『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・「演劇」と「殺人」/九大演劇部4回生旗揚げ公演:(下)

2014年11月23日 00時01分13秒 | ●演劇鑑賞

  最大のポイントは殺害の“動機”

   「演劇」にかぎらず、「映画」や「テレビドラマ」等において「殺人」を扱った作品は、良きにつけ悪しきにつけインパクトがある。それだけに、一歩間違うとどうしようもない「駄作」になる半面、「秀作」となる可能性も秘めている。

   「主役」が「悪党」をバッタバッタと切り捨てる「時代劇」は別にして、「現代劇」における「殺人」は、慎重であって欲しいものだ。シリーズの最後として、「演劇における殺人」について触れてみたい。

   結論的に言えば、いかに「観客」を “納得” さらに進んで “共感” させるうるかということだろう。とはいえ、「殺人者」が “共感” されるというのは容易なことではない。しかし、少なくとも “赦す” という気持ちを「観客」に抱かせる必要はある。そうでなければ、「物語全体」や「他の登場人物」に対する “共感” など望むべくもなく、「舞台そのもの」がつまらない。

   確かに「徹底的な悪党」として、「観客」に “嫌悪や憎悪” を与えたまま終わることもある。だがそれは基本的には、「史実」すなわち「ノンフィクションの舞台」というものがほとんどだろう。これは「観客」が “赦す” とか “赦さない” といった問題ではない。ともあれ、“罪の意識” もなく “ゲーム感覚” で殺人を繰り返すといったものは勘弁して欲しい。

   結論として、以下の「3点」がポイントであり、(1)(2)(3)と、その「重要度」は低くなる。

 

)殺人者に、“やむをえない” と思われる明確な “動機” 又は “大義名分” があったかどうか。

)殺人者に、“罪悪感” や “悔恨の情” があるかどうか。又は事後、芽生えたかどうか。

)殺人者に、“何らかの制裁” 又は “司法の裁き” があるかどうか。又は将来その可能性があるかどうか。

 

   以上の「3点」は、総て備わっていれば理想だが、なかなかそうもいかないだろう。最重要ポイントは、言うまでもなく(1)であり、“殺人動機” の “正当性” や “不可避性” が強いほど、「観客」の “納得” や “共感” が得られやすい。

   また(2)のように、「殺人者」の “罪悪感” や “悔恨の情” が強ければ強いほど、「観客」の “赦しの気持ち” は強くなる。そして、「殺人者」が “罪の報い” として何らかの “報復” や “制裁” を受け、又は司法によって “逮捕” そして “裁かれる” ことになれば、「観客」の “応報感情” はある程度満たされる。

      ☆ 

 

  『六月の綻び』の優れた殺意表現

   以上のような抽象的な説明では判りにくいので、本ブログで連載した『六月の綻び』(作・演出:森聡太郎)を具体的な教材として採り上げてみたい。

   この「舞台」は、「5人」と思われる “家族の崩壊” と、彼らの謎めいた “消失” を描いている。もっと言えば「父親と母親」の2人が “消え”、〈兄〉と〈弟〉と〈妹〉の3人が残ったところから、この物語は始まる。

   残った兄妹3人の間に “葛藤” や “軋轢” が生まれ、それがもとで〈兄〉さらに〈妹〉と、順次「家」の中から消えて行く。そして最後に、〈弟〉だけが “一人残る” と言うもの。

   “消えた” と思われる「両親」、そして「弟」に「妹」。“消えた” とは、“その存在そのものが消された” のであり、どうやら “殺人” と関わっている。

   問題は、どのような理由すなわち “動機” によって、「兄弟3人」は「両親」を “消し” たのか。“誰” がどうやって……。また「弟」は、両親が消えた後、どのような “動機” で「兄」や「妹」を “消した” のだろうか。

   その “動機” は「連載シリーズ」に譲るとして、筆者が注目して欲しいと思うのは、この舞台のラストシーンだ。

 

