『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・『銀河鉄道の夜』(上)―銀河の彼方のカムパネルラ

2011年02月17日 13時18分14秒 | □愛読書及び文学談義

  無性に読みたくなる本

 或る時期に無性に特定作家の作品を読みたくなるのは、筆者にとって一種の “発作” といえるのかもしれない。この十数年で起きたその種の発作は「芥川」や「太宰」、それに「鷗外」であり、おおむね短編が中心となっている。

 その一方、三十歳までにあれだけ読み耽った「漱石」については、なぜか一度も起きてはいない。また “軽い発作” として美術全集、レオナルド・ダ・ヴィンチの発作も年に一、二回は訪れる。

 無論、同じ本であっても接するたびに感想や “受け止め方” は異なる。だからこそ何度でも読みたくなるわけだが、“受け止め方” が異なるのは、自分の年齢や経験に伴う精神世界や価値観の “微妙な変化” によるのだろう。

 筆者の場合、自分しか知り得ないその “微妙な変化 ”を楽しんでいるところがある。その “感じ方” の振幅が大きければ大きいほど、それに比例した感動や満足感が伴うように思う。

 そういう観点から言えば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』など、個人的には何度でも読みたくなる本の上位にランクされる。

 今回、十数年ぶりにこの作品を読んだが、初めてこれを読んだのは小学3年か4年生であり、おそらく5、6回目くらいではないだろうか。この「賢治もの」特に『銀河鉄道の夜』を読みたくなるのは、独特な心境のときといえる。4、5年前は『風の又三郎』や『注文の多い料理店』であり、2、3年前は「詩」や「短歌」だった。

 ところで、この作品の “テーマ” はと言えば、いつも躊躇せざるをえない。あえて言えば、“キリスト教的な死生観” であり、“人間存在の救いがたい寂寥感 ”とでも言うのだろうか。あるいは “死” を “宿命づけた神 ”に対する “宿命づけられた人間 ” の “絶対的な従順さ” とでも言うべきか。

 言い換えれば、人間の意志ではどうすることもできない、すなわち “選択できない(=意図し得ない)死” の受け入れ方であり、どのような死であれ、もたらされる死を悄然と受け止めるしかない “原罪の確認” とでも言うのだろう。

 他の文芸作品が扱う “人間の死” の場合、どこかに “救い” や “死の代償” が用意されている。それは例えば死と引き換えに “生み出される新たな生命” であったり、残された者への “希望のメッセージ” であったりする。どんなに寡黙でも、少なくとも “戒め ”や “諭し ”といったものが残る。
 
 だがこの作品だけは、何もないように見える。淡々と物語が進行し、淡々と死が訪れ、死を受け止めざるを得ない青年と小さな姉弟は淡々と死を受け止めていく……。 そして主人公ジョバンニは、カムパネルラという愛すべき無二の親友を、水死という形で迎える。

 いずれも、いわば “悲劇的な死” と言えるわけだが、もし死を迎えざるをえなかった青年とカムパネルラに “救い” があるとすれば、自ら “自己犠牲的な死 ”を選択したということだろうか。いやそれしかなかったとも言える。

 その象徴が、香りのよい林檎をみんなで口にする場面がある。いうまでもなく林檎は、神がアダムとエバに告げた “禁断の木の実” と言われるものであり、人類に死をもたらした “善悪を知る知恵の木の実” だ。

 「銀河鉄道」に同乗したジョバンニとカムパネルラ―― 。タイタニック号の沈没に遭遇し、やむなく死を選ぼざるをえなかった青年と小さな姉弟。そして神の元、黄泉の国へと向かうその他の人々。これらの人々の死が意味するものは、本当は何だったのだろうか。

 そしてなぜ、八十年以上も前に書かれた小説が、途絶えることなく多くの日本人に読み継がれ、しかも筆者のように何度も何度も読ませるのだろうか。
 それは “遥か彼方の銀河” の魅力というものかもしれない。(続く)
 


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