『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・しどろもどろに吾はおるなり/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(七)ー最終回

2013年01月28日 21時02分56秒 | ■俳句・短歌・詩

    

   一本の蝋燃やしつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる  宮 柊二

  みやしゅうじ。「蝋燭の灯り」が、とりたてて音を出すことはない。しかし、その “仄暗い灯り” の “ゆらめき” は、「音の世界」を呼び込む神秘的な “間(ま)” や “気(け)” のようなものを感じさせる。それはまさに「深遠な地の底から静かに響きそして伝わって来るもの」なのかもしれない。そのため、『暗き泉を聴くごとくゐる』に不思議なリアリティが認められる。

       ★ 

   スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学  永田和宏

   作者、ながたかずひろ氏は今回の選者であり、京大名誉教授の細胞生物学者。『はろばろと美し古典力学』とは、何とも新鮮でロマンティックな表現。ことに『はろばろと美し』が秀逸であり、「上の句」とりわけ冒頭の『スバル』を見事に受け止めている。

  『古典力学』の「文字」や「五感」から想像される「理解できそうで理解できないイメージ」の妙というのだろうか。といって違和感もなく、何となく併存している。それがこの歌の世界をグンと広げているのだろう。そのため、『しずかに梢を渡りつつありと』に落ち着いた存在感と説得力があり、身近な感じを与えてもいる。

   何度もこの歌を呟くとき、筆者には宮沢賢治の『銀河鉄道』の一節や谷村新司の『昴(スバル)』のメロディが浮かんだ。同時に、遠い小学低学年の頃に食い入るように見ていた小松崎茂画伯の画……その「空想宇宙世界」の精緻なフルカラ―も浮かんで来た。

       ★

   ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。 

    作者は今回の選者の穂村弘(ほむらひろし)氏。正直言って、あまり好きになれない作品だ。穂村氏自身が、今回の「一首」のために積極的に選んだのだろうか……。「話題作り」のために、編集上の都合として “選ばされた” のではないだろうか。……氏には、他に優れた作品が沢山あるというのに。よりによって……という気持ちがどうしても消えない。もし穂村氏自身がわざわざ「この作品」を選んだとしたら、その趣旨は何だろう? ご本人にうかがってみたい。

    氏は、塚本邦雄の『輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび』という作品に、“脳を直撃されるような衝撃を受けた” ことがその作歌の原点と言われたようだが……。

   私も塚本短歌大好き人間の一人だ。しかし、正直言って この作品だけは、どうしても好きになれないでいる。ずばり言って、どうにも “作為” が “鼻を突く” ような気がしてならないからだ。

 塚本作品といえば、やはり個人的には、前回ご紹介した『皇帝ペンギン』や『馬を洗はば』のいずれか、ことに後者に “脳天を直撃された” というのであれば、「この〝ハロー〟の作品」についても、多少は理解できると思うのだが……。

       ★

   こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり  山崎方代

   やまざきほうだい。第二次大戦により右目を負傷、後に失明したようだ。左目もかなりの弱視であった由。妻子を持たず、「漂白の歌人」として生涯を送る。口語体の短歌であり、自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火に通じるものがある。正直に告白すると、今回の百首の中で筆者が一番好きな作品だ。

   『こんなにも湯呑茶碗はあたたかく』に、五感を超えた “生活実感” いや “生の実感” が息づいている。そう感じさせるのは、『しどろもどろに』という “言葉” ……何と名状しがたい表現だろうか。この言葉の “不器用” な、それでいて嫌味でも自己卑下でもない “神聖な” 響き。何度も呟いているうちに、その “神聖さ” に打ち負かされたような気がして来る。

   他の作品を併せてみるとよく判る。一途に無欲恬淡を貫いた孤老。というより、結果として自然にそのような “生き方” に導かれて行ったのだろう。諸事万般において、ひたすら “つましい” 生き様……とでも言うのだろうか。そういう雰囲気がよく出ている。

   結句の『吾はおるなり』が不思議な感覚や響きをもたらし、『しどろもどろに吾はおるなり』と続けるとき、この作者にしかない独特の “漂白” と “諦念” とが滲み出て来る。

   それにしてもこの歌……。“実存主義” の短歌的一例と言えそうだ。もしサルトルが生きており、短歌を知っていたとするなら、彼は間違いなく水の入った「グラス」の代わりに、温かい湯がたっぷりと入った「湯呑茶碗」を使ったに違いない。

    他の作品は――、

   手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る

   このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている

   宿無しの吾の眼玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉

       ☆    ☆   ☆

   以上をもって今回の『新・百人百歌』の評は終り。以下は、紙幅の都合で評を省略した作品。 

   かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる  吉井 勇

   よしいいさむ。彼の歌と言えば、何といっても処女歌集『酒ほがい』。

   少女云うこの人なりき酒甕(かめ)に凭りて眠るを常なりしひと

        