      ☆

弟 「……こうしてぼくはまた一人で肉を食べているんです。硬くなっていくんです。肉だけは……。兄貴と妹は僕の身をギリギリに裂いて、ドロドロになるまでしゃぶって呑み込んで行きました。家族が僕の心を食べて、僕は家族の身体を食べたのです。……そして、ここに残った僕は何なんでしょうか? 僕の身体には、いま家族の血が流れています。僕たちは文字通り、形を超えた家族となったのです。これは多分、とても幸せなことなんです。」

 そう言った後、椅子から転がり落ちる〈弟〉。しかし、急に何かに脅えたかのように床に蹲(うずくま)りながら、泣き叫ぶように声を出す。

弟 ★6「ここから出してください。もう誰もいないんです。もう食べるものがないんです。……助けてください。誰か僕を見つけてください。」

 ――外から家の壁を激しく叩く音。『止めてください』と何回も叫び続ける〈弟〉。

 ――照明が消えても(暗転)、外から家の「壁」を叩き続ける音がしている。

 ――BGMが入る。 終幕――

       ☆

  “動機” については、今一度眼を通した上で理解されたい。この「ラストシーン」は非常に良くできている。ことに「★6」の最後の「台詞」に注目して欲しい。

  彼〈弟〉は、“この家” から “逃れたい” のであり、“助けて欲しい” と言っている。このことは、彼が “家族が消えた《内なる家族》” から脱出し、《外なる社会》へ身を置きたいことを意味する。

   結局、彼は “罪の意識” すなわち “良心の呵責” に耐えきれず、《内なる家族》で起きた総ての出来事を白日のもとに晒したいはずだ。要するに、“法的正義の執行” を求めているのであり、そのことによって彼は当然 “処罰” される。だが同時に、彼は “魂の救い” も得るだろう。無論、“彼の救い” は “観客自身の救い でもある。

       ☆

   以上の(1)(2)(3)点に、(4)殺害方法」、そして(5)舞台上の殺害表現」の2つを付け加えなければならない。

   つまりは、“殺害方法そのもの” が “残忍ではない” ことも重要なポイントであり、同時に「舞台における演劇としての表現」にしても、“嫌悪感” を呼び起こすようなものであってはならない。

   その意味において、『六月の綻び』の「殺害の表現」は優れている。劇中、「刃物」は登場しても、それは「障害」や「殺人」を意味するものではなく、単に振り回していたにすぎない。

   筆者が素晴らしいと思ったのは、「兄」と「妹」が “消えた” とき、「弟」が “姿が見えない兄や妹” の身体から「シャツ」を剥ぎ取るような仕草をし、それをハンガーに通して掛けたことだ。何と言う詩情そして余情だろうか。筆者は思わず、芥川の『羅生門』の一節を想い浮かべていた。

   言葉(台詞)上の表現そして演技と言い、実に繊細であり、「舞台演劇」の表現手法を最高度に活かしたと言える。それを、実に “抑制の効いた” タッチで、しかも “表現行為として赦されるギリギリ ”のところで止めているところが凄い。いわば “寸止め” といったところだろうか。洗練された作者の理性と感性のなせる業であり、「秀作」たる所以だ。(

 

 

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・「演劇」と「殺人」/九大演劇部4回生旗揚げ公演:(中)

2014年11月16日 00時08分45秒 | ●演劇鑑賞

 

 

   頭も眼も冴え始めた。そこで、もう一つの作品『し返し』(作・演出:大園和登)の「演出の言葉」に眼を転じた。次のようにあった――。

 

  《 今回はRE:というタイトルで

  『ふたりきり』はrepeat、『し返し』はrevengeをモチーフに 》

 

   舞台『ふたりきり』は、“愛の成就を求めた殺人” が今後も “繰り返される(repeat)” と言っている。といってそれは、「ストーカー殺人」のような “ちゃちな” つまりは “身勝手な一方通行の殺人” などでは無論ない。

