『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・新春俳話―中巻(女流にみる抒情と余情)

2021年01月03日 12時12分49秒 | ■俳句・短歌・詩

 女流における抒情と余情

  さて、「元日」の鑑賞対象となった五人の俳人は、いずれも男性でした。

 そこで今日は「女流」に重点を置いた巻として、お三方に登場していただきましょう。もちろん私が大好きな「女流俳人」であり、また大好きな「作品」です。

 

 まずは次の一句から――、

  鵜は潜(かづ)き鷗は舞ふを初景色   鈴木 真砂女

 「初景色」とは、「元日に眺める晴れやかな景色」をさす季語です。もちろん、「晴れやかではない」句も可能ですが……。それにしても、いかにも俳句らしい、そしてまことに「新春」に相応しいといえるでしょう。

 「潜(かづ)く」は、「潜(もぐ)る」の古語のようです。(かもめ)も一緒にいるところから、この場合の「(う)」は、「カワウ(川鵜)」ではなく「ウミウ(海鵜)」と考えられます。ということは、やはり「海」を背景としたものでしょう。

 私の住んでいる近くに、国宝の「金印(※注①)」出土で名高い「志賀島」が見える海岸があります。長崎の小さな島で生まれた私は、とにかく子供のころから海が大好きでした。そのため、週に2、3回はここに車で出かけ、砂浜や海に面した丘や雑木林を、健康管理の一環として散策しています。

 実は4日前の旧臘(きゅうろう)30日も、体調がかなり戻っていたので思いきって出かけ、冬濤(なみ)に荒れる早朝の浜辺を、防寒具を着込んで歩き回ったものです。ほとんど人影らしきものもない暗雲立ち込める冬の海は、冬独特の北風や北西風が強く、この十年の散策の中でももっとも寒く、そして荒れた海景でした。

 その海辺に続く小さな湾そして漁港に、旧臘初旬、一羽の「ウミウ」を見かけました。まさに「カワウ」と同じような潜り方で魚を取っていたのです。

 そしてその上空には、悠々と「」が飛んで……。まさしく誰かの歌の〝…♪  かもめは飛んで~ ♪……〟そのものの世界でした。

 「句意」は説明の必要もないと思いますが、簡単に言えば。 

 ――清々しい、静かな元日の海辺――(湾の一角にはちょっとした商易港や、小さな漁港があるのかも知れません)――。そのには、〝ゆったりと流すように、穏やかに舞い浮かぶ〟が。

 一方、下界のには、〝思いついたように、ふいに潜って魚を銜(くわ)える(ウミウ)〟が戯れるように……。

 そのコントラスト豊かな光景が、「元日の景」として目に映るのですから。何と〝ゆとりある穏やかな時間〟でしょうか。

 

             ★

  初景色富士を大きく母の里   文挟 夫佐恵

 「初景色」が「富士山」というのです。一見すると少々〝出来すぎ〟であり、俳句表現的には、「梅に鶯」のように〝即(つ)きすぎ〟となりかねません。

 しかもこの句の場合、「初景色」…「富士」…「大きく」…と、贅沢にもトリプルで畳みかけているのですから。

 ところが、最後に「母の里」を据えたことによって、〝出来すぎ・即きすぎ〟感は一瞬にして霧消したのです。のみならず、この句の底に流れる〝秘められた静かな詩情〟と、〝揺らぐことのない母への慕情〟とが、しっかり結びあわされたといえるでしょう。

 ただでさえ〝荘厳で雄大な富士〟……その「富士山」を〝大きく見据えることのできる母の里」〟。句の表現として、「富士を大きく」と「母の里」の〝あいだ〟には、もちろん「仰ぎ見ることができる」や「受け止め感じ取ることができるほど近い」といった言葉や想いが省略されているのです。

 まさしく、俳句ならではの〝独特な省略〟によって、読者の感性やイマジネーションを巧みに刺激しているとも言えます。

 しかもその「富士山」は、元日、正月に限らず、いつでもどんなときでも、「母の里」に厳然とその姿を現しているのですから。

 「富士を大きく」という表現からは、「富士山」に〝見守られ〟また〝抱かれている〟と言う〝秘かな誇り〟と、〝揺るぎない安堵感〟のようなものも伝わって来ます。作者にとっての「母の里」とは、恰好の「まほろば」なのかも知れません。

                

 ところで読者の中には、ご自身や身近な方の「郷里」が、まさしく〝富士山を仰ぎ見るほど大きく眺めることができる〟と言う方がいらっしゃるでしょう。事実、「富士山」はお気づきのように、地理的には静岡県の4市1町、山梨県の1市1町に跨っているようです。

 静岡側の富士市や富士宮市、山梨側の富士吉田市や富士河口湖町等が当該市町村ですが、地理的に跨ってはいなくとも、「富士山を大きく見上げることができる市町村はかなりあることでしょう。

