に何をしに行くのだろう……〟と、作者は自転車が過ぎ去ったほんの一瞬、漫然と……否、無意識のうちにそう思ったのかも知れません。

 読者のみなさんも私も、以上のように〝漫然とあるいは無意識のうちに感じ、またあらためて気づかされるという実感〟は、日常生活においてしばしば体験しています。そういう〝実感〟が、「元日」という特別な日であったとしたら……ということでしょう。

 そして〝その実感〟は、芥川龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の、〝あの夕ごころ〟の〝実感〟に通じるのかも知れません。

 本句を口ずさみながら、目を瞑ってみてください。作者が住んでいる「町並み」や、「作者の住まいの様子」までもが、何となく浮かんで来るような気がしませんか。

                ★

  初春や思ふ事なき懐手    尾崎 紅葉

 「懐手(ふところで)」とは、「和服(着物)」の場合をさしています。と言っても、おそらく普段着ている「どてら」(「丹前」に同じ)のようなものでしょうか。その袂に両手を忍ばせて(=差し入れて)、物思いに耽っているようです。

 実はこの「懐手」は、俳句の上では「冬の季語」となっています。本来、手の冷えを防ぐささやかな採暖の意味があるからでしょう。

 私は読んだことがありませんが、作者が「金色夜叉」の作者であることは、或る程度の認知があると思います。しかし、彼が「俳人」であったことは、ごく少数の方しか知らないでしょう。

 「思ふ事なき懐手」に、いかにも「文人」らしい風貌や所作が感じられますね。というのも、正月「三が日」を詠んだものに、次の様な一句があるからです。

  一人居や思ふ事なき三ケ日   夏目 漱石

 「思ふ事なき」は、全く同じですね。漱石の場合は〝一人でいる(一人居)〟と詠んでいますが、紅葉もそのとき、ひょっとしたら〝一人きり〟だったのかもしれませんね。

 とはいえ、家族や大勢の他人と居ても、〝いつでも何処ででも、自分一人の精神世界に没入可能な文人〟のこと。「懐手」をしただけで、スッと〝特別に何か思う事がなくとも、独自の自己の世界〟に入って行けるのでしょう。

                ★

 

 以下は、「作品」のご紹介のみとさせていただきます。各位の自由な鑑賞をどうぞ。

 なお「二日」及び「三日」とは、それぞれ「正月二日」と「正月三日」のことであり、いずれも「正月」の二文字を略した俳句独特の「季語」となっています。 

 また小中学生のみなさんに申し上げますが、先ほどの「三ケ日」(さんがにち)は、「元日」「二日」及び「三日」の三日間を通した呼称ですね。

 

      初景色光芒すでに野にあふれ       井沢  正江

   初富士のかなしきまでに遠きかな      山口 青邨 

  初富士の抱擁したる小漁村         松本 たかし

  初富士の暮るるに間あり街灯る       深見 けん二 

  耽読の一夜なりける二日かな         石塚 友二

   琴の音の松風さそふ二日かな         川上 梨屋

  商いの主にもどり二日かな             広瀬 安子

  炉がたりも気のおとろふる三日かな    飯田 蛇笏

  三日の陽ほのと畳に平けき         上村 占魚

  武蔵野の鏡の空の三日かな        広瀬 一朗

 

 それでは今日はこのあたりで。次は五日の午後のひと時、「下巻」にてお会いしましょう。

         ★  ★  ★  ★  ★

 

尾崎紅葉 (おざき  こうよう)/慶應4(1868.1.10)(※注①)~明治36(1903.10.30)。東京生。小説家、俳人。明治新文学の旗手として、泉鏡花、徳田秋声らを育成。俳句は井原西鶴の談林風を鼓吹。角田竹冷(つのだ ちくれい)らと「秋声会」を起こす。

富安風生(とみやす ふうせい)/明治18(1885.4.16)~昭和54(1979.2.22)。愛知県生。東大法科卒。逓信省時代に俳句を始め、東大俳句会に参加。「ホトトギス」により高浜虚子の指導を受ける。昭和3年「若葉」の雑詠選者となり、のち主宰となる。

