花雅美秀理の「感性創房」

団塊世代として、感じたことを素直に語り続けることができれば。―kagamishuri

●演劇鑑賞文遅れの顛末とお詫び③(最終回)

2018年08月19日 10時46分58秒 | ●演劇鑑賞

  3種類全80巻計230㎏の美術全集

 ………………3種類の美術全集を自室で楽しむ……そのための「専用書架」購入の “決意” 。そのことが演劇鑑賞ノート紛失の「第一楽章」になるとは。無論、神のみぞ知る世界であり、凡夫の与(あずか)り知るところではなかった

 本稿①に紹介済みの「A・B・C」3種類の「美術全集」は、2011年3月末に現在のちっぽけなアパートに引越して来て以来、ずっと「押入れ」の中にあった。全集3つの総容量は、ほぼ「押入れ」下段の3分の2を占めていた。

 それだけのものを「押入れ」から取り出すということは、当然、それだけの「総容量」を「室内に確保」することを意味する。と同時に、それらをいつでも鑑賞できるようにするためには、結構な大きさの頑丈な書架も必要だ。

 「美術全集」はサイズも大きく重量も結構なもの。前回は「C」全集のみの紹介だったが、今回は「A・B」各集のサイズと重量をお伝えしよう。※以下の「サイズは縦×横×厚さ」の順(単位はcm)。「重さ:kg」は1巻の平均です。ちなみに、各巻の定価は「A:2,400円」「B:5,200円」「C:3,800円」。

 『A:「世界の美術館」25巻』(講談社版)

   ……38×27.5×2.5。2.5㎏×25巻=62.5㎏

 『B:「現代世界美術全集」25巻』(集英社)

   ……40.5×31×3.5.3.4㎏×25巻=85㎏

 『C:「原色日本の美術」30巻』(小学館)

   ……37×27.5×3.5。3㎏×30巻=90㎏

 「3種総巻数80巻」の「総重量」は、何と230㎏余にも及ぶ。そこで筆者は、3種総巻数の「体積(㎥)」と「重量」をもとに、それらが確実に収納できる「間口・奥行き・高さ」を[5㎜方眼紙]に割り出した。つまりは、それらのサイズや容量に見合った「スチール製の書架」の当たりをつけるためだ。

       ★

 翌日、筆者はホームセンターにおいて、お誂え向きの「スチール書架」を手に入れた。間口:80㎝、奥行:40㎝、そして高さ:177㎝の全5段(スチール枠内4段)であり、結果として「A・B・C」3種の美術全集が、少しの無駄なくピッタリと収まったのだ。その心地よさと言ったらなかった。

 ……誰かがふいに訪ねて来る……なんてな……ことはないだろうか……そうなれば「第1号の閲覧者」として招き入れ、館長みずから美術講義をのたまわる……………天にも昇りかねない能天気の寸感ここにあり……の図であった。 

 ……と簡単にケリがついたかのような表現だが、そこに行きつくまでには既存の小さな書棚」を移動させなければならなかったし、移動させるためには必然、その「書棚」から本を取り出さなければならなかった。もちろんそのあと、整理・分類した本を再び「小さな書棚」に戻す作業があった。

 実はこの「整理・分類」とそれに伴う一部書籍の室内処分に一番手間がかかった。それら一連の作業あっての「スチール書架」の “新加入” であり、美術全集「A・B・C」の “デヴュー” となった。

 

 Missing狂騒曲

 今振り返って考えるとき、この “デヴュー” だけで終わっていれば何ら問題はなかった。返す返すも口惜しいの一言、いや二言に尽きる。余計なことを考えずに、すんなり終わらせるべきだったのだ。少なくとも、“著しく整理整頓能力が欠落した輩” のすべきことではなかった。

 だが後先を考えない “行き当たりばったり” を常とする御仁は、そのとき血迷ってつい色気を出してしまったのだ……

 ――この際、ついでに他の書架も、一度全部の本を取り出して根本的に整理しなおしてみよう……。

 この “悪魔の囁き” こそ、「演劇鑑賞ノート」のmissingへと通じる「第二楽章」となってしまった。

 ……………正直言って、思い出すことは辛い。そして、情けない。結末を明かせば、依然「演劇鑑賞ノート」はmissingのままであり、筆者の “演劇感想記述意欲” を、著しく損ねてしまったのだ。

  missingにきづいたこの時機、筆者の住処は「部屋」の中のみならず、キッチン・廊下部分、玄関脇の下駄箱の上に至る部分まで「足の踏み場もない」どころか、「ロフト寝室部」のテーブルや布団の上にも、“広げられた夥しい本の散乱に占領されてしまっていた……。

 ……そしてこれら 広げられた夥しい本の散乱” が治まったあと、筆者が再び演劇鑑賞ノート」を目にすることはなかった。

 ……だが以上の事実は容易に受け入れがたい。そこでその後、幾度となくmissing note の “捜索を敢行” したのだが、その甲斐なく依然、「演劇鑑賞ノート」は “missing” という惨めな確認に終わった。実は昨土曜日深夜にも捜索を試みたのだが……………。(了)


 

 

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●演劇鑑賞文遅れの顛末とお詫び②

2018年07月20日 01時00分19秒 | ●演劇鑑賞

 わが「古書鑑定能力」やいかに

 「BО店」に持ち込もうとしたC:原色日本の美術」(小学館)は、「全30巻揃い」で手入れは良好。購入時は、1巻3,800円で全巻114,000円。その金額にあらためて驚いた。しかもそれは、42年前の刊行となっている。

 「物」の扱いは少々ぞんざいといわれる筆者だが、こと「書籍」に関しては自負するものがある。ましてやそれが「美術全集」ともなれば、自分でも感心するほど行き届いた取り扱いをしている……と思っているのだが

 ともあれ、ネット上の各種「販売価格」の実態からして、「1巻:150円から200円」くらいは行けるのでは? そうなれば、30巻で4,500円から6,000円……というところだろうか。間をとって「175円×30巻=5,250円」。まずまずというべきか。

 ふと思った。ひょっとしたら筆者は「古書鑑定能力」なるものが、本人も気づかぬうちに育っているのかも知れないと。何と言っても大学時代、世界有数と言われる「神田神保町の古書店街」に足げく通っていたのだ。かくて、わが身一人の思惑は、際限もなくオプティミスティックに広がり始める。夢と希望をさらに膨らませながら……。

       ★

 「BО店」に到着した。実はこの店にはこれまで本を「買いに行った」ことも、「売りに行った」こともない。そのためだろうか、さきほどの武者震いが再び全身を巡った。そしてその武者震いは、応対の「女性スタッフ」を見た瞬間、ある種の “不安” へと変化し始めていた。

 彼女は若かった。どこか初々しさの残る感じに、新卒のような印象を受けた。たえずニコニコと愛想は申し分ない。だが “美術全集について、どこまで理解しているのだろうか?” との疑念を取り除くことはできなかった。

 彼女は30巻を手に取ってしげしげしげと眺めたりはしない。全体の巻数を確認しながら、十数巻をカウンターの上に並べる程度で、特に精査している様子は見当たらない。その代わり、パソコンや資料を覗き込んだり、誰かと携帯で連絡を取りあっているようだった。

 “どこからかベテランの査定人が現れるのだろうか?” 期待と不安相半ばしながらも、少し落ち着き始めたとき、彼女は、やや緊張した面持ちで筆者に言葉を発した。

500円になりますけど……』

 ――筆者は考えたそういえば「人気のある巻」は、バラでも1巻500円~1,250円ほどで売りに出されているものもあり、「不人気の巻」は30円~60円というものもあった。ということは「1巻平均:500円」という評価なのか。つまり500円×30巻=15,000円》……。そこまで考え及ぶのに5秒とはかからなかった。

 ――いやまてよ! ネットでの「販売価格」の大勢からみても、「BO店」が「15,000円」で「仕入れる」ことなどありない。だが次の瞬間! 一つの “疑念” がよぎった。

 ーー彼女は、何かとんでもない勘違いをしているのかもしれない。社会経験と書籍に関する知識不足のため、的確な「価格査定」とはならなかったのでは? となれば、天性の「古書鑑定能力」を持つ筆者が、己の利益享受のために知らんぷりするなど、如何なものだろうか……。 

 と一瞬そう思ったものの、さきほどの我が最終試算の「175円×30巻=5,250円」が再び脳裏を掠めた。それを3倍近くも上回る15,000円などありえないのだ。となれば、こちらのとんでもない勘違いということに……

 そう思い直して彼女を見た。笑顔ではあるものの “どこか申し訳なさそうな下向き視線”となっている。その “俯き加減” に “胸騒ぎ” を覚え、はっと我に返った。そして筆者はしっかりと彼女を見据えたまま、おもむろに尋ねた。

500円というのは1巻の値段ですか? それとも全30巻という意味でしょうか?』

『…………全巻です』

 その答えまでに “ひと呼吸” あったことが、今思えば救いだったのかもしれない。だがそう思いながらも同時に、500円÷30巻=16円66銭という厳粛な「計算式」が、何度となく脳裏にフラッシュバックした。

       ★

 出版時とさほど変わりない保存状態の全集――。美術全集1巻のサイズは「縦37㎝×横27.5㎝×厚さ3.5㎝」。それに「重さはジャスト3㎏」。……その「美と知と感性の書」の価値が、10円玉と5円玉と1円玉2個にも満たないとは。我が人生において、これほど惨めな計算の記憶はない……。

