『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:下

2014年12月27日 00時07分31秒 | ●演劇鑑賞

 

.『女の一生

  平淑江(文学座)さんの“持ち役”

   日本の演劇界を永くリードして来た劇団『文学座』――。無論、今日においてもその地位は不動と言える。今回、ひょんなことから「会員チケット」が筆者に廻って来た。

   この『女の一生』のヒロインは、杉村春子さんの “持ち役” だった。現在は、平淑江(たいらよしえ)さんが演じている。さすがにプロの役者陣であり、演出だ。「音響効果」や「照明」も申し分ない。むしろ「台詞」の “声の音量” はもう少しあったらと思ったほど。だが、ゆっくりした舞台進行のため、しっかり把握することができた。

   少し “声を荒げた” 場面が二度ほどあったろうか。無論、無理も無駄もない “的確で効果的な声” であり、“言葉” だった。つまり、それだけ “自然体の会話” に近い「台詞回し」ということになる。そのため「観客」は、「舞台上の登場人物」と同じ気持ちで 、“舞台が物語る時代状況や人間関係の変化” に、抵抗なく入って行けたようだ。

            ☆

  “をんな” を演じ分ける “声” と “所作”

   この「舞台」が表現しようとした “時代” ――。それは、明治38(1905)年正月から、明治42年春、大正4(1915)年夏の夜、昭和3(1928)年仲秋の午後、そして昭和20年(1945)2月の節分、さらに終戦後の同年10月の夜へと進んで行く。つまり「ヒロイン」は、「40年余」の人生を舞台上で生きたことになる。

   “さすが” と思ったのは、主演の「平淑恵」さんの “” だった。「堤家」に拾われた際のヒロイン〈娘・布引けい〉は、年齢的には「二十歳前後」だったのだろう。現在、さんはちょうど「還暦」を迎えたばかり(1954年10月生まれ)。

   その「彼女」が演じた〈娘・けい〉の何とも “愛らしい” こと。特にその “弾んだ声の初々しさ” に驚いた。「別の若い女優」が演じているのかと思ったほどだ。とても還暦とは思えなかった。まさに、“役者の声は、舞台における最高の音楽” の優れたお手本と言える。

   しかし、もっと驚いたことがある。それは、ヒロイン〈けい〉が結婚して〈堤けい〉となり、“舞台の時代” が進む中で、さんが見事にその “年相応の変容” を表現したからだ。

   それは、無論 “” だけではなかった。着物の着こなしから、歩き方、座り方、湯茶の接遇、手や指先の仕草にいたる一連の “所作” によって、 “女としての慎み深さ” や “巧みに歳を重ねた雰囲気” を演じ切っていた。何と言っても、洗練された着物の “着こなし” に強く惹かれた。 

   その中で、確実に “娘” から “妻” そして “母”、さらに “「家」を守るために、実業に精を出さざるをえなかった女” へと変貌を遂げていた。最後は、秘かに想いを寄せていた夫の弟と、敗戦後の焼跡の中で再会する。

  座敷の様子や衣装の変化に加え、そのときどきの “歳を重ねた” 〈けい〉という “女” を、さんは、その「声」や「所作」によって巧みに演じ分けていた。代表的劇団のベテラン役者と言ってしまえばそれまでだが、凄いの一語に尽きる。

   筆者の「座席」が、一般的な「学生演劇」のように、役者の眼や口元の表情が見えるほど近ければ、 “その一瞬、一瞬” をもっと鮮やかに感じ取れただろうに。……それにしても、恐れいりました。

   今回の「福岡公演」の実現には、平淑江主演の『女の一生』を観たいという、福岡の「演劇ファン」が働きかけたというのも頷ける。筆者も、彼女が出演していた時代劇シリーズは観ていた。昔も今も優れた「映画」や「テレビ」は、名優と言われる「舞台役者」が支えている。

        ☆

   筆者はこの十年ほど、平淑江さんが出演した映画やTVドラマは観ていない。それなのに、こうして原稿を綴っている今も、その “” が甦って来る。気品のある清澄な声であり、芯のある強さの響きの中にも、独特の “をんな” の甘さや柔らかさを持っている。

   JAZZ調で、「As time goes by(時の過ぎゆくままに)」や「Fascination(魅惑のワルツ)」を歌ってくれたら……と、つい余計なことが頭をよぎった。

   彼女の出演する「映画」や「TVドラマ」を、急に観たいと思った。

 