   あくまでも、“史実” としての「田中加代(阿部定)」に忠実なものだ。役名を〈田中加代子〉としたところに、その “覚悟” のほどが窺える。すなわち “相思相愛の男・田中吉蔵の絶対的な独占” のためには、“自分以外の女の介入を一切許(赦)さない” のであり、その究極は “相手を殺める” 以外にはないと断言しているのだ。

   しかも、その “絶対的な独占” は、“男の身体の一部すら他の女には触れさせまい” とするほど “徹底” している。劇中、張込み中の刑事が〈田中加代子〉によって「廃棄されたゴミ」を漁るシーンがある。このような行為は、今日的には「ストーカー行為者」の行動パターンとみなされる。だが筆者には、“女の偏愛的独占の生々しさ” を “想起させるための暗示” のように思われた。

   実際の “史実のクライマックス” となれば、眩暈を起こしそうなほど “シリアスで生々しい精神病理的な性愛シーン” が不可欠となる。今回の舞台では、その “生々しさ” を二人の刑事の “ゴミ漁り” によって “遠まわしに暗示” しながら、“コミカルなやりとり” で軽くかわした演出……。筆者はそのように “読み換え” たのだが……。

   ともあれ、「阿部定事件」を “オマージュ” とした『ふたりきり』は、いわば “本歌取り” を試みたといえよう。「その試み」は残念ながら充分とは言えないが、あえて挑戦した作・演出家、キャスト、そしてスタッフを讃えたい。

       ☆    

   もう一つの舞台である『し返し』は、男の部屋において、その男に殺された女による “不条理なし返し”(revenge)が始まるというもの。洋の東西を問わず、“女の恨みは、死後も際限なく続く” と言うことなのだろう。

   しかし、正直言って “あまりにも簡単に刃物を持ち出し、安易に刺殺” したという印象は否定できない。無論、この「物語」は、男が女を “殺す” ことによって展開するものであり、それを認めざるを得ないわけだが、その分、筆者の中に疑問が残った。

       ☆

   ともあれ、以上の「2作品」は “愛における男女間の愛の行き違い” を題材に、最終的には “偏執・偏愛的な女の情念” をテーマとしている。ある程度の世代の人々には「さほど特別なテーマ」ではないだけに、筆者も今公演の紹介において――、

 

  《「よくある話」と言えるものです。それを、今回の若い作・演出家二人が、どのような切り口で “独自の想像世界” へ連れ出してくれるのか。今から楽しみにしています。》

 

   としていた。「2作品」とも「作・演出家」なりの“切り口らしき”ものが見えたのは確かだが、正直言って、中途半端な感じは否めない。その最大の要因は、《演劇における殺人をどのように表現するか》ということだろう。つまりは、“スタンス” の問題だ。これについては、次回、触れてみたい。

            ☆

 

   2女優を活かしきった男子   

  送られて来た案内状によれば、今回の「4回生」は、女子6名、男子4名であり、その他に男子3名が応援キャスト及びスタッフとして加わっている(1回生1名、3回生2名)。「キャスト」は、女子2名、男子5名ではあるが、「2作品」とも「主役」は女子であり、「スタッフ」は、「制作」以下ほとんどが女子で占めている。実質的に舞台を動かす「照明」と「音響」の操作も女子が担当した。

  つまり、今回の「公演」は明らかに「女子主体」であり、それを「男子」諸君が支えたということだろう。そのため、「大砂美佳」及び「秀島朱理」両嬢は、その責任を背負った緊張の中にあっても、堂々と演技をしていた。

      ☆

   『ふたりきり』で〈田中加代子〉を演じた「大砂美佳」嬢の目線や口調には、“愛情と怨嗟の入り混じった女の情念”を感じさせるものがあった。歳若い役者にしては、その “本質” をよくとらえており、内面からふつふつと湧きあがる “不気味さ” をうまく表現しようとしていたのだが……。

   もっと音響の抑えがあれば、“台詞と台詞との間(ま)” や “沈黙” が活かされたはずだ。何よりも、“不気味さ” がいっそう伝わったと思う。人間の、しかも “複雑な想いが絡んだ女の情念” を表現するには、より繊細な「音響」が要求される。この「音響」については、『し返し』も、同様の課題が残ったようだ。