 筆者は言いたいことをすべて封印し、穏やかな笑顔で彼女に丁重に語りかけた。

申し訳ないけど売るのを中止して、このまま持って帰りましょう。お手数をおかけしました。ごめんなさいね

 彼女はとまどいながらも、申し訳なさそうな笑みを見せた。筆者はカウンター上の十数巻を段ボールに入れ、残り5つの段ボールとともに車に積み込んだ。

       ★

 帰り道、「A、B、C3つの美術全集は絶対に手放さないことを心に誓った。のみならず、いつでもそれらを自室で楽しめるよう「専用書架」の購入も決意した。

 だがこの “決意” こそ、演劇鑑賞ノート紛失の「第一楽章」となったのだ。(続く)

 

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●演劇鑑賞文遅れの顛末とお詫び①

2018年07月15日 12時29分06秒 | ●演劇鑑賞

 「演劇鑑賞ノート」紛失による混乱と遅筆

 本ブログの「演劇鑑賞」について、演劇関係各位をはじめ、多くの演劇学生諸兄姉が気づいていることがある。何よりも、「それに関するメールや書簡」をいただき、そのたびに “口にするのも恥ずかしい……いや情けないほどの言い訳” をさんざん繰り返さなければならなかった。

 それはまた、己の愚かさと虚しさに引き戻されることを意味するとともに、果てしなき後悔と自己嫌悪に陥るばかりだった。

 そう……いまさら、何を隠くすことがあろうか……。この際、“真実” を明らかにしなければならない。

       ★

 実は恥ずかしながら、筆者は “命の次に大切な或る【演劇鑑賞ノート】を紛失していた” のだ。それも「ノートが入ったバッグごと屋外で紛失した」と言うのならまだしも、何と『明らかにこの小さな自室の何処かに紛れ込んでいる……』という “真実”(99%の確信ある事実?!)に我ながら呆れ、その “嫌悪感と憔悴感” は “ハンパなかった” ……。

 紛失時期は、今年の3月下旬――。と言えばこの瞬間、演劇ファン各位は、『演劇ユニット「」(かぎかっこ)』『演劇ユニットMr.daydreamer』の「演劇鑑賞」が、いっこうに出てこなかったことを納得されたに違いない。

       ★

 本ブログ・カテゴリーの「演劇鑑賞」は、ご覧いただくとお分かりのように、最近の5回分はすべて『九演』(九州大学演劇部)の「2017年度後期定期公演2作品についてのもの。このときの「演劇鑑賞ノート」は、2作品のボリュームを考え、「この公演専用ノート」として別に用意していた。

 そのため、結果として “難を逃れ”、「九演・2舞台」の鑑賞文は、3月12日~5月6日アップの原稿通り、文字通り “難なく” 5回もの連載に結びついた。最初の3月12日の本ブログ原稿の最後は、次の一節で結んでいる――。

 【かくして、その「メモ」と前夜の観劇時に走り書きした“ミミズのごとき文字を頼りに、筆者はブログアップのための〈脳トレを開始した。】

 5回もの鑑賞文として、我ながら元気に張り切っている様が伝わってくる。 

 ……But! しか~し! である……。

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 「演劇鑑賞ノート」紛失の序曲

 ところで、「演劇鑑賞ノート紛失事件」の発端は、「美術関連図書」の『処分問題』から始まった。筆者とて齢71。いつしか “終活” なるものを頭の片隅に描き始めたようだ。そこで、この小さなアパートに引越して来てからというもの、「押入れ」の奥に追いやられたままの「3種類の美術全集」を、なんとかしようと思った。

 持ち主にすら目を通されることなく、ひたすら暗闇に静臥したままの各美術全集関係3種。

 ・「ルーヴル」や「ヴァチカン」をはじめ、世界有数の美術館や博物館の作品群(A:「世界の美術館」25巻)

 ・「モネ」や「ルノアール」など37人もの大家の秀作群(B:「現代世界美術全集」25巻」) 

 ・伝統的な日本美術の集大成といった名品の数々(C:「原色日本の美術」30巻)

         ★

 筆者は考えた――。本を大切に、喜んで目を通してくださる方があれば……金額などいくらでも構わない。あるいは、図書館か公的施設などに寄付することはできないだろうか(※近くの公民館に問合せたが、これはダメだった。同じ考えの人々が多いようだ)……。

 そこで、物は試しとばかりに近くの「某(BO)店」に「」を持ち込むことにした。もちろん全30巻である。6つの段ボールに収め、2階から階段下すぐに車を寄せて運んだ。久しぶりの重労働となった。正直言って、このときほど力の衰えを感じたことはない。嗚呼!(続く)

 

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〇演劇案内:『私たちは陰キャです。でも、楽しいです!』(2018年度・九州大学演劇部前期定期公演)

2018年06月29日 21時26分17秒 | ○福岡の演劇案内

 新入生デヴューと3年生の引退の季節

 “九演”にかぎらず、どこの大学演劇部もこの季節は「新入生」の「デヴュー」のときであり、大学によっては「3年生の引退公演」を兼ねてもいるようだ。

 といっても、この数年来「演劇鑑賞」にブランクがある筆者にとって、部員諸君の「学年」など知る由もない。「新入生」については、今回新たに目にする氏名であるため、ある程度は分かるだろう。しかし、「2年生」と「3年生」の区別など不可能に近い……と思いながら、“九演”との出会いから間もない十数年前のことを何気なく思い出していた……。

 当時存在した「六本松校舎」は、筆者の住まいから歩いて5分ほどの所だった。そのため、何度か演劇部員諸君と、六本松界隈の通りや飲食店、喫茶店等で顔を合わせることがあった。あるとき6、7人の男子が、界隈の通りを歩いている場面に出くわしたことがある。

 当初、筆者はその一団が「演劇部員」ということなど露ほども思わなかった。だが一人の学生から会釈を受けたとき、条件反射的に会釈を返しながら、筆者は猛烈な速さで「会釈の主」が誰であるのか想い出そうとしていた。すぐには浮かばなかったものの、“学生諸君全体の雰囲気”からして「演劇部員」ということに気づいた。

 まさにその瞬間、他の何人かが「筆者ということ」に気づいた様子がうかがえ、何人かが時間差の会釈を返してきた。

 ……今思い出しても、印象的なシーンだった。いかにも「世間の大人」に対する「男子大学生」の挨拶という、どこかぎこちないものだったが、それでいて爽やかな感じが残った。なんとも心地よく、ひたむきな学生という好感を持ったことを、今でも鮮明に記憶している。

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   2018年度 九州大学演劇部前期定期公演   

『私たちは陰キャです。でも、楽しいです!』

●作:川口紗椰、東馬場 徳                                    ●演出:川口 紗椰 ●助演:東馬場 徳、橋本 大智 

 19歳のある日。怪しい工場で出会った、冴えない男子大学生〈波留彦〉と、おバカでキュートな女の子〈さと美〉。

 立場も考え方も異なる二人。たった一つ同じなのは、どちらも「陰キャ」であるということ。
 友達がほしい! 恋がしたい! 

 変わることを望む彼らの前に、立ちはだかるたぬきたち。そして容赦なく「世界の終末」が訪れる……。
 愛と滅亡をかけた、陰キャたちの魂の物語。                     

【日程】7月・18:30~

     7月日()・13:00~/17:30~

    ※「開場」は「開演」の30分前となっています。

【会場】 ぽんプラザホール

   アクセス:福岡県福岡市博多区祇園町8−3 ☚クリック!

【チケット】・前売り:500円 ・当日:800

  👇予約はこちらからとなっています。

  https://t.co/kAQc9FfbRk


  ◆九州大学演劇部HP ichibell

  ◆九州大学演劇部公式twitter 

  

  ※HP・twitterは「伊都・箱崎キャンパス」

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・フラッシュモブ(Flash mob):m編/その2

2018年05月13日 02時44分08秒 | ○MUSIC

  次の「フラッシュモブ」は、スペインの「Banco Sabadell」という銀行が、その130周年を祝って地元のへ感謝の意を込めて行われたようです。曲目はご存知ベートーヴェンの「第九」です。

 「第九」は本来、第1楽章から第4楽章まであり、「混声合唱」が入る「第4楽章」だけでも20分以上もの演奏時間を要します。「混声合唱」の旋律は、ご存知の『歓喜の歌(喜びの歌)』と言われるものです。これはフリードリヒ・フォン・シラーの『歓喜に寄す』という詩から3分の1程度を抜粋し、一部をベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものといわれています。

◆少女がお金を恵んだらオーケストラの大演奏のサプライズ》(4:50)クリック  

 動画をよくご覧ください。オーケストラの「演奏者」が少しずつ加わり、徐々に本来の「シンフォニー」(交響曲)を形成しながら、音の重厚さを増して行く様子がいいですね。しかも「演奏者」は、聴衆と変わりない服装の「普段の生活者」であり、「passenger(通行者)」として〈周りの風景〉すなわち〈ひとびとの集いの輪〉に溶け込んでいます。「フラッシュモブ」ならではの「演出」であり、「効果」といえるでしょう。

 なお「原題」は、《A Little Girl Gives Coins To A Street Musician And Gets The Best Surprise In Return》。この視聴回数は、公開された2013年12月17日から2018年5月13日午前2時44分現在、52,013,819回となっています。4年5か月=53か月での数字ですから、ひと月平均約百万回の視聴がなされたことになります。凄い! いや…いえ…チョーヤバい‼

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  2012年12月24日――。次のフラッシュモブの魅力は、イントロに「ハンドベル」が使ってあることでしょう。9人の現役のCAが紡ぐサウンドがいいですね。演奏曲目は、これもベートーヴェンの「第九」です。