6.天使は瞳を閉じて

  今回「8人」もの〈天使〉役を揃え、見応えのある「天使」集団の楽しさを見事に演じ切っていた。たった一人の男子の〈子天使〉を除けば、あとは「加藤真梨」嬢の〈天使1〉と「瀬戸愛乃」嬢の〈天使2〉に、5人の〈女の子天使〉。

  白い衣装に髪飾りの「花冠」が、彼女達の “キュートな仕草や動き” と相まって、品位を湛えた、しかも “ほのかなおんな” を感じさせる素敵な「天使」を創り出していた。        

         ☆

 音響は、ときに役者の “言葉や声” の魅力を」奪う

   だが惜しいことに、“音響” に課題が残った。“不用意な音楽・足音・叫び声” が気になった。最大の難点は、全般的に “音量(ボリューム)” が大きすぎたことにある。

   中でも、開演前の「バスドラム」の効いた音楽は、明らかに “耳障り” だった。しかもそれが「日本語の歌詞入り」ときては、いっそうその思いを強くした。これから “舞台演劇の最高の音楽” とも言える “役者の声(台詞)” が始まると言うのに……。

   そのため、“どのような愛らしい天使が出て来るのだろうか” といった “ワクワクドキドキ感” を一瞬にして奪ってしまった。

   「天使」達が登場した後も、“耳障りな音響(音楽・音量)” に加え、 “足音や階段の昇降音” が気になって仕方がなかった。 「天使」本来の “キュートな動きや仕草” の魅力を半減させたことは否めない。

   同部の「卒業公演」の『わが星』も、「文化祭」の『奇妙旅行』も、いずれも素晴らしい「舞台」だった。しかし、やはりこの “音響” 問題が、せっかくの感動を減殺したように思えてならない。  

       ☆ 

  それはともかく、今回の印象深い「役者」としては、まず前述の「加藤」嬢と「瀬戸」嬢の二人。

   その他には、〈マスター〉役の「荻迫由依」嬢が強く印象に残った。地味な役ながら、口調が穏やかでゆっくりした台詞回しのため、言葉がクリアだった。そのためとても聴きやすく、好感度の高い説得力のある「シーン」を創り出していた。 

   「元天使」という「役回り」も幸いしたのかもしれない。また、彼女の台詞のときには、不要な音がなかったような気もする。

   ともあれ、“大きな声で叫ぶように早口” で喋るよりも、“普通の声で静かにゆっくり” 喋る方が、時間が経過すればするほど、印象深く残るものだ。

   同部の、これからの研鑚と感動的な舞台の創造に期待したい。さしあたっては、「卒業公演」ということになるのだろうか。万難を排して観に行きたい。

       ☆   ☆   ☆

  

   「ミュージカル」や「音楽劇」ではない普通の「舞台」において、「音楽」や「音量(ボリューム)」は、ただひとえに「役者を活かすために存在する。それらは、「役者の台詞回し」を、すなわち「役者」の “言葉や声” を魅力的かつ効果的にするための補助手段にすぎない。

   逆な言い方をするなら、「役者」の “演技” や “台詞回し” の魅力を損なうものは、総て排除しなければならない。

    「舞台」から「音楽」や「効果音」を取り去っても、さらには「舞台美術」や「小道具」や「衣装」や「照明」を取り去っても、「役者」が存在する限り「舞台」は成立する

   ……「舞台演劇」における “絶対不変の原理” とも言えるこの意味を、演劇に携わる人々とともに、今ここで再確認したいと思う。      

  

 .『ゆめゆめこのじ

   この「舞台」については、年が明けてから論じてみたい。

   期待に違わず、素晴らしい「舞台」だった。“総てにおいて行き届いて” おり、 “無理や無駄の限りなく少ない、安定した舞台美術・衣装・照明・効果音響” だった。いつもながら、「西南学院大学演劇部」ならではの “繊細な感性にもとづく「」としての総合力” を堪能させてもらった。

  それが結果として、役者個々の “能力魅力最高度に引き出した” ……そういう「舞台」だった。

   何はともあれ、この「舞台」は今年「2014年」の筆者の “観劇納め” に相応しいものだった。(了)

      

 

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・2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:中

2014年12月23日 00時45分39秒 | ●演劇鑑賞

 

  悩ましき“学祭ステージの音響”

   しかし、この「九大祭」において、非常に気になったことがある。それは、「学祭」の「メインステージ」の音響の凄まじさだ。「サブステージ」は何とか我慢できたのだが……。

   演劇部の「テント小屋公演」を “吹っ飛ばす!” いや “吹っ飛ばした!” と言える音量(ボリューム)だった。「役者の声」が “聞き取りにくい” といったレベルを遥かに超えており、「演劇部」の諸君が不憫でならなかった。