   終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ  土屋文明  

   つちやぶんめい。解説によれば、『九二歳の夫が、九四歳で逝く妻を悲しむ歌である。終わりなき死後の時間』とある。

       ★

   春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける  前川佐美雄

  まえかわさみお。太平洋戦争突入の前年に刊行された歌集にある作品。

       ☆    ☆   ☆

  このシリーズを始めて思ったことがある。それは私家版の『新・百人一首:近現代』を選んでみたいということだ。その中には、今回の文藝春秋編の作品も三分の一ほど入るだろう。

   となれば折角の機会、『百人一句』として「俳句」も選んでみたいものだ。ただし、こちらは芭蕉以前からの作品も含めたもの。団塊頑固親爺の “偏見” と “依怙贔屓” で選ぶ『百人一句』。……乞う。ご期待! ただし、時期は未定も未定。命あるうちに……。 (

 

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・アバンギャルド/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(六)

2013年01月23日 22時25分55秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  かつて、今回の選者・岡井隆氏に、塚本邦雄及び寺山修司の故人二人を加え、「前衛短歌の三雄」と呼んだようだ。「前衛」(アバンギャルドavant garde)」とは、芸術面について言えば「反主流的な新興勢力」ということであり、それだけに風当たりも強かったし、また何よりも高いレベルが求められていた。

 そういう観点からみれば、「塚本・寺山の二」は、充分応えて来たと言える。しかし残念ながら岡井氏については、個人的によく知らないだけに、氏を正当に評する術を知らない。それでも今回選出された一首は、“いかにも男性的”で好きな作品だ。

        ★

  飛ぶ雪の碓氷(うすひ)をすぎて昏(くら)みゆくいま紛れなき男のこころ  岡井隆 

  『飛ぶ雪……すぎて』と『碓氷(峠)』から、車窓風景であることが判る。峠を過ぎて行く黄昏どきの汽車。おそらくそれは、ひと昔もふた昔も前の蒸気機関車だろう。雪のただ中を走り抜ける一本の蒸気機関車……その長く尾を引くような汽笛が響き渡る。ガタゴトン、ガタゴトンという心地よい響きとリズム。“……逃げてはならない。男は汚れてはならない……。” そういう作者自身の “内なる声” が聞こえるようだ。

   さまざまな想いに囚われながら “昏みゆく空” の有りようを見続ける作者。“昏みゆく自分” に思い至ったのだろう。周りの風景がどのように変わろうとも、決断すべきことや行動しなければならないことは、結局、何一つ変わらない……。それを一つ一つ乗り越えて行かない限り、その先へと進むことはできない……そのような覚悟の呟きが聞えて来る。

   『いま紛れなき男のこころ』……。そこに至った作者の濃密な思いや決意のほどが表現されている。非常に個人的な心の様相であり、他者の理解を得にくいものかもしれない。……特にこういう感覚意識は、おそらく「女性」には理解しがたいのではないだろうか。他の岡井氏の作品として――。

   人の生(よ)の秋は翅(はね)ある生きものの数かぎりなくわれに連れそふ

   生くるとは他者(ひと)を撓(たわ)めて生くるとや天は雲雀(ひばり)をちりばめたれど

   乳房のあひだのたにとたれかいふ奈落もはるも香にみちながら

       ☆   ☆  ☆

  塚本邦雄と寺山修司の二人を称して《美の狩人》という。“貪欲な美の探究者” であり、“美意識のあくなき練磨” が二人に共通したものだろうか。文学を中心とする二人の幅広い造詣の深さは、人並はずれたものがある。

  塚本邦雄は、歌人、詩人、小説家、評論家であり、寺山修司は、俳人、随筆家、作詞家、写真家、俳優という肩書を除いても、歌人、詩人、小説家、評論家、劇作家、演出家、映画監督……と多才だ。

       ★

   日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも  塚本邦雄

  1958年刊行の「日本人霊歌」という歌集の冒頭歌。発表当時、いろいろ物議を醸した作品のようだ。筆者も初めてこの作品に触れた壮年期においては、衝撃的だった。何よりも、どのように解釈すべきなのか、正直言って検討もつかなかった。

   戦後の日本人の“閉塞感”……というのが一番穏当とされる解釈であったような気がするが、作者の真意は解らない。作者はもっと大きな意味の “閉塞感” を詠いたかったのかもしれない。あるいはその逆に、自分自身の “卑小性” であったのかもしれない。『皇帝ペンギン』や『皇帝ペンギン飼育係』を特定の「メタファ(隠喩)」に限定しない方がいいのではないだろうか。

   いまこの瞬間眺めていても、何か新鮮な感じで受け止めることができるのはなぜだろう。不思議な作品だ。一見、ひどい破調のように感じるが、実は「上五」が二音、下の句の「皇帝ペンギン」と一音が多いだけ。しかし、塚本邦雄と言えば、真っ先に次の歌が出て来る。

   馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ  塚本邦雄

  この歌に初めて出会ったのは、やはり壮年期初めだった。眼を通し終えたとき衝撃が走り、しばらくこの歌が頭を離れなかった。塚本氏会心の代表作品ではないだろうか。この作品については、別の機会に論じてみたい。これも破調のように見えるものの、「七・七・五・七・七」と読み取ることができる。つまり、『馬を洗わば』だけが2音多い。

        ★

   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  寺山修司

  筆者のような「団塊の世代」からみるとき、彼は一回り上の昭和10年生まれ。直接、「戦争」を戦った世代ではないが、「祖国」という感覚や意識は明瞭すぎるほど持っていたに違いない。『身捨つるほどの祖国はありや』という、下の句の重い主題が、上の句の一見軽く流されがちな状況をしっかりと支えている。

  直接、寺山修司に会ったことはない。だが彼の言動は青年期の筆者にとって、常に “相似形の現実世界” であり、それは同時に “一つの肉体” を、そして “抵抗なく受け入れうる価値” を意味していた。と同時に “どこかに筆者自身” でもあったのだろう。当時の多くの青年は、同じように感じていたのではないだろうか。(続く)

        ★   ★   ★

  ※注:「アバンギャルド」はフランス語(avant garde)。英語ではadvance guard。元は軍隊における「前衛部隊」の意であり、本隊の攻撃に先駆けた偵察や奇襲攻撃等を行うようです。「芸術分野」では、第一次大戦前後に始まった抽象芸術・シュールレアリスムなどに代表される“革新的運動”及びその活動母体を「前衛派」というようです。

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・女の恋と愛と情と/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』:(五)

2013年01月19日 04時21分57秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 今回は「女流編」――。

       ★

   髪五尺ときなば水にやわらかき少女こころは秘めて放たじ  与謝野晶子

   髪ながき少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ  山川登美子

  「少女」は「おとめ」、「額」は「ぬか」と読む。『髪五尺』と『髪ながき』……いずれも「長い髪」それも「黒髪」。前者は『水』、後者は『白百合』を介して、「長い黒髪」を、「少女」を、そして両者の“響きあい”を表現している。

  晶子の歌――。「少女の長い黒髪」だけでも、仄かなお色気と「をんなへの変遷」を予感させる。それが「水」にとき放たれたとなれば……。『やわらかき』は、水に対する髪そのものの“柔らかさやしなやかさ”とともに、大人の女性へと成長していく少女の内面の“それ”をも意味しているのだろう。しかも“それ”は、異性への秘められた想いを伴っている。

  登美子の歌――。『しろ百合に額は伏せつつ』には、自らの貞潔さを守り通そうとする気持ちと、「君(特定の男性)」への恋心とが、“祈り求めるように”表現されている。後に晶子の夫となる与謝野鉄幹を恋い慕っていたとされる登美子。

  登美子は、鉄幹への想いを封じて見合い結婚をしたものの、翌年、夫と死別。その後、29歳という若さでこの世を去った。鉄幹との間に12人(6男6女)をもうけた晶子とは、対照的だ。

  鉄幹は登美子を「白百合の君」と称したが、晶子が一時期、「やわ肌の晶子」と呼ばれたこととも好対照。となれば、晶子の次の歌を挙げなければならない。

   柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君  与謝野晶子

  あまりにもよく知られた歌。筆者を含め、今回こちらの選出を望む読者は多いと思う。ちなみに、鉄幹と晶子も、実は「不倫の恋」によるものだった。

       ☆

  ところで、女性は、男性には想像もつかない、「長い黒髪」に対する特有の“美意識”を持っている……と、筆者は信じて疑わなかった。

  だが今回、尊愛する選者・馬場あき子氏は、『髪五尺」という女の美意識は「明星」以後、歌の世界には登場しない』と断言する。

  衝撃であり、すぐには信じられなかった。晶子の夫・与謝野鉄幹等が創刊した文藝月刊誌の「明星」(※註1)以降、「短歌」おいては「女の長い黒髪」の“美意識”が見受けられないと言うのだ。

  “美意識の表現”がたやすい「短歌の世界」ですらそうであれば、「日常世界」においては推して知るべし……ということだろうか。それも既に百年以上前より、そういう美意識が閉ざされていた”とは……。 嗚呼(ああ)! 白髪三千丈……

        ★

 

   夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん  馬場あき子

  昔から馬場氏は好きな歌人の一人。奇を衒うことなく、率直に「みそひと文字(三十一字)」なる表現形式を駆使するからだ。

  日本人であれば、誰しも一度はこの歌のような情景を体験したことだろう。夜更けに眼が覚めたとき、誰もいない公園の桜が、微かな風の中を黙々と散っている。……いや、黙々と散っているという“”が、そして“そのけはい”が、“目を覚まさせた”のかも知れない