 ことにこの日が「クリスマスイヴ」であるため、「ハンドベル」の「音色」がいっそうこの日の雰囲気を巧みに演出しています。 

◆《東北支援チャリティーイベント 羽田空港フラッシュモブ 2012》(9:11) クリック

 なおこのときの「寄付金」は、「認定NPO法人国境なき子どもたち」を通じ、東北の子どもたちへの「楽器の寄贈」や「東北での音楽イベント」の「開催資金」などに使われたとのこと。

 

 【フラッシュモブ:少女がお金を恵んだらオーケストラの大演奏のサプライズ】と「入力」してください。最初にタイトルどおりの動画が出てきます。

 

 

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●演劇鑑賞まとめ/『散歩する侵略者』『いちごをたべたい』(九州大学演劇部)

2018年05月06日 00時21分40秒 | ●演劇鑑賞

 《九演》に期待するもの

 今回は『:散歩する侵略者』と『:いちごをたべたい』の2つの舞台について、補足しながら最後の “締め”としたい。

 今回の舞台〈〉の鑑賞文については、友人より『九演に対する評としては、いつになく厳しいのでは……』というメールを受けた。『厳しい』という言葉に暫し沈思黙考の体であったが、筆者としては“励ましと期待”の気持ちの表れと思っている。九演》すなわち「九州大学演劇部」(※注1)は、全国でもトップレベルの「学生演劇集団」だ。そういう《九演》に対する“社交辞令的な賛辞”など、非礼というものだろう。

       ★   ★   ★

 さて、今回の〈A・B〉2つの舞台の組み合わせは、なかなかのバランスといえる。《定期公演》とあって、公演全体のボリュームや登場させるべき部員総数などを周到に加味しながら、メイン&サブの〈舞台〉のテーマ&ストーリーなどの組み合わせを考慮したのだろう。

 書画に例えるなら、舞台〈〉はちょっと小ぶりの「山水画の条幅」であり、〈〉は印象派風の「油絵の小品」といえる。無論、前者は墨痕鮮やかなモノクロであり、後者はこじゃれた金色装飾の額縁に、色彩豊かなキャンバスが収まったというところだろうか。

 そう考えると、カラフルな照明や分かりやすいBGMの舞台〈〉に対し、〈〉は敢えて“地味な照明や音響・効果”に徹したのかもしれない。つまりは〈散歩する侵略者〉を取り巻く“不条理性”や“不可思議性”を際立たせ、さらに“捉えがたい感情や意識”という内面の表現には、《全ての美術、大・小道具、衣装、照明、音響・効果等》を“モノトーン感覚”で貫くべし……とでも言うかのように。

 筆者がそう考えた理由は、公演当日の「案内チラシ」(※注2)の「スタッフ」名が、〈A・B2作品共通のスタッフ〉として表記されていたからだ。すなわち、「照明、音響、装置、小道具、衣装、宣伝美術、制作」の全てにおいて、各スタッフは〈A・Bいずれの作品も手掛けたことを意味する。無論、両舞台における“力点の置き方”に各人各様の違いはあるのだろうが……。

 以上のような“モノトーン感覚”で貫くべしとの意図が実際にあったとしたら、それは“一般的な学生演劇のレベルを超えて”いる。もっとも観劇者としては嬉しいことであり、《九演》舞台の尽きない魅力にまた一歩近づいたことになるのだが……。

               ★

 それにしても、〈〉におけるBGMの選曲やオペレーションは素晴らしいの一語に尽きる。ことにヒロイン〈姉さん〉の複雑に揺れる心情をラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」で表現したところなど心憎い〈音響〉効果であり、このときの〈照明〉とのオペレーション・コラボも申し分なかった。

 優れた〈照明〉あっての〈音響〉、そして無論、優れた〈音響〉あっての〈照明〉ということを、全身全霊を通して体得することができた。筆者は観劇中“(聞こえるものの見えない音楽・効果音”を“(見えるものの聞こえない)照明とともに視覚的に”感じながら、同時に“(見えるものの聞こえない照明”を“(聞こえるものの見えない)音楽・効果音”とともに聴覚的に”感じてもいた。

 このような“感じ方”こそ、《九演》が2014年11月に《海峡演劇祭2014参加作品》として上演した『桜刀』において体験したときの〈照明〉と〈音響・効果〉に通じるものでもあった。願わくば、あのように秀逸なデザイニングやオペレーションを確実に引き継ぎ、そこからさらに進化させて欲しい。

 それは九州のみならず、全国的に見て抜きん出た《九演》の使命であるのかもしれない。少なくとも筆者はそう思っているし、近い将来その一端を明らかにする機会があればと密かに願っている。


  ※注1:九州大学伊都キャンパス  ※注2:この「案内チラシ」自体の装丁やレイアウトそのものが、すでに〈A・B〉両舞台の “一体性” ……というより “不即不離性” といったニュアンスを醸し出しているようだ。


 散歩する侵略者(作/前川知大、演出/久保文恵)  

キャスト/加瀬鳴海:川口紗梛、加瀬真治:東馬場徳、桜井:中島怜音、船越明日美:大和真彩子、船越浩紀:白上惠太、天野光夫:塩塚直輝、立花あきら:下田花音、丸尾:小貫真太郎、長谷部:末廣勝大、車田:本西祐也 

公演情報散歩する侵略者』(九州大学演劇部2017年度後期定期公演) 


  『いちごをたべたい』 (作・演出/大野奈美、助演/菅本千尋

キャスト/姉さん:野上紗羽、賢治:橋本大智、イチ:槌井雄一、想太:久永海斗、萌:伊東佳穂、友輔:本名慶次、ちーちゃん:小島彩

◆公開情報いちごをたべたい』(九州大学演劇部2017年度後期定期公演)


  なお当日受け取った「案内チラシ」には、今回上演された〈2作品共通のスタッフ〉として、以下の名前が表記されていた。

スタッフ/【照明】石橋知佳、菅本千尋、野上紗羽、東馬場徳、塩塚直輝、末廣勝大 音響】河北佐那子、久保文恵、川口紗梛、染矢光信、小貫真太郎、小島彩、槌井雄一、橋本大智、本名慶次、大和真彩子 【装置】伊東佳穂、高橋拓也、川口紗梛、坂上義実、久永海斗、大野奈美、下田花音、白上惠太、中嶋怜音、本西祐也 【小道具】塩塚直輝、東馬場徳、染矢光信、小貫真太郎、槌井雄一、橋本大智 【衣装】小島彩、川口紗梛、菅本千尋、石橋知佳、下田花音、白上惠太 【宣伝美術】大和真彩子、野上紗羽、染矢光信、小島彩、下田花音、本名慶次 【制作】大野奈美、久永海斗、坂上義実、菅本千尋、石橋知佳、末廣勝大、橋本大智   


  最後に散歩する侵略者』の演出を手掛けた久保文恵、『いちごをたべたい』の作・演出を担った大野奈美、同助演の菅本千尋各嬢以下、これら2つの舞台に携わった全てのキャスト・スタッフ諸君」の、学業を含めた今後いっそうの精進を祈りつつ、敬愛と感謝の意を込めて本鑑賞の結びの言葉としたい。(了)

 

 tea break――  

◆『辻井伸行:月の光&亡き王女のためのパヴァーヌ』[10分07秒](デヴュー10周年記念特別コンサートから) クリック

 

       ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 ――それにしても、宇宙人が “概念” を奪うですって? あたくしの “美貌” や “品格” が奪われるなんて……ああ、やだやだ。……でも、奪われるのは “概念” なんでしょ? ……だったら平気。“概念” は奪われても、あたくしの “美貌“ や ”品格“ の “本質” が奪われるわけでもないでしょうから……。

 それにしても、あなたのお部屋……何というありさまなの? ああ! やだやだ。足の踏み場もないって……ほんとにあるのね。連休前に全部片づけるっておっしゃってたのに。

 ……え? 何ですって? 宇宙人に “片付け” という “概念” を奪われたって言うの? ふう~ん。……でもそれは絶対にないわ。あたくし1,000,000%の自信があるの。……あなたはこの世に来るとき、片付け”という “概念” を忘れて来たのよ。

 ……ああ! 神様。 今からでも遅くはありません。どうか、この方に “片付け” の “概念” をお与えくださいますように。……ほら、あなたも一緒にお願いしましょ。……ねえ? 聞いてる? ……ね~え? え? あれっ?……寝ちゃったの……? 

