『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・孤立無援の面壁(坐禅の魅力と限界:6)-終章

2011年08月09日 00時11分06秒 | ■禅・仏教

  ……雪と戯れている男。雪は男のためにあり、男は雪のためにある……。永平寺の僧堂の一角を占めている不惑の男の五体。軽やかで清浄無垢な雪の感触に覚まされつつ……。

 男の周りに存在するもの……降り込む雪とその雪空、窓から差し込む雪明り、黒光りのする僧堂の三和土(たたき)と剥き出しの巨木な梁、そして高い天井空間……。
 

 私はそれらのものを漫然と見遣りながら、呟く言葉もないまましばらく佇んでいました。それでも、さすがに「振り込む雪」だけは拙(まず)いと思い、ようやく窓を閉めました。

 人の気配を感じたとき、一人の雲水が箒と大きな塵取りをもってかけつけていました。私は彼に感謝し詫びながらも、爽やかな気持ちでした。それは雲水がとても楽しそうに雪を掃き取っていたからです。

 「控室」に戻る途中、普段と同じ“角度”と“目線”で永平寺に降る雪を観ました。特にこれといって変わった雪ではありませんでした。しかし、あらためて“雪の白さと明るさ”と、雪の持っている“温もり”を感じたような気がしました。新鮮であり、幸せな気持でした。
 
       ☆  ☆  ☆

 「開枕」の消灯後、その夜はなかなか寝付けませんでした。私を目がけて飛んできた“雪の様子”が想念の中で何度も繰り返され、繰り返されるたびに私の記憶はいっそう鮮明に“雪の様子”を想い出して行ったのです。雪に始まった想念は、際限もなく広がり始めようとしていました。

 『さきほどのあの一瞬のために、何度もここ永平寺に来るようになったのかもしれない。あの一瞬のために、この八か月、毎日欠かさず坐禅を重ねるようになったのだろうか……』

 しかし実際、その“想念”は整然とまとまっているわけではありませんでした。正直言って“錯綜”し“混乱”していたのです。あまりにも多くのものが、脈絡もなく“私”に押し寄せていました。
 
       ☆  ☆  ☆

 福岡に戻ってからと言うもの、私は急速に「坐禅」に対する情熱と興味を喪い始めていました。「坐蒲(ざふ)」(=坐禅用の座布団)を前にしても、なかなか“坐禅”する気持になれなかったのです。といって「坐禅」が嫌いになったわけでも、「」そのものを否定しようという気持もまったくありませんでした。

 ただ、『坐禅そして禅というものだけで、自分の人生や行動の指針を考えてよいものだろうか』という“疑念”が湧き起こっていました。

 『他に何かありはしないだろうか。確たる何かが……

 「坐禅」に、そして「禅」に今後の「人生」を託してみようと思っていただけに、急速に湧き起こってきたこの“疑念”は、私自身のその後の“生き方”を大きく左右するものでした


 そして、私はその“問い”に対する“一つの答え”を『聖書』に見出そうとしていました。だがこれとの闘いも、それから二十年以上もの長きに渡り、一筋縄ではいかなかったのです。無論、現在も苦闘中であることに変わりはありません。

       ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 現在、「坐禅」をすることはありません。しかし、数息観はときどき試みています。また道元の著作に眼を通すとともに、禅の公案である『無門關』は愛読書の一つです。

 ちなみに、知人等から『禅』や『坐禅』について尋ねられたとき、私の答えは決まっています。

 『自分が納得いくまで坐禅するなり、著作を読むなりすればよいでしょう』と。

 私自身がそうであったように、考え方や感じ方は人それぞれです。同じ人であっても、置かれた環境や周りの人々との関係によって変化するものであり、また変化し続けるものだからです。
 “決定的なこと”は誰にも判らないということです。最後はその人自身の闘いでしかなく、現段階でそれ以上のことは言えないと思います。

 私が“坐禅”や“禅”から受けた感動や恩恵はとても素晴らしものです。無論、今もその気持に少しも変わりはありません。
 しかし、あえて一つだけ言うとするなら、「坐禅」そして「禅なるもの」とは、その本人自身は“確立”しえても、あるいは“救い”えても、“それ以上でもそれ以下でない”ということです。

 曹洞禅における「坐禅」は壁に向かって行い、これを『面壁(めんぺき)』といいます。“坐る”というのは、まさに“孤立無援”の闘いであるのです。誰から助けられることもなければ、誰一人助けることもありません。
 
 つまり、坐禅そして禅とは、身近な家族の誰一人の痛みも苦しみも取り除くことはできず、また愛することも愛を深めることも、そして救うことも癒すこともできないということです。

 ここに“坐禅”の、そして“禅”の“魅力”とその“限界”とがあるのではないでしょうか。……無論、これはあくまでも私の個人的な感想にすぎませんが。

 はたして諸兄諸姉にとって、『坐禅そして禅とは』……これいかに! (了)
 

・涅槃会摂心の“雪”に(坐禅の魅力と限界:5)

2011年08月05日 12時01分10秒 | ■禅・仏教

 「臘八摂心」での一日「十三回」の坐禅――。実質九時間に及ぶ“打坐”であり、想像以上に過酷でした。それだけに、耐え抜いた達成感と満足感はかなりのものがあり、よりよい「坐禅」と向き合えるような気がしました。事実それからしばらく後は、自分でも得心のいく“坐禅”ができたように思います。

 それは文字通り、道元が語った――、

 仏道をならふといふは、自己をならふなり
 自己をならふといふは、自己を忘るるなり


 に通じるものがあったような気がします。“小悟(しょうご)”とまではいかないまでも、その“きっかけ”くらいは掴みえたのではないでしょうか。自惚れかもしれませんが、“只管打坐”の本意を多少理解できたのではと秘かに自負していました。それまで2回の「一般参禅」とは比べ物にならないほどの変革を、私の心にもたらした「摂心」でした。
 私はそういう自分を誇らしく思うとともに、そのように導いてくれた“坐禅”ひいては“曹洞禅(宗)”そのものに、畏敬と感謝の念を改めて感じた次第です。

   ☆   ☆   ☆
 
 それから2か月後の1988年2月。私は永平寺の「涅槃会報恩摂心」に参加しました。といって、八日間総てではなく最後の三泊四日の参加となりました。この参加の“きっかけ”は、「臘八摂心」の際に“坐相”を誉めてくれた若い雲水の勧めです。そのとき彼は、理由があってまもなく本山を下りるということでした。名前を憶えていないのが残念です。