    “あの「ステージ」に、あれだけのボリューム”……本当に必要だったのだろうか。正直言って、筆者は数日間、耳鳴りと軽い頭痛に襲われていた。

   そのため「学祭当日」は “一つの舞台と次の舞台の間” は、できるだけ「メインステージ」から離れ、また建物内に避難することを心がけた。

   「演劇」の合間に「朗読会」の教室に入ったところ、予定時間内にも関わらず、室内は「人っ子一人」いなかった。広い「無人の教室」は、「ステージ」からの “轟音” に圧倒されていた。

   つまりは、「中止」せざるをえなかったのだ。“あれだけ大きな音” が押し寄せて来れば、“室内も室外” と何ら変わりはない。これを企画した学生諸君も気の毒でならない。

   筆者の超超 “SEIKO” な「鼓膜」と、超超 “SENSAI” な「感性」には、とても耐えがたい轟音だった。福岡市中央区の「六本松キャンパス」時代には、 “音量の節度” は保たれていたと思う。その証拠に、“うるさい” と思ったことは一度もなかったのに……。

 

    ……来年が、チョウ心配だ――。

   囁かれる花雅美秀理氏の「九演大テント公演」からの “引退”  ……年明けに“号泣会見” か? 》 

   “老い先短い年寄りの楽しみを奪っては……ダメよ~ ダメダメ~  

   

4.『アルバート、はなして』 

   この舞台は、「ノーベル物理学賞」を受賞した「アルベルト・アインシュタイン」(※註1)を主人公にしたもの。タイトルの「はなして」には、「話して」、「放して」、そして「離して」の意味を持たせていたようだ。

   「アルバート」が生まれ育ったドイツは、二度の「世界大戦」を経験している。「第一次」(1914-1918)と「第二次」(1941-1945)がそれであり、ドイツは両大戦において「敗戦国」となった。

   本舞台は “この大戦の時代を生きた” 主人公の身辺をコンパクトにまとめ、さらりと “時代の雰囲気” を捉えたものだった。 

   主人公の「アルバート」を直接描くと言うより、両親、妹、妻という家族や周囲の人々を描くことによって、「主人公」を浮かび上がらせようとするもの。その「手法」にマッチした舞台だった。

   「舞台美術」として、「大型の書物に擬した小道具」を「ベッド」や「椅子」にするというアイディアは、深い意味を秘めていたし、また斬新なものだ。“知識” や “学問” それに “ノーベル賞に値する学問的業績” といった “プラスの遺産” が、同時に “マイナスの遺産” をも意味すると言う “不条理性” を “暗示” していたからだ。なかなかのセンスだ。

   総勢10人からの「キャスト」は、いずれも20代から30代なのだろうか。若さと情熱溢れる溌剌とした演技に好感が持てた。

   筆者が個人的に知っている「役者」といえば、本ブログの「学生演劇の公演紹介」で述べた、「九州大学演劇部」現役生の山本貴久氏と「福岡女学園大学」OGの井ノ口美津希さん。その二人が夫婦役で登場し、期待以上の好演を見せてくれた。

       ☆

   当初はそうではなかったが、後に《毒ガス開発の父》と呼ばれた〈フリッツ〉。その役を務めた「山本」氏。「フリッツ」の開発による「毒ガス・チクロンB」は、「アウシュビッツ収容所」において、ユダヤ人の大量虐殺に用いられた。山本氏はその屈折した「役回り」を、持ち前のストイックな風貌に加え、ニヒリスティックな雰囲気を漂わせながら演じ切っていた

  その妻〈クララ〉役の「井ノ口」さん。この「クララ」も調べて判ったことだが、博士号を取得したユダヤ系ドイツ人の化学者。夫の毒ガス開発への抗議のために自殺したと言われる悲運の才女(※もっとも、自殺の理由は他にもあるようだが)。

   井ノ口さんについては、今春卒業時の公演で彼女が演出・出演を務めた『フローズン・ビーチ』が想い出される。それからほぼ9か月――。役に恵まれたこともあるだろうが、質的な変化と言えるほどの成長を感じた。卒業後にどのような “演劇活動” をしているのか。筆者はまったく知らないが、今回の「クララ」の演技から、それなりの刺激や訓練を受けていることがうかがえた。貪欲にさまざまな役に挑戦して欲しい。

             ☆

   他に印象に残った「役者」としては、何と言っても、アインシュタインの〈〉と先妻の〈ミレーバ〉、そして後妻〈エルザ〉の3役を演じた「清水ミサ」さん。先妻〈ミレーバ〉と後妻〈エルザ〉の “ボクシングファイト” 形式の “女の闘い” は、この舞台の大きな柱にもなったようだ。