   一方、 『し返し』の〈シオリ〉を演じた「秀島朱理」嬢。最初の部分は「床座」の演技のため、実は筆者の位置からはほとんど見えなかった。そのため、彼女の声がより強調されて聞こえ、“弾けた感じ”がよく表現されていた。とても “し返し” などするようには見えない清廉なイメージを振りまこうとする女の本性……。あくまでも筆者の想像でしかないが、彼女には、「こういう役」が一番似合っているような雰囲気を感じた。

   ところで〈シオリ〉の「姓」は〈サカキバラ〉であったように記憶している。

   「サカキバラ」……「榊原」……じゃ、ないのだろう。……となると……「酒○薔○」……?! Oh my God! (続く)

 

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・加速する九大演劇部の底力/九州大学『学祭大テント公演』

2014年11月11日 00時17分58秒 | ○福岡の演劇案内

 

 底知れぬ「九州大学演劇部」のパワーと情熱

 以下は、今年2014年の「九州大学演劇部」の公演活動を列記したもの。ただし、「伊都(箱崎)キャンパス」主催のものであり、「大橋キャンパス」の分は含んでいない。 

 

◎3月1日、2日

 ・平成25年度 後期定期公演 『蒲田行進曲

 ・会場:ぽんプラザホール

◎4月21日、22日

 ・2014年春季新歓公演「ハルノユメ」 2作品

  真桜 & 鷹の羽根には綾がある

 ・会場:九州大学伊都キャンパス

◎6月22日、29日 

 ・2014九州大学夏季番外公演 六月の綻び

 ・会場:「箱崎水族館」(喫茶)&「九大箱崎キャンパス・倉庫」

◎8月29日、30日

 ・2014年度前期定期公演 カノン

 ・会場:ぽんプラザホール

◎10月11日、12日

 ・4回生ユニット「ハートフル・レ・フレール」旗揚げ公演『RE:』

  ふたりきりし返し

 ・会場:箱崎水族館(喫茶)

◎11月1日、2日

 ・海峡演劇祭2014参加作品桜刀

 ・会場:関門海峡ミュージアム(門司港)

◎11月22日、23日

 ・『学祭大テント公演』 ※下記案内の5作品

 ・会場:九州大学伊都キャンパス

 

        ☆   ☆   ☆

 一つの大学「演劇部」において、これだけ活発な「演劇部活動」は、福岡県下はおろか全国的にもそう多くはないように思う。無論、その活動には、多少部外からの協力や支援があるにしても、運営主体・主導はあくまでも「九州大学の演劇部」のようだ。そこが、まず凄いと思う。

 それに加え、以上の活動以外にも「一部の部員」は、他の「演劇集団」の “客演” を務めている。

 しかし何よりも凄いことは、公演した舞台の総てが、いずれも一定レベル以上のものであるということだろう。なお演目の「赤色」は「すでに鑑賞済み」の作品。「オレンジ色」は、現在鑑賞中またはこれから触れる予定の作品を意味する。

 だが、筆者がもう一つ凄いと思うことは、「公演会場」のバリエーションだ。自分の大学キャンパス以外に「公演会場」を確保することの大変さは、筆者にも想像できる。それだけ、「観客」を意識した配慮ということになるが、その涙ぐましい努力と情熱に頭が下がる。

 ことに、今月初めの1日・2日に門司港で行われた「公演」には、「キャスト・スタッフ」その他として20名近い部員が「門司港」の会場に勢ぞろいしていた。伊都キャンパスからの距離を考えるとき、彼らがいかにこの公演に力を注いでいたかが判る。

  以上のような情熱やパワーは、確実に「舞台」の上に表現される。 GREAT!

 

    ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

 九州大学 【学祭大テント公演】


5作品の「短編劇」を上演!
日の最後には、「即興劇」による公演も行います!

【日 時】 九大祭」当日 

 2014年 1122日() 17:00 ~ 23日() 19:00

【場 所】 九州大学 伊都キャンパス センター1号館裏大テント

 下記をクリック! 