 このときの「摂心」で感じたことがいくつかあります。

 一つには、「極寒期」であったにもかかわらず、まったくそのことを感じなかったということです。参禅者は一重の「着衣」に「坐禅袴」という格好でしたが、その着衣の下は上下とも肌着一枚だけでした。スリッパこそ履きましたが、靴下など誰も履いていません。それでも、寒いとか冷たいといった感覚はまったくありませんでした。

 「控室」から坐禅をする「僧堂」に向かう外廊下などで、一般の「来訪者」とすれ違うわけですが、彼らは私たちの姿を見てとても寒そうに感じたようです。しかし、実は私たちの方こそむしろ、彼らの姿に寒さと冷たさを感じていたのです。これも永平寺独特の感覚といえるでしょう。

 二つには、ただ単に“坐禅をする”ことだけに心が集中していたということでしょう。つまりは、最初の一般参禅で頭に描いた“無念無想になりたい”とか“何かを掴もう”といった「余計な考え」が入り込む余地がまったくありませんでした。“坐禅をしている”そのことだけで心は充たされ、また生きがいや歓びのようなものを感じていたからでしょうか。

 「脚足」の痺れや痛みを超越するものがあったということです。そのため、痺れや痛みの中で想うことは、『手や足など無くてもいい。たとえ一生歩けなくなったとしても、このように座り続けることができるのであればそれでもいい』といった心境になっていました。他の参禅者の中にも似たような感想の方がおり、また後に雲水の方からも同じような感想を聴いたことがあります。

      ☆

 そして三つには、「雪の舞い降りるさまを観たときの想い」でした。
 午後の早い時間だったと記憶しています。ひと坐禅が終わったとき、誰かが『雪のようですね』と呟いたのです。“”と言う言葉にすばやく反応した私は外の景色が観たくなり、急いで僧堂高窓の内障子を少し開けました。
 
 その瞬間、降りしきる雪が私の顔をめがけてきたのです。夥(おびただ)しい雪の一群が、まるで私の眼を射抜くかのように、ひとしきり押し寄せていました
 ふだん「雪を観る」というのは、上から下へ降り落ちる雪を横から観るのが一般的です。しかし、“このとき”は違っており、明らかに“私”を、そして“私の眼”を目がけて来ました。

 つまり、私は“雪の傍観者”ではいられなくなったのです。眼を眇(すが)めつつも、しっかりと雪の降り来る様を、そしてひと粒でも多くの雪を見逃すまいと、顔面に雪を受けながらも観続けていました。

 『ああ、雪が降り込んでいる……』という誰かの言葉に一旦は窓を閉めたものの、みんなが立ち去った後、私は再び窓を開けました。そして堂々と雪を招き入れ、しばし辺りを雪だらけにしていたのです。(続く)

  

・自己を忘るるというは……(坐禅の魅力と限界:4)

2011年07月31日 14時02分50秒 | ■禅・仏教

 “その坐禅”は、その日最後の一つか二つ前の「坐禅」ではなかったでしょうか。というのも外はすでに暗く、また空腹感も一切なかったからです。おそらく“その坐禅”は、「薬石(夕食)」から少し時間をおいたものでしょう。心身ともに安定し、また穏やかな気持ちでした。

 脚や足の痺れも気にならず、私は心地よく落ち着いていたことを記憶しています。「夜」というのに全身の疲れも眠気もなく、つい何時間か前に倒れそうになったことが嘘のようでした。“時間”のことも“日常生活”のことも少しも気にならず、“坐禅に没頭する”だけでした。まさにそのために、福岡から時間と費用をかけて来たのですから……。

 薄暗い僧堂に「」が鳴りました。正式な坐禅の開始を告げる「本鈴」です。私はいつもと違って心身ともにとてもリラックスした状態でした。というのも、「本鈴」による正式な坐禅開始となっても、すぐには全身がなじめないのが常だからです。
 そのため、「予鈴」から「本鈴」までの数分間が短く感じられ、もう2、3分「準備時間」が欲しいと思うことが何度かありました。

 それが今回は、ごく自然に「本鈴」すなわち“正式な坐禅”へと“入って”行けたのです。私は照明が乏しい中、“半眼”のまま「半間」(約90cm)ほど先の「単」の縁を見つめていました。静かに、「数息観(すうそくかん)」(※註1)という坐禅独特の呼吸法を繰り返しながら、“只管打坐(しかんたざ)”(※註2)の世界を辿り始めていたのです……。

 ところが、なぜか周りに落ち着きがないような気がしました。薄暗い僧堂とはいえ、“半眼”のために左右の“気配”を感じることができるのです。
 明らかに「単」を下りる人の動きがあり、それも一人や二人ではなさそうです。何が起きたのだろう? 火事などの緊急避難ではなそうだし……。それにしても、なぜ坐禅をしないで「単」を下りるのだろうか? 

 ……と思っているところへ、ふいに肩を叩かれました――。

 ――いい“坐相(ざそう)”(※註3)でしたね。

 坐禅をしなければいけない人が、なぜ立ちあがって声をかけるのだろうか。私は自分が置かれている立場を理解し得ないまま、声の主である若き雲水の笑顔を眺めているだけでした。

 ――なかなかでしたよ。

 その言葉を頭の中で反芻しながらも、私は何が起きているのかまだよく呑みこめなかったのです。しかし、坐禅仲間が全員「控室」に戻ったことを聴かされたとき、私はようやく状況を呑み込むことができたのです。

 そうです――。私が「本鈴」と思った鐘は、実は「終鈴」の鐘でした。
 つまり私は「予鈴」とともに「単」に上がり、そこで坐禅のための足を組んだり、身体を前後左右に揺り動かす動作だけと思っていたところ、「その後40分間」しっかりと「坐禅」を続けていたというわけです。「本鈴」が耳に入らないまま、40分もの時間を“ほんの数分”にしか感じなかったということでしょう。

 信じがたい不思議な“時間の感覚”であり、これまで体験したことのないものです。
 私はほぼ半年前に初めて永平寺を訪れて以降、事務所で座禅をするようになっていました。「坐る」ことにはある程度慣れていたのは確かです。それでもこのような体験は、後にも先にもこのときだけでした。
  
 ともあれ、私にとっての“その40分間の坐禅”は、“他のものが一切入り込む余地のない濃密な時間”でした。
 
 このときの「摂心」から戻った数日後、私は再び、道元の『自己をならふといふは、自己を忘るるなり』の“あの一節”を想い浮かべていました。(続く)