   このときの歯切れのよい “台詞回し” と切れの良い “コミカルな動き” は、相当力を入れた稽古と覚悟があったことをうかがわせた。演出のうまさと併せ、この舞台を魅力あるものとした最大のシーンではなかっただろうか。

   あとはやはり、〈父・ヘルマン〉役の「君島史哉」氏に、演出を務めた〈アドルフ〉役の「垣内大」氏。いわゆる “安心して観ていられる役者” だ。  

        ☆

   ただ気になったのは、〈アドルフ〉が、実は「アドルフ・ヒットラー」であったという設定は、「フィクション」(舞台)とはいえ、“歴史観” として、また当世盛んに議論されている “歴史認識” における “視点” として、微妙な問題だ。

   「アドルフ・ヒットラー」という、かなり詳細にその生涯が把握されている「歴史上の人物」の “生涯の一部” を、たとえ「想像力に基づく創作」にしても、またそれが “ごく一部” ではあっても、アレンジする作業は危険が伴う。

   何と言っても「ヒットラー」は、 “人類史上最悪のホロコースト” の張本人であり、疑う余地なくその「生涯の歩みの詳細」や「評価」が絶対視されている。慎重の上にも慎重であって欲しい。

         ★   ★   ★

 

 ※註1:アルベルト・アインシュタイン(: Albert Einstein、1879.3.14-1955.4.18) /ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者。「アルバート」という表記は「英語」表記であり、一般的な表記としては、彼の生国「ドイツ」の「アルベルト」を採用しています。ナチスの迫害を受けてドイツを出国した後は、イタリア、スイスそして米国と渡り、そこで生涯を終えました。

 ※註2:ブログ開始は、2009年4月。今年で7年目となります。

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・確かな演技を支えた“桜と刀の美学”/『桜刀』(九州大学演劇部):中

2014年12月20日 16時00分58秒 | ●演劇鑑賞

 

  “桜の精”と“刀の精”のコントラスト

 では前回述べた「」に対し、もう一方の「」は、どのように表現されていただろうか。

  初めに、四人の武士(もののふ)による 「刀」を打ち叩く場面が出て来る。ゆったりとしたその “所作” は、 “伝統芸能” のような動きを感じさせた。「衣装」の感じや、“格式と威厳” を想わせる武士の雰囲気からして、筆者は何となく「幸若舞」や「狂言」をイメージしていた。

    “何かの儀式” を執り行うかのように、「刀」を金属で打ち叩く動作……。その “金属音”は、“生死のやりとり” を連想させる “生命の鼓動” に通じ、今も筆者の心に鮮やかに刻み込まれている。“不要不急な音楽や音量(ボリューム)” の排除によって絞り出された “音色(ねいろ)” であり、“ここぞ!” とばかりに用意された「効果音」でもあった。

   筆者は、その “音色” を作り出す “所作” こそが、まさしく “武士(もののふ)の魂” であり、“刀の精” であるとの “意志” を感じた。

   “無機質の、硬く冷たい音色の響き” は、“淡く儚く散って行く桜の花びら” と、見事な “コントラスト(対照)” を見せていた。それは、“桜の精” と “刀の精” とが、まるで “現(うつつ)と黄泉(よみ)” とを奔放に飛翔する “幽玄の世界” を想わせた。しっとりと “心に響く所作” であり、演技そして演出だった。

   今もこうして原稿を綴りながら、そのときの “感動の余韻” に浸ることができる。最前列の特等席で観ていた筆者は、その “音色の響き” を全身全霊で受け止めていた。これぞ「生の舞台」の迫力であり、魅力だ。

        ☆

  ……そういう 《 》、そして 《 》 ……。演劇という表現行為を最高度に発揮し得た演出であり、滲み出て来る繊細な “感性” を印象付けた。筆者が期待し、イメージした以上の優れた「舞台」となった。観客からすれば、心地よく “想像力” を刺激され、グイグイと舞台の “創造世界” に惹き込まれたことになる。

   無論、それを可能にしたのは、前回述べたように、「優れた “照明&音響&舞台美術” による “美意識” であり、そこでの “役者諸君の演技” だ。照明と音響のデザインニング(意匠企画・アイディア)も、オペレーション(操作・調整)も申し分なかった。

        ☆

  

  観客に“心の余裕”を与える“余裕の演技”