 ◆九州大学 伊都キャンパスへのアクセス・マップ

 ◆伊都キャンパス・マップ

【料 金】 1 公演:100円  フリーパス:300円



【上演作品】

 『桃太郎』  

●作・演出/中山博晶
●出演:小林佑 石松紘宇 木下智之 古川綾 寺岡大輝 村上悠子 板橋幸史 中山博晶
●公演:23日11時/15時

 〈あらすじ〉 都では鬼が暴れ、あるものは財を、あるものは声を、あるものは愛する人を失った。決して交わることのなかった物語が、1人の男のもとに集まる。彼らが目指すは一つ。はるか彼方にある鬼ヶ島であった。


 『人魚鉢』  

●作・演出/石川悠眞
●出演:中山博晶 田中利沙 丸尾行雅 長野真結
●公演:22日17時/23日16時

 〈あらすじ〉 人魚が突然現れて、私の前で微笑んだ。何かを語っているようで、何にも語らない彼女。聴こえぬはずのその声に、彼は溺れて、沈んでく。


 『あいまいパズル

●作/兼本峻平 ・演出/石川悠眞
●出演:小林佑 村上悠子 竹ノ内晴奈 寺岡大輝 木下智之
●公演:23日 9時/13時

 〈あらすじ〉 ロボットオタクの博士、ドSな助手、謎の人型ロボットと…マイペースな泥棒に掃除のおばちゃん?
ちょっとおかしな人たちの織り成すドタバタコメディ。
「あはは!次行ってみよー!」


 『デイドリーム・ウィズ・パペッツ

●作・演出/古川綾
●出演:田中利沙 八浪陽 兼本峻平 竹ノ内晴奈
●公演:23日 12時/17時

 〈あらすじ〉 初めて訪れたサーカスで、少女はマスクを着けた一人の男性と出会う。
 恋にも満たない少女の感情は、時代を超えて、病床の枕元に夢となって立ちのぼる。
 ダンスやマイムを中心に身体表現に取り組んだ、一風変わった作品です。

 

 『錆びた夢の味

●作・演出/森聡太郎
●出演:板橋幸史 長野真結 竹田津敏史
●公演:23日 10時/14時

 〈あらすじ〉 拭いきれないその虚しさと退屈さを、薄っぺらい娯楽で消してみる。もう作り物はいらないと思っている。さて、僕はいつ目覚めるでしょうか。

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・「演劇」と「殺人」/九大演劇部4回生旗揚げ公演:(上)

2014年11月05日 00時03分28秒 | ●演劇鑑賞

く 

   40数年前――。大学院に進んで犯罪学や刑事政策を専攻したいと思った。そのため、1936年(昭和11年)に起きた《女性による性愛絡みの或る特異な事件》(以下、『特異な事件』)については、学問的(犯罪心理、犯罪行動)にも文学的にもずっと関心を持っていた。

   院浪時代、偶然、大学に近い東京・神田の古本屋においてこの『特異な事件』に関する雑誌を見つけた。内容は、「事件調書」や「検死所見」の概要をはじめ、引退した捜査関係者や知人等の「証言」によって構成されていた。何人かの証言者が、犯人を “女性らしいこまやかな気配りのできる優しい女性”……とした評価を、“意外” に思ったものだった。

   『特異な事件』が、“異常性愛の果ての猟奇的事件” として、犯人は “稀代の毒婦” と評されていた、それだけに、“意外” な感じは今でも鮮明に残っている。そのため、この『特異な事件』をテーマにした大島渚監督の映画『愛のコリーダ』(1976年10月封切)は、特別な想いで観た記憶がある。

           ☆

   10月12日(日)、「九州大学演劇部4回生ユニット:ハートフル・レ・フレール旗揚げ公演」に行った。小さな「公演会場」に入り、「ハート・シール」で封じられた「プログラム」を開いた。内側の一番上に『 愛しているわ、○○さん 』と書かれた赤い文字が眼に入った。「愛」の一文字だけがひときわ大きかったが、「○○」の漢字2文字はよく見えなかった。最後の2文字の「さん」は、平仮名のため簡単に読み取ることができた。

