十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
作者は芭蕉門下の俳人、「蕉門十哲」の一人と言われた森川許六(もりかわきょろく)。画業にも優れた技を残したと言われる彦根藩士でした。
十団子(とうだご)と読み、東海道の「ある峠」で売っていた名物の「だんご」のようです。しかし、句の鑑賞には、そのような知識はなくともいっこうに構わないでしょう。むしろ「特定のだんご」ではない方が、場所やだんごのイメージが固定されず、解釈やイメージに “遊びや余韻” が生まれます。串刺しの団子よし。皿に盛られた団子またよし……。
筆者にとって “この風” は、初秋から仲秋にかけての、やや “冷やかさ” を含んだもののような気がします。無論、“晩夏” から “初秋” の変わり目の一瞬……としてもよいのですが、そうなればあまりにも “秋そのもの” を大きく捉えることとなり、“だんご” を “こつぶ” と感じた “俗世の凡庸さ” が、今一つ伝わらなくなるように思えてなりません。
「桐一葉」であれば「落ちて天下の秋を知る」であり、「立秋」つまりは初秋の風をそこに感じることでしょう。しかし、ここは、“だんご” とその “こつぶさ”――。それを “さりげなく” 感じ取る「市井の人」の日常性と感覚に任せたいと想います。
となれば、ひっそりとした秋の、そのたたずまいのなかの “風” となるような気がするのですが……。
☆ ☆ ☆
何処にでもある「峠の茶屋」が想い浮かぶことでしょう。街中と異なり、山あいの峠道は閑散としており、人の姿もまばらなようです。夕刻近まる秋の日差しには、思わずハッとするような冷やかさが感じられます。
「○○路へ三里」の路標が、小さな木陰に守られるように立っています。傍らに腰を降ろしている旅人。その横を遍路旅の夫婦が会釈をしながら通り過ぎ、視線の先の峠下には、何かの「一座」がこちらへと向かっているのでしょうか……。飛脚の姿が次第に大きくなって来ているようです。
「峠の茶屋」から職人風の男が二人出て来ました。取り留めもないことを語り出し、互いに適当な相槌を打っています。
ややあって――、
「なあ。おめえ気がつかなかったか?」
「何が?」
「今の茶屋、ひさご屋だ」
「ひさご屋がどうした?」
「だから、おめえは鈍いってんだ。だんごだよ。だんご……」
「だんごがどうした……」
「ほんとに気づかなかったのか……」
やむなく男は、独り呟くように、
“あの団子、なんか小さくなったような気がするんだが……”
だが、もうその話は終わったようです。その後も、二人の取り留めもない会話が続いています。
やがて「峠の茶屋」に、飛脚の息づかいがまじかに聞こえ、二人の姿は豆粒ほどの大きさになっていました。
一陣の風に、近づく夕刻の冷えがまた少し感じられるようです。
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※参照句(☟クリックしてください)
★★★ 鮮烈のデヴュー❢? ★★★
――あたくし的には、ここはやっぱり……、
みたらしもこつぶとなりぬ秋の風
なんかどうかしら。……でもやはり「みたらし団子」では、まともに “かぶって” しまうでしょ? と言って「おだんご」の代わりに「ケーキ」はないし……。ここは「マロングラッセ」って雰囲気かな。季節的にもちょうどいいのかも……。
マロングラッセもこつぶとなって秋の風
上五の八音の「字余り」りも気にならないでしょ? カタカナ表記で少し洒落た感じもあるし。中七の「こつぶとなって」も、お話しが弾みそうな気がしない? 「おだんご」では、どうしても年配の方のイメージがあるように想うの。
その点「マロングラッセ」は、アラフォーのあたくしなんかには、少しも不自然ではないでしょ? ねっ? ……この句良いと思いません?
なんだかあたくし、俳人になれそうな気がするの。「カタカナ文字」と「字余り」をふんだんに使って、歌人の俵万智さんのような俳句を作ったら話題になるかもしれないわね。
俳壇の俵万智、鮮烈のデヴュー……って。
ところであの方に匹敵するような「俳句界の女流」の方ってどなたがいらっしゃるの? どんな作風の方?
それにその方の魅力…… つまり……その……ちょっと言いにくいの…… 女としての魅力……って意味なの…… その中にあたくしが入って行く……ってことなんだけど、どうかしら……。率直におっしゃって……。
ねえ? 聞いてる? あれ……? ね~え。あれっ? やだあ~ 眠ちゃったの……?