中村汀女(なかむら ていじょ)/明治33(1900.4.11)~昭和63(1988.9.20)。熊本県生。大正7頃より句作を開始、翌年「ホトトギス」へ入会。結婚により中断するも、杉田久女(すぎた ひさじょ)の「花衣」創刊に参加して再開。「星野立子(ほしの  たつこ)」「橋本多佳子(はしもと たかこ)」「三橋鷹女(みつはし たかじょ)」とともに「四T」と呼ばれた。

鈴木真砂女(すずき まさじょ)/明治39(1906.11.24)~平成15(2003.3.14)。千葉県鴨川市生。実家は「吉田屋旅館(現・鴨川グランドホテル)」。22歳で結婚するも夫蒸発により実家に戻る。長姉死去により、その夫と再婚して旅館女将に。死去した長姉の俳句関係の遺稿整理が縁で俳句を始める。久保田万太郎の「春燈」入会。万太郎死去後は安住敦(あずみあつし)に師事。

 ◆新涼や尾にも塩ふる焼肴 鈴木真砂女(2015.9.16) クリック

文挟夫佐恵(ふばさみ ふさえ)/大正3(1914.1.23)~平成26(2014.5.19)。小学生の頃より作句を始める。1944年、飯田蛇笏主宰の「雲母」入会。1961年、石原八束(いしはら やつか)と共に「」創刊に参加、同人となる。1998年、八束の死去により主宰を引き継ぐ。99歳で「蛇笏賞」受賞(史上最高齢)。老衰のため100歳で死去。

森澄雄(もり  すみお)/大正8(1919.2.28)~平成22(2010.8.18)。長崎県出身。昭和15年、「寒雷」創刊と同時に投句。加藤楸邨に師事。戦後同人となる。昭和45年「杉」創刊・主宰。九州大学経済卒。

 

※参考

 ※注①:「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻印されたもの。

 

 


・新春俳話―上巻/虚子・芥川/新年のご挨拶

2021年01月01日 12時15分09秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 恭 賀 新 嬉         

 新しき年の始まりを寿ぎ、みなさまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

                

 今年は、「オリンピック」の実施が予定されておりますが、いかが相成りますことやら。神のみぞ知ると言うところでしょうか。

 さて、終息の気配を見せないどころか、何やら深刻さを増し始めた感のあるコロナ禍――。それに伴う国内外の諸事情は、混迷の度合いを深めているような気が致します。

 それ加えて新しい内閣の下、国政の成り行き〝いかばかりか〟と、先行きの不安をお感じの方は多いのではないでしょうか。

 ……と、ここで無粋な放談を綴るのも如何なものかと思われますのでこの辺で控え、推移を見守りたいと思います。

 やはり、「一年の計は元旦にあり」。明るく心地よいことに越したことはありませんね。

 そこでこのたびは、この元日」「三日」そして「五日」の3回に分けて、「新年・新春」にちなんだ「俳句」についてのお話をと思います。

 読者各位も、ご自身なりの「鑑賞世界」をお楽しみください。

 ささやかなひととき、何かを感じていただければ幸いです。

          ★   ★   ★

 

 それでは、さっそくまいりましょう。まずは――、

 去年今年貫く棒の如きもの  高浜 虚子

  この句は、以前どこかでご紹介しました。「去年今年(こぞことし)」と聞けば、反射的に「この句」が出て来る方は多いことでしょう。それほどよく知られた句であり、多くの人々に感銘を与えて来た「秀句」です。もちろん、これからもそうでしょう。

 実はつい今しがた、年賀状が来た様子のため思わず中座して取りに行きました。何とその中の一枚に、Sさんという方より「この句」が達筆な筆文字によって認められていました。私はつい嬉しくなって一人悦に入り、久方ぶりにはしゃいでいたのです。

 何と幸せな元日であることでしょうか。……Sさん、ありがとうございます。お返事の書信を送らせていただきます。もちろん、私も筆文字にて。ただし、ご承知の乱筆にて。

 ……さて、お分かりだとは思いますが、「去年(こぞ)」と「今年」とは、1月1日の「午前0時」を境に隔てられた「時間」です。したがって「去年今年」とは、その切り替わる〝一瞬〟あるいは〝いっとき(一時)〟の感慨や趣きを意味しています。