   だが次の瞬間、作品『ふたりきり』の役名「石田吉蔵」の文字を見つけてハッとした。『特異な事件』の被害者)の存在が、脳裏に甦って来たからだ。「苗字」には自信が持てなかったが、「田」の字が付くとの確信はあった。下の「名前」の「吉蔵」は確実に記憶していた。

  公演が始まる前、顔見知りの学生に語りかけながらも、 “緊張” していた。“これから始まる芝居に、あの「特異な事件」がどのように関わって来るのだろうか?”……“興味” とともに、正直言って “不安” もあった。“うまく表現できるのだろうか?”

        ☆

   実は、本ブログの今回の「公演案内」(9月27日)の際に、次のように記述していた。それは『ふたりきり』(作・演出:秀島朱理)紹介についてのものであり――、

 

  『あの人を私のものにするには、……しかないのだわ。』といった感覚は、膨大なエネルギーを必要とするのでしょう。【あらすじ】の最後に、《そんな女の愛のお話》……と、どことなく健気なニュアンスがあるようなのですが。“……しかないのだわ” の「……」の部分が気になりますね。

 

   と書いていた。実はあの原稿の初案は、そのあと……は、まさか「殺す」ではないでしょうね?!』と続ける予定だった

   『あの人を私のものにするには……』と来れば、『殺すしかないのだわ』という続き方が、筆者にとっては、自然と思われた。そう判断した根拠は、脳裏に『特異な事件』がほんの一瞬掠めていたからだ。しかし、この時点では、まさか「今回の舞台」がその『特異な事件』と関わりがあるなど、露ほども思い及ばなかった。   

       ☆

   舞台を観た夜、ネットによって『特異な事件』すなわち「阿部定事件」を確認した。“殺された……” いや “殺められた男” の「姓名」は、今回の役名〈石田吉蔵〉とまったく同じだった。そして、今回の舞台で〈吉蔵〉を “殺めた”〈田中加代子〉という「役名」は、『特異な事件』において「犯人(阿部定)」が「吉蔵」の下(鰻料理店)で働いた際の偽名「田中加代」から来たことを今回、筆者も知った。

   その深夜どういうわけか眼が覚め、仕方なく、睡眠薬代わりにウイスキーの「水割り」を飲み始めた。何気なく、テーブル上の「プログラム」に眼が行き、改めて眼を通した。公演会場ではよく見えなかった『愛しているわ、○○さん』の「○○」の2文字が、『吉蔵』であることを知った。

   座り直し、「判じ物」を読み解くような気持で「プログラム」の隅々にまで目を配った。「小さな文字」や「掠れた文字」など、微妙に読み取れないものがあり、昼間見た舞台を想い出しながら、眼の前のプログラムを何度も読み返した。

   挑戦的なフレーズ……謎解きのようなフレーズ……意味深なフレーズ……。作・演出家をはじめ、スタッフやキャスト達が細やかな気を配っていたことが判った。

   だが、これは当然だろう。「演劇」とは、作・演出家一人で作れるものではないからだ。「4回生」中心の舞台ではあっても、あくまでも「九州大学演劇部」としての創作活動であることにかわりはない。

   「演劇内容」はともかく、 “作・演出家の革新的ともいえる大胆な着想” と、それを “一体となって現出しようとするキャストやスタッフ達”……。その仲間について、「作・演出家」の秀島嬢は、「プログラム」の「演出の言葉」として次のように述べている。

 

 ……ちぐはぐなユニット名、気になられた方も多いと思います。

 heartful、 でも hurtful

 優しい顔して毒のある4回生にはぴったりの言葉です。……

 

  「作・演出家」と「ヒロインを演じた役者」。そして、《この言葉の背後に厳然と寄り添う仲間たち》。彼らの “迸るような若さと情熱” に胸が熱くなり、酔うどころではなくなっていた。(続く)

  

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