『銀河鉄道の夜』の冒頭
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」
『銀河鉄道の夜』は、先生が生徒に語りかけるこの一節で始まる。賢治独特の “スローテンポ” であり、文体の “もどかしさ” や “ぎこちなさ” はこの作品に限ったものではなく、賢治作品の大半に共通している。
そしてこの “もどかしさ” や “ぎこちなさ” があるからこそ、だれもが抵抗なく “賢治ワールド” に入って行けるのかもしれない。ここにこの作品そして宮沢文学の魅力の一つがある。
さて『ぼんやりと白いもの』とは「銀河帯」すなわち『天の川』をさしている。
筆者にとって、「銀河」といえば40数年前の夏に信州長野の清内路村で眺めた『天の川』を想い出す。一日にバスが2、3往復しかない山村であり、夜の街も人影もネオンも何もなかった。
夜の訪れは “漆黒の闇” を意味し、その分夜空の星が鮮やかに映えた。たった一人で星降る夜空を見上げていたとき、自然に『銀河鉄道の夜』がイメージとして浮かんだことを憶えている。
その遥かな夜空の彼方……。少年や青年の感傷は、無限の宇宙空間や「星」に永遠なるものを観ようとするのだろう。そして、一切を赦しまた受け入れてくれると想いがちだ。だが人間的な時空の及ばない大宇宙は、無論、人間一人の思惑など容認するはずもない。
聖書的世界観に立てば、「夜」は「闇」であり、『神の象徴である光』から閉ざされた「混沌(カオス)」や「迷い」を意味している。そして「死」は、前回述べたように「原罪」によってもたらされたため、「死」には本来「罪」の匂いが漂うはずだ。しかし、ジョバンニとカンパネルラが乗り合わせた『銀河列車』の「死」には、一切その匂いがしない。
それは “宿命的な死” であっても “イエスによる贖いの死” も “復活” も一切感じさせないからだろう。それに加えて『銀河列車』の登場人物には、「犯罪者」はおろか「病んだ人」も「強欲な人間」も出てこない。結論的に言えば、少なくともこの作品において、賢治自身は決してキリスト教を受け入れていないことを意味している。
一時は “法華経” に人生の総てを賭けようとしていた賢治。彼にとってのキリスト教は、おそらく西欧の思想を辿る上での一般的教養か社会教育思想という程度のものでしかなかったような気がしてならない。筆者は賢治の研究家でもないのでそれ以上のことは判らないが、少なくともこの作品をはじめとする主要な作品を考えるとき、そうとしか思えないのだが……。
ともあれ「銀河列車」の多くの人々は、「死の世界」を意味する「南十字」を目指し、“宿命としての死を淡々と受け留める”。だがこの「銀河列車」には、「生者」か「死者」か判らない「鳥捕る人」など “得体の知れない人物” も乗り合わせている。ここにこの作品の二つ目の魅力があるのかもしれない。
角川文庫版で、76ページからなる『銀河鉄道の夜』。この作品は「九つのパート」に分かれている。そのパートにはおのおの「テーマ」が付けられており、( )内はそれぞれが占めるページを表している。
冒頭に掲げた「一、午后の授業(4)」に始まり、「二、活版所(2)」「三、家(4)」「四、ケンタウルス祭の夜(5)」「五、天気輪の柱(2)」「六、銀河ステーション(5)」「七、北十時とプリオシン海岸(8)」「八、鳥を捕る人(8)」「九、ジョバンニの切符(37)」となっている。
今回、この「冒頭」の表現とその後に続く効果について、改めて素晴らしいと想った。文庫本にして第一章の「午后の授業」は、わずか4ページ足らずだが、ここでの「授業風景の展開」における “つかみ” は実にシンプルであり、この一章だけで充分「短編」として成立している。
そのため子供でも大人でも、また家族での読書会などいったものがあるとすれば、それ用のテキストに相応しい。ぜひ推奨したいものだ。
なお「ジョバンニ」は「ジョン」のイタリア名。そしてジョンは、新約聖書の「ヨハネ」をさす人名でもある(『聖書人名小伝』を参照ください)。(続く)
◆ジョンはヨハネ、ピーターはペテロ/聖書人名小伝(上) ☚クリック