 それにしても見事な表現ですね。「俳句」が「十七音」で成立する「短詩形の文学」であることを、改めて感じさせられます。余計なことは一切言わず、「去年」と「今年」との〝連続した時間の確かさ、その盤石とも言える強さを、ズバリ切り取っています。

 その潔さと、「棒の如きもの」と力強く言い切ったところに、凛とした年頭の雰囲気とともに、さりげなく〝作者自身の覚悟〟が籠められています。

 ここでの「棒の如きもの」とは〝時間的なこと〟に留まらず、そういう「時間」の中で生きている〝作者自身の肉体や精神(魂)〟も含んでいるのでしょう。

 のみならず〝万人共通の覚悟〟として、私達に向かって〝共にかくあるべきでしょう〟と言っているかのようです。そこに、本句の格調高いメッセージ性が潜んでいるのではないでしょうか。

 そして、この虚子の句が出て来れば、もう当然のように「次の一句」が、筆者のたましいに降りて来るのです。

 

  元日や手を洗いをる夕ごころ  芥川 龍之介

 初春、新年、そして正月……と言えば、何はともあれ「この句」を避けることはできないと個人的には思うのですが。

 俳聖「松尾芭蕉」の〝謂ひおほせて何か有る(言いおおせて何かある〟(注①)という〝(言外の)余情〟を、何と静かにさらりと言ってのけたのでしょうか。語り尽くせないほどの感興を呼び起こす余情であり、飽きることがありません。

 

 『……ほらほら、正月の来たろうが。今日は元日バイ。 

 …………ん? ……もうそげな時間ね? 早かね~え。正月の来るとは、遅かったばってん、来たて思うたら、ほんなごつ早かぁ~。 もう、元日の仕舞えようバイ。』

 と、福岡出身のタモリ氏や武田鉄矢氏であれば、あるいは……。

 

 閑話休題――。実はつい最近、行方不明になっていた『芥川龍之介句集―‐我鬼全句』を発見しました。あまりにも大事にしすぎて、押入れの一番奥の「段ボール」に埋もれていたのです。

 その〝発見の経緯〟と〝ブログ記事の一部訂正〟を、当該記事の巻末に記述しております。これまでに、本ブログの「俳句鑑賞(2010年1月1日)」において「この句」をご覧になった方は、この機会にご確認ください。

 また今回、初めて「この句」をご覧の方は、ぜひその「鑑賞文」に目を通していただければと思います。そのため、詳細はその「鑑賞文」に譲りますが、「ひと言」ここでコメントすれば――、

             

 元日、それも夕暮れが近づき始めたひととき――。その〝何とも言えない独特な手持無沙汰の感慨〟――。

 年が改まることによる〝何ということもない、しかし秘かに湧き起こるささやかな想い〟……と言ってもそれは〝頼りないもの〟であり、ことさら期待するほどのものではないのかも知れません。

 そのことを誰よりも解かっているがゆえに、作者は〝取り立てて何かをする〟ということもなく、漫然と元日をやり過ごしたのでしょうか。ふと気が付いたとき、柄杓に掬った水を〝何気なく手にかけていた〟……。

 今日から始まる「新しい一年」が、何と言うこともなく過ぎ去ろうとしている夕べ――。ささやかな願いや思惑とともに、予想もつかない不備や失態が、これから起きないとは限りません。〝生きて行くこと〟とは、〝不確定な日々の到来〟の繰り返しでもあるのですから――。

             

 病的なまでに繊細な芥川独特の感性であり、悟性と言えるでしょう。もちろん、そこに「芥川龍之介」の、そして彼の作品の〝尽きることのない魅力〟もあるのですが。

 ……おっと……。芥川を語り始めたら先に進まなくなりそうです。そのため、ここで「強制終了」と致しましょう。詳細は、下記の記事にてどうぞ。

 本ブログの掲載記事(2010年1月1日)

 ◆元日や手を洗ひをる夕ごころ  芥川龍之介 クリック!