 

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●演劇鑑賞:『いちごをたべたい』(九州大学演劇部)

2018年04月24日 17時10分07秒 | ●演劇鑑賞

 しっかりした「脚本」の成功

 舞台『いちごをたべたい』の“成功”は、一にも二にも「脚本」がしっかりしていることにある。“言わんとするテーマ”は明快であり、“ストーリーの展開”もまとまりがよかった。的確なキャスティングに役者達の無難な演技、それに登場人物7人の「キャラクター」やその“絡み方”も素直で分かりやすかった。

 『九演』(九州大学・伊都キャンパス演劇部)本来の“堅実な舞台創り”として、いつもながらの“知力の高さ”を感じた。〈舞台美術、照明、音響・効果〉にしても“基本をオーソドックスに踏まえ”たデザイニング、そしてオペレーションであり、これといった欠点は見当たらなかった。

 上演時間は程よい長さであり、人物の登場のさせ方については、かなり“分かりやすさ”に気を配ったようだ。そのため〈場面の転換〉に無理がなく、ごく自然に“物語の世界”に浸ることができた。初めて舞台を観た人も“フラッシュ暗算化”に陥ることなく、十二分にこの優れた舞台を、そして物語や役者を堪能したことだろう。事実、帰り際にそういう声を耳にした。

 前述のように、この舞台は“初心者向け”と言ってよい。といってそれは“作品のレベルが初級”というのでは決してない。それどころか、作・演出者の秘めたる才能と豊饒な開花を予感させるものであり、“余裕”をもった脚本そして演出との印象を受けた。

 そのためだろうか。筆者は“創り手側”の一員のように“ヤキモキ”することが一切なく、それだけ観劇に没頭することができた。

 

 巧みな「登場人物・役者」の活かし方  

 物語の舞台は、「キリスト教系の炊き出しをしている施設」といったものだろうか。世間的には、キリスト教会がホームレス等を対象に無償の食事を提供し、その活動をボランティアが支えるという実態が増えている。舞台は、そういう類の施設を運営する〈姉さん〉、〈賢治〉の夫婦をはじめ、〈〉という14歳の少女とその叔父の〈想太〉青年に、〈イチ〉というおっさんの5人がまず登場する。

 そこに〈姉さん〉の実兄〈友輔〉が「借金の申し出」のために訪ねて来る。そこから兄妹二人の過去が明らかにされるとともに、物語が一気に展開する。それに伴い、登場人物それぞれの意識や感情が錯綜し始める。

 妹の親友〈ちーちゃん〉のストーカーであったという〈友輔〉は、その一方、会社の同僚への傷害事件により損害賠償の請求を受けたようだ。そういう“問題児”的な〈友輔〉の過去や、妹〈姉さん〉との対面時の言動などから、彼は直情径行型の人間として描かれている。自分勝手な思い込みに加え、自意識過剰な雰囲気はどこか得体のしれない不気味さを醸し出している。

 この舞台において、筆者が一番注目したのがこの〈友輔〉役の「本名慶次」君であり、彼の声や巧みな顔の表情には目を見張るものがあった。二十歳そこそこの年齢なのだろうが、どこか達観したような大人の落ち着きと人間的な深みを感じさせた。立ち居振る舞いや台詞の口調に、冷徹ともいえるサイコパス調の人格が垣間見えた。

 もちろんそれは“役作り”によるものだが、少しも不自然さを感じさせない演技だった。けだし“秀演”というべきだろう。ことに〈妹・姉さん)に強く迫る際の口調と視線に、筆者は一瞬ハッとさせられ、その巧みな人物表現に何度も頷かされた。筆者は帰り道、今回のキャラクターとは真逆な人物を彼がどのように演じ分けるのか、早くもそのことを想像していた。

 その他の役者としては、〈姉さん〉の「野上紗羽」嬢と〈〉の「伊東佳穂」嬢に注目した。前者はヒロインとして登場機会がもっとも多いこともあり、その存在感は大きかった。兄の〈友輔〉に対する嫌悪と憎しみとが入り混じった感情――おそらくそれは、忘れようとして長いこと封じ込めていたもの――が兄との再会によって甦り、新たな苦悩を引き起こしていく。

 しかし最後は、クリスチャンとしての“諦念と赦し”により自分を説き伏せ、〈友輔〉にしかるべき金額を与えた。そこへ到るプロセスに「聖句」すなわち「聖書の一節」を用いなかったことに、christianityに対する作・演出家の“矜持”のようなものを感じた。つまりは、安易に「聖書訓話」的な解決を図らなかったということを意味する。舞台美術に「十字架」を使用しなかったことも、その思いをいっそう強くした。

 以上の〈姉さん〉に14歳の少女の想いをストレートにぶつけたのが〈〉であり、大人へと成長していく多感さをよく表現していた。台詞自体が的確であったのに加え、伊東嬢の堂々たる台詞回しや感情の表現は、観客を鮮烈に引き込む説得力があった。筆者は次第に「本物の14歳」に思えて仕方がなかった。

 同様に「本物のおっさん」と思わせるほどの好演を見せたのが、〈イチ〉役の「槌井雄一」君だ。彼は“渋い”というバイプレーヤーへの賛辞ともいうべき特性を見せた。ほんとに“おっさんらしい”雰囲気に溢れ……まさか五浪した留年五年生なんてことはないよね? ……いや、失礼。

 ヒロインの夫〈賢治〉の「橋本大智」君と〈想太〉の「久永海斗」君は、それぞれ〈妻・姉さん〉と〈萌〉という二人の女性を魅力的に描き出す人物と言えるだろう。〈ちーちゃん〉の「小島彩」嬢は、ほんの一瞬の登場だった。

 ともあれ「登場人物」と、演じた「役者」双方の「個性」を巧みに調和させたと言えるだろう。優れた脚本であり演出であることを改めて感じた。

 

 

   

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●演劇鑑賞:『散歩する侵略者』②(九州大学演劇部)

2018年04月11日 21時06分38秒 | ●演劇鑑賞

 場面転換 における 照明 音響・効果音 相乗力

 前回述べたように舞台が単調に流れた要因”は、「.場面転換」における「.照明演出」及び「音響・効果」の3点だった。正確に言えば、「a.ABC3点それぞれの演出・表現の曖昧さ」と「b.ABC3点の相乗効果の不足と言える。

 そしてその最大の場面こそ、前回述べたように明転における出捌け“すなわち“照明が灯ったまま”での〈役者の登場と捌け方〉にあった。つまりは、この「.場面転換」における「.照明演出」と「音響・効果」が、やや“素っ気ない=不充分な”ため、「場面の転換」が観劇者にスムーズに伝わらなかったようだ。

 といっても、筆者個人は事前の“傾向と対策”のお陰で“これと言った不都合”を感じることはなかった。だが「舞台観劇」にあまり慣れていない人にとっては、“戸惑う”場面がいくつもあったように思う。筆者の座席は舞台〈上手〉の最後尾右端であり、劇場全体がよく見渡せた。そのため、観劇者のそういう雰囲気を感じ取ることができた。

 ついでに言わせて貰うなら、“観劇中の筆者の脳”は以下のようなものかもしれない――。

 “刻々と進行する瞬間ごとの中心的な役者”に目を遣りながらも他の役者にも注意を払い……もちろん〈照明〉にも〈音響・効果〉にも無意識のうちに心を配りつつ……時には素早く“ノートにメモ”しながら……“心の声”は次から次へと感じたことを猛烈なスピードで呟き続けている……………

 ……この波音……ちょっと短い……あと“ひと呼吸”あれば……できたら日本海の荒波の感じでドバッも悪くない……そうなれば波の効果音は短くてもいい……設定場面の状況も瞬時に伝わるはずだ……

 ……この〈明転〉の捌け方……もう少し“コソコソ感”が必要……今ここは「総合病院」……やはり屋内への転換を感じさせる〈照明に変化〉を……それに宇宙人の策動によって“概念を奪われた多くの人々”がこの病院に連れて来られているはず……その騒々しい雰囲気効果音)があれば……登場人物それぞれの未来へ向けた心の不安や怖れも、いっそう伝わって来るのでは……

       ★   ★   ★

■もたらされた今後の課題■

 確かに〈暗転〉を使えば、簡単に〈場面転換〉は可能となるだろう。しかし、それでは〈①場面と場面との“繋がり具合”〉が損なわれかねない。また〈②登場人物の“微妙な心の変化”が途中で断ち切られるおそれもある。何よりも〈暗転〉は、観劇者の心を“舞台から引き離す”〉危険を孕んでいる。

 舞台上の役者の“安全第一”を考えるとき、〈明転〉が多くなるのも無理はない。「2時間10分」もの長丁場の“どこをどう削っていくか”あるいは“短くしていくか”……演出家や舞台監督、照明や音響・効果等スタッフを大いに悩ませたことだろう。

 だが《舞台表現としての分かりやすさ》の向上のために、〈場面転換〉時の〈照明〉や〈音響・効果〉による演出が、今後の大きな課題として残ったことは否定できない(※注1)。

 そして「その解決法」が何であるのか、この舞台を観た読者はすでに理解されたと思う。「波の音」や「病院内の雰囲気」を表現する〈騒擾音〉一つにしても、「創造的想像力」によるアイディアによって、さまざまなバリエーションがあるはずだ。我々観客は、密かにそれを期待している。 


  ※注1:「著作権」に関する脚本内容の許諾において、特に役者や場面の設定、それに台詞については厳しい制限があるはずです。そういう厳しい制約が「照明」や「音響・効果」にも及んでいたのでしょうか。著者によっては、かなり柔軟な運用を認めるケースもあるようですが……。

      

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●演劇鑑賞:『散歩する侵略者』①(九州大学演劇部)

2018年03月30日 11時20分42秒 | ●演劇鑑賞

 読者各位★                                          

 今回、九州大学演劇部によって上演された『散歩する侵略者』(原作:前川知大)は、同名の「映画」が『第41回日本アカデミー賞』において、「優秀監督賞」(黒沢清監督)と「優秀主演女優賞」(長澤まさみ)を受賞しています。

 今後、この映画のDVDをご覧になる方も多いと思われますので、本稿においては “ネタばれ” とならないよう“物語のあらすじ” をストレートに追うことを避けています。


 

  舞台演劇創造のエネルギー                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

 「舞台」は2時間10分もの長丁場となった。物語は“サスペンス調”の展開と相まって、先の見えない不安や緊張を程よく煽りつつ終演を迎えた。筆者はこの「舞台」によって、“一つの舞台演劇を創り上げるための膨大なエネルギー”についてあらためて考えさせられた。

 とはいえ、残念ながら「舞台」全般がやや単調に流れたことは否定できない。あくまでも私見にすぎないが、30分程度の「上演時間」であれば、〈観客〉は“特にこれと言った問題点を意識する暇(いとま)もなかったはずだ。