  漆黒の闇を背景にしているだけに、滂沱(ぼうだ)の花びらの姿形はくっきりと浮かび上がり、また風に任せながら散りゆく様に、弾みを得た明るさのようなものが感じられる。何と高雅で静謐な瞬間だろうか。ファウストならずとも、“瞬間よ止まれ! おまえはいかにも美しい!”と叫びたくなる。

        ★

 

   死にてゆく母の手とわが手をつなぎしはきのふのつづきのをとつひのつづき  

  作者は森岡貞香(ていか)。下の句の『きのふのつづきのをとつひのつづき』が巧みであり、母と娘二人の“抜き差しならぬ”時間の共有を盤石なものにしている。……無論、『をとつひ』は“その前”に、そしてさらに“その前の日へ前の日へ”と遡って行く……。遡れば上るほど、母は元気な、そして若々しい母へと還って行く。その想いと願いを込めながら、作者は「母」と“手をつないで”いる。希望と歓喜に満ちた在りし日の“生”を確認しながら。

  この作品から、有名な次の歌が想い浮かぶ――。「母の臨終」の代表歌と言えるのかもしれない。学生時代、教科書でご覧になった方も多いと思う。

   死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる  斎藤茂吉

       ★

 

   プリクラのシールになって落ちているむすめを見たり風吹く畳に  花山多佳子

   まつぶさに眺めてかなし月こそは全き裸身と思ひいたりぬ  水原紫苑  

   「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ  俵 万智

       ☆

   しかし、氏の作品について言えば、個人的には、やはりデヴュー作となった歌集『サラダ記念日』の次の歌としたい。

   『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日   俵 万智

                                                  続く

       ★   ★   ★

 ※註1:1900年(明治33年)4月~1908年(明治41年)11月まで刊行)

 ※最後の『サラダ記念日』の歌については、本ブログの2009.11.17」の『サラダ記念日とセリーヌ記念日を参照ください。

 

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・男の恋と愛と/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』:(四)

2013年01月15日 19時36分52秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  本ブログ2011.6.15の『恋を恋と呼ばねばならぬ……(短歌鑑賞)』(※巻末参照)で採り上げた次の歌が、今回の「ベスト100」に選出された。

    君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  北原白秋

    「君かへす」の「君」は、「夫と別居中の隣家に住む人妻」。「君かへる」ではなく「君かへす」としたところがこの歌の生命であり、同時にこの“不倫の恋”にかける作者の覚悟が伝わって来る。

  穂村氏の注釈では、『舗石(しきいし)を踏むさくさくという音が、いつしか幻の林檎を齧(かじ)る音に、また雪の白さが林檎のそれに重なっていく』とある。

  今想うに、作者はこの「林檎」を「エデンの園」における「禁断の木の実(林檎)」とみていたのかもしれない。いずれ「(社会から)追放される」つまり「失楽園」を意味するものとして。そう考えると、「雪」を“甘酸っぱい林檎の香”のようにふれと強く願う作者の気持ちが、いっそう伝わって来る。それはつまりは、“人妻との赦されざる恋”に“堕ちて行ってもよい”との「宣言」でもあるからだ

  ことに、この時代の“不倫”が、当時の刑法によって「姦通罪」を構成したことを考えるとき、白秋も人妻も相当覚悟の上の情交であったことが判る。事実、二人は「人妻の夫」から告訴され、未決囚として2週間拘置されるという事態を招く。しかし、その後「和解」が成立し、後に二人は結婚する。

  今日、もしも「不倫」が「犯罪」行為になるとした場合、「犯罪者」を承知で「不倫」をする男女は、はたしてどれほど存在するだろうか。そう考えるとき、『君かへす』といい、『雪よ林檎の香のごとくふれ』といい、白秋の覚悟の強さに脱帽せざるを得ない。 

       ★

   相触れて帰り来たりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ  川田 順 

   これも、人妻との「不倫の恋」。だが三歳下の白秋に比べると“控えめ”であり、“罪悪感”に満ちている。前歌の白秋が、「人妻」を「情事の場」から『君かへす』として、まるで“勝ち誇ったかのように堂々”としているのに対し、この作者の『相触れて帰り来たりし』には、“こそこそと逃げ帰って来たかのような後ろめたさ”が感じられる。

  『まひる』『春雷』『ふるふ』が、実によく響き合っている。『天の怒り』がなくとも、作者の“背徳性”は充分伝わっている。だが作者があえて『天の怒り』としたのは、自らを罰する意味ではなかっただろうか。そんな気がしてならない。

       ★

 

   たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき  近藤芳美 

   『霧』は現実に眼の前を覆っていたと想われる。しかし、『君の姿』は作者のイメージの中の「幻想」とみるべきだろう。だからこそいっそう明確に、「君」すなわち「恋人」は彼の中に生き続ける。いや、在り続ける。

  幻想の霧の中に恋人をとじ込める作者――。それによって、彼女の“神聖さ”を守り通そうとでもするかのように。作者にとって、『或る楽章』とは無論、「特定曲の特定の楽章」であり、「君」との想い出深き「楽章」なのだろう。

  詠い出しの『たちまちに』が、この歌では実に効果的だ。「君」に対する作者の強い想いを象徴すると同時に、“言葉としての強さ”が、続く『……君の姿を霧とざし』という上の句を引き締めてもいる。そのため「上(かみ)の句」の“幻想性”がいっそう際立ち、それが結果として、『或る楽章』に対する読者の想像をさらに掻き立ててもいる。はたして、「どの曲」の「どの楽章」だろうか……。

        ★

 

   泣くおまえ抱けば髪に降る雪のこんこんとわがかいなに眠れ  佐佐木幸綱 

  この歌に、或る女性は「冬ソナ」を想い出したという。「ドラマ」をまともに知らない筆者であっても、連日TVで流された雪の中の二人のシーンから、雰囲気として何となく判る。

  昔から、「白い雪」を背景とした「女性の色白な表情」や「黒い髪」は、映画や芝居、それに短歌や詩において数多く扱われて来た。

  「純白の雪」は、男女二人の“汚れなき関係”の暗示であり、現時点では“二人の今後の成り行きは白紙の状態”といいたいのだろう。つまりは、それだけ今後の展開が重要になるとの示唆でもある。

  無論、この歌もそういう展開を予感させるものであり、“二人の恋愛”や互いの“生”にいっそう注視せざるをえない雰囲気を持っている。この歌は『泣くおまえ……わがかいなに眠れ』であり、「抱けば髪に降る雪はこんこんと尽きることなく……」というニュアンスだろうか。『こんこんとわがかいなに眠れ』が優れている。ごく自然に口をついて出て来た言葉を感じさせる。

        ★

 

   イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年   岩田 正

 ここでの妻とは、今回の選者である馬場あき子氏。『イヴ・モンタンの枯葉愛して』が、とてもよく“利いて”おり、また洒落てもいる。今にも歌が聴こえてきそうだ。

  『枯葉』といえば「シャンソン」、「シャンソン」と言えば「イヴ・モンタン」。筆者の青春時代はそうだった。とはいえ、イヴ・モンタンは俳優としてかなり多くの作品に出ている。筆者にとっては、何といっても『恐怖の報酬』。徹底したリアリズムに裏打ちされたスリリングな展開は、“凄い”の一言に尽きる。特撮やCG頼みの今どきの映画が、いかにつまらないかを実感させてくれる。何度も繰り返し観たい作品の一つだ。 (続く)

        ★   ★   ★

  ◆恋を恋と呼ばねばならぬ……(短歌鑑賞)

 

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・酒は静かに飲むべかり/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』:[参]

2013年01月10日 20時16分56秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 前回同様、中学・高校そして大学時代に触れた(と思われる)歌を中心に……。

        ★

   白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ  若山牧水

  この歌を知っている方は多いはずだ。大学生の頃、友人のSがこの歌の講釈を嬉しそうに語っていたように思う。ともに法学部の学生でありながら、筆者もSも明らかに「文学青年」だった。その証拠に、あまり法律論を交わした記憶がない(政治論はやったようだが)。

  何と彼は四年生の時、選択科目に文学部の「映画論」(確か映画評論家の佐藤忠雄先生?)を履修し、「卒論」を《山田洋次論――男はつらいよ》にしたという御仁。

  さて、『酒は静かに飲むべかりけれ』……年を経るにつれ、この境涯に近づくような気がする。といって歌をよく見るとわかるように、一人静かに”とは詠んでいない。“愁思の感慨”に浸りながら、一人か二人の友と物静かにという雰囲気だろうか。飲み屋の騒々しさや煙草の煙が苦手な筆者にとって、特にその想いが強い。

  『白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒』となれば、やはり日本酒の熱燗ということだろう。個人的には、“熱く”も“ぬるく”もない“中間”がいい。その燗付けをお猪口で“ちびちび”やりながら、心から理解しあえる友人と、取りとめもない話というのが合っていると思う。

  多少なりとも酒を嗜む人であれば、この歌の心はよく判るはずだ。……とここまで綴ってきたとき、Sと飲みたいという気分になって来た。「東日本大震災」の直後、彼が以前の拙宅(中央区梅光園)に来て泊ったことがある。その時は、日本酒に「熱燗」ではなく、ともにジャック・ダニエルの「お湯割り」だった(※註1)。

