『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・日照と採光

2011年10月24日 05時09分19秒 | ■花鳥風月

 

 

 

  2003年の2月。生まれて初めて、「携帯メール」を始めたばかりの頃――。

  当時、「インテリアコ-ディネーター」の受験指導をしていたMI嬢から携帯メールを受信した。

  『今、「劇的ビォー・アフター」を観ています。私、これ好きなんです! 先生質問があります。日照と採光とはどう違うのですか? 同じ光ではないのですか?』(原文のまま。以下同じ。文字強調は筆者)

       ☆   ☆   ☆ 

  日照と採光……何を判りきったことを。こんなことをよくも平然と尋ねて来るもんだ。と想いながらも、メッセージから伝わってくる彼女独特の“明るさ”と“屈託のなさに”ある種の癒しのようなものを感じ、思わずニヤリとしていた。なにしろ彼女は、筆者が『天然の桜鯛』と渾名を付けた御仁。アラサーであるにもかかわらず、少女のような天然系キャラの雰囲気を持っていた。そのため、筆者の娘(当時、中学生)は、彼女を女子大生と想ったほどだ。

  だがその一方、茶道、華道それに書道を嗜むため、ピンとした背筋に落ち着いた立ち居振る舞いがとてもよく似合っていた。それだけに「天然系キャラ」とのギャップには、独特の個性と魅力があった。

 ともあれ、「定義的な説明」であればたやすい。しかし、それでは芸がない。返信は半ばからかいながら……と想った、

 だが指先がピタリと止まってしまった。 なぜだ……なぜすんなりと言葉が出て来ないのだろうか。……日照と採光……。いったい何だろう。正直言って“とまどって”いた。いや“うろたえ”始めていたといってよい。“面と向かって”の質問ではなかったことにほっと胸を撫で下ろしながら、メールのありがたさを大いに感じていた。

  今まで何年にも渡って何十人もの塾生達に教えて来たはずなのに……。ともあれ、何かメッセージを送らなければと、ようやく指先を動かしていた。 

……日照採光の文字の違いをよく見つめてごらんなさい。採光の「採」とは、「採り入れる」と言うニュアンスがありますね。アクティブ、つまり行動的=能動的ということです』

 

  とりあえずそこまで送信しながら、改めて両者の違いを考えようとしていた。そして第2信として、やっと次のように綴った。

 

  『……日照という字をよく見てください。日が照るですね。日が照ると、どういうことが起きますか? ……そう、暖かいし、温いし、眩しいし、気温の上昇に伴って、結露などもしにくくなりますね。また日が照ることによって殺菌効果も出るでしょう。では採光の方は……本に頼ることなく、自分の頭で考えましょうね。ファイナルアンサーの制限時間は、あなた自身にお任せしますから……。』

 親指だけの慣れない入力に悲壮感が漂い、送信してはみたものの、頭の中は少しも晴れることはなかった。

  

 何だろう? そもそも「日照」とは? そして「採光」とは? 自分でも久しぶりに真剣に考え抜く“いっとき”だった。そして、ようやく考えがまとまりかけたとき、彼女からの返信メールが届いた。

 

 

 『はあ~い、監督! 頑張りま~す(^^)v。今朝、日産の椅子のCMを見ましたよ。昨日、久山温泉に行ったら、床は乱張り、タイルは小口、幅木は水場のせいか800mmくらいありました! そしてお風呂は桧でした。建築って楽しいなあと思いました!』  

 

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 ※「乱張り」:敷石工事の際などに、材料の敷石を無造作に割り、その際の「偶然性による割れた形」を基に敷石を敷き詰めていくもの。「乱に貼る」といった言い方もあります。

 ※「小口タイル」とは、60mm×108mmの寸法のタイル。 

 ※「幅木」とは、「床」と「壁」との取り合い部分に壁に沿って貼るもの。木製や塩化ビニール性のものなどがあり、床に近い壁面の保護の意味があります。しかし、この場合は800mmつまり80cmありますから、「幅木」というより、「腰壁」ということでしょう。 

 

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梅雨滂沱たる龍安寺石庭

2009年08月02日 12時47分54秒 | ■花鳥風月

 京都での院浪のときを

 死者・行方不明者を出した一週間前の福岡豪雨。正直言って、これほど大変な事態になるとは思ってもいなかった。そのため、豪雨の様を冷静に受け止めながらも、三十数年前の龍安寺(京都)での雨の『石庭』を想い出していた。

 大学卒業の二年後、京都の或る大学院受験を目指して、東京から京都に移り住んだ。八畳一間の一室は、葵祭でおなじみの下鴨神社のすぐ近くにあり、散策を兼ねてたびたび俳句の吟行に出かけた。

 その日も何とか俳句をものにしようとの気持であり、龍安寺に入ったのはお昼過ぎだった。今にも降り出しそうな梅雨空のせいか、数人の観光客しかいなかった。そしてやはり、雨は静かに降り始め、気づいたときには一人ぼっちとなっていた。

 やがて雨はもの凄い豪雨へと変わっていった。“沛然(はいぜん)”とは、まさにこのことを言うのだろうか。そんなことを考えながら、たった一人「方丈」の廊下に座り続けていた。眼の前にあるのは、石庭の石を叩きつけながら滝のように降り注ぐ雨であり、白砂にただ吸い込まれていく滂沱の雨だった。

 それからさらに一時間以上経っただろうか。石と砂と雨だけの中にいた。気温が下がって寒気を覚え始めたものの、立ち去る気にはなれなかった。もはや作句のことは頭になく、といって無心にも無想にもなれなかった。

 視界の端に何かが動いた。一人の僧が様子を見に来たようだ。豪雨の中、たった一人で二時間も石庭に見入っている青年を奇異に思ってのことだろう。おかげで我に返った。

 帰ろうとして立ち上がった瞬間、何とも言えない清清しさに満たされ、過ぎ去った時の流れがとてもかけがえのないものに感じられた。

            ★

 龍安寺石庭は、世界的な人気スポットとなっている。誰しも一度はその写真を眼にしたに違いない。だが息を付く間もないまま雨筋に叩かれる石庭など、そう眼にすることはないはずだ。

 結局、京都にいた一年間に七、八回は龍安寺に行っただろうか。……夏の真っ盛り、白砂の眩さと暑さに耐えながらの炎天下の石庭も悪くはない。……凛とした寒さの中、緩やかに舞い降りる牡丹雪が、庭石と一体になる瞬間も捨てがたい。だが “沛然と降りしきる滂沱たる梅雨石庭” は、今だに筆者の『京都ベストシーン』の中でも群を抜いている。

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