 今回、この句を採りあげたのも、そういう地理的背景を考慮した上での判断でした。それにしても「富士山」の「絶景スポット」が、ネット上において〝あちこち〟紹介されていますね。

 そういうメディアの訴求力によって、〝富士山に対する日本人独特の親近感や憧れ〟は、より多くの人々に、そしてより深く広く伝わって行くのではないでしょうか。

 とはいえ、中には本句について、「とりたてて言うこともない」と思われた方もあるでしょう。特に趣向を凝らした目新しい〝言い回し〟もなく、ただ淡々と拙いと思えるほどの平凡な表現に徹しているのですから。

 しかし、何と言っても「富士山」であり、それも「初景色」として、あらためて「その雄大な威容を眼前にしながらの想い」となれば、話は違ってくると思います。しかもそこが、最愛の「」と言うのですから……。

 初夢に、「富士二鷹三茄子」(いちふじにたかさんなすび)が出て来れば、縁起よしという〝大和の国〟日本。その「富士山」が、現実の景として今まさに眼の前に聳え立っているのです。

             

 

  初富士にかくすべき身もなかりけり   中村 汀女

 これも素晴らしい一句ですね。 この句については、元日稿の最後に「資料」として記した、「カラー図説 講談社版 日本大歳時記:新年巻」において、加藤楸邨氏の短い鑑賞文があります。

 私の鑑賞文の趣旨も同じと言えるでしょう。というより、どなたが鑑賞しても、最終的には同じような内容になるような気がいたします。それは取りも直さず、本句が〝人間それぞれの人生観や思想・心情〟を超えた〝あるべき人間精神の根源〟に根差しているからではないでしょうか。

 さきほどの「初景色富士を大きく母の里」の句の鑑賞文が、ここでも活きています。

 「元日」の「富士山」を意味する「初富士」――。霊峰としてのその雄大で清麗な姿を前にしたとき、人は何を感じるのでしょうか。おそらくそこでは〝自分はどうあるべきか〟といった、揺るぎない深層の思いが呼び覚まされるような気がするのですが……。

 春夏秋冬を問わず、何ら隠れることもなく、また隠れようともせずに〝堂々たる真実の姿〟を晒し続ける「富士山――。それはまた私達に対しても、〝かくあるべきでは〟と語りかけているのかも知れません。

 少なくとも私自身はそう感じたのであり、また作者自身も同じなのだと思います。下五の「なかりけり」に、作者の並々ならぬ〝覚悟〟とともに、そう言う〝覚悟〟を促した「富士山」への感謝と畏敬の念を込めた措辞として伝わって来るのですが……。

                ★

 

  生きることやうやく楽し老の春      富安  風生  

 「老の春」とは、これまた俳句独特の省略表現により生み出された「季語」といえるでしょう。〝年老いて迎える新春〟といった感じですが、少なくともこの句の場合の〝老い〟には、悲壮感や惨めさは一切ありませんね。

 「やうやく」は、「ようやく」です。それにしても、どうでしょうか。「生きることやうやく楽し」と言うのですから。93歳という天寿を全うした作者は、このとき何歳だったのでしょうか。私と同じ「団塊世代」そしてその前後の方々には、ちょっと……あるいは、う~んと気になるものかも知れませんが。

 「やうやく」に、残りの時間を淡々と生き抜こうとする思いがうかがえます。泰然自若と言ってしまえばそれまでですが、鷹揚に構えた〝心のゆとり〟が伝わって来ます。何とも心地よいと同時に、いつしか励まされてもいるようです。

                

  年立って自転車一つ過ぎしのみ    森 澄雄

 年立って」とは、「年が明けて」つまり「新年」を意味しています。この句の「年立って」は、「元日」と考えるべきでしょう。〝年があらたまった〟からといって、特別な何かがドラマティックに起きたり、また始まることもないようなのですが……。

 そういう凡庸な時の流れの中、〝……ああ、自転車が通り過ぎて行った……誰が、何処に何をしに行くのだろう……〟と、作者は自転車が過ぎ去ったほんの一瞬、漫然と……否、無意識のうちにそう思ったのかも知れません。

 読者のみなさんも私も、以上のように〝漫然とあるいは無意識のうちに感じ、またあらためて気づかされるという実感〟は、日常生活においてしばしば体験しています。そういう〝実感〟が、「元日」という特別な日であったとしたら……ということでしょう。

 そして〝その実感〟は、芥川龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の、〝あの夕ごころ〟の〝実感〟に通じるのかも知れません。

 本句を口ずさみながら、目を瞑ってみてください。作者が住んでいる「町並み」や、「作者の住まいの様子」までもが、何となく浮かんで来るような気がしませんか。

                ★

  初春や思ふ事なき懐手    尾崎 紅葉

 「懐手(ふところで)」とは、「和服(着物)」の場合をさしています。と言っても、おそらく普段着ている「どてら」(「丹前」に同じ)のようなものでしょうか。その袂に両手を忍ばせて(=差し入れて)、物思いに耽っているようです。