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ※註1:坐禅時の独特の呼吸法です。この「呼吸法」は今でも時々行っています。あくまでも私の個人的な感想ですが、自然に姿勢がよくなると同時に、「精神統一」にもなるようです。
 ※註2:「只管」は「ひたすら」、「打坐」は「坐わる」という意味です。道元的に言えば、あれこれ思い惑うことなく、とにかく“ひたすら坐禅しなさい”ということです。
 ※註3:「坐禅をしているときの坐っている姿」のことを言います。若い雲水の方でも、みなさんが一目置くよう方は「坐相」が堂々としています。背筋はスッと伸び、ピクリとも動きません。凛とした中にも、穏やかな美しさが感じられます。そういう方は「一チュウ」の40分が終わっても、そのまま一人黙々と坐禅を続けていました。


・三昧(ザンマイ)の先に(坐禅の魅力と限界:3)

2011年07月27日 23時17分26秒 | ■禅・仏教
 
 
 道元の著作の中でもっとも読まれているのが『正法眼蔵』であり、中でもひときわ人気があるのが『現成公案』の巻です。ご紹介した「三行」は、よく引用される有名な一節です。ご存じの方も多いと思います。

 私は、「作務」において感じた“一瞬”が、道元のいう“自己を忘れる”と同じだというつもりはありません。ただ感動的な歓びをともなった作務の後に、あの一節を諳んじることができたことを幸せに感じたということです。この『現成公案』や『正法眼蔵』については、別の機会に触れてみたいと思います。

 ともあれ無事に≪作務≫を終えた後は、10時からの≪坐禅≫であり、11時からの≪日中(にっちゅう)≫そして、正午ちょうどの≪中食(ちゅうじき)≫でした。「日中」とは、「日中諷経(にっちゅうふぎん)」を略称したようです。主に「読経」です。「中食」は言うまでもなく「昼食」となります。
  
 午後は13時の≪作務≫に始まり、14時の≪坐禅≫、16時の≪晩課(ばんか)≫そして17時の≪薬石(やくせき)≫と続きます。「晩課」とは夜の勤行、すなわち「読経」中心のものであり、「薬石」とは「夕食」のことです。
 一日の“締め括り”は、19時の≪夜坐(やざ)≫でした。「夜の坐禅」となるわけですが、この時間ともなるとさすがに疲労もピークを迎えていたのでしょう。21時の≪開枕(かいちん)≫すなわち「就寝」の合図とともに、誰もが“爆睡”状態に入っていました。
 
       ☆   ☆   ☆

 以上が「一般参禅」(1997年5月と8月)の日程でした。結局、この「一般参禅」での一日の「坐禅回数」は、3時50分からの「暁天坐禅」、10時と14時からの「坐禅」、そして19時からの「夜坐」の4回でした。

 「坐禅」のとき「線香」が焚かれます。その本来の理由は時間を計るためにあったのでしょう。一本の線香が燃え尽きる時間を「一チュウ(いっちゅう)」といい、およそ40分から45分ぐらいです。「チュウ」の字は「火偏(ひへん)」に「主」と綴ります。永平寺では、この「一チュウ」すなわち一回当たりの坐禅時間が、40分と決まっていたようです。

 「坐禅」を開始しようとするとき、まず「予鈴」として鐘がなります。つまりは、これから坐禅をしますよ。そのための準備に入ってくださいというわけです。「単」に座って、座禅をするために脚を組み、全身を伸ばしたり、揺すったりしながら、身も心も“坐禅の態勢”を整えます。その数分後に「本鈴」が鳴って正式な坐禅が始まります。

 雲水のみなさんと共にした12月と翌年2月の「摂心」については、手元にその当時の日程表はありませんが、一日に「十三チュウ」つまり「十三回の坐禅」があったように記憶しています。まさしく“坐禅三昧”そのものでした。

 この「摂心」のとき、「坐禅」と「坐禅」の間を何度か「経行(きんひん)」という所作でつないだような気がします。経行とは足の痺(しび)れを解(ほぐ)すために、坐禅者相互が並んで歩くことをいいます。歩くと言っても亀の歩みのごとく、実にのろのろとしたものです。1分間に数十センチ程度しか進まなかったように想います。坐禅をしている時と同じように息を整えて歩くことから“歩く坐禅”とも呼ばれています。

 初めて「経行」を体験したときのことです。それは1987年12月の「臘八摂心」のときでした。
 私は直前までの「坐禅」による“脚”の“痺れ”がとれず、単から“立ちあがる”ことすらできませんでした。それでも何とか立ちあがって「経行の歩み」に加わったものの、座禅による脚の痛みと痺れと疲れのためか、何度も全身が崩れ落ちそうになりました。
 何とか周りの人々に支えてもらったのですが、全身が自分のものではないような気がして仕方ありませんでした。
 
 しかし、この二、三回後の坐禅で、私は“時間を超えた自己”ともいうべき“存在”に気付くことになるのです。(続く)



・自己をならうというは……(坐禅の魅力と限界:2)

2011年07月23日 16時20分34秒 | ■禅・仏教

 ≪作務(さむ)≫とは、さまざまな「作業」を意味しています。食事を作ることも掃除をすることも作務であり、「寝ること」も「寝作務(ねざむ)」といって、これも修行の一つです。
 しかし、私たち参禅者の作務のほとんどは「掃除」でした。これについては、不思議なそして感動的な体験があります。それは初めての参禅のときでした(1987年5月)――。
 
       ☆   ☆   ☆ 

 ……「作務」の時間となりました。指導役の雲水が、『今から掃除をしますのでついて来てください』と言って歩き始めました。すぐに想い浮かんだのが「箒で庭を掃く姿」(※註1)でした。となれば“気晴らし”になると思い、参禅仲間とともに(男性五、六人)ちょっと楽しい気分になりました。
 
 ところが辿り着いた所は「男性用の便所」でした。誰もが戸惑いと落胆の表情で顔を見合わせたものです。自宅以外の掃除それも「便所掃除」など、記憶の片隅にもありません。おそらく中学時代以来ではないでしょうか。ささやかな抵抗感と違和感とが全身をめぐり、“どうなることやら”と言うのが正直な感想でした。

 雑巾を手にした雲水は、淡々とした表情で「小便器の朝顔」を指さしました。そして『まずこれを綺麗にします』と言って、いきなり拭き始めたのです。誰もが呆気にとられて見ているだけでした。普段は墨染めの衣に坊主頭の若き雲水。その彼が黒っぽい作務衣をまとい、剃髪した頭を無地の手拭いで覆っています。

 「小便器」の外側を“すばやく”、しかし“確実に”拭き上げる動作はきびきびしており、結局、ものの二分ほどで一つを拭き終えたのです。手慣れた一連の流れには“無駄”がなく、何よりも、とても“自然”な印象を与えました。『今のような要領です――』。これまた淡々とした表情で雲水はそう結び、私たちに作務を促したのです。