  さて、牧水の歌で教科書によく出て来たものと言えば、以下のような作品ではなかっただろうか。もっとも、今日の教科書ではどうだろう。

    幾山河 こえさりゆかば さびしさのはてなん国ぞ きょうも旅ゆく

   白鳥は哀しからずや 空の青海のあをにも 染まずただよふ

  筆者は、こういう“天地自然を大きく取り込み、自由にイマジネーションをかき立たせてくれる”作品が好きだ。『さびしさ』や『哀しからずや』という“感情意識”を安易に盛り込む短歌的手法に抵抗はあるものの、全体の調べや意図からして何とか赦せる。“重層的なイメージの広がり”が心地よい。   

        ★

   牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ  木下利玄

   ここでの「牡丹花」は、「大輪の白牡丹」がいいのかもしれない。それも数多く咲いているものではないような気がする。二、三輪いや三、四輪というところだろうか。

  『咲き定まりて』という表現に、まずは牡丹が“開ききった”つまりは“花の盛り”であることが判る。同時にそれが“限定された数”というニュアンスが感じられる。だからこそ、“静かなり”と続いていくように思う。

   下の句の『花の占めたる位置のたしかさ』は、多少“理に勝った”表現といえる。しかし、その花が「大輪の白牡丹が数輪」となればどうだろうか。“凛とした”大輪の牡丹の“気品と優美さ”がいっそう惹きたち、また収まりもよい。なによりも、『咲き定まりて』と『位置の確かさ』とが自然に結びつく。

  この短歌から真っ先に想い出される俳句がある。

     白牡丹といふといへども紅ほのか   高浜虚子

  短歌的な創造の枠から考えると、「……で、それがどうしたの?」となりそうだが、深い味わいを湛えている。“さりげないこと”を“さりげなく言い流した”その“さりげなさ”とでも言うのだろうか。無論、掲出の歌は“さりげなく詠まれた”ものではないが、歌人と俳人との「視点や表現方法」の違いを窺い知ることができる。

        ★

   葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり  釈迢空

  作者「しゃくちょうくう」の本名は、折口信夫(おりぐちしのぶ)。著名な国文学者であると同時に、民俗学者でもあった。

      

         ★   ★   ★

  ※註1:本ブログ2011.4.3号『ジャックダニエルと蝋燭とバロックと』を参照ください。

 

 

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・薬師寺の塔の上なるひとひらの雲/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』:[弐]

2013年01月06日 04時37分47秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  今回の「ベスト100」には、筆者が中学・高校、そして大学時代に出会ったものが十首ほどあるようだ。その多くは、「国語の教科書」に収められていたものだろう。しかし、どの歌がいつどの「教科書」に載っていたのか断定する自信はない。だが次の歌は、高校一年の教科書にあったように思う。

   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲   佐佐木信綱

  実はこの歌、筆者に「短歌」の可能性を示してくれたエポック・メーキングともいえる作品。或る「鑑賞文」を読んだとき、その表現手法の独自性に驚いた。“そういう作歌法もあるのか” と。

  今回の注釈において、馬場あき子氏も指摘しているように、カメラの「ズーム・アップ手法」を駆使している。映画的手法で言えば、撮影カメラの「長回(ながまわ)し」ということだろう。途中で「カット」することなく撮影を続けるため、「描写対象」に対する密度の濃い集中が可能となる。

  このたび久しぶりにこの歌に接して思ったのは、この「長回し」の手法は、「創作者」よりも「鑑賞者」のためにあるということだろうか。読者は「撮影カメラマン」として、カメラをゆっくりロングからアップに寄せながら、連続した “風景美の抒情” に浸(ひた)ることができる

       ☆

  『ゆく秋の』と、大きくロングに引いた視点のアングル。さりげなく時間・空間を意識させながら、『大和の国の』と、やや視点をズーム・アップさせ、さらに『薬師寺の』と、いっそうアップ気味に寄り、『塔の上(なる)』へと迫っていく。そして最後に、『一ひらの雲』にズーム・インする。  

  変容して止まない“行雲(ひとひらの雲)”……そして、その“ときの流れ”――。『塔の上』を、『薬師寺』を、そしてやがては『大和の国』を離れ、また『秋』という季節からも “去って逝く”。

   『一ひらの雲』という名詞で留めたところが憎い。その “一点(一ひらの雲)” から逆にロングに引き戻す際の情景の広がりに、“作者の抒情” がさりげなく織り込まれている。

  では織り込まれた “作者の抒情” の正体は、どこから来るのだろうか。今一度、この「短歌」全体をよく眺めてみよう。『(上)なる』以外はすべて「名詞」と「助詞」だ。つまりこの歌には、「動作」や「行動」を意味するものは何もない。のみならず、「形容詞」も「副詞」もなく、直接的に作者の “感情” や “意識” を表現するものも一切見当たらない。