 だが2時間10分もの大作となれば、〈観客〉は無意識のうちに“観劇しながら学習し、学習しながらさまざまな展開予測また期待”するだろう。〈舞台創り〉に携わる人々からすれば、それだけ余分に“舞台創造のエネルギー”が求められることを意味する。〈創り手〉の立場にある人は、今一度〈観客〉の立場から自分達の舞台を振り返って欲しい。

       ★   ★   ★

 ところで“なぜ舞台は単調に流れた”のだろうか。その要因として.場面転換」「.照明演出」「音響・効果」の3点が挙げられる。言うまでもなく、この3点は“どの場面”においても常に“不即不離”の関係にある。

 そこでまず“今回の舞台の特徴”と“それがもたらした今後の課題”について整理してみたい。

 

■今回の舞台の特徴■                                               

10人もの〈登場人物〉の数に加え、〈場面転換〉=〈物語の進行〉=〈役者の出入り〉が多いうえに、そうした“転換場面”の“変化が分かりずらい”ため、観客は“物語の世界にすんなりと入ることができなかった”あるいは“入ることはできたものの、何となく居心地が悪かった”。

物語の進行〉が“形として捉えにくい人間の内面の変化)”に重点が置かれたため、役者の動き(motion)”が地味にならざるを得なかった。つまりは、“同じような感じの場面そして役者の立ち居振る舞い”という印象が残った。

 今回の物語は、:現に起きている隣国との戦争」と「宇宙人による侵略の可能性」という2つの“状況”の中で進んで行く。

 「:隣国へ向けて戦闘機が飛び立つ軍事基地のある街」では、「:人間の持つ“概念”を奪おうとする宇宙人が策動を開始している」。

 ヒロイン・加瀬鳴海の夫(真治)以下3人の宇宙人が、人間から“貰った”とする“概念”を学習することによって“その人間の概念”を完全に奪い取って行く。「家族」や「所有」や「愛」といった“概念”が奪われるということは、“あるべき人間としての本質や人間関係が失われることを意味する。

 ……と以上のように、物語の中心的な展開が形而上学的な想念をはじめ意識や感情の変化によるため、“登場人物の置かれた場所や立場”がはっきりしないまま、〈場面転換〉が繰り返されることとなった。まずそのことが、“単調に流れた”最大の要因といえるだろう。

 個人的には好きな系統の展開なのだが、それにしても〈場面転換〉における〈明転※注1の際の役者の〈立ち位置〉や〈捌け方〉は、やはり“単調”ではなかっただろうか。筆者には、役者がボックス型の椅子を持って出入りする定番の〈出捌け※注2が、妙に堂々としているような気がしたのだが……。

 実は帰路の車中においても“そのこと”がずっと気になり、思考を停止しようとしても、勝手に数々の場面がプレイバックし始めた。気分転換を図るために近くの「マック」に立ち寄ったものの、〈明転の際の出捌け〉について考えるばかりだった……。

 気が付いたとき、今回の“出捌け”が、学生演劇を観始めた2001年当初の“違和感”と似ているような気がし始めていた……。

 ……それは、2年ぶりの観劇というblankの影響だろうか……。老脳によるflexibilityの衰退だろうか……。もしそうであれば、潔く〇〇〇〇からの〇〇も視野に入れなければ……ってなことを本気で考えさせられる一瞬だった。

 ……閑話休題……。

 単調に流れた主たる要因こそ、まさに上述「A・B・」の3点であり、その結果次回に述べるような「今後の課題」が残ったようだ。

 そうではあっても今回の舞台が総合的に見て、精神性の高い優れた舞台”であることは些かも揺るがない。    

 


 ※注1:「明転(めいてん)」  照明が点灯した中で「舞台」の〈場面転換〉が行われること。つまり、「役者」が舞台から〈立ち去ったり=捌ける〉、別の役者が新たに〈登場したり〉すること。もちろん、舞台背景が転換(変化)することもあります。この「明転」とは逆に、照明が消された中で以上のことが行われることを「暗転(あんてん)」と言います。

※注2:「出捌け(ではけ)」役者が舞台上に「登場したり」、「立ち去ったり(捌ける)」すること。「出ハケ」と表記されるのが一般的なようです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

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〇演劇案内『仮題:春、麒麟の羽音』(演劇ユニット Mr.daydreamer) #1 Re:start公演

2018年03月17日 22時21分13秒 | ○福岡の演劇案内

 再出発の覚悟

 たった一度きりの「舞台」のために、2016年10月に立ち上げたという演劇ユニット《Mr.daydreamer》。“白昼夢” のような一過性の「その舞台」から、1年余を経て活動を再開した。今回の公演は以下の6氏が中心となっている。

 同ユニットの公式twitterによれば、作・演出の上野隆樹君は西南大学の現役生のようだ。また出演者の関大祐氏は福岡大学演劇部の出身であり、本ブログの「演劇鑑賞」に名前が記録されていた。

 その他に4人の女流が出演する。主宰の宮地桃子さんをはじめ、九州大学演劇部出身で「陰湿集団」所属の長野真結さん、その後輩となる同演劇部現役生の野上紗羽嬢に、九州産業大学演劇部現役生の山田愛夏嬢。

 正直言って、上野、関両氏山田嬢については何も知らない。野上嬢については、先日3月7日の舞台『いちごがたべたい』(2017年度九州大学演劇部後期定期公演)において、初めてその演技を眼にしたばかりだ。この舞台についてはいずれ鑑賞文をアップする予定だが、彼女は兄に対する“憎しみ”と“赦し”の間で揺れ動くヒロインを、実に情感豊かに演じて見せた。

 2人の女流の成長を……

 筆者は2年ぶりとなる先の観劇において(※3月12日の本ブログに詳述)、演劇案内チラシを10数枚受け取った。その中の1枚に宮地桃子長野真結女流二人の「名前」を見つけた時、迷わず今回の舞台を観ようと決めた。両人には以前から注目しており、この2年間の観劇ブランクにおいてもその動向が気になっていた。

 長野さんは、演劇ユニット『陰湿集団』の女優陣を代表する役者であり、小柄で華奢ながらも自然体の役作りを感じる。バイプレーヤー的な役どころが多いようだが、舞台を重ねるごとに確実に成長している。個人的には、『アイ・ドント・ノー・ホェア・アイ・アム』(※参照ブログ。注1)や『狂人なおもて往生をとぐ』(※注2)での演技が印象深い。ことに前者における〈ゲームに熱中する少年役〉は、“実像との乖離”がかなりあるにもかかわらず不思議な実存感があり、掴みどころのない不安定な少年の心情を巧みに表現していた。

 一方、宮地さんは何といっても『decoretto』(※参照ブログ)での〈看護婦ヒサエ〉と〈母さん〉の2役を見事に演じ分けた凄さといえるだろう。筆者はそのときの〈ヒサエ〉役に“驚愕”した。内容については論じる余裕もないため、ぜひ巻末参考の「鑑賞文」に目を通していただきたい。

 彼女はその後も『うちに来るって本気ですか』(※注3)や『口づけ』(※注4)において主役級を務めたわけだが、筆者が彼女を一段と印象深く感じたのは、『ゆめゆめこのじ』(※参照ブログ)における演出にあった。17、8名もの出演者を束ねたうえ、学生レベルとは思えないほど高い照明・音楽・効果音・舞台美術・衣装等だった。

 高木理咲子及び新ヶ江優哉両君の助演や、「西南学院大学演劇部」としての完成度の高い舞台創造力の蓄積があったとはいえ、それらを導き出しえた演出家としての才覚には非凡なものを感じた。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

演劇ユニットМr.daydreamer#1 Re:start公演   

 『仮題:春、麒麟の羽音』 ―春の風は死の前触れ

作・演出上野隆樹 出演関 大祐、宮地 桃子(以上、Mr.daydreamer)、長野 真結(陰湿集団)、野上 紗羽(九州大学演劇部)、山田 愛夏(九州産業大学演劇部) 

 今年もまた 春の香に誘われて 桜の花が咲いては散っていく  魂の輪廻  連環の理。  時計は一時的に止まり 彼らは存在しない世界に眠る  ……大切な何かを忘れながら。 僕は誰かでもあり、誰かは誰かで、そんな誰かが私で、私は僕で。 


日程※時間は「開演」時間。「開場」はその30分前です。                                    ・328日(水)19:00                              329日(木)14:30 19:00                         330日(木)14:3019:00                         331日(土)14:30 

場所konya-gallery(紺屋2023) 👈 会場のご案内                  〒      〒810-0041 福岡市中央区大名1-14-28 第一松村ビル202

料金前売:500円  当日:800円

ご予約/                    クリックすると、クリックすると「予約フォーム」が出てきます。👆 

◆お問合せ等は下記へ                                                                                        T twitter:https://twitter.com/mr000daydreamer 


 

【参照ブログ】(過去の記事)

◆演劇鑑賞:『アイ・ドント・ノー・ホェア・アイ・アム』(陰湿集団)

◆完成度の高い繊細な表現力/鑑賞『ゆめゆめこのじ』(西南学院大学):上

◆徹底した部員一丸による舞台創造/鑑賞『ゆめゆめこのじ』(西南学院大):下

            ★   ★   ★

◆“演劇部全体を貫く繊細な感性”/西南学院大学演劇『decoretto』:上

◆“的確なキャスティングによる役者・演技”/西南学院大学演劇『decoretto』:中

◆“役者5人の絶妙な活かし合い”/西南学院大学演劇『decoretto』:下-1

◆“役者の肉声は音楽”/西南学院大学演劇『decoretto』:下-2(最終回)