 誰もが拭き始めたもののぎこちなく、無論、私も同様でした。しかし、たった今目にした雲水の“お手本”の印象は強く、私たちは誰しもすぐに“拭き上げる”という作務の世界に入っていけたような気がします。

       ☆   ☆   ☆

 作務を開始してどのくらい時間が経ったでしょうか――。自分ではまったく“時間の経過”についての意識がありませんでした(「参禅生活」のときは、腕時計はいつも外していました)。ふと気づくと、今にも顔や唇が「小便器」に触れんばかりに近づいていたのです。
 
 といって、“危ない”とか“汚い”といった感じは少しもありませんでした。“その一瞬”――私は自分が「便所掃除」をしていることも、「小便器の朝顔」を拭き上げていることも、そして“すんでのところで”顔や唇が小便器に触れていたことにも囚われることなく、今と言うこの時を“ただあるがままに生きている”という、そんな想いで実感していたのです。

 いつもと同じように呼吸し、何かを見つめそして耳にし、四肢を肢体をさまざまに動かせながら“今このとき”の中にいる……。自分の身体であっても自分のものでないような……そんな不思議な感覚に支配されながらも心地よく、何よりも自分と言うものを誇らしく感じることができました。同時に、“もう何もいらない”との満ち足りた想いに包まれてもいました。

 “無我無心”には到底及ばないものの、“ピュアで透明な意識”……そういう表現が相応しいのかもしれません。
 
       ☆   ☆   ☆   

 「作務」を終えて「控室」に戻るまでの間、私は「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」(※註2)の「現成公案(げんじょうこうあん)」(※註3)の一節を諳んじていました。大好きな部分です。

 仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
 自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
 ※註4(続く)

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆   

 ※註1:「庭」と言っても半端な広さではありません。永平寺の「敷地面積」は10万坪(330,000㎡)とされています。よく「面積比較」の引き合いに出される「東京ドーム」の敷地面積が約46,000平方メートルですから、その7個分ということになります。「グランド面積」だけであれば13,000平方とのこと。何とその25個分ということに。
 ※註2:道元禅師が20数年をかけて著わしたとされ、全95巻から成っています。
 ※註3:「正法眼蔵」の第一巻として出て来ます。ごく短い文章であるうえに語調のよい文体のため、ついつい惹きこまれて行くようです。
 ※註4:「万法(まんぽう)」とは、“万事万象”といった意味です。  

・雲水の振鈴に起されて(坐禅の魅力と限界:1)

2011年07月19日 00時18分21秒 | ■禅・仏教

 3月末の引越以来、未だに荷解きしていない段ボールが7、8個残っています。つい先日、ようやく覚悟を決めて整理を開始しました。

 その中で永平寺の『参禅のしおり』が出て来ました。「永平寺」については、本ブログ『永平寺の参禅修行-叱られるために(上)』(2011.4.14)で触れています。

 結局、永平寺の「参禅」には、1987年の5月、8月、12月及び翌1988年2月の4回参加したようです。はじめの2回は「一般参禅」であり、文字通り素人の「一般人」としての参禅でした。
 次の12月の「臘八摂心(ろうはちせっしん)」(※註1)と2月の「涅槃会報恩摂心(ねはんえほうおんせっしん)」(※註2)は、雲水に交じってのものでした。そのため「坐禅」は「僧堂(そうどう)」で、また朝課(ちょうか)という読経などは「法堂(はっとう)」において体験しました。 ※以下の「日課」は「一般参禅用」のものです。

       ☆    ☆    ☆   

 ≪起床洗面≫が3時30分となっています(冬期はこれより1時間遅くなったようです)。そんなに早く起きていたのだろうかと、正直言って驚きました。
 この「起床」の際の相図として、「振鈴(しんれい)」というものがあります。若い雲水が、手にした小さな鐘(鉦)を振りながら僧房の雲水や宿泊の参禅者を起こします。

 夏場といっても無論まだ空は暗く、“大本山”と呼ぶに相応しい開祖の仏寺はとにかく広いのです。何人もの若い雲水たちが必死の様子で走り回っていたのでしょう。一度その姿を見たような記憶があるのですが……。
 樹齢七百年もの杉の樹々に囲まれ、一切の世俗から断たれた静謐な佇まい――。その静寂を突き破るように振鈴が駆け抜け、朝がそして一日が始まるのです。“静”の世界の中でもっとも“動”を感じる瞬間です。

 この振鈴の開始から20分後の3時50分、≪暁天坐禅(ぎょうてんざぜん)≫が始まります。その日最初の、文字通り“明け方”の「坐禅」です。
 
 それが終わると、5時より≪朝課(ちょうか)≫が小一時間続いたでしょうか。「朝課」とは朝の「勤行(ごんぎょう)をさし、主に読経するものです。この後、ちょっとした自由時間があり、7時ちょうどから≪小食(しょうじき)≫つまり「朝食」となります。「食事」の作法の厳しさについては、ご紹介したブログのとおりです。

 とにかく、食事の進み具合は早いという印象でした。参禅者全員の食事の速さが揃うようにとの指導のため、横目でチラチラ見ながらというのが基本でした。といって辺りを見渡そうものなら、“何をきょろきょろ観ているのですか。ここは道場ですよ”と叱責されたでしょう。

 永平寺では、坐禅や食事をする「僧堂」に、「浴司(よくす)」と「東司(とうす)」(=便所)を併せた建物を“三黙道場(さんもくどうじょう)”としています。つまりは食べることも、排泄することも、そして坐禅することも経典を読むことも、その総てが修行というわけです。
 ことに「僧堂」では余計な音をたてたり、不用意な所作などを慎まなければならず、一挙手一投足に厳しい雲水の目が注がれていました。

 とても“再進(さいしん)”という“おかわり”をする余裕などありませんでした。仲間が「応量器(おうりょうき)」(=食器※註3)を上げ下げする動作を頼りに、その気配を聴き耳を立ててうかがっていたのです。そのため、普段マイペースでゆったりと食事をする女性にとっては、大変な“修行”となったようです。
 