   まず〈男A〉役の「棟久綾志郎」氏と〈男B〉役の「浜地泰造」氏が、何とも言えない味を醸し出していた。両氏の演技台詞回しを含むには “落ち付いた余裕” があり、安心して観ることができた。“余裕のある演技” は、観る側にも “心の余裕” を与える。すなわち “その演技” ひいては “その舞台そのもの” を、じっくりと “堪能する余裕” を与えるものだ。 

   そうでない場合、観客は “余計な心配” をしなければならなくなる。『…この子、噛まないでちゃんと台詞が言えるだろうか…』、『…最後まで、この役をやり遂げられるだろうか…』云々。筆者にとって、「役者諸君」は息子や娘に見えるからだろう。……嗚呼! あ~あっ……。 

  ……小うるさい花雅美秀理氏とて、人の子の親でもある……

   この “心の余裕” は、まずは的確な「キャスティング」によりもたらされ、次に「台詞回し」を含めた「役者の演技」により生まれる。ことに、“役者の声” と “台詞の明瞭さ” が重要だ。

   昨今、学生及びそれに類する劇団系では、“叫ぶような台詞回し” が多いような気がしてならない。無論、そのすべてが悪いわけではないが、それはえてして、 “ドタバタ的な笑い” によって成り立つ「お笑い系の漫才やショートコント」(※註1)と何ら変わりはない。とても、“そのときの感動” や “後日の感動の余韻” など望めないものだ。

   その意味において、「今回の舞台」は非常に洗練され、また抑制された “台詞回し” だった。個々の “役者の声” も魅力的に伝わって来たし、“台詞の明瞭さ” もこれといって問題はなかった。 

         ☆

   それに加え、“殺陣” すなわち「時代物」の “立ち回り” も無理がなかった。こうした “立ち回り” は、とかく “娯楽タイムのオマケ” と見られやすく、下手をすれば、 “舞台そのもの” を “軽く” しがちだ。

   しかし、今回の “立ち回り” は、そういう懸念をいささかも感じさせなかった。それは、“立ち回り(殺陣)” に “確たる精神” すなわち “桜と刀に象徴された生死のやりとり” がしっかりと織り込まれていたからだろう。

   まさに “桜と刀の美学” と呼ぶに相応しいものであり、その美学に支えられた演技の上手さによる。つまりは、単なる “娯楽としてのちゃんばら” ではなかったのであり、観客はぐんぐん惹き込まれて行った。

   まず棟久氏には、“隙のない重厚な演技” を感じた。“舞台役者らしい声質” の持主であり、魅力的な骨太の声の響きは、いつもながらの迫力と説得力があった。『動物園物語』の〈ピーター〉役、『六月の綻び』の〈兄〉役から、さらに “人間的な深み” を感じさせてくれる演技だった。

   浜地氏は、いつもの “泰造流” を貫いていた。“自然体で淡々と語る” 台詞回しに、一見ぶっきらぼうに見える “飄々とした演技”。そういう “力を抜いた演技” ……というより “力の抜けた演技” というべきだろうか。重要な役回りを、そうは感じさせない “さりげなさ” によって見事に演じていた。いや、“こなして” いた。

   その「棟久&浜地」の絡みは非常に見応えがあった。両者の持ち味が遺憾なく発揮され、この二人にリードされるように、他の役者陣が引っ張られて行く……そういう 印象を受けた。とにかく “役作り” がうまい。無論、それは、役者だけの力量ではない。“演出” の冴えというものだ。(続く)

        ★   ★   ★

 

 ※註1:「お笑い系の漫才やショートコント」の中にも、無論、優れているものもあります。しかし、大半は “一瞬の笑いを取るだけの叫び調の台詞回し” が多いのも事実。「学生系演劇」の中には、明らかにその “マイナス面の影響” を受けたものがみられるようです。

 

 

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・2014年福岡都市圏の学生演劇を観終えて:上

2014年12月15日 00時01分59秒 | ●演劇鑑賞

 

  一昨日、12月13日の土曜日、2つの大学演劇部の公演を観た。これによって、今年の “舞台演劇の観劇” は終了となった。ちなみに、11・12月における筆者の「舞台観劇」の実績は、以下の通りとなった。敬称略。

  

.11月1日(土)・夜

  『桜刀』(九州大学演劇部「海峡演劇祭2014参加作品」公演。 ○作・演出/森聡太郎 ○助演/山本貴久)。会場は「関門海峡ミュージアム」(門司港)。

.11月2日(日)・午後

  『パラレルな自分』(九州産業大学演劇部:九州産業大「香椎祭」公演。 ○作・演出/中川優太 ○助演/武下裕耶)。会場は「九州産業大学」構内。 

.11月23日(日)・午前~夕刻

  「5作品」(九州大学演劇部:「学祭」大テント公演)。会場は「九州大学伊都キャンパス」構内。 ※以下、筆者の観劇順。

・『桃太郎』(○作・演出/中山博晶)