  それでいながら深い感慨に誘われるのは、先ほど述べたように、

    第一に、ズーム・アップ手法によって「の」重ねながら、逝く秋に、大和の国に、薬師寺に、塔に、一ひらの雲に……と、順次ズーム・アップしていくカメラワークの“規則的な連続性”にある。

  第二に、言うまでもなく “言葉の運び” が、「五・七・五・七・七」という完璧な《和歌》の語調で整えられているからだ。「」による “リフレイン” の妙であり、その “リズミカルな余韻” にある。

 そして第三に、“人間の動き” や “感情・意識” を超越した、“天地自然”“悠久のとき” というものだろう。これだけは、何がどう変わろうと微動だにしない。

  

 

   おほてら の まろき はしら の つきかげ を 

   つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ     会津八一

   これも高校時代の「教科書」にあったように記憶している。注釈の必要もないほど、易しい言いまわしであり、意味も明解だ。

  「おほてら(大寺)」は奈良の法隆寺や唐招提寺という。作者は早稲田大学の美術史教授であったため、研究としてたびたび奈良を訪れている。徹底した「万葉調」の調べと語彙、それに「ひらがな」中心の表現。ここまで徹すれば、独自の感覚・思想として意味を持ち、また存在感も大きい。

  さきほどの佐佐木信綱の「一ひらの雲」の歌と、次の八一の作品を比べてみるのも面白い。

   やまとぢの瑠璃のみそらにたつくもはいづれのてらのうへにかもあらむ  

  また、仏教美術の専門家として「仏像」を詠んだ歌も多い。

   なまめきてひざにたてたるしろたへのほとけのひぢはうつつともなし

  (続く)

 

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◆賀春◆ 『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(「文藝春秋」編):[壱]

2013年01月01日 04時25分39秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  月刊「文藝春秋」は、本年「平成二十五年」の「新年号」を《創刊90周年記念号》としている。通常より96ページ増の588ページという堂々たる“厚み”であり、連載物を休止した特別企画中心の編集は凄いの一語に尽きる。

   同誌については、いつも4、5分“拾い読み”した後に“購入か否か”を決めている。だが今回ばかりは、「目次」を10秒ほど眺めただけで即決した。『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』の表題とともに、『小倉百人一首編纂から八百年――』いう文字が飛び込んで来たからだ。

  この手のコピーやフレーズには、昔から滅法(めっぽう)弱い。特に月刊「文藝春秋」には、いつもこの手でやられている。同誌の「特集テーマ」や「誘惑キャッチ・コピー」にひっからないよう気をつけてはいても、いざ同誌を手に取るとからきし駄目だ。おかげで今回の「購入検討時間」は、最短記録を更新することとなった。

       ☆

  さて、今回の「選者」は筆者が好きな馬場あき子氏をはじめ、永田和宏岡井隆穂村弘の歌人四氏。選出された「百人の歌人」から、各一首を採り上げている。正岡子規斎藤茂吉から寺山修司俵万智、それに明治天皇美智子皇后のものまで、歌人の個性や歌題の偏(かたよ)りを避けながら、読者の好みの幅広さに応えている。

  「選考経緯」の公開ともいうべき〈選考座談会〉の記事は、上記四氏に読者代表として女優の壇ふみさんを加えたフリートーク。各歌人のちょっとしたエピソードや創作の裏話があり、こちらもなかなか興味深い。詳細は同誌に譲るとして、まずは次の一首から――。

        ☆ 

 帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

 作者は、美智子皇后。昨年平成二十四年の「新年歌会始め」の御歌であり、このときの御題は「岸」。注釈者は、『東日本大震災で失われた人々を岸に「立ちて待」つ人々に思いを致しておられる御歌だからでもある』と述べ、さらに、『シベリア抑留者や北朝鮮の拉致被害者を待つ家族も含まれよう』としている。

 『帰り』『来る』を『立ち』て『待てる』にと、何かに急かされるように四つの肯定的な動詞が続く。息もつかせず畳みかけたそのあと、今度は否定的な動詞がゆったりと、『(季の)なく』……と現れ、最後に置き忘れられたかのように……ぽつんと『見ず』で締めくくっている。

 直接的な感情表現は一切ない。作者は、淡々とした傍観者の眼で「大震災の被災者」達を見ている。最後の『見ず』という否定形が、シリアスなドラマの「衝撃的なラストシーン」のように重く響く。

 「帰り来るを」『待つ』ではなく、『立ちて待つ』としたところに、不安と焦燥と絶望とに苛(さいな)まれながらも待っている人々の想いがあり、それを見守る美智子皇后の慈愛の眼差しがある。

 『季(とき)のなく』と「季節」の「」を充てたことによって、「季節」は巡り来ても「岸で待つ人々」に「そのとき」は来ないのでは……という意味がある。さらに、「待ちわびるそのこと自体」にも「ときはない」、すなわち「限りはない」のでは……という意味も。この二つの意味によって、哀しみがいっそう効果的に伝わって来る。