 8時30分から≪作務(さむ)≫、10時から≪坐禅≫そして11時の≪日中≫と続き、12時ちょうどに≪中食(ちゅうじき)≫という「昼食」時間を迎えます。

       ☆    ☆    ☆   

 ※註:1 釈尊は35歳の12月8日、すなわち「臘」月(ろうげつ)の「八」日に菩提樹の下で悟りを開いたとされ、それにちなんでのものです。なお「摂心」とは、坐禅三昧といったものです。永平寺では12月1日から8日までの七泊八日あるようですが、私は前半の三泊四日の参加でした。
 註:2 釈尊の涅槃(死去)にちなみ、その教えに対する恩に報いるための坐禅修行ということでしょう。
 註:3 先にご紹介のブログ記事に詳しく書いています。
 

・南泉斬猫(無門關:1)

2011年06月20日 16時10分38秒 | ■禅・仏教

 禅の「公案」――「無門關」

 『無門關(むもんかん)』と言う禅の「公案」の教本がある。全部で四十八の「設問」が掲げられており、禅宗における指導の要諦が良く判る。

 「四十八則」総ての「表題」が、いずれも「漢字四文字」にまとめられ、いかにも “不立文字(ふりゅうもんじ)”  を旨とする禅問答の「教本」に相応しい。

 その「第十四則」に、「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」という筆者が好きな公案がある。
 南泉(なんせん)と言う禅僧が、修行僧達の対立の根となった「猫を斬り捨てた」という話だ。

 おそらく修行僧達は、“猫に仏性ありや否や” といったようなことを喧々囂々(けんけんごうごう)と論じ合っていたのかもしれない。そこに通り合わせた南泉が、彼等の言い争いの元すなわち “執着” の因となった猫を斬り捨てたというもの。

 この「猫を斬り捨てた」ということに対して、どのように考えるかと言うのが「公案」の趣旨であり、編者の無門慧開(むもんえかい)禅僧の狙いでもある。

 想うに南泉としては、修業僧達に対して、

 『ごちゃごちゃ言う暇があるのなら、己の修行に精を出せ

 と言いたかったのかもしれない。

 あるいは、

 『仏性があるとかないとか「猫ごとき」をもちださなければ論じることができないのか

 と、歯がゆい思いで “なじり” たかったのかも。

 真偽のほどは判らないが、猫を斬り捨ててまで伝えようとしたものがあったことは確か

 ……だが実は、そう言い切ってしまっては身も蓋もない。修業のための「公案」は、実はここからが本当の意味を持つ。

 つまり、南泉が猫を斬ったところから、この「公案」の本当の「問答」が始まると言える。

 そうなれば、その「答え」は無限に出て来ることになる。諸兄もしばし熟考熟慮を……。

 筆者のレベルでは、次のような答えが……。

 

            ★

 『その猫を斬ったところで、猫に仏性ありや否やという論議の執着の元が消えるわけではない』。

 またこうも――、
 
 『その猫を斬っても、猫なるものは他に数えきれないほど同種がいる』。

 さらに――、
 
 『仏性の有無の対象は、同じように犬や猪や鶏という動物にも当てはまる。猫だけに固執するのは無意味である』。

 したがって――、

 『猫は斬るまでもなかったのでは』……と。

            

 無論、稀代の高僧として名高い南泉のこと――。

 『何を今さらそのような小賢しいことを。口に出すのも恥ずかしいわ』

 と一蹴するだろう。南泉は、そのようなことを百も承知の上で、猫を斬り捨てたに違いないのだから
 
 だが、夕刻戻った南泉の高弟・趙州(じょうしゅう)は、「斬られた猫」の話を聴いた後、「頭に草履を載せて立ち去った」と無門慧開は述べている。つまりは、「猫を斬るなど」本末転倒と言いたかったようだ。

 それに加えて、無門慧開も『南泉趙州にかかれば斬り捨てられかねなかった』と、きわどいことを示唆している。

 しかし、南泉は南泉で、草履を頭にのせて立ち去った趙州に対し、次のように言いたいのかもしれない……。いや、是非ともそう言って欲しい……と筆者としては秘かに想うところだ。

 すなわち――、

 『趙州よ。頭の上だろうが鼻の頭だろうが、草履を載せることは至極簡単なこと。三歳の童子にもできるではないか。それよりも、「斬りたくもない猫」を斬らざるをえなかった拙僧の気持ちと、「斬られた猫」の意味を推し量ってみよ』……と。

 いや、こうも――、

 『理由が何であれ、趙州よ。“斬る” というそのことに一瞬でも “心が動かされた” のであれば、それはもう “禅なるもの” がもっとも忌み嫌う “執着” というものではないか。まだそのようなことに囚われておるのか……。いや、お前のことゆえ、まさかそのようなことはあるまいが……』
 
 ……と、そこまで考えてはみたものの、どうもしっくりこない。というより、南泉趙州から鼻であしらわれるような気がしてならない。

 南泉は言うのかもしない――、

 『拙僧がそのような妄言を吐くとでも? それこそお前を斬って捨てたいものだ』

 と物騒なことになりかねない。何とも厄介な問答に迷い込んだものだ。やはりここは「不立文字」たる禅宗の教えゆえ、“沈黙” こそが無難な答えかもしれぬ。

 要するに、『公案には模範解答など一切ない』のである。

 はてさて、諸氏の解答やいかん……。

 

          ★★★ 猫一匹  ★★★

 ――あたくしも、ひと言わせていただくわ。猫を斬るなんて、どうかと思うの。

 猫についてあれこれ論じ合っていた修行僧も修行僧ね。猫は猫、猫以外の何者でもないもの。

 どうして “あるがまま”……“そのまま”に、“猫を猫として” 黙って見ていなかったのかしら。大山鳴動して猫ちゃん一匹を斬っちゃった……ってわけなのね。まあ。可哀そう。……といっても、可哀そうなのは、斬ったお坊様と、その原因となった修行僧と思うの。 

 “浮かばれない” のは猫ちゃんだけではなかったみたい! ああ。やだ❢ やだ❢ 猫ちゃんのをとってあげたいくらいだわ。……ね~え? あなたもそう思うでしょ?

 ねえ? そうでしょ? ねえってば……。聞いてる? 

 え? 何? 黙っているのは、不立文字ってわけなの? ねえってば…… あれっ? 眠ちゃったの?  