 実はこの「懐手」は、俳句の上では「冬の季語」となっています。本来、手の冷えを防ぐささやかな採暖の意味があるからでしょう。

 私は読んだことがありませんが、作者が「金色夜叉」の作者であることは、或る程度の認知があると思います。しかし、彼が「俳人」であったことは、ごく少数の方しか知らないでしょう。

 「思ふ事なき懐手」に、いかにも「文人」らしい風貌や所作が感じられますね。というのも、正月「三が日」を詠んだものに、次の様な一句があるからです。

  一人居や思ふ事なき三ケ日   夏目 漱石

 「思ふ事なき」は、全く同じですね。漱石の場合は〝一人でいる(一人居)〟と詠んでいますが、紅葉もそのとき、ひょっとしたら〝一人きり〟だったのかもしれませんね。

 とはいえ、家族や大勢の他人と居ても、〝いつでも何処ででも、自分一人の精神世界に没入可能な文人〟のこと。「懐手」をしただけで、スッと〝特別に何か思う事がなくとも、独自の自己の世界〟に入って行けるのでしょう。

                ★

 

 以下は、「作品」のご紹介のみとさせていただきます。各位の自由な鑑賞をどうぞ。

 なお「二日」及び「三日」とは、それぞれ「正月二日」と「正月三日」のことであり、いずれも「正月」の二文字を略した俳句独特の「季語」となっています。 

 また小中学生のみなさんに申し上げますが、先ほどの「三ケ日」(さんがにち)は、「元日」「二日」及び「三日」の三日間を通した呼称ですね。

 

      初景色光芒すでに野にあふれ       井沢  正江

   初富士のかなしきまでに遠きかな      山口 青邨 

  初富士の抱擁したる小漁村         松本 たかし

  初富士の暮るるに間あり街灯る       深見 けん二 

  耽読の一夜なりける二日かな         石塚 友二

   琴の音の松風さそふ二日かな         川上 梨屋

  商いの主にもどり二日かな             広瀬 安子

  炉がたりも気のおとろふる三日かな    飯田 蛇笏

  三日の陽ほのと畳に平けき         上村 占魚

  武蔵野の鏡の空の三日かな        広瀬 一朗

 

 それでは今日はこのあたりで。次は五日の午後のひと時、「下巻」にてお会いしましょう。

         ★  ★  ★  ★  ★

 

尾崎紅葉 (おざき  こうよう)/慶應4(1868.1.10)(※注①)~明治36(1903.10.30)。東京生。小説家、俳人。明治新文学の旗手として、泉鏡花、徳田秋声らを育成。俳句は井原西鶴の談林風を鼓吹。角田竹冷(つのだ ちくれい)らと「秋声会」を起こす。

富安風生(とみやす ふうせい)/明治18(1885.4.16)~昭和54(1979.2.22)。愛知県生。東大法科卒。逓信省時代に俳句を始め、東大俳句会に参加。「ホトトギス」により高浜虚子の指導を受ける。昭和3年「若葉」の雑詠選者となり、のち主宰となる。

中村汀女(なかむら ていじょ)/明治33(1900.4.11)~昭和63(1988.9.20)。熊本県生。大正7頃より句作を開始、翌年「ホトトギス」へ入会。結婚により中断するも、杉田久女(すぎた ひさじょ)の「花衣」創刊に参加して再開。「星野立子(ほしの  たつこ)」「橋本多佳子(はしもと たかこ)」「三橋鷹女(みつはし たかじょ)」とともに「四T」と呼ばれた。

鈴木真砂女(すずき まさじょ)/明治39(1906.11.24)~平成15(2003.3.14)。千葉県鴨川市生。実家は「吉田屋旅館(現・鴨川グランドホテル)」。22歳で結婚するも夫蒸発により実家に戻る。長姉死去により、その夫と再婚して旅館女将に。死去した長姉の俳句関係の遺稿整理が縁で俳句を始める。久保田万太郎の「春燈」入会。万太郎死去後は安住敦(あずみあつし)に師事。

 ◆新涼や尾にも塩ふる焼肴 鈴木真砂女(2015.9.16) クリック

文挟夫佐恵(ふばさみ ふさえ)/大正3(1914.1.23)~平成26(2014.5.19)。小学生の頃より作句を始める。1944年、飯田蛇笏主宰の「雲母」入会。1961年、石原八束(いしはら やつか)と共に「」創刊に参加、同人となる。1998年、八束の死去により主宰を引き継ぐ。99歳で「蛇笏賞」受賞(史上最高齢)。老衰のため100歳で死去。

森澄雄(もり  すみお)/大正8(1919.2.28)~平成22(2010.8.18)。長崎県出身。昭和15年、「寒雷」創刊と同時に投句。加藤楸邨に師事。戦後同人となる。昭和45年「杉」創刊・主宰。九州大学経済卒。

 

※参考

 ※注①:「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻印されたもの。

 

 

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