 ※注1:2016.2上演[●作・演出/山本貴久] ※注2:2015.5上演[●脚本/清水邦夫 ●演出/山本貴久] ※注3:2015.4[●作/石原美か子  ●演出/田中里菜 ]。※注4:2015.12上演[●作/宅間孝行 ●演出/瀬川聖]。

 

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●《2017年度・九州大学演劇部後期定期公演》の鑑賞にあたって

2018年03月12日 19時29分33秒 | ●演劇鑑賞

 2年ぶりの演劇鑑賞

 さる3月6日と7日の両夜、《2017年度九州大学演劇部後期定期公演》を観に行った。会場は「甘棠館Show劇場」(福岡市中央区唐人町商店街内)であり、以下の(a) (b)2つが上演された。筆者にとってはほぼ2年ぶりの観劇であり、九州大学演劇部(伊都キャンパス)特有の“高い精神性に支えられた舞台”を堪能することができた。

a)3/6『散歩する侵略者』(作:前川知大演出:久保文恵 

b)3/7『いちごをたべたい』作・演出大野奈美

 それぞれの《鑑賞文》は次回以降に譲るとして、今回は(a)の観劇に際しての筆者の「事前準備」について述べてみたい

        ★   ★   ★

 

 日本アカデミー賞と映画散歩する侵略者

  3月2日第41回日本アカデミー賞》の授賞式が行われた。この発表についてはテレビで放映されたようだが、筆者は観ていない。この十数年、賞の結果については「アワード」等のネットで確認している。

 それによると、今回の舞台と同名の『散歩する侵略者』が黒沢清監督によって〈優秀監督賞〉を、またヒロインとして加瀬真治の妻・鳴海を演じた長澤まさみさんが〈優秀主演女優〉を受賞した。

 だが筆者は、劇作家前川知大(ともひろ)氏も黒沢清監督も、名前を知っているという程度でしかない。というのもこの15、6年、邦画・洋画を問わず映画館での映画鑑賞などまったくなかったからだ。となれば必然、当代の人気脚本家や監督等に関する知識はゼロに等しい。

 そこで筆者はいつものように、観劇に際しての〈傾向と対策に着手した。それは演目をはじめ、原作者脚本家さらには演出家等の名前をヒントに、ネット検索をすることを意味する。特に今回のように「10人もの登場人物」ともなれば、事前の〈人物整理〉すなわち〈人物個々のキャラクターやそれら人物相互の関係把握〉が絶対に必要となる。そのためにも最低限の情報を得たいと思った。

 しかも「演劇鑑賞」を書くとなれば〈予習〉は不可欠であり、〈舞台進行〉における〈フラッシュ暗算化〉に陥らないための予防策ともいえる。例えば、登場人物が4、5名程度で「場面転換」が緩やかな舞台は、〈1桁の数字がゆっくりフラッシュする〉……というイメージだろうか。「…」といった計算式を想い描いていただきたい。

 だが「10名もの人物が登場するうえ、場面転換が多い舞台」ともなれば、〈2桁の数字が結構な速さでフラッシュする〉……。「7539514982+……」と。これに「物語」の展開が速く、しかも過去と現在現在と未来とが行き来する舞台と来ればフラッシュはいっそう速く、その数字も2桁ではすまないだろう。

 あえて数字を誇張するなら……「85+359-44+623-71+20-372…」といった感じであり、暗算のスペシャリストならいざ知らず、通常人は脳裏に数字をキープするだけで精いっぱいとなる。それらを逐一計算しながら、次々にフラッシュされる数字を脳裏に描き続けることなど、まず不可能だろう。これは、《観劇》をする際の脳や五感の働きと同じようなもの……と筆者は思っているのだが……。

 

  「原作」と「映画DVD」

 ――本論に話を戻そう。今回、筆者は公演前日の3月5日に近くのTSUTAYAにて原作(文庫本)」を買い求め、夕食後一気に読み終えた。その際〈役名と役者(出演予定者)〉をもとに「人物関係」を整理し、併せて〈物語の概要〉をまとめた。

 さてここで、筆者個人の最近の“学生演劇の楽しみ方”の一端をご紹介しよう。原作等により「内容」が判明している場合は、演出の仕方や舞台美術、照明・音響効果等について“想像あるいは創造する”ことにしている。

 音と照明のデザイニング

 ことに最近、「音楽効果)」や「照明」についての《デザイニング》や《オペレーション》に目覚めつつある。……とここで、音響」ではなく「音楽効果)」としたことに留意されたし。この際言わせてもらうなら、筆者は「音響」という「呼称」に違和感を感じる。いかなる「物語」そして「舞台会場」であれ、やはり基本的には「音楽」と「効果)」という“区別”と“呼称”が必要ではないだろうか。

 それを「音響」という“2文字”で片付ける感覚や考えには、どうしても納得できない。筆者にとっての「音響」という言葉には、「音響メーカー」や「音響装置」といったハードやテックニック面が色濃く纏わり付き、「音全般に関するデザイ二ング」というartisticな「ソフト」面が欠落している

 実際の「舞台演劇」を構成する“およそ音に関するもの”は、やはり「音楽」と「効果)」として区分すべきと思う。もし両者を“一本化した呼称”でまとめるのであれば、せめて「音響・効果」として欲しいものだ。この問題は非常に重要であるため、別の機会に詳述したい。

 ともあれ、舞台の『散歩する侵略者』を観劇した翌3月7日の深夜、筆者はTSUTAYAにおいて同名「映画」のDVDを借りた。何とこのDVDは、この日がレンタル開始日となっていた。その夜のうちに1回目を観終わった筆者は、翌夜に“部分的な観直し”をしながら「メモ」を取った。

 かくして、その「メモ」と前夜の観劇時に走り書きした“ミミズのごとき文字”を頼りに、筆者はブログアップのための〈脳トレを開始した。

 

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・フラッシュモブ(Flash mob):m編/その1

2018年03月03日 23時08分21秒 | ○MUSIC

  Flash mob とは?

 2月の終わり頃――。捨てようとしていた free paper の記事の片隅に、「フラッシュモブ(Flash mob)」なる〈文字〉を見つけた。……flash……。「閃光」を意味する、あのフラッシュ」だろうか……。筆者は、wikipedia によって「フラッシュモブ」を検索する前に、まず英和辞典で「mob」を引いた。flash mob なるものに対する自らの「ボキャブラ力」と、「想像力」とを試す意味合いもあった。電子辞書の「ジーニアス英和辞典」曰く――。

 mob 【暴徒、やじ馬、(破壊的活動をしかねない)群衆。《◆単なる群衆はcrowd》…以下略)

 ん?……〈破壊的活動をしかねない群衆?〉……穏やかではない。……閃光のような暴徒⁈ というのか。何かにつけ、閃光のようにパッと光り……あるいはパッと跳ね上がるように現われては、あっという間に立ち去る無責任な群衆 ⁈……。何やら雲行きが怪しくなってきたぞ。はてさて、具体的にはどのような連中なのだろうか…… 

 70歳と9か月3日脳裏に、「暴走族」のうるさいバイクや車の爆音、そして無意味に繰り返されるハイビーム・パッシング、さらには危険極まりない幅寄せ……といった不埒な〈煽り運転〉の数々が瞬時に広がった。

 と、次の瞬間! 普段は温厚篤実かつ冷静沈着な我が熱き……いや厚き唇から、次の word がまさしく big bang のように、激烈な勢いと語調をもって飛び散った ‼ ‼ ‼

 馬鹿たれ!

 だが、その言葉を発した5秒後、自らの〈反省〉の念とともに、もう一つの〈想像映像〉が閃いた。……そうだ! この言葉はきっと《何に対しても野次馬精神旺盛に、所かまわずカメラの「フラッシュ(flash)」を切る日本人の「野次馬」=「モブmob)」》……を指しているに違いない……。

 ……そう確信した筆者は、普段の知性と感性と品性を取り戻し、再び電子辞書の「ジーニアス英和辞典」を手に、念のために「フラッシュ(flash)」を確認することにした。すると――、

 flash【 原義:(水)を飛び散らす 】【 ①(光・炎の一瞬の)きらめき、閃光。 ②(考え・感情などの)ひらめき、突発。 ③瞬間。 ⑤ちらっと見せること。】

 ……まだあるのか……動詞に関する長い語釈も出て来た…… 

 【 ①ぴかっと光る。 ②ぱっと浮かぶ。 ③ぱっと現れる…… 】

 ……延々と続いている……。キリがない。よ~し、このあたりで……。

 ということで、あとはもう wikipedia に頼むことにした――。

  【 フラッシュモブ( : flash mob )とは、インターネット上や口コミで呼びかけた不特定多数の人々が申し合わせ、雑踏の中の歩行者を装って通りすがり、公共の場に集まり前触れなく突如としてパフォーマンスダンス演奏など)を行って、周囲の関心を引いたのち解散する行為】

 ……とあった。そこでさっそく、一つの《 flash mob 》とやらを見ていただこう。

 please  click 👇 フルスクリーンにしてごらんください。

 ◆《 ラヴェルのボレロ(コペンハーゲン中央駅)》(4:52)

 ※注:2011年5月2日。デンマークコペンハーゲン中央駅にて。「原題」は、《Flash mob at Copenhagen Central Station. Copenhagen Phil playing Ravel's Bolero》

            ★   ★   ★

 ……………いかがでしたか? wikipedia の説明にあるように、《雑踏の歩行者を装った普段着の楽団員》が、一人また一人と現れて無造作に楽器をセットしたり……《前触れもなく、突如として》演奏を始めたり……。