           ★ ★ ★

 

 では、気持ちも新たに――、

  飛び梅やかろがろしくも神の春   荒木田 守武

 この「飛び梅」とは、筑前の国・大宰府に流された菅原道真を慕って、京都から飛んできたという「梅」の故事によるものです。作者は〝遊び心〟によって詠んだのでしょうか。

 「神の春」に新年を寿ぐ意味合いがあり、「かろがろしくも」に、「いとも簡単に都(京都)からはるばると飛んで行ったものよ」といったニュアンスがあるようです。

 とはいえ、筆者には「かろがろしくも」に、〝軽佻浮薄〟や〝真剣味の欠如〟といった思惑を、何となく感じてしまうのですが。下五が〝目出度い〟「神の春」で止まっているため、批判めいた気持ちはないのでしょうが、しかし、気になりますね。

 もっとも、そこが「俳諧」本来のエスプリの香りであり、諧謔の妙というものでしょうか。本句は、現代の「俳句」の原点・原型という意味と、地元人間としての「太宰府愛」を籠めてご紹介しました。

 先ほどのタモリ氏や鉄矢氏なら、「飛んできた梅」に向かって――、

 『……都から? よう飛んできんしゃったねぇ、こげんとこまで。 何てぇ? あんた、道真さんの追っかけね。 ……で、これからどげんすっと? ん? ずっ~と、ここ、大宰府におるてねぇ……。』

 もう60年ほど前になるでしょうか。両親と妹二人に筆者(高校1年だったと思います)の五人で、大晦日から元日にかけて、太宰府天満宮他の「三社参り」に車で出かけたことがあります。途中何回か大渋滞にかかり、運転手の父以外、みんなぐったりしたものです。

 ……しかし、この「太宰府天満宮」そして「梅」と来たら、「福岡んもん」には、条件反射的に「梅ケ餅(うめがえもち)」となるのでしょうか。

 『……鉄ちゃん、あんたどっちの(あん)ね? ? さらし? 』

 『……タモさん、どっちでんよかろうもん。腹に入ったら、同じやけん……。』

             

 

  日の春をさすがに鶴のあゆみかな   榎本 其角

 「日の春」は、「元日の朝」というほどの「其角」独自の「造語」と言われています。この目出度い朝日の輝く中、これまた目出度いと言われる「」が、新年の淑気の中をいかにも相応しげに歩いていると言うのですから……。目出度さも、ひとしおというところでしょうか。

 これに対して、一茶は有名な次の句――、

  めでたさもちゅう位なりおらが春   小林 一茶

 と「おらが春」、すなわち「わが世の春(この場合は新年)」の「目出度さ」を「中くらい」と表現し、庶民としての控えめな視点を語っています。

 いかにも「生活派俳人」として、自分の生活や自分自身をありのままに見つめた一茶らしい俳味です。それは――、

  正月の子供に成ってみたきかな   小林 一茶

 という一句によって、いっそうその特色を裏付けてもいるようです。まさしく、「一茶調」の面目躍如といった感があります。とはいえ、彼の生涯は非常にドラマチックであり、また哀しみに満ちています。

 でもせっかくの「おめでたい日」。別の機会にお話ししましょう。

 その他、以下のような句もあります。作品の紹介のみといたしますが、みなさんご自身の自由な鑑賞をどうぞ……。

 

  大空のせましと匂ふ初日かな       鳳朗

  初日さす硯の海に波もなし      正岡 子規

  大波にをどり現れ初日の出     高浜 虚子

  初空のたまたま月をのこしけり   久保田 万太郎

  初空へ藪をはなるる鵯(ひよ)の声   富安 風生

  初御空どこより何の鐘の音      村沢 夏風

  正月や霞にならぬうす曇       森川 許六

  正月や宵寝の町を風のこゑ     永井  荷風

  正月の太陽襁褓(むつき)もて翳る     山口 誓子

  元日やゆくへもしれぬ風の音     渡辺 水巴

  元日や枯野のごとく街ねむり     加藤 楸邨

  からっぽの空元日の滑り台           榎本 冬一郎

  元日や生涯医師のたなごころ   下村 ひろし

  元朝やいつもかはらぬ遠檜     阿部 みどり女

  元朝の吹かれては寄る雀二羽   加藤知世子

 ※九句目の「襁褓(むつき)」は、赤ちゃん用の「おしめ、おむつ」のこと。

 