 下の句の『岸とふ文字を歳時記に見ず』の表現が好きだ。これは無論、その直前の『季のなく』を受けている。「岸という文字」を「歳時記に見出すことができない」とする皇后陛下の着想に、高い文学性と歌人としての力量を感じた。

 「岸」という文字が、「歳時記」にないことは判り切っている。「俳人」であれば、絶対にそのような着想は浮ばないだろう。それをあえて持ち出した……否、持ち出さざるを得なかったところに、皇后の遣り切れなさをいっそう感じ取ることができる。筆者がそう感じたのは、美智子皇后の次の歌を想い出したからだ。

 この国に住むうれしさよゆたかなる冬の日向に立ちて思へば

       

 美智子皇后といえば、短歌の世界ではつとに知られている。作品に高貴な品位や知性が備わっているのは言わずもがなとして、女性としての優美で細やかな感性が素晴らしい。とはいえ、いわゆる従来の「皇室短歌」の枠にとらわれない自由な発想の歌人であることも確かだ。 

 湾岸の原油流るる渚にて鵜は羽博(はばた)けど飛べざるあはれ 

 窓開けつつ聞きゐるニュース南アなるアパルトヘイト法廃されしとぞ

        ☆

 その一方で、「妻そして母」としの一面を語る歌も、また魅力に溢れている。

 日本列島田ごとの早苗そよぐらむ今日わが君も御田にいでます 

 あづかれる宝にも似てあるときは吾子ながらかいな畏(おそ)れつつ抱く 

 前者の「わが君」は、無論、天皇陛下であり、後者の「吾子」は「浩宮誕生」(昭和三十六年)の題から、皇太子殿下であることが判る。「母として」よりも、将来の「皇太子・天皇」の「生母として」のお立場に戸惑いを持たれていたのかもしれない。「あづかれる宝(=生命)」を「畏(かしこ)まりつつ」受け止められたお姿は、傍(はた)から見れば“微笑ましい”と同時に、“偉大で厳粛な儀式”でもあったのだろう。

 ふり仰ぐかの大空のあさみどりかかる心と思し召しけむ 

 この歌は、明治神宮ご鎮座五十年、明治天皇の御製を思われた折りに詠まれたもの。その明治天皇御製の歌こそ、今回の『新・百人一首』に挙げられた作品でもある。

       ☆

 あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな  明治天皇

 「天皇という方」の御製という気がする。生涯に九万三千首を詠まれたという明治天皇。その方の歌に、美智子皇后は先程の歌を返された。これからも、《歌人》美智子皇后の秀歌をお待ちしたい。(続く

       

★★★ Atakushi としては…… ★★★

  ――皇后さまのお歌って、とってもすてき。……せっかくの元日。あたくしも一首詠んでみようかしら。身近な生活に題材をとりながらも格調高い歌を……でしょ? 

 新春の淑気を感じさせるように、朗朗と読み上げながら……。で、こんなのいかが?

    靴下の ォ~♪ ……………相方今も~………かくれんぼ ~♪ ………

    ずぼらな鬼は ~ ………さがす気もなくゥ~♪ ♪ ……………

 

 ………なぜか「靴下の片方だけ」が次々に〝失踪〟するという〝〟なのよ。……それが何足も何足も続いているという不思議な現象……。

 ……でもこの歌、少し変えた方がよくないかしら? ねえ? 「さがす気もなく」よりも、「さがす意図なく」の方が上品かしら?  いえ、待って。「さがす気も消え」に、「さがす気も絶え」もありそう 。

 ほんとに “その気がなくなった” ……つまり「失踪した片方」を「捜索しよう」とする〝気持ちも折れた鬼〟の無気力さと哀れさ……。そういう諦めの気持ちがより強調されると思いません? ……それに「さがす気も果て」も悪くないわね。

 ……ねえ? どれがいいかしら? ご本人として、いちばんぴったり来るのは? ……ねえ。聞いてる? ね~え? あれ~っ? 眠ちゃったの………?

 

   参照:

  ◆靴下の失踪と捜索―[上]

   ◆靴下の失踪と捜索―[中]

  ◆靴下の失踪と捜索―[下]

  ◆後日譚『靴下の失踪と捜索』

 

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 新 嬉

  新しい年の始まりを迎えることができたことを嬉しく思います。

  読者各位の本ブログへのご厚誼に感謝するとともに、

  これからも、わたくしらしいテーマと筆致を心がけたいと意を新たにいたしました。   

    2013年 元日  清浄な朝、玄界灘の海風に触れながら                              

                                         花雅美 秀理

  

 NHKの女性アナウンサー列伝抄』の「続き」は、本シリーズの完結後となります。

 

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