 楽器と演奏者が増えるにつれて、シンフォニー本来の迫力と感興をいっそう整えつつ……その豊饒な音楽性を膨らませながら……。いつしか聴衆・観衆も、老若男女を問わず増えており、個性豊かなその自然の反応がたまらなく “人間味” を醸し出し……。演奏者とそれを見守る人々との、心と心が通い合った感じが何ともいえない。

 筆者の〈能書き〉など、これ以上は不要と思われる。――何といっても、久しぶりの長文の今回の記事。70歳と9か月3日の老躯は、ちと休みたいと囁いておりまする。で、その願いを聞いてやりたく。……次回、お会いする日まで。

           ★   ★   ★ 

  ――まあ。なんてステキ! このボレロって、とっても有名ね。あたくし、もう5回は視聴したのよ。いいわねえ。……それだから、あなたに〈ひとこと〉申し上げなければいけないって思ったの。いえ、こういう素晴らしい情景と音楽だからこそ、どうしても申し上げたいの。……誰かさんもおっしゃってるでしょ? 知性、感性、品性って……。いつも、美しい日本語や正しい言葉遣いを心掛けていただきたいの。

 ……だから馬鹿たれ! ……て言葉…… ああ! ヤダ、ヤダ! 耳にするのも……。それに馬鹿たれ!って文字を目にするのも……ああ! また言っちゃったわ。ヤダヤダ!……。

 だから、今すぐにでも清めなければ〉。そうでないと、みなさまがおっしゃっる〈この麗しいあたくしの唇〉が穢されたままよ。ねえ。なんとかしてくださらない? ……でもどうすればいいのかしら……。

 そうそう! お清めの方法を思いついたわ。これよ。これしかないわ。ほら、今度新しくできたケーキ屋さん。あそこの超おススメの《マロンと抹茶のムースを、まるでピュアな愛を包み込むかのように巻き込んだ》という《甘さと柔らかさと、舌先に触れたのか触れないのかわからないほど完成度の高いロールケーキ》……がいいのかも……。そう。たった一口で、私の唇はすっかり清められるんですって。……間違いなく。……ねえ。聞いてる?……ね~え?……ねえ ⁈ ……………あれっ? 寝ちゃったの?

 

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〇演劇案内:『かぎかっこ』(演劇ユニット「」第4回本公演)

2018年02月25日 21時24分39秒 | ○福岡の演劇案内

 3年ぶりの本公演

 昨夕、今回の「演劇案内」の封書を受け取った。最近は演劇鑑賞に出向くことがとんとないため、案内の封書は年に2、3通あるだろうか。しかし、今回はこれまでずっと注目をしてきた《演劇ユニット「」(かぎかっこ)からの案内であり、楽しみに封を切った。

 さて今回の「公演」は、ちょうど3年ぶりのようだ。主宰の浜地氏は今回の2本の上演について、次のように述べている。

       ★ ★ ★

 『一つは、《自分を作り上げてきた、その思いを全て出し切れた気がする》という自分への納得が詰まった作品。もう一つは、《人生で一回はこの脚本を演じてみたい》と約7年間思い悩んできた作品です。

 公演名に自分の劇団の名前を冠するというのは冒険です。これこそが我々である、という事がきっと記録に残るのでしょう。遠い将来、ベストアルバムのようにきっと感じられるのでしょう。つまりは、そういう事なのです。』

       ★ ★ ★

 前回の第3回公演は、2015年3月27・28・29日に行われた『人数の足りない三角関係の結末』(作/大根健一・演出/浜地泰造)。出演は浜地泰造、石川優衣、酒井絵莉子の九州大学演劇部出身3氏に現役の丸尾行雄君、それに客演として、せとよしの嬢が参加。

 第2回公演は、その1年4か月前の2013年11月3・4両日であり、『山脈をのぼるきもち』(作/鈴江俊郎:演出/浜地泰造)が上演された。この舞台の出演者は卒業生の浜地泰造氏他、現役九大生の酒井絵莉子嬢、丸尾行雄君だった。

 両公演とも、筆者の記憶にしっかりと刻み込まれている。ことに〈演じられた人物〉も〈演じた役者〉も少なかっただけに、それぞれの《人間らしさが際立ち》、ことのほか印象深く残った。

 ともあれ、舞台1の『天にのぼりたいとふとおもい』は浜地氏の〈一人芝居〉のようであり、特に楽しみにしている。

 また、舞台2の『ストロックとプリンパフェ』は、《早川倉庫杯ⅮENGEKⅠVol.6 準優勝作品》とのこと。この賞のことはほとんど知らないが、浜地氏の自作・演出であり、何よりも酒井絵莉子氏の出演に最大の関心がある。彼女こそ、同劇団のいずれの舞台においても〈憎たらしいまでの女の本質〉を〈うんざりするほど見せつけた〉役者だ。

 それはもう ”怪演”といってよい。彼女の “役者としての存在感” と、その存在感を遥かに超えた “生身の女としての性” は、否応なく、もう一方の “生身の男としての性” に訳もなく纏わり付いて来る。無論、学生演劇鑑賞歴18年の筆者の全身全霊にもべっとりと付き纏って離れないだろう……と、そう覚醒させられる〈をんな役者〉は、そうそういるものではない。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 第 4 回 本 公 演  演劇ユニット「 」(かぎかっこ)

 舞台1天にのぼりたいとふとおもい

●作/鈴江俊郎 ●演出/浜地泰造 ●助演/伊比井花菜 

●出演/浜地泰造

幽霊が出た。35歳のおっさんの幽霊だ。彼は11歳の時に死んでから、僕といっしょに歳を重ねてきたのだという。じっと見てた。僕のことを。知らなかった。じゃいまさらどうしてそれを言いにきたの? 彼はわかりあいたいのだ、という。僕と。彼の死んだ事情のことを。いや困った。まことに困った。そんな夜。幽霊のささやきはどうにも笑えちゃうくらいに切ない。

       ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

      ★早川倉庫杯ⅮENGEKⅠVol.6 準優勝作品★

  舞台2ポストロックとプリンパフェ』 

 ●作・演出/浜地泰造 ●出演/酒井絵莉子 丸尾行雄 

仕事を終えたデリヘル嬢を乗せ、車はコンビニへ向かう。好きなものを好きと言えなくなったのはいつだっただろうか。世間はこのプリンパフェのように甘くはない、と俺は思う。好きなものとプライドの折り合いのつけかたを探して、小さなワゴンRの20分間の逃避行。


 ◆日時17日() ・19時

 318日() ・13時/19時  ※「開場」は「開演」の30分前。

会場リノベーションミュージアム冷泉荘

(住所:福岡市博多区上川端町9-35

 【アクセス】・福岡市営地下鉄中洲川端駅5番出口より徒歩5分

   ・西鉄バス川端町博多座前徒歩5分

http://www.reizensou.com/access/ ☚会場のご案内

料金前売1,200円、当日1,500円 ※チケットは当日清算です。

  ●ご予約・お問合せ●

  ネット予約 https://www.quartet-online.net/ticket/kagikakko4

  090-1196-7569(酒井)   playunitkagikakko@yahoo.co.jp


 演劇ユニット「 」(かぎかっこ)

●Facebook https://www.facebook.com/events/545408832496820 

●Twitter https://twitter.com/kagikakko2012  


 

●演劇鑑賞:『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):上     

●演劇鑑賞:『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):中

●演劇鑑賞:『『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):下

      ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

・『山脈をのぼるきもち』:演劇ユニット「」―(上)

・『山脈をのぼるきもち』:演劇ユニット「」―(中)

・『山脈をのぼるきもち』:演劇ユニット「」―(下)

 

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・寒卵の秀句/石川桂郎:下

2018年01月07日 09時09分13秒 | ■俳句・短歌・詩

 

   「寒卵」の句で、他に「好きな作品」といえば――、

   大つぶの寒卵おく襤褸の上   飯田蛇笏

   寒卵二つ置きたり相寄らず    細見綾子

   寒卵薔薇色させる朝ありぬ    石田破郷

  以上三人の作者はいずれも故人だが、「秀句」として少しも色褪せることはない。

          ☆

   飯田蛇笏(いいだ・だこつ)は、大景を骨太の感覚で捉えた潔さが何とも言えない。無論、この句のように “深い精神性” に支えられた “繊細な視点” も好きだ。筆者は彼の子息、飯田龍太(いいだ・りゅうた)も大好きな俳人の一人であり、いずれ採り上げてみたい。

   その蛇笏の句――。「襤褸(ぼろ)」とは、擬態語の「ボロボロ」からきたのだろう。文字通り、「ボロ布」や「ボロの衣服」等を指している。前回述べたように「卵」は非常に貴重な栄養源であり、高価な食品だった。明治生まれの蛇笏にとって、その価値の持つ意味や重みは、筆者や桂郎以上に違いない。それもいっそう稀少性の高い「寒中の卵」が、「ぼろぼろになるまで着古された衣」の上に置かれている。

  おそらく、小さな「鶏小屋」に「卵」を採りに行った農夫が貴重な「一個」を発見し、それを土間に脱いだ綿入れの袢纏(はんてん)の上にでも置いたのだろう。「養鶏場」のような本格的な鶏舎ではなく、鶏もせいぜい家族用の数羽というところかも知れない。雰囲気的には、大した期待もしないまま見に行ったところ、思いもかけず「見事な大つぶ」を発見した……そういうニュアンスがあるようだ。

   だからこそ、自分が着ていた “襤褸にも等しい継ぎ接ぎだらけの袢纏” を脱ぎ、思わずその上に置いたのかもしれない。“みすぼらしく古びた襤褸布“とその上に置かれた生まれたばかりの新鮮な卵” 。もちろん、それは “大いなる生命” を宿している。だが“その生命” は、やがて食材として“人間の生命” に取り替えられる生命でもある。