 

 ※注: 「無門關」とは中国宋代(西暦1200年頃)に編纂された禅宗の「公案集」ともいえる書物です。著者は無門慧開禅師。「公案」とは、いわば「禅問答」のための問題(設問)ともいえるでしょう。その問題に対する「解答内容」にこそ、解答者の悟りの境地が表れるとされています。



若い雲水の叱責(叱られるために―下)

2010年04月20日 20時04分43秒 | ■禅・仏教


 参禅者の食事の世話や「作務(さむ)」(※註1)の指導は、三、四人の雲水が担当していた。だが吉田さんの叱責役は、いつも決まった雲水だった。その雲水に対し、何人かの参禅者(私もその一人)は、正直言ってあまりよい感情を持つことができなかった。みんなの想いは、以下のようなものだったろうか……。

 ……雲水といっても、大学を出たての世間知らずの青年にすぎない。その彼が、何十人もの社員やその家族のために日夜苦闘している五十歳半ばの中小企業の経営者に、あのような言い方をしてよいものだろうか。曹洞宗において、いかに「作法」が重視されるとはいえ、吉田さんは故意に間違えたわけでも、真摯な態度を欠いたわけでもない。

 仏道の大きな慈悲心と、何ものにも執着しない禅の奥義からすれば、作法における一所作のミスなど、取るに足らないものだ……。

 ……歳を重ねるにしたがって、人はどんなに注意しても忘れたり、間違えたりするもの。それは免れることのできない“生老病死”の一局面ではないか。あの雲水には、年配者を思い遣る気持が欠落しているように思う。“叱る”そのことが悪いのではない。問題は“叱る側”の心のありようといえる……。

 三泊四日の参禅修業が終わる最後の夜がやってきた。明日の昼頃には、永平寺の山門をくぐって娑婆に戻ることができる……。控室はその空気に包まれ、参禅者全員がささやかな解放感に浸り始めていた。そのとき、吉田さんが連れの若い社員とともに改まった態度で挨拶を始めた。

 『叱られてばかりの私に、みなさんは呆れたり、不愉快な思いをされたりしたことでしょう。今回で三回目の参禅となるのに、我ながら作法の憶えが悪いと思います。仕事のことは一回聞けば理解でき、絶対に忘れることはないのですが。それなのに、永平寺に入った途端「駄目人間」になってしまって、叱られてばかり……』

 吉田さんは、微笑みながら若い社員の方に視線をやった。

 『でも本当のことを言えば、私がここに来る理由は“叱られるため”と言えるでしょう。会社での私は、若い社員や下請けの人をよく叱ります。無論、理不尽な叱り方や憎悪の感情をもって叱ることはありません。それでも、叱った後はいつも反省しています。“本当に叱る必要があったのだろうか”。“叱り方や叱る言葉は適切だったろうか”。“そもそも自分には、人を叱る資格があるのだろうか”……と』

 そう言う吉田さんには、作法を間違えておどおどしている「参禅者」の表情はまったくなかった。明らかに「企業経営者」としての威厳と力強さが感じられ、その口調や視線の配り方には風格さえ漂っていた。

 『ここで叱られるたびに、私は社員や下請けの人々を叱った自分を想い出し、反省させられるばかりです。今の私を叱ってくれるのは、この永平寺しかありません。ここで叱られなかったら、私は自分というものを深く掘り下げて見つめることは無いのかもしれません。
 人は誰であれ、“一方では叱り、他方では叱られる”という“巡り合わせ”、いえ“使命”を担っているような気がします。いつも私を叱るあの雲水にしても、先輩の雲水から叱られていることでしょう。そしてその先輩の雲水も、また別の雲水から叱られているはずです』

 『私がここに新入社員を連れて来るのも、惨めに叱られている自分の社長をしっかりと見つめ、“叱ること”また“叱られること”の意味をじっくり考えてもらいたいからです。そしてこの彼が会社に戻ったとき、ここ永平寺で見聞したことをそのまま他の社員に伝える役目を担っています。そのための「同行者」であり、「報告者」なのですから。ある意味では“叱られ役”の私より大変な役目かも知れません』

 誰一人、口を開くことはなかった。参禅者の眼差しは、一点となって吉田さんの口元に注がれていた。

 “自分はなぜこういう気付きができなかったのだろうか……”
  私は、ただひたすら自分の不明と不遜を恥じるほかなかった。(了)

   

※註1:作務は、そのほとんどがトイレ掃除。毎日1時間以上徹底的にやらされました。というより、誰もがその作務に真剣に励んだものです。

 


永平寺の座禅修行(叱られるために―上)

2010年04月14日 19時46分12秒 | ■禅・仏教

 

 ニ十余年前、初めて福井の永平寺に“坐禅修行”に訪れた時の話だ(※註1)。
 十人ほどの参禅者の中に、大阪から来た二人の男性がいた。名前は忘れたが、一人は五十歳代、もう一人は二十代の前半だったろうか。二人の会話の様子から、初めは父親と息子と思っていた。

 だがすぐに判ったことだが、二人は中小企業の「社長」とその会社の「新入社員」だった。その会社では、毎年、一人の新入社員が社長の“坐禅修行”に同行することになっているという。会社は「機械工具メーカー」のように記憶している。

 この社長、名前を『吉田さん』としておこう。とにかく、事あるごとに「指導僧」から叱られてばかりの人だった。指導僧といっても、永平寺では一番末席の“雲水(うんすい)”であり、その年の春に大学を卒業したばかりの、まだ二十三、四歳の若い青年だった。

 吉田さんは、ことに食事中に叱られることが多かった。三度の食事のたびに、何か一つは「作法」を間違えていたように思う(※註2)。そのたびに、若い雲水から容赦ない叱声が飛んだ。

 ――何度教えたらすむのですか。
 ――本気で修業する気はあるのですか。

 最初は気の毒に思っていた他の参禅者も、吉田さんがあまりにも叱られることが多いので、半ば呆れたような受け止め方をしていたように思う。そのため、吉田さんが一度も叱られないまま食事を終えたとき、誰もが心の底からほっとしたものだ。「控室」(※註3)に戻ったとき、だれからともなく小さな拍手が湧き起こった。

 最後の夜となった三日目の夕食。その食事でも、やはり吉田さんは作法を間違えて雲水に叱られた。控室に戻ったとき、たまたま眼が合った私に、彼は呟くように言った。
 『みなさんには、ご迷惑ばかりおかけして。子供の頃から、とにかく格段に“物覚え”が悪かったものですから……』

 “……それなのに、社員何十人もの中小企業の経営者が務まるとは……”。
 他の参禅者の偽らざる気持であり、私にしても同じだった。だが“物覚えの悪さ”を滔々と語る吉田さんの表情には、一縷の暗さも卑屈さもなかった。
 
 語り終えた吉田さんは、いつものように「新入社員」の青年と言葉を交わし、自分の練習用にと持ち込んだ「応量器(おうりょうき)」(※註4)を包んだ布を解(ほど)き、作法を再確認するように畳の上に広げた。そこへ別の参禅者が「雲水役」となって、応量器に“食事をつぐ”真似を始めた。