・『デイドリーム・ウィズ・パペッツ』(○作・演出/古川綾)

・『あいまいパズル』(○作/兼本峻平、○演出/石川悠眞)

・『錆びた夢の味』(○作・演出/森聡太郎)

・『人形鉢』(○作・演出/石川悠眞)

.12月7日(日)・午後 

   『アルバート、はなして』( 突発性演劇団体 O weh!: ○作/勝山修平(彗星マジック) ○演出/垣内大 )。会場は「秘密基地732シアター」(福岡県糟屋郡)

.12月12日(金)・午後

  『女の一生』(「文学座」公演:○作/森本薫 ○補訂・演出/戌井市郎による ○演出補/鵜山仁)。会場は「博多座」(福岡市川端町)。

.12月13日(土)・午後

  『天使は瞳を閉じて』(福岡大学演劇部「第65回秋季定期公演」:○作/鴻上尚史 ○演出/加藤真梨)。会場は「福岡大学」構内。  

.12月13日(土)・夜

  『ゆめゆめこのじ』(西南学院大学演劇部:「冬季定期公演」 ○脚本/西田大輔(AND ENDLESS) ○演出/宮地桃子 ○助演/高木理咲子、新ヶ江優哉)。会場は「西南学院大学」構内。 

       ☆

  健康な身体で「舞台」を観に行くことができるのは、それだけでありがたいことだ。

   何はともあれ、優れた「舞台」を提供するために日夜、情熱と真摯な努力を惜しまない福岡都市圏の「大学演劇部」や、大学生(OB・OG含む)をメンバーとする「劇団」の関係者各位に敬意と感謝の気持ちを表したい。 

       ☆   

 

.『桜刀』

   本ブログの9日に「演劇評(鑑賞)」の「上」をアップしており、近日中に「次回」をと思っている。

   本作品鑑賞の「上」において述べたことだが、この舞台を “ひとこと” で言えば、洗練された “感性” により産み出された “舞台美術&照明&音響三者のコラボレーション” が、“深い精神性に支えられた役者達の重厚な演技” をいっそう際立たせたということだろう。 

 

.『パラレルな自分』

   「演劇会場」の「天井高」が一般住宅クラスのため、「演劇会場」としてはかなり低い。そのため、ボリューム(音量)過多の「音響」や、「バスドラムの効いたアップテンポのハードな楽曲」が、肝心な役者の声や台詞の魅力を奪いがちだ。「叫び声」が多い “台詞回し”も、同様の弊害となりやすい。

   同部は、いつも “オリジナルな脚本” をとの「ポリシー」を持っているだけに、実に惜しい。正直言って、せっかくの「脚本」や役者の良さが大いに殺がれていることは否定できない。

  

.『デイドリーム・ウィズ・パペッツ』

   「テント小屋公演」は、昨年参加できなかっただけに、今年はとの想いで観に行った。筆者は演目6本中、最後の『エチュード公演』だけは私用により退席した。「5本」については、それぞれに課題が残ったとはいえ、いずれも愉しむことができた。

   総ての作品について語ることはできないが、「作・演出」そして急遽、自ら「出演」した「古川綾」嬢による『デイドリーム・ウィズ・パペッツ』が、特に素晴らしかった。

  筆者の勘違いでなければ、この作品の「公演時間」は、正味わずか12、3分だったのでは? 「公演時間」が短いため、作品をまとめやすかったのは確かだろう。それでも、「作・演出家」の優れた感性や才能の片鱗を、充分窺い知ることができた。

   この作品は「音楽小劇」であり、バレエダンスの要素を採り入れたような振付が素晴ら しかった。残念ながら、筆者はバレエやダンスは非常に疎い分野だ。そうであっても、この作品の優れた一面をしっかりと受け止めることができた。作品の【あらすじ】をそのまま再掲しよう。

  《初めて訪れたサーカスで、少女はマスクを着けた一人の男性と出会う。恋にも満たない少女の感情は、時代を超えて、病床の枕元に夢となって立ち上る。 ダンスやマイムを中心に身体表現に取り組んだ、一風変わった作品です。》

   「この舞台では、「台詞」は一切ない。題名」の「ディドリーム(daydream)」は、この場合「白昼夢」ということだろう。「パペッツ(puppets)」は「操り人形」の意味なのかも。