         ☆                    

  細見綾子(ほそみ・あやこ)は、以前、“くれなゐの色をみてゐる寒さかな” を採り上げ、その際に今回の句を紹介していた。“をんな” たるものの “生理的・肉感的” な把握に、男としてはっとさせられるものがある。  

  彼女の寒卵の句意は平明ながらも、「卵」すなわち “卵形の本質” を見事に捉えている。二つを置いたのは人間だが、その二つは微妙に揺れ動きながら、まるで自らの意志を持っているかのように互いの間隔を保ち、決してくっつきあうことがない。しかもそれが、冬の寒気の中に沈黙を保ったまま収まっている。「卵」というありきたりの実景を詠みながら、夫婦や身近な人間関係を “卵に託して” いるのだろう。無論、この句も “掌に入る卵” なる “いのち” を、“人間” や “人間関係” に引き直してもいるようだ。

        ☆

   石田破郷(いしだ・はきょう)は、俳誌『馬酔木(あしび)』を創刊・主宰した水原秋櫻子に師事。同門の中村草田男加藤楸邨と並んで「人間探求派」と呼ばれることが多い。しかし、この二人との違いは、破郷が多分に “死の香りのする青春性のやりきれなさやほろ苦さ” を含み持っていることだろうか。それはやはり、病弱だったことによるのだろう。

 波郷の句は、寒い冬の朝、卓上の卵に淡い薔薇色の光が射しているという。薔薇色といっても、無論、「真っ赤な薔薇色」と言っているのではない。あくまでも心象としての薔薇色であり、それはかぎりなく淡い薔薇の色というものだろう。

  なお石川桂郎も水原秋櫻子に師事した時代もあり、破郷の俳誌『鶴』に参加している。この『鶴』において、桂郎は石田破郷、石塚友二とともに “鶴の三石” と呼ばれたようだ。 

          ☆

   ところで、石川桂郎は、先に紹介した“朝寒や粥の台なす三国志” の作者・細谷喨々の師であるとともに、筆者の師でもあった。と言っても、筆者は師の最晩年に入門したものであり、面と向かって指導を受けることもなかった。

   「入門」といっても、自ら意識的に「師」として選んだわけではない。たまたま俳句を始めるきっかけとなった人物の「師匠」が、桂郎師であったにすぎない。縁薄き師弟であり、師の死後から一年ほどで筆者の作句活動も終わりを迎えた。そのため、筆者の作句活動は実質三年ほどだろうか。

   正直言って当時、師の俳句は苦手だった。それに、師の最大の持論と言える “てめえの面のある句” を創れということに、素直に従う気にはなれなかった。というより、俳句を始めたばかりの三十前の「初級者」に、俳句における “てめえの面” などあるはずもなかった。

   だがこの数年、ようやく “師の句の味わい” が判るようになって来たようだ。(了)

        ☆

  石川桂郎(いしかわ けいろう) 1909.8.6-1975.11.6。東京出身。俳人。随筆家・小説家・編集者。本名、石川一雄。理髪店の息子として生まれ、家業を続けながら俳句を始める。1934年、杉田久女に入門。1938年頃、石田波郷主宰の俳誌「鶴」同人となり、一時期その編集を担当。戦後は水原秋桜子主宰の「馬酔木」に参加。また雑誌『俳句研究』(俳句研究社)の編集に携わり、1960年、俳誌「風土」を創刊して主宰となる。

   1951年、句集『含羞』により第1回「俳人協会賞」を受賞。1955年、小説 『妻の温泉』により「直木賞」候補となる。1974年、評伝『風狂列伝』により「読売文学賞」を、また翌年、句集『高蘆』以後の作品により「蛇笏賞」を受賞。

        ★   ★   ★

  ◆朝寒や粥の台なす三国志/細谷喨々:上

  ◆母をいぢめし人を焼く……/細谷喨々:下 

    ◆くれなゐの色をみてゐる寒さかな/細見綾子

 

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・塗椀に割つて重しよ寒卵―石川桂郎:上

2018年01月01日 15時33分30秒 | ■俳句・短歌・詩

 

   塗椀に割つて重しよ寒卵  石川桂郎

   ぬりわんにわっておもしよかんたまご。旅先での「朝餉」を詠んだものだろうか。“何とか塗り” という、ちょっと洒落た「漆器」が眼に浮かぶ。句集『高蘆(たかあし)』より。昭和44年作。

   「塗椀」については、おそらく誰もが、形や大きさの割には意外に “軽い” と感じるはずだ。それはおそらく、日ごろ使っている “陶器か磁器” 製の「ご飯茶碗」の “重さ” が、揺るぎない感覚として掌に残っているからだろう。

   陶器や磁器の茶碗に「卵」を割り落としたところで、 “変化した重み” はそれほど感じられない。しかし、 “木製” の「塗椀」(漆器)であれば、“卵の分だけ変化したその重み” は明らかに掌に伝わって来る。しかもそれが “寒中” とくれば、指先はいっそう繊細にその違いを感じ取っているはずだ。

   その “小さな気づき” が、旅先の「とある宿房」であったとしたら。また、思わずその “銘” を確かめたくなるほどの「塗椀」であったとしたら。折しも、窓の外には「冬日の光」が充ち満ち……その気配を感じながらの朝餉であったとしたら。

   そして、そこに、 “色艶鮮やかな、ぷるんとした新鮮な黄身と白身” が、「塗椀」の中に躍り出たとしたら……。

   思わず、弾んだ気持ちで “卵とは、こんなにも重みを感じさせるものか” と呟きたくもなろう。

   果たして、師桂郎は “何処を誰と” 旅をしていたのだろうか。……いや、独り旅であったのかもしれない。いやいや、旅などではなかったのかも……。

   ともあれ、「割つて重しよ」に、“万感の想い” がこめられているようだ。無論、それは “卵だけ” ではないのだろう。師が “重しよ” と呟いたものの本当の “正体” とは? それとも、筆者の考えすぎというものだろうか。

       ☆

   「二十四節気(にじゅうしせっき)」の「小寒」から「節分」までを「寒の内」(※註1)という。実は「卵」は、この期間が一番滋養があって美味しいとされている。

   とはいえ、特にそれを裏付ける根拠もなさそうだ。おそらく、食材が満足になかった時代の、さらに食材が少ない “冬場” の “貴重な蛋白源” として重宝がられたために、そういうイメージが定着したのかもしれない。 

   ところで、「二十四節気」を、さらに約五日ずつ三つに区分した「七十二候(しちじゅうにこう)」では、「大寒」を次のようにしている。

  ・初候:「款冬華」―蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す。

   ・次候:「水沢腹堅」―沢に水が厚くはりつめる。

   ・末候:「鶏始乳」―鶏(にわとり)が卵を産み始める。 

   これはいわば「日本版」だが、中国本来のものでは「初候」が “鶏始乳” となっており、また日本では「次候」の “水沢腹堅” も、中国では「末候」に来ている。

       ☆   ☆

   小学五年生となった1958年春。引越先の自宅近くに「養鶏場」があり、「卵」をはじめとする簡単な食品を売っていた。ようやく “戦後10余年” を経過したというこの時代、「卵」は高価な食品であり、貴重な栄養源だった。そのため、病気見舞いの「贈り物」として喜ばれていた。 

   「卵」の価格の推移を調べてみると、1950(昭和25)年の価格を「指数100」とした場合、2012(平成24)年は僅か「9」、1958(昭和33)年は「42.8」となっている。

   つまり、平成24年時点の「卵一個」を「20円」とした場合、終戦から5年後の1950(昭和25)年は「一個220円」、1958(昭和33)年は「1個95円」したことになる。当然、大きさの違いによって価格は異なっていた。

   今日のように「パッケージ入り」はなく、“ばら売り” のものを必要な個数だけ買ったものだ。その際、養鶏場の “おばちゃん” が、裸電球入りの木製ボックスの「穴」に「卵」を当て、 “一個ずつ” 明かりに透かしながらチェックしていた。

   ひび割れや血卵、破卵、汚卵といった不具合の検査だったのだろう。問題がない卵を、一個ずつ大切に新聞紙片に包みながら、『これは大丈夫やけんね』と言って微笑んでいた。その微笑みは、「購入客」に対するものというよりも、“不良品でなかったこと” に安堵する “生産者自身の微笑み” であったような気がするのだが……。今でも「卵かけご飯」をするとき、このことを想い出すときがある。

   作家の名前は忘れたが、戦後すぐの頃、兄弟姉妹数人(3人だったように記憶している)が、「どんぶり飯」に「卵一個」を入れ、「醤油」をたくさん注いで分け合ったという話があった。そのため、幼い妹は “醤油の味” を “卵の味” と信じて疑わなかったと言う。

         ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★ 

 ※註1:「寒の内」…… 暦の上で寒さが厳しいとされる期間。「寒中かんちゅう)」ともいう。 「二十四節気」の「小寒(しょうかん)」(1月5日)の日から「立春」(2月4日)の前日(節分)までの約30日間をさし、「大寒(だいかん)」(1月20日)の日がほぼその中間となる。「小寒」の日を「寒の入り」、「立春」の日を「寒明け」という。なお、この期間中に見舞うことが「寒中見舞い」となる。★( )の月日は、2018年における日付。

 

      ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 新しい年の始まりに感謝と歓びを

   今年も一年を通じて平穏で安らかな日々でありますように。

   平成30年元旦

   花雅美秀理 拝

 

 

 

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