 この“真似事”は、食事後の控室での日課であり、吉田さんの食事作法の練習相手を務めることは、参禅者全員の“暗黙の奉仕”だった。

   

※註1:『一休の頓知問答(上)』参照。
※註2:食事の作法は、とにかく“こと細かく”決められています。茶道の作法と同じようなものと考えると、その大変さが理解できます。
※註3:ここで寝起きし、また休憩をとった。男性と女性とは、階が異なった「控室」に分けられ、一切行き来することが許されませんでした。また永平寺の敷地の外に出ることは許されず、家族の死亡以外は、電話をすることもその取次も禁止されていました(この時代、携帯電話はありません。あったにしても、無論、使用禁止となっていたでしょう)。
※註4:「応量器」とは「食事用の器」を意味する曹洞宗での呼び方。「入れ子式」の大中小5種類の器を食事の器とするもの。一番大きな器を「頭鉢(ずはつ)」といい、これはご飯やお粥用の器。お釈迦様の頭の形に似せたものとされ、直接口をつけることができません。そのため、「お粥」のときは「匙(さじ)」で食べます。器は本来、無垢の「欅(けやき)」に漆塗りというのが正式のようですが、残念ながら参禅者用はプラスティック製でした。

 


◎『眼横鼻直』(がんのうびちょく)―禅語2

2010年01月06日 22時27分28秒 | ■禅・仏教

 道元禅師の想い

 文字どおり、“眼は横に、鼻は縦に(直に)” と読み、眼と鼻の “有り様(ありよう)” をそのまま表現している。意味は、“当たり前のことを、当たり前としてそのまま素直に受け止める” というもの。

 この言葉は、中国での修行を終えて帰国した道元禅師(『一休の頓知問答』参照)が、その成果について語ったものとして知られている。

 入宗した道元は、生涯の師である如浄(にょじょう)のもとで四年の修行を積んだ。だが彼が学び取ったものとは、つまるところ、“二つの眼は横に並んでついており、鼻はまっすぐ縦についている” ということであったと。

   つまりは、そのことこそが “仏法の真髄” であるとする。

 そのため、“経典など何一つ持ち帰ることなく、手ぶらで母郷(母国)に還って来た” と述べている。道元は、このことを、『空手還郷』(「くうしゅげんきょう」又は「くうしゅかんごう」) と表現した。

 実際に道元が、一巻の経典も持ち帰らなかったかどうか、残念ながらそこまでは知らない。だがその真偽のほどなど、どうでもよいのかもしれない。

 なぜなら、“当たり前すぎるほど” のことを、かくも “愚直なまでに平易” に言いきったことこそ、「禅語」あるいは「公案」的には、計りしれないほどの意味を持っているからだ。

 第一に、道元が『眼横鼻直』と気づいたその瞬間、彼は“大悟した” のであり、道元一流の言い方をすれば、“身心脱落(しんじんだつらく)” したことになる。

 第二に、洋の東西を問わず、人間存在の “表象” ともいえる「眼鼻」を、これほどまでに単純明解に言いきった哲人を私は知らない。

 大悟の域の高僧すら遥かに及ばない“透徹した眼力” であり、的確に言葉を選び抜いた道元の “霊性” には “ただならぬもの” が感じられる。語ることさえ憚られるほどであり、これ以上の言葉は控えるべきかもしれない……。


             ★★★ ささっと…… ★★★

 ――ではわたくしが代わりに……。

 ねえ? この『眼横鼻直』って言葉。横にすっと糸を引くような「切れ長」の「眼」をイメージしていないかしら? また鼻はまっすぐ、すっと高い方がいいってニュアンスがあるみたい。「縦」の字を避けて「直」の字を使ったところに、その気持ちが出ているように思うの。

 それに前回の『喫茶去』にしても、わたくし的には、お茶を飲んだら「さっと立ち去る」という意味が断然好き。

 ……『新年会』でも『賀詞交歓会』でも、およそ「宴会」と名の付くものは、終わったら潔く……二次会、三次会とやらには、いささかも執着することなく……、さっと……、さっさと……帰る。

 余計なことは、言わない……そしてしない……。ねえ? あなたもそう思うでしょ? ねっ! 

 えっ? 聞いてる? ね~え。 ……やだあ~。 眠っちゃったの? 

 こういうときだけは、さっと……ささっとって……わけなのね。

 やだ、やだ。あたくしも、ささっと帰ろう…………。

 

  ◎2020年11月30日 夜 加筆修正 花雅美 秀理


『喫茶去』(きっさこ)-禅語1

2009年12月27日 11時55分04秒 | ■禅・仏教

 お茶を飲んだら、さっさと帰る?!

 私が初めてこの言葉を知ったのは、坐禅を始めて間もない頃(前回の『一休の頓知問答』を参照)、ある寺に掲げられた大きな額の中だった。

 さっそく調べたところ、“お茶を飲んだら、さっさと帰る” という意味とあり、それ以上の詳しい解釈は特になかった。そのため、自分なりに次のように受け止めていた。

 ……どのようなことであれ、“あること” を行うときは真剣に取り組み、それがひと段落ついたら、もう “そのことに執着することなく心を離れ、次なる物や事に全身全霊を傾ける”。

 つまりは、“お茶を飲む” ときは飲むことに集中し、飲み終えたら、身も心も「お茶」のことから離れて速やかに立ち去る……と。

 『喫茶去』という “字面の並び” についても、気に入っていた。「茶」の字を間に挟んで、「喫」と「去」が、前後いや左右に分けられている。

 かたや「……茶を喫する」、かたや「その茶から離れ去る……」。まさしく道元禅師の言う “前後裁断” であり、いうまでもなく “一切の物や事に執着しない” に通じるものであると……。

              ★

 しかし、しばらく後にこの「」には「置き字」としての働きがあり、「喫茶」の二文字の語調を整えながら、意味を強調するための「字」であることを知った。

  つまり、本来は「去る」と言う意味を持たないということだ。
 結論を言えば、ごく単純に “茶を喫する”、すなわち “お茶でも一杯” という意味のようだ。

 この『喫茶去』は、中国・唐末期の趙州(じょうしゅう)禅師に由来する。

 趙州は事あるごとに、用件はさておいて『まあ、お茶でも一杯どうぞ』と言って、誰彼となく勧めたという。つまりは「行住坐臥」の一例としての「挨拶」だったのかもしれない。その逸話として、以下のような三人に対する “喫茶去 ”がある。

