記憶では、小学三年の春から夏にかけての頃ではなかっただろうか。或る日、父の書斎でもある両親の部屋に呼ばれた。
当時、「米軍キャンプ」(福岡市)の通訳をしていた父は、英文の書籍を手にしていた。父はおもむろに本を開き、その巻末に掲載された複数の「写真」を見せてくれた。そして、それらの写真について、思いつくまま話をするようにと私を促した。母が父の傍らにいた。
父が見せてくれた写真は、十数点あったような気がする。いずれも成長するにつれて、書籍等や映画・TV等で目にするようになった写真だった。
☆ ☆ ☆
「アウシュビッツ・ビルケナウ収容所」――。
その有名な「死の門」をはじめ、住居を追い出される多くのユダヤ人家族の姿。ドイツ兵の前を裸で走っていくユダヤの女性。収容所の焼却炉とそこで焼かれた人骨と灰の山。そしてガス室犠牲者の髪や眼鏡等遺品が写されたものだった。だが父は、この時点では「死屍累々」とした写真をみせることを控えていたようだ。
英文のために写真の説明文が読めず、初めは何の写真かよく判らなかった。それに気づいた父は、一つ一つ叮嚀に説明を加えていった。父は写真を見ながら口を開いた。
――ドイツのヒットラーという人の命令によって、何の罪も落ち度もない何百万人もの人々が財産を奪われ、また連行されて収容所に入れられてね。その後餓死させられたり、ガス室で殺されたりして、屍体は焼かれてしまったよ。……この写真は殺人用の「毒ガス」が入ったドラム缶……。ここで屍体が焼かれたようだね。これは殺された人達が身に付けていた衣服や持ち物……。
その口調はふだんと変わらず、また静かだった。当時は気づかなかったが、おそらく父は私の素直な反応を確かめるために、あえて自分の感情を抑えていたのかもしれない。
だが九歳の少年にとって、その説明は気にくわなかった。それはあたかも、『あそこで火事があって、何人かの人が焼け死んだようだね』と報告するのと何ら変わりはなかった。
非道な殺戮の現実に衝撃を受けたのは無論だが、少年はむしろ、目の前の父親の落ち着き払った表情や淡々とした言い回しの方に驚き、そして憤りを覚えた。なぜそのようなことを静かに、穏やかに語ることができるのだろうか……。
九歳とはいえ、それなりの知識や判断力もあった。
野蛮で愚かな戦争の存在理由も、戦争というものが所詮は“人の殺し合い”であり、何一つ益になるものがないことも理解していた。のみならず、戦争に勝つためには手段を選ばないことも。そして勝利者側が英雄となることも、伝記や物語等によってすでに知っていた。
だが武器も持たない一般の女性や子供、老人を、いとも簡単に殺しうる人間が存在するということに“より強い衝撃”を受け、また心が傷ついた。それもまるで害虫を駆除するかのように、何万何十万人単位で殺戮を続けたことに、嫌悪と哀しみを禁じえなかった。
のみならず「殺戮した側」の人々の中に、「殺戮行為」を止めようとした人間がいなかったということに、さらに驚きまた怒りを覚えた。いかに国家のトップそして上官の命令とはいえ――、
『人間は、そう簡単に人間を殺す行為に加わることができるのだろうか。あるいは見過ごすことができるのだろうか』
……というのが少年の素朴な気持ちだった。
『戦争だからそれが許されるのか。一部の狂った殺人者が存在したにしても、なぜ多くの人々が、廃棄物処分の共同作業をするかのように、残虐行為を続けえたのだろうか。そして他の国の人々は、なぜそのようなことを簡単に見過ごしてきたのだろうか……』
次から次へと湧き起こる疑念と憤りを、私は目の前の父親へ「質問」という形でぶつけていた。私は自分の口調が、次第に抗議の意味を込め、挑戦的となっていくことを止めることはできなかった。そのときの不快感と哀しみと興奮とは、今でもよく記憶している。
父は、思いがけない息子の反応に、明らからに困った表情だった。何度も傍らの母と顔を見合わせていたようだ。だがその母も私の態度にとまどい、これまた同じような表情で父を見ていた。両親のそうした様子に、私の嫌悪と歯がゆさとは増していったのだった。
そしてほどなく、両親は小学三年生の息子に対するそれまでの態度を改め、対等に向き合う表情に変わっていった。(続く)