  それでは明後日、「三日」にお会いしましょう。

 

       ★  ★  ★  ★  ★ 

 

 ※俳人参考  生年の早い順としております。

荒木田守武(あらきだ もりたけ)/室町時代の文明5(1473)~天文18(1549)。伊勢神宮(内宮)の神官、のち長官となる。「山崎宗鑑(やまさき そうかん)」とともに、俳諧の「始祖」と仰がれる。連歌や狂歌もよくした。

 ☛クリック ◆飛梅(飛梅伝説)【wikipedia】

榎本其角 (えのもと  きかく)/寛文1(1661)~宝永4(1707)。江戸生。1667頃、芭蕉に入門。芭蕉門下の俳人の中でも、特に「蕉門十哲」の一人と言われる。芭蕉没時に、一門の総代として追悼集『枯尾花』を編む。

小林一茶 (こばやし  いっさ)/宝暦13(1763)~文政10(1828)。北信濃(長野県)柏原の農民の子。3歳で生母と死別、継母との不仲により15歳で江戸にて奉公生活を送る。俳句は25歳で葛飾派に入門。しかし、知友を頼って流浪の民となる。

高浜虚子 (たかはま  きょし)/明治7(1874)~昭和34(1959)。愛媛県松山市生。伊予尋常中学在学中に、河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)を介して正岡子規(まさおか しき)と文通、子規の命名により「虚子」と号する。明治45、碧梧桐ら新傾向の俳風に「守旧派」として対抗、「ホトトギス」に俳句の「雑詠選」を復活させる。

 この「雑詠欄」(※注②)より、村上鬼城(むらかみ きじょう)、渡辺水巴(わたなべ すいは)、飯田蛇笏(いいだ だこつ)、原石鼎(はら せきてい)等が輩出されるとともに、昭和期の「四S」と謳(うた)われた「水原秋櫻子(みずはら しゅうおうし)」、「高野素十(たかの すじゅう)」、「阿波野青畝(あわの せいほ)」、「山口誓子(やまぐち せいし)」も台頭する。

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) /明治25(1892.3.1)~昭和2(1927.7.24)。東大英文科卒。号は「澄江堂(ちょうこうどう)」、俳号「我鬼(がき)」。近代日本の文学に多大な影響を残した。小説「鼻」を夏目漱石が絶賛したことを契機に、終生「漱石」を師と慕う。

 俳句は大正7頃、高浜虚子に師事し、芭蕉やその門下生による「蕉門」俳句に関心を示す。彼の逝去は自殺によるものであり、その命日7月24日は、小説「河童」より名を取って「河童忌(かっぱき)」とされた。

 なおこの「河童忌」は夏の「季語」にもなっており、「我鬼忌」や「龍之介忌」ともいう。

          ※  ※  ※  

 ※注①:この「謂ひおほせて何か有る(言ひおおせてなにかある)」という言葉は、「蕉門十哲」と言われた芭蕉門下の「向井去来(むかい きょらい)」の俳論書「去来抄」から来ています。いわば〝師芭蕉の俳論的な教えの言葉〟を、去来が随行者の「聞き書き」という形式でまとめていますが、芭蕉や他の門人との問答が出て来るため、臨場感に富んだ記述と成っています。

 ※注②:「雑詠欄」とは、当該「俳句誌」の会員や読者が競い合って「投句」したもの。多くの結社誌において、選者が優秀な会員・読者の順に発表する欄となっているようです。

 ※参考資料(本ブログ「上・中・下巻」とも同じ) ・講談社版「カラー図説 日本大歳時記」の新年の巻/・「俳句の解釈と鑑賞辞典」(旺文社)/・「評解 名句辞典」(創托社)/Wikipedia。