   病床にある不自由な「少女」の夢の中に、“通過儀礼” 的な “異性への憧れ” が、幻想的なイメージとなって注がれている……そういう “少女の仄かな恋心” は、やがて “大人の女としての愛念” へと育っていく……と言うのだろうか。

   このような作品が、「学園祭」において、さらっと出て来るところが凄い。(続く)

 

      

 

 

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・「照明&音響」の秀逸なコラボ/『桜刀』(九州大学演劇部):上

2014年12月09日 00時02分14秒 | ●演劇鑑賞

 

  「九大演劇部」のワクワク、ドキドキ

   11月1日、九州大学演劇部「海峡演劇祭2014参加作品」の舞台『桜刀(さくらがたな)』を、北九州市まで観に行った。作・演出は森聡太郎氏、助演は山本貴久氏。会場は門司港にある「関門海峡ミュージアム」だった。

   筆者にとって、同大演劇部の舞台を福岡市外で観るのは初めてとなった。それにしても、今回の “舞台化” に当り、「同部」は相当力を入れて臨んだようだ。随所に、この「公演」にかける部員の情熱とレベルの高さが感じられた。

   「関門海峡ミュージアム」という「舞台会場」は、「小舞台の演劇」に適していた。まずはこの選択が大きいと言える。「演劇会場」の形状や大きさに即した独自の「舞台美術」(背景美術や舞台仕組み)をはじめ、小道具、衣装も申し分なかった。そして、それらを充分に活かし切った「照明&音響」の秀逸な “コラボレーション=演出・操作” が、より効果的な感動をもたらしたようだ。それは “光と音と舞台美術” の見事な “融合” を意味した。

      ☆

  今回の舞台の「公演案内」を知ったとき、まず初めに『桜刀』という演目(タイトル)に魅力を感じた。「桜」に「刀」とくれば「花は桜木、人は武士」。すなわち、「桜」と「刀」……。この両者をどのような形、そしてタイミングで舞台(物語の中の展開)に織り込んで行くのだろうか。大いに興味をそそられた。

  と同時に、紹介された「あらすじ」を見ながら、すぐに梶井基次郎の短編『桜の樹の下で』を想い出した。よく知られた「冒頭の一節」は、次のような書き出しになっている――。 

 

 《桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。》

 

  優れた“照明&音響&舞台美術”による“美意識”

  以上のイメージを彷彿とさせるオブジェとも言える「桜の樹」に、背景の「赤色照明」が印象的だった。「桜の樹」のオブジェは、これ以上の簡素化は不可能といえる “シンプルさの極致” を示していた。「桜の樹」に当てられた「赤色照明」は、具象としての「満開の桜」を意味するとともに、「桜の精」を抽象化した “” となって、一瞬のうちに観客の心を掴んでしまった。

   その赤色照明の「桜の光」と造形の「桜の樹」が舞台上から消え、背景照明が「青色」に切り変わるシーンは、「桜の樹」も「満開の桜の花」も “儚く消え去った” ということなのだろう。その「赤色照明(光)」から「青色照明(光)」への変移が、“咲き誇った桜” と “一切無の虚空” との対比を際立たせていた。

   まさしく “幻想的な光” であり、この “幻想性” は、前述のように 《照明&音響》による “コラボレーション” によって、いっそう強調されたようだ。そしてそれらが、 “光と音と舞台美術との “融合によるダイナミズム” を生み出したと言える。巧みに雰囲気を醸し出す「音楽」であり、 “微妙な音量の調整” も申し分なかった。ことに「音響操作」は、 “お手本” とも言えるものだ。

   “演劇とは、美術、音楽、光の総合芸術なり” を、あらためて実感することができた。心憎い演出であり、高雅な “美意識” を確信した。

      ☆

  「舞台美術」にも、優れた工夫が凝らされていた。本来の平面の舞台に、1mほどの厚み(高さ)の「大地」を意味する「床」を造り、それを2つに “分断” そして “結合” 可能な構造としたのがそれ。観客席へ向けられた「一面」は、傾斜角度ほぼ45度の斜面となっていた。

  この「造り込まれた床高の可動舞台」と「本来の平面舞台」によって、狭い舞台全体に立体的な広がりと奥行きが生み出された。その両「舞台」を一体となって動き回る演技は、必然、変化と躍動感を増し、迫力ある戦いや疾走感を非常によく表現していた。

   この「大地」を表わす「可動舞台」により、「死者」や「時代を去り逝く者」は、 “分断” された「舞台」の中に吸い込まれ、“結合”によって「大地」に埋もれる。それは、「死者」も「時代を去り逝く者」も、ともに「桜の樹の大地」と一体となって眠りに就くことを意味する。深い哲理に裏付けられた詩情であり、巧みな「仕掛け」と言える。