             ★

 趙州のもとに、二人の僧が訪ねてきた。趙州はその一人に問う。

 趙州「以前、ここに来たことはあるのか?」
 甲僧「いいえ」
 趙州「喫茶去」

 さらに、趙州はもう一人の僧に問う。

 趙州「以前、ここに来たことはあるのか?」
 乙僧「はい。あります」
 趙州「喫茶去」

 以上に対して、院主が趙州に訊ねた。

 院主「初めてここに来た者にも、以前ここに来た者にも、師は同じように “喫茶去 ”としかおっしゃらなかったようですが、なぜでしょうか?」
 趙州「院主よ」
 院主「はい。なんでしょうか?」
 趙州「喫茶去」                            
                                 
                  ★  ★  ★
  

※ 現在この『喫茶去』は、禅語などにおいて “お茶を飲んだら、さっさと立ち去る” という意味にも解釈されています。
 したがって、私が冒頭で述べた「受け止め方」は、決して間違いではなかったようです。

・一休の頓知問答―(下)

2009年12月22日 23時10分51秒 | ■禅・仏教

 

 みなさんの答えはいかがでしたか……。

 ……言うまでもなく『虎を捕まえてみよ』との問いは「公案」に他ならない。

  さて、“名案を思いついた” 一休少年は縄を手にし、足利将軍に向かって言い放った。『私がこの縄であの虎を縛り上げますから、この屏風から虎を追い出してください』

 義満を一蹴したのは言うまでもない。

 しかし、この『虎退治』のエピソードには、次のような「別バージョンの答え」があったように記憶している。

 “名案を思いついた” 一休少年は、まず「墨と硯」を用意してもらい、屏風の絵の「縁」全体に黒々とした太い線を入れ、次にその縁の上から下に向かって縦に何本もの線を描いた。つまりは「屏風そのものを檻」とし、その中に “虎を閉じ込めた(=捕獲した)” というわけだ。

 果たして、一休少年が出した上記の「答え」は、“悟り” の “域” からみて如何ほどのものだろうか。いずれにしても、「公案」に対する「答え方」すなわち「考え方」の中に、その人の “悟りの度合い” を読み取ることができる。

 “名案を思いついた” とは、禅的に言えば、“執着から脱した” ことを示唆しており、“悟り” にいたる第一歩と言える。とはいえ、それが “名案(=悟りの兆し)かどうか” の判断は容易にできるものではない。

 何よりも、“悟りの度合い” を判断しうる「試験者」は、「大悟の域の高僧」ということになるだろう。百人百様の答えを、公平かつ公正に判読しながら裁定していかなければならないからだ。ここに「公案禅」の真髄と奥の深さがある。(了)

 


      ★ ★ ★  野に放たれた虎? ★ ★ ★

 ――ねえ。わたくし、どう考えても一休さんの答えに納得できないの。

 “屏風から虎を追い出す” だなんて、賛成できないわ。それこそ “野に放たれた虎” が、おとなしく一休さんに縛られるなんて、とても考えられないもの。少しもじっとしていないはずよ。駆け出したが最後、猛烈な勢いで跳ねまわり、あっと言う間に何処かに姿を隠してしまうでしょうね。危険極まりないって、このことだわ。それを簡単に捕まえて縛り上げるだなんて、あまりにも楽観的すぎません?
 
 今の時代であれば、間違いなく警察や自衛隊が出動するはずよ。道路を封鎖して人や車の通行を止め、近隣の人々を避難させるでしょう。相当の規模の避難が必要になると思うの。お世話するボランティアの人に、お布団や毛布の用意。食べ物だって必要でしょ? それでも虎が捕まればまだしも。1週間や10日では解決しないかもしれないわよ。マスコミや野次馬でごったがえして、それこそてんやわんや……。

 ……だからそうならないためにも……つまりは、安全第一を考えて、一休さんと足利将軍のお二人が「屏風の中」に入るべきじゃなかったのかしら……。


・一休の頓知問答―(上)

2009年12月17日 20時25分16秒 | ■禅・仏教

 曹洞宗、臨済宗、黄檗宗

 日本の「禅宗」はほぼ三つの宗派に大別される。道元(どうげん)が伝えた「曹洞宗(そうとうしゅう)」、栄西(えいさい/ようさい)による「臨済宗(りんざいしゅう」)、そして臨済宗から分派した「黄檗宗(おうばくしゅう)」。

 いずれもその始祖は中国であり、「曹洞宗」と「臨済宗」との最大の違いは、基本的な「修業方法」にあるようだ。

 「臨済宗」は、「公案(こうあん)」という、先人の言動や逸話等を「問題」として解かせることに重点があるとされる。修行僧に「公案」を考えさせることによって、特定の思想や哲学に“囚われている心(=執着)”からの脱却をめざし、その結果として “悟り” を開かせようとするのだろう。

 これに対して「曹洞宗」は、ひたすら “坐禅する” ことに重点をおく。これを “只管打坐(しかんたざ)” と言い、「只管」とは「ひたすら」という意味がある。ただひたすら坐禅することによって執着を解き放ち、“悟り” の境地に至らせようとする。無論、「臨済宗」にも「坐禅」修行はあり、また「曹洞宗」にも「公案」はある。

 実は私も二十数年前、福井県の永平寺(曹洞宗総本山)に四、五回「参禅」に行った。いずれも三泊四日だったが、外部との接触を断たれた座禅三昧の日であり、合間に作務や読経があった。

 最初の参禅から一年間ほどは、自宅でもオフィスでもおおむね「作務衣(さむえ)」で通し、朝の坐禅を日課としていた。また禅の「公案」として名高い『無門關(むもんかん)』は、この当時の愛読書となっていた。

 漫画やテレビでお馴染みの『一休さん』は、「一休和尚」すなわち「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」という実在の臨済僧を少年に置き換え、「公案」を「頓知(とんち)」として子供向けのドラマにしたようだ。

 その昔、何かの機会に漫画やテレビの『一休さん』を観たことがあり、その中にこういう場面があったように記憶している。

 それはある「橋」の袂に、『このはし通るべからず』という「立て札」があり、往来の人々が困っていた。そこを通りかかった一休少年は、『“はし”を通らなければいいのですね』といって、堂々と橋の “真ん中”を歩いて行くというものだった。「頓知」以前の言葉のお遊びだが、“” というものについてのヒントがある。  

 次もテレビの『一休さん』にあったと記憶している。その話には、少し深い「頓知」が隠されているかもしれない。
 
 将軍・足利義満が一休少年に向かって、屏風に描かれている『虎を捕まえてみよ』というもの。『夜になると虎が抜け出して暴れまわるので困る』というのが義満の言い分だった。 

 さて、一休少年はどうしたでしょうか? みなさんもぜひお考えください。