   その「大地」の中に仕込まれた「深紅の光(照明)」……。それは、戦いによって流した「死者」の「血の精」を、そして、「時代を去り逝く者」の「魂」の象徴のようだ。二つに “分断” された「大地」が、“結合” によって徐々に “閉じられて” 行く際、その「深紅の光」が次第に小さくなりながら消えて行く演出(照明操作)に、この「舞台」最大の感動を覚えた。

   洗練され、研ぎ澄まされた “感性” であり、巧みな “アイディア” の勝利と言える。「九州大学演劇部」の “叡智と伝統のたゆみない継承” と “深い哲学に支えられた芸術の香り” を感じた。どこかの放送局風にいえば、まさに “ワクワク!、ドキドキ!”。 (続く)

 

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・『ゆめゆめこのじ』(西南大学演劇部)-12月の演劇案内:2

2014年12月05日 01時05分30秒 | ○福岡の演劇案内

 

  今年の舞台演劇の “観納め”

   筆者は「twitter」をしていません。きちんと準備、確認した後に、ゆっくり、じっくり構えて綴り始める……というスタイルが性に合っているからでしょう。それに、複数の人々と頻繁にやりとりするというのも面倒です。筆者がこの世にいる限り、tweet することはないと思います。もっとも、“命が尽きた” ときは、tweet しようにもできないわけですが……。

   以上の理由から、本ブログの「学生演劇の公演案内」の「原稿」は、基本的には各大学・劇団の「公式ホームページ(HP)」や「公式ブログ」を「ベース」としています。したがって、両者に記述がない場合に、初めて「twitter」を見ると言うわけです。

   今回も、このプロセスよってようやく「公演」を知ったわけですが、危うく見落とすところでした。西南大学演劇部の「公式HP」の「公演情報」は、なぜか今年6月の「夏季公演」のままになっていました。「twitter」をしない多くの「年配者」は、気づきにくいと思います。

       ☆

   さて、今回の「西南大学」の公演日は「福岡大学」と重なりましたが、「一年の演劇鑑賞」の締め括りとして、両校の舞台を観に行く予定です。 

   ある友人は、筆者が「舞台の観劇」や「鑑賞の執筆」にかなり時間を費やしているのではと心配しています。しかし、ニュースや文化番組以外あまり「テレビ」を観ないため、「演劇」を観て、その鑑賞文を綴ることは、それほど大変ではありません。とはいえ、楽でもありませんが。

   筆者は、パチンコも麻雀もゴルフもテニスもしません。それに、今や「煙草の煙」が身体的に「限りなくNG」のため、「喫煙(分煙 でも)」可能な「飲み屋」や「喫茶店」には行かないようにしています。その結果、そうした場所での「飲み会」はすべて控えるようになりました。「忘・新年会」も例外ではありません。

       ☆

   さて、今回の公演の「演出」は、『decoretto』で素晴らしい「演技」を見せた「宮地桃子」嬢のようです。優れたその “感性” と “才能” から、今度はどのような「演出」が生み出されるのでしょうか。きっと、あの「演技」同様、“自然体” で無理のない「舞台表現(演出)」となることでしょう。

   無論、優れた “能力” と “表現力” を持つ、「西南大学演劇部」の「キャスト」や「スタッフ」についても同じ気持ちです。土曜の夜が楽しみです。

         ★   ★   ★   ★   ★   ★   ★

  

 西南学院大学演劇部冬季定期公演

 ゆめゆめこのじ


●作/西田 大輔

●演出/宮地 桃子


 【あらすじ】

この国の歴史はね、遊女たちが創ってきたんだ。

京の花街を彩る遊郭。

そこに息づく“ゆめ”と呼ばれた遊女たち。

江戸吉原から初めて京にやってきた秋雪が出逢ったのは、

こじきに身をやつした桂小五郎、

相撲力士に間違えらえれた西郷隆盛、

そして、“恋文”をなくした坂本龍馬ー。

果たして薩長同盟は無事に結ばれるのか、 そして、龍馬暗殺の真相とは。

遊女たちが創った二つの夜の物語。

●日時●

1212日(金) 18:00開場  18:30開演
1213日(土) 12:00開場  12:30開演
            17:30開場  18:00開演

●場所●

〒814‐0002 福岡市早良区西新6‐2‐92

 クリック! ◆西南学院大学内 西南会館3F 大集会場

●料金●

 ・前売り券:200円  ・当日券